ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(3)-2

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「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説3/20  強制収容所での防疫、医療について。収容所の囚人の死者数の合計について。」と題された動画を論破する。-2

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14:02/アルマ・ロゼはアウシュヴィッツで病院にいたのか?

実は、前章で紹介した、作曲家マーラーの姪アルマ・ロゼはビルケナウに入所した時点 で発病していたようです。
ソースはウィキペディアですが、一応画面を貼っておきます。

アウシュヴィッツ
アウシュヴィッツの女性のオーケストラ」も参照
アウシュビッツへ到着した際、ロゼはひどい病気であったため隔離されていたが、回復後アウシュヴィッツの女性オーケストラのリーダーの仕事を担った。

その後、彼女は回復したわけですが、単に放置されていただけで 「自然治癒」 した、 などということは考えにくいです。

やはり、他の患者と同様に収容所内の病院で治療を受けたに違いありません。
しかし、このwikiの文章では、その点が全く説明されていません。 アウシュヴィッツで 病人が治療を受けていたというのは、「好ましくない事実」 だったので、ぼかされた、と考えるのはうがちすぎでしょうか

とにかく動画への反論記事作成は手間がかかるので(じゃぁヤメレと言わないでねw)、アルマ・ロゼの話はすっ飛ばしていてちゃんと読んでいませんが、2番目の動画にあるアウシュヴィッツのオーケストラの話で出てきたんでしょうね。ついでに余談として述べておくと、アウシュヴィッツ・オーケストラの始まりは囚人のフランシスツェク・ニエリチウォが収容所内で自分達囚人(ユダヤ人囚人ではありません)の余興でバンド結成して楽しんでいたのが始まりです。これが親衛隊の目に止まりアウシュヴィッツ・オーケストラに発展していきます。ニエリチウォについては、こちらを読むといいかもしれません。

で、本題ですが、加藤はアルマ・ロゼの日本語Wikipediaの記述を訝しげに「アウシュヴィッツに病院があったことを書くのは正史派的にまずいから隠したのかもしれない」的に述べていますが(病院は実際にあったので別に不味くも何ともありません。そこでは治療も行われましたし、病人の選別もありましたし、注射で病人を殺したりもしていました)、この日本語Wikipedia記事は実は英語Wikipedia記事を翻訳したものであることは明らかだったりします。せめて、その程度は調べて英語版に文句を言ってもらいたいものです。しかし、アルマ・ロゼは有名で、日本語Wikipediaにすら参考文献として伝記が上がっているほどなのです。

Youtubeでは、アルマ・ロゼのバイオリン演奏を聴くことも出来ます。

youtu.be

私はクラッシックの趣味はないので演奏の評価はできませんが、アウシュヴィッツ・オーケストラではファニア・フェヌロンが映画化までされて有名なのですが、アルマ・ロゼの方を映画化しろとの声もあるのだとか、そうした話を見たことはあります。……脱線ばかりですみません。

で、それくらい有名なので、伝記を読まなくとも、それなりにネットだけでもWikipedia以外のページもたくさんあります。例えば、以下のページを読めば、ロゼがアウシュヴィッツに到着して最初はどうなったかはちゃんと記述されているのです。

holocaustmusic.ort.org

アウシュビッツに到着すると、ロゼは医療実験棟に送られた

そう、彼女は病院ではなく、医療実験棟に送られたとあるのです。こちらのページ(註:このリンクは登録を求められることがあります)にも、

ロゼは実験ブロックに「選ばれた」一握りの女性の一人だった。髭を剃り、シャワーを浴び、左腕に53081の入れ墨をし、囚人服を支給された後、ロゼは他の女性たちとともにアウシュビッツ主収容所のレンガ造りの10号棟に案内された。

とあります。Wikipediaの記述が誤っているのか、これらのページの記述の方が正確なのか、それは伝記なりを読まないとわかりません。しかし加藤は、疑惑の方を強調することにしか関心がなく、事実を調べようとする意思が希薄であることがわかります。上記解説ページは私がこの記事を書くついでに、たかだか数分で調べ出してきたものです。その程度の調べもしないのですから、呆れてしまいます。

 

15:11/一応指摘……。

病人の治療は、その症状の重さによって扱いが違っていました。 重症の患者には、専用の病棟がありました。 囚人病院ブロック19特別療養ブロック 「Schonungsblock」は、 収容所用語で 「ムスリムMuslims」と呼ばれていて、栄養失調と脱水状態が最終段階に達した、ひどく衰弱している患者用であったと、アウシュヴィッツ博物館の公式出版物では説明されています※。

ムスリム」というのは、イスラム教徒を表す、あのムスリムと同じつづりですが、 重病患者やその医療施設を表す用語として広く使われていました。


D. Czech, "Le role du camp d'hopital pour les hommes au camp d'Auschwitz," in: Contribution a l'histoire du KL Auschwitz, Edition du Musee d'Etat a Oswiecim, 1978, p. 17.

孫引きの指摘はもはやどうでもいいのですが、一応言っておくと、この参照文献は実際には歴史修正主義研究会にあるマットーニョ論文の翻訳記事脚注番号254にあります。そのマットーニョはどう書いているかと言うと、「ダヌータ・チェクがこの答えを用意している。彼女によると、アウシュヴィッツの囚人病院ブロック19――いわゆる「Schonungsblock(特別療養ブロック)」は、「ムスリム」と呼ばれていたまったく衰弱した囚人用であった[254]。」確かにマットーニョは、ダヌータ・チェヒの論文を参照文献とはしていますが、上の引用のように説明しているのはマットーニョなのであって、チェヒではありません。

 

17:53/アウシュヴィッツの犠牲者数合計は「死の本」では出せません
結局、アウシュヴィッツでのこうした死者は合計何人だったのでしょう。
1990年代初頭、ロシアはそれまで非公開だったアウシュヴィッツ
「死亡者名簿(Sterbebuecher)」
を公開しました。これには、死亡した囚人の名前、誕生日、誕生地、民族、宗教、死亡した日付、死因が、丹念に記載されています。
参考資料
試訳: 航空写真と矛盾している12の 「目撃証言」
ジョン・ボール 歴史的修正主義研究会試訳

これが、1943年7月と8月の名簿の表紙です

画像
Mark Weber, "Pages from the Auschwitz Death Registry Volumes より引用。
http://www.ihr.org/jhr/v12/v12p265_Weber.html

たとえば、80歳以上の高齢者の死亡者も、 このリストには記載されていました。
画像
Germar Rudolf, Lectures an the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA August 2000, p.331より引用

死亡証明書の一例をご紹介しましょう。
ユダヤ人弁護士のエミール・カウフマンの物です。
1943年2月15日に、老衰により78歳で亡くなっています。

画像
Mark Weber, op.cit.
ただし、 死亡者名簿には脱落もあり、また 1944年以降の詳細な記録は失われています。しかし、幸いなことに、他の断片的な資料を合わせれば、死亡者の総計をかなり正確に絞り込むことが出来ます。

  • 1941年9月から1943年12月まで (1942年と1943年の記録のうち43日間だけが失われている) に 67227名が死亡した。
  • 63069名が、1941年と1944年、そして記録の失われている42年と43年の月に死亡したと推定される。

1940/1941:約19500
1942:約48500
1943:約37000
1944:約30000
1945:約500
計:約500100人の登録囚人のうち約135500人
LC. Mattogno, "Franciszek Piper und 'die Zahl der Opfer von Auschwitz'"

修正主義者は、アウシュヴィッツの犠牲者について、「アウシュヴィッツに強制送還されて、囚人登録もされずにすぐガス室行きになって殺された犠牲者」を絶対に認めません。認めたらそこで修正主義者商売は終わりです。しかし、修正主義者がいわゆる「正史派」と揶揄して呼ぶ主流の歴史学者の世界では、アウシュヴィッツの死の本(および欠落している死亡簿)だけをアウシュヴィッツの犠牲者だとは考えていおらず、登録もされておらず、何の文書記録にも残っていないユダヤ人の犠牲者数の方が圧倒的に多かったと考えています。何故でしょうか? 歴史学者たちは「死の本」から判明する犠牲者数を、単にソ連の400万人説やルドルフ・ヘスの250万人説より少なすぎると考えているからでしょうか? ――いいえ、そうではなく、あらゆる多くの証拠が登録された囚人だけが犠牲になったことを示していないからです。

例えば、イスラエルホロコースト記念博物館であるヤド・ヴァシェムのアーカイブから発見されたグレーザー・リストと、アウシュヴィッツへの移送者数の計算にしばしば使われるガシュコ・リストを用いてハンガリー作戦時の犠牲者数の推計を行うと、1944年5月1日〜7月25日の12週間の間に約32万人の犠牲者数が得られるのです。これは上の引用にあるマットーニョ論文の135,500人をはるかに上回るものです(マットーニョの示した数は全期間のものです)。ガシュコ・リストおよびグレーザーリスト、その他のデータを用いた同時期のアウシュヴィッツへの移送者数総計は、同推計で434,537人となっており、これはハンガリー占領後のドイツ全権であったフェーゼンマイヤーがドイツ外務省へ報告したハンガリーユダヤ人の移送者数である437,402人(7月11日付)*1とほぼ一致しています。

従って、ソ連から発見された『アウシュヴィッツの死の本』と、これらの推計値の大幅な差は、死の本には反映されていない犠牲者数があったことを示しているのであって、死の本のみを用いた、アウシュヴィッツの総犠牲者数の推定には意味がないことを示しています。

修正主義者による犠牲者数の推定に関する大きな問題は、アウシュヴィッツへの移送者数の総数を無視していることです。アウシュヴィッツ博物館の歴史部門担当主任だったフランチシェク・ピーパーは多数の研究者や自身の調査などを総合して、130万人がアウシュヴィッツに移送されたと結論づけています。うち、囚人登録や他の収容所などへの通過人数を除くと、差し引きおよそ90万人がアウシュヴィッツから、どこにも記録されずに忽然と消えている計算になるのです(ピーパーの犠牲者数推計値の110万人のうちおよそ20万人は登録囚人の死亡者数推計値)。

ピーパーの110万人説は、確定値というわけではなく、2023年現在まで最も信頼できる推定値とされているだけですが(例えば、前述のマイケル・ハニーによるハンガリーユダヤ人の推計値を含めると、犠牲者総数は110万人より低くなるはず)、いずれにしても、移送者数を無視した犠牲者数推定はあり得ません。

 

補足:高齢者のユダヤ人囚人は労働不適格者として殺されていなければおかしいのでは? という疑問について。

上に示した引用中で、加藤は死亡簿の一つをIHR(歴史評論研究所)の所長であるマーク・ウェーバーの記事から引っ張ってきて示していますが、死亡簿に書かれた死亡原因が信用できないものであることはすでに示しています。ただ、「老衰」は信用しないとしても、年齢は嘘ではないでしょう。一般に、アウシュヴィッツでは、ユダヤ人は労働不適格とされた場合には殺された、と言われています。労働不適格者には子供、病人、障害者、子供を持つ女性などに含め、老人も含まれます。

マーク・ウェーバーは、上の引用中に示した同論文で老人や子供の死亡簿があるのをいくつか示し、「こうした広く受け入れられている主張に重大な疑問を投げかけるものであった」と述べています。

しかし、それは「例外はなかった」とする説はない、ことを無視したものです。高齢者については私自身はよく知りませんが、子供については修正主義者は頻繁に「アウシュヴィッツに子供がいたのはおかしいではないか!」と、有名な写真を引き合いに出して主張してきたのです。以下は、その有名な写真の一つに、そこに写っている「子供」自身が指差ししている写真です(写真はこちらから)

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所には、一回の輸送列車あたり、何千人ものユダヤ人が移送されてくることは珍しくありませんでした。その大量のユダヤ人を、基本的に、降ろしたその場で「選別」していくのです。ハンガリー作戦時には1日に最大で、5本もの輸送列車が到着していたとされますが、そんな大量のユダヤ人を裁くのですから、正確な区分はむしろ不可能だったでしょう。他にも、諸事情で選別を受けなかった列車もいくつかありましたし、双子の子供は人体実験の素材として生かされていたり等、一般に言われる労働不適格者の範疇に入る人の全てが「例外なく殺された」だなんて、誰も言っていないのです。

私自身も、ポーランドの戦後の証言を公開しているサイトにある、証言を翻訳していて、ルイジ・フェリという名の、アウシュヴィッツに着いた時点ではまだ11歳に過ぎなかった少年の生存者を知りました。彼がガス室送りにならなかった理由はよくわかりません。ただし彼はその証言で「少年は全員、ビルケナウに到着するとすぐにガス室に送られるからです」と語っています。他にも、当時たったの4歳で上手く隠れ過ごすことに成功して生き延びたマイケル・ボーンスタイン氏のような人もいますし、例外だとはいえ、少ないながらも「例外」的に生き延びた子供たちもいたのです。

ですから、老人だって、例えばたまたま労働者が少なくなっている時期にアウシュヴィッツに来て、労働者が足りない状況だったから囚人として選ばれるようなこともあっただろうし、見かけが若くて年齢に比べて体力もあったような老人だっていたでしょう。あるいは、何らかの職能に長けていて、親衛隊が貴重な労働力とみなした老人だっていたかもしれません。

しかしながら、こちらにあるハンガリーからアウシュヴィッツへ強制移送されていたユダヤ人の帰国者の年齢別人口比較を見ればわかる通り、上と下の年齢がほとんどいなくなっていることから、「老人と子供」はそのほとんどが殺されていた、のが事実ではあったと考える他はありません。

DEGOBと1947年のハンガリー国勢調査によるハンガリーユダヤ人の年齢と性別の構成(14~19歳の女性に正規化)。

 

20:09/ベルゲン・ベルゼン収容所とアンネ・フランクの死
次に、アウシュヴィッツ以外の収容所の死者についても解説しましょう。
実は、ナチスの収容所の歴史において、囚人たちに襲い掛かった最悪の破局の舞台はアウシュヴィッツではありませんでした。ダッハウ①マウトハウゼンベルゲン・ベルゼンなど、ドイツ国内の収容所だったのです。

戦争後期、西ヨーロッパ戦線での連合国による無差別爆撃によって、ドイツのインフラが破壊されました。その結果、強制収容所にはもはや何も配給されなくなったのです。 さらに、アウシュヴィッツなど東部地区の収容所から大量の囚人が疎開してきて、②西部地区収容所にチフスが持ち込まれたことが、壊滅的事態を招いたのです。

これが、ドイツ国内の収容所での死者数のグラフです。戦争末期に人数が跳ね上がっていることが分かります。

Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768 Chicagó, IL 60625, USA August 2000, p.308より引用

イギリス人医師ラッセル・バートン博士は若い医学生としてベルゲン・ベルゼン収容所 に1カ月滞在し、収容所の状況に関する報告を作成しました。

「多くの人々は、囚人のおかれている状況を、ドイツ側の意図的な行ないの結果とみなしている。…囚人たちは、野蛮な行為や怠慢の事例を熱心に伝え、各国からのジャーナリストは祖国での宣伝のために、この状況を自分流に解釈した。…ドイツ人軍医によれば、数ヶ月間、収容所への食糧配送はますます困難となっていったという。アウトバーンを動くものは何であれ、爆撃されたのである。…私は、記録を二、三年さかのぼってみたが、そこには、日々の配給のために、大量の食事が調理されていたことを記されており、そのことを知って驚いた。その時、私は、世論と反して、意図的な飢餓政策は存在しなかったと確信した。このことは、栄養十分な囚人が大量に存在していたことからもわかる。…ベルゼンのこの状況のおもな原因は、疫病、中央当局による人口過密、宿舎での法と秩序の欠如、食料、水、医薬品供給の不十分さであった」

Quoted according to ③Robert Lenski, The Holocaust on Trial: The Case of Ernst Zündel, Reporter Press, Decatur 1990, p. 157f.

これが、ベルゲン・ベルゼン収容所の死者数です。

 収容所は、焼却しきれない死体が山となって積み上がったのです。

※モザイクをかけていますが死体の山です。

ホロコースト」という言葉から、最も一般的に連想されるイメージは、恐らくこの写真のような光景ではないでしょうか。実は、これはアウシュヴィッツではなく、この時期のベルゲン・ベルゼンの死体の山なのです。
この文字通りの地獄に放り込まれたのが、強制収容所の囚人の中でも、世界で最も有名なあの少女・・・・・・ そうです、 アンネの日記の作者とされる、アンネ・フランクです。

その知名度の割には知られていない基本知識ですが、アンネはアウシュヴィッツでは亡くなっていません。アンネとその姉は、アウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンへ、この最悪のタイミングで移送されたのです。
一方で、アウシュヴィッツに残ったアンネの父、オットーは生き残りました。

⑤明らかに、この時期の死亡率を考えれば、より危険なのはアウシュヴィッツよりもベルゲン・ベルゼンでした。
オットーの二番目の妻の娘でアンネの義理の姉、エヴァシュロッスは、当時の状況を 再現した「手記」を残しています。

そこに興味深い描写がありますのでご紹介します。

Eva Schloss, Evas Geschichte, Heyne, Munich 1991, p. 117.

私たちはどんどん数少なくなっていった。 一両日ごとに、SSは宿舎から30、40名の女性を引き出して、西の中央ドイツに送っていった。私がこれらの移送集団に選別される危険も日ごとに大きくなっていった。SS隊員がやってくるたびに、私は頭を下げ、祈った。
註:念の為ですが、加藤がエヴァシュロッスの手記など読んでいるわけはないので、当然ここは加藤の孫引きで、この文章自体は歴史修正主義研究会のここからコピペされたものです。ちなみに、そこでゲルマー・ルドルフはデタラメを書きまくっているのですが、そんなことまで論破し始めたらキリがないのでここでは述べません。あえて一つだけ言っておくと、そこに書かれているエリー・ヴィーゼルの話は否定派がよくする話で、こちらに反論がありますので参考にしてください。)

 

⑥もしも、アンネがアウシュヴィッツから移送されなければ……彼女は死なずに済んだのでしょうか……

今回は特例として、引用文中に丸数字とアンダーラインを私の方で入れておきましたが、それについて以下に説明したいと思います。

 

①マウトハウゼン収容所はドイツ国内か?

いいえ。オーストリアです。ググれば一発で分かりますので、特に説明はしません。

 

②戦争末期の強制収容所で疫病の犠牲者は大量に出たことについてのナチスドイツの責任は皆無なのか?

いいえ。あんまり安易にWikipediaの記述をそのままコピペするのは、信頼性の点でよくないかもしれませんが、今回はその安易なことをします。ベルゲン・ベルゼン強制収容所から引用します。

ベルゲン・ベルゼンは「休養収容所」などと呼ばれていながら、おびただしい数の死者を出した。死因として最も多かったのは与えられる食料の少なさによる衰弱死であった[9]。また病死も非常に多かった。1944年3月から10月ぐらいにかけて収容所では結核が流行していた。ついで10月から1945年2月ぐらいにかけて赤痢が流行した。その後収容所が解放されるまでの間チフスが流行していた[9]。最終的にはチフスに罹患していない収容者の方が少数派となっていたという[10]。他にも急性肺疾患、疥癬、丹毒、ジフテリア、ポリオ、脳炎、外科疾患、静脈炎などが流行していた[9]。

拘留者が急増したこともその原因である。1944年12月2日の時点でベルゲン=ベルゼンの収容者数は1万5227人だったのだが、1945年3月には5万人にも達している[7]。これは戦争末期の他の強制収容所の撤収にともなう大量移送が原因であった[11][12]。しかし本来ベルゲン=ベルゼンにこんな大量の収容者を置いておける余裕は無かった[13]。

限界を超えた人数が収容されたために管理がほとんど行われず、1944年以降は戦争末期のために食糧事情がまったく改善されないため、収容の実態は収容者を飢餓状態に置いて餓死や病死を誘う事しかしていない[14]。

1945年4月1日には死体焼却炉が止められた。毎日量産される死体に対してその処理能力をとうに超えていたからである。代わりに穴が次々と掘られ、まだ健康な収容者たちが収容所内に転がる死体を集めてその穴まで運んでいった[15]。

ナチスドイツが、抑留者を収容所に詰め込みまくったことは、少なくともナチスドイツの責任以外ではあり得ません。これは前回の記事でも述べた通りです。ナイチンゲールクリミア戦争で把握したように、ていうか現代では常識的な話として、疫病の感染者密度が増すと感染者数が爆発的に増えるのは当然の話です。新型コロナでは東京都知事が「三密」の用語を流行らせたのを思い出して欲しいところです。実際には多少は収容能力を増やしていたようですが、焼け石に水でしかありませんでした。要するに、収容能力を大幅に超えた膨大な数の囚人を、既に戦争末期で弱体化していたナチスドイツに管理出来るわけがなかったのです。

 

ホロコーストの話でよく出てくるベルゲン・ベルゼンの大量死体

Youtubeの検閲に引っ掛かるかもと考えたのかもしれませんが、別に死体の写真にモザイクをかける必要はなかったと思います。Youtubeにある他のホロコースト関連動画ではごく普通にそれらの大量死体の映像はボカシもなく出てくるからです。私も同じ写真をネットで拾ってきて、ここでは薄めにモザイクをかけてはいますが、あまりによく知られている写真なのでモザイクをかける意味はありません。

しかし、それらの戦後に連合軍によって撮影されたナチス強制収容所における夥しい量の死体の映像は、ホロコーストの象徴として頻繁にマスメディア等によって使用されてきたのは事実です。日本でもNHKのあの名作『映像の世紀』でも衝撃的な映像として使用されており、ご記憶の方も多いかもしれません。しかし、その映像が歴史修正主義者によってホロコースト否定の材料に使われてしまうとは皮肉な話でもあります。「それらの大量の死体は実際にはガス室での処刑後の遺体などではなく、疫病や餓死によるものであった」と説明されると「え? ナチスに殺されたのではなかったの? 説明は嘘だったの?」と思う人が出てもおかしくはないでしょう。加藤はここではアンネ・フランクの話に繋げるだけで、そこまでは話はしていませんが、一時期だけ契約していたAmazonKindle Unlimitedでチラ見した西岡昌紀の『アウシュヴィッツガス室」の真実』の冒頭付近では、同類の写真が提示されていて「実はガス室の死体などではなかった」のように書かれていたように記憶します。

しかし、その西岡のような言い分も、逆の意味で誤解を与えるものです。それらの夥しい死体もナチスドイツの強制収容所内の死体であることは疑いようもなく事実であり、前述した通り、ナチスが管理できなかったが故に死ぬしかなかった人たちなのであって、ナチスドイツの犠牲者に他ならないからです。その意味で確かにそれらの犠牲者はナチスに殺されたのです。

これは、私自身がまだ知らないことだと断った上で憶測としてだけ述べる話ですが、それらの戦争末期にナチス強制収容所で疫病や餓死によって死んだ犠牲者の大半は、ユダヤ人だったのではないかと思われます。そしてそれ以外に囚人として収容されていた非ユダヤ人の死亡率はユダヤ人ほどには高くはなかったと思います。もしこれらの事実について何か判明することがあったら、改めて追記したいと考えています。

 

③ロバート・レンスキって誰

あの有名な裁判の被告となった歴史修正主義者である、エルンスト・ツンデルの支持者だそうです。こちらの記事を翻訳していて、うっすら覚えていました。別にツンデルの支持者だから信用できない、としたいわけではありません。ただ、そこにある引用文らしきものは、もちろん加藤の孫引きであり、実際にはユルゲン・グラーフの記事を歴史修正主義研究会が翻訳したものからのコピペですし、ところどころ「…」で省略されているのも気になりますし、まぁそういうことです(笑)

 

アンネ・フランクの死亡時期には、アウシュヴィッツよりベルゲン・ベルゼンの方が死亡率が高かった? 

はい、それはそうでしょう。アンネ・フランクの死亡時期は1945年2月〜3月ごろだと推定されています。アウシュヴィッツは1945年1月27日にソ連によって解放されました。加藤は何を訳のわからないことを言っているのでしょうか?

 

⑥もしアンネ・フランクアウシュヴィッツ収容所にとどまっていたら生き延びていたのか?

アンネ・フランクと姉のマルゴーが、アウシュヴィッツからの囚人移送の第一陣として選ばれたのは1944年10月28日でした。もしこの時、囚人移送に選ばれなかったとしたらどうなっていたと考えられるでしょうか? 11月初旬頃にはアウシュヴィッツではヒムラーの命令によりガス室での処刑は中止されていましたので、少なくともガス室での処刑は免れていた確率は高いでしょう。

それでも、囚人の処刑はさまざまな理由によって続いていました。例えば、ダヌータ・チェヒの『アウシュヴィッツ・クロニクル』から、本当に適当にたまたま拾っただけの11月21日の記述(104ページ)には、「KLアウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)で5名の収容者が死亡、うち4名が殺害される。」と書かれています。ガス処刑が中止された後も、アウシュヴィッツ収容所は恐怖の収容所ではあり続けたのです。従って、仮にそのまま残っていたとしてもアンネ・フランクが殺されなかったとは限らないのです。また、アンネらは、ベルゲン・ベルゼンまでの移動は列車での移送でしたが、もし、アウシュヴィッツ解放直前の徒歩による移動であったらな、殺されていた可能性も高かったのです。いわゆる「死の行進」です。手持ちの資料では、アウシュヴィッツから避難させられた六万六千人のうち一万五千人が死亡した、とあります*2。その詳細な様子はこちらを参考にすると良いかもしれません

但し、ソ連開放時に囚人として残っていたとしたら、健康状態がそれほど酷くはなかったとしたなら、生き延びていた可能性は大いにあると思われます。アウシュヴィッツソ連による開放後、赤軍赤十字が中心となって囚人たちの保護に努めていましたし、当然ながら囚人の自由意志で何処へ行くのも自由となっていました。

加藤が引用のようなことを書いているのは、修正主義者たちは「アウシュヴィッツは言われているほど酷くはなかった」あるいは「ナチスドイツはそんなに悪ではなかった」と嘘をつきたいからで、その一例は、引用文中でエリー・ヴィーゼル氏の事例として示していますので、参考にしてください。

24:49/ホロコースト犠牲者数に関する嘘。

さて、そろそろ強制収容所の囚人の死者数の合計についてまとめましょう。正確にこれ を突き止めることは非常に困難ですが、既存の資料によってある程度の推測は可能です。

イスラエルのヤド・ヴァシェム・センターが集めたHall of Names (名前の殿堂)とも呼ばれるホロコースト犠牲者のリストがありますが、これに学術的な意味は全くありませ ん。実証主義的な基準を一切持っていない※ からです。

Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 25776 Chicago, IL 60625, USA August 2000,p.39.

一方、ドイツのアロルセンにある国際赤十字委員会追跡委員会では、疑問の余地のない資料によって確証された場合にのみ死者として認定してきました。
これが、1993年の時点での死者数です。

<後略>

 

今回のこのブログ記事では少々引用が多すぎかもしれないと思ったので、最後の方は読んでて馬鹿馬鹿しくなったこともあり、以降は省略します。加藤は「異論の余地のない」だとか「確定事項」だとか書いていますが、それは単に「記録としてそこに書いてある」という意味でしかありません。例えば、警察(法務省)の犯罪白書などにある痴漢認知件数データは、それが認知件数に過ぎず、暗数、つまり検挙されていない記録としてどこにも出てこない実数の方がはるかに多いことは、誰でも少し考えればわかる話です。そのような暗数は実際には存在しない、などという人がいたら痴漢経験のある人から袋叩きにあうか、大笑いされるでしょう。

しかしそうした「暗数」は、アンケート調査などで、ある程度は判明させることが可能です。何千人かの人にアンケートを取って、一年間に痴漢にあったかどうかを聞き、データをまとめて、その結果から暗数を調べることができるのです(実際に法務省は暗数調査を実施しています。ある年の性的事件の申告率は15%に満たない、などのデータを得ています)。

ホロコーストの場合は、それらの算出方法とは考え方は異なりますが、例えばすでに述べた通り、アウシュヴィッツの場合は単純化して言うと、移送人数から登録囚人数を差っ引けば、登録されずに消えたユダヤ人人数を求めることができ、その登録囚人数中の犠牲者数の推計値を合計すれば、アウシュヴィッツの犠牲者総数を得ることができるわけです。

アロルゼンの「国際追跡サービス」が現在は赤十字に属していないことも知らない加藤が、欧米の嘘つき修正主義者の言うことを真に受けて鵜呑みにしているに過ぎない話は、読む価値ゼロ(動画全てがそうなのですが)ではあるのですが、それらについては以下を読めば事足りる話だとだけ最後に述べておきます。

note.com

「赤十字が偽のプロパガンダを暴露」、『偏見のパターン』 、1978年、第12巻、第2号、p.11

赤十字が「偽のプロパガンダ」を暴露

ナチスホロコーストの事実を歪曲し、あるいは否定しようとする動きが強まっていることに鑑み、赤十字国際委員会は、1978年2月1日付のICRC会報第25号において、上記の見出しの下、以下の声明を発表した:

数年前に始まった陰謀は、今やICRCがその網の目に絡め取られるまでになった。その目的は、戦時中のドイツにおける国民社会主義体制を、大量虐殺の非難から白紙に戻すことである。それは、実際の犠牲者数に関する論争、「国際赤十字」に誤って帰属する統計、第二次世界大戦中のICRCの活動に関する報告書からの歪曲された、あるいは切り捨てられた引用によって本質的に育まれている。今日、この陰謀団が配布しているのは、『600万人の神話』と『600万人は本当に死んだのか』というタイトルの、2、3のまやかしのパンフレットである。

このプロパガンダは一定の効果を上げている。これらのパンフレットの読者からICRCに手紙を書く人が増えているが、そのほとんどは、戦後ドイツは中傷キャンペーンの犠牲者であったという自分たちの意見の裏付けが得られることを期待してのことである。

従って、ICRCは、虚偽の統計を発表したこともなければ、作成したこともないという事実を明らかにしなければならないと考えている。ICRCの仕事は戦争犠牲者を助けることであり、その数を数えることではない。いずれにせよ、代表団はどうやってこのような統計データを入手したのだろうか? 彼らが強制収容所に入ることができたのはほんのわずかで、それも戦争末期に限られていた。ICRCがこれらの収容所の収容者のために行おうとしたこと、そして最終的に行おうとしたことはすべて、『1939年から1945年までのドイツ強制収容所における民間人被拘禁者に対するICRCの活動』と題された報告書(英語、フランス語、ドイツ語で入手可能)に記されている。

同じ宣伝計画は最近、別の数字、すなわち収容所閉鎖時に発見された文書に基づく国際追跡サービスによる画像サイズの増加/縮小も利用している。プロパガンダの作者たちは、この数字は強制収容所での総死亡者数とは無関係なのに、そうでないふりをしているようである; 第一に、かなりの量の文書資料がナチス政権が去る前に破棄されたからであり、第二に、一般に記録が残されていない絶滅収容所などで、多くの死亡が記録されなかったからである。 従って、ITSが犠牲者の家族のために、統計の作成などまったく考えずに苦心惨憺して努力しても、強制収容所システムの犠牲者の大勢を数字で示すことは不可能である。ついでながら、このような悲劇が単なる数字に還元されうるかのような、算術的論争には反吐が出るようなものがある

今回の記事作成には前回と合わせて、1週間以上もかかりました。時間がかかったのは他でいろいろ忙しかったこともありますが、もっと省力化したいところではあります。もちろんこの論破シリーズの第一回目に行ったように、全話を論破する気は今のところありません。めんどくさ過ぎます(笑)

 

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*1:ドイツ全権大使フェーゼンマイヤーは、437,402人のユダヤ人が追放されたと報告した。Veesenmayer’s report to the Reich Ministry of Foreign Aff airs, July 11, 1944, in Gyula Juhász et al., eds., A Wilhelmstrasse és Magyarország. Német diplomáciai iratok Magyarországról 1933–1944 (Budapest: Kossuth, 1968), 881を参照(これは元ネタはこちらの脚注20であり、加藤の孫引きを真似しただけです(笑))

*2:ウォルター・ラカー編、『ホロコースト大事典』、柏書房、2003年、p.247

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説3/20  強制収容所での防疫、医療について。収容所の囚人の死者数の合計について。」と題された動画を論破する。-1

www.youtube.com

0:26/修正主義者の十八番、ユダヤ人の死亡原因をチフスのせいにする

古くから東ヨーロッパは疫病のために恐れられた地域でした。クリミア戦争での連合軍、 1812年のナポレオン軍は、チフスコレラ赤痢といった疫病により、多くの兵士を失ったのです。
"Zyklon B and the German Delousing Chambers", "Typhus and the Jews"

今回の対象動画は、これもホロコースト否定派が頻繁に主張する「ユダヤ人が死んだのはチフス(等の疫病や餓死)などであって、ガス室での虐殺などでは決してない! アウシュヴィッツの死亡者数は実際には少ないんだ!」なる言い分をまたしても約30分間にもわたって解説するものです。Youtubeの動画は一回あたり10分にしろ!(笑)

さて、まずは上の引用欄下部にある参照文献めいた記述は何かというと、一つは

Zyklon B and the German Delousing Chambers
by Friedrich Paul Berg
Published: 1986-04-01

のようであり、もう一つは、

Typhus and the Jews
by Friedrich Paul Berg
Published: 1988-12-01

のようです。なぜ、せめて著者名を書かないのか? 意味不明です。どちらも、修正主義者のサイトであるCODOHに全文公開されているのですが、上の記述文章がどこに書いてあるのか見つけることはできませんでした。いずれも長いので、いちいち全部読んでられません。一応、「1812」でテキスト検索をかけて一箇所だけ見つけた段落を以下に翻訳して示します。Typhus and the Jewsの方にあります。

ユダヤ人に発疹チフスが多いのは、彼らが古着の商人であったからかもしれない。たとえば、プリンツィングの古典的著作『Epidemics Resulting from Wars(戦争から生じた疫病)』では、1769年から72年にかけての露土戦争において、東ヨーロッパでペストとチフスが蔓延した可能性について論じている。軍事病院を除いてペストの痕跡がすべて消えた後、後にペストが再び発生したのは、ユダヤ人がジャッシーの軍事病院で毛皮のコートを購入したことに端を発していた[24]。その後、同じ戦争中にトランシルヴァニアでも、ロシア陣営で衣服、毛皮、戦利品を購入したユダヤ人の行商人が、同様に病気の蔓延に手を貸した」[25]。ナポレオンのロシア遠征の終わりに、プリンツィングは1812年から13年にかけてヴィルナで流行したチフスについて次のように語っている。「兵士たちは民家に宿営していたため、それほどでもなかったが、短期間のうちに街中に広まった、 ユダヤ人が死者の衣服を手に入れたからである。約3万人のユダヤ人住民のうち、8000人以上が死亡した」[26]

1812年のロシア戦役はよく知りませんが、クリミア戦争(1853年から1856年)における兵士の死亡率の高さについて、実際にはそのほとんど大半が疫病によるものであったことは、あのフローレンス・ナイチンゲールを知っていたら誰もが知っていると思います。

その大きな要因は、単純に「東ヨーロッパ」だったからなのではなく、疫病対策がほとんど考慮されていなかったから、です。このクリミア戦争でのナイチンゲールの奮闘は、『うしおととら』で有名な漫画家、藤田和日郎氏が『黒博物館 ゴーストアンドレディ』で痛快かつ感動的に書いているので、ぜひオススメしたいところです。

ナイチンゲールクリミア戦争で直面した衛生環境はどんなものだったかというと、テキストコピーで引用させないドケチなサイトから引用する(無断引用は違法ではありません)と、

(1) クリミア戦争の惨劇
クリミア戦争は、ロシアがオスマン帝国に宣戦したことに端を発し、1854年〜1856年にかけて、イギリスとフランスおよびサルデーニャが、オスマン帝国を支援して起きた戦争である。ナイチンゲールは戦地における救護活動のために、1854年10月にイギリスを出発した。 戦争は1856年3 月、ロシアの敗北によって終結したが、この戦争全体を通してイギリス兵の全死亡者数は1万8千人余に達した(1) そのうちの1万6千人余が感染症に罹患したために死亡したことが、戦後に明らかとなった。ここではまず、戦地の病院の実態を描写する。

  • ナイチンゲールが派遣されたスクタリ (クリミア半島から黒海を渡ったトルコの地) の陸軍病院は、トルコ軍が兵舎として使っていた巨大な建物を病院に転用したものであり、病院の建物の床下には、粗悪な工事で作られた単なる汚水溜でしかない無蓋の下水溝が何条も走っており、それらは詰まっていて流れず、汚水は床から壁に浸み込んで湿気と悪臭を発していた。
  • 便所はすべて詰まったり壊れたりしていて使用不能で、そこから溢れ出した糞尿水が病室内へ流出して、床上1インチも溜まっている場所もあった。
    窓はほとんど無く、あっても締め切りであり、換気はまったくなされず、厳しい冬の季節に入っても暖房装置も燃料もなかった。
  • 患者たちは汚れて破れた夏物の衣類を着た切りで、ノミやシラミにたかられ、 ベッドも無く、藁を詰めた麻袋を敷物の代わりとして石床に寝かされ、 寒さに震えていた。

こうした不潔と欠乏が原因で、 病院ではコレラ赤痢発疹チフス、 インフルエンザなどの感染症が蔓延し、多くの傷病兵たちは、そもそも入院の原因であった外傷や疾病とは別の、これら院内に発 生した感染症によって次々に倒れて、治療も看護も受けられないままに苦しみながら死んでいった。

<後略>

動画への反論とはあまり関係がないのですけれど、ホロコースト否定者はしばしば、チフス等の疫病で亡くなったユダヤ人についてすらも、ナチスドイツには全く責任がないかの如くに語るので、注意してほしいとは思います。あのアンネ・フランクが亡くなったベルゲン・ベルゼン収容所に収容許容量の何倍にも達する膨大な数のユダヤ人囚人を詰め込んだのは、他ならぬナチスドイツです。戦争末期にすでに追い詰められていた状況でそんな無茶をしたら囚人を満足に衛生管理することが出来なくなることなど火をみるより明らかだったはずです。統計家でもあったナイチンゲールが、野営地の人口過密状態にさえ言及していた事実を上記サイトで読んでみてください。アンネ・フランクは紛れもなくホロコーストの犠牲者なのです。

 

0:51/どこにその死亡者数が「チフス死亡者数」だって書いてあるの?

アウシュヴィッツでは、収容者が増えるにつれてチフスによる死亡者が増えていきまし たが、 最初に感染爆発の悪夢に襲われたのは、1942年夏でした。
8月1日から19日までで実に4113名、8月全体では合計8000名もの囚人が死亡しました① 。 これはアウシュヴィッツの歴史の中で、最も高い死亡者数です。

頂点に達したのは1942年9月7~11日であり、一日平均で375人が死亡したのです② ※。

① D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945 (Reinbeck bei Hamburg: Rowohlt Verlag, 1989), p. 281
②Jean-Claude Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes, Piper Verlag, Munchen/Zurich 1994, p. 193.

何度も何度も言いますが、加藤は孫引きをするので、上の文章が本当はどこにあるのかを探すのは容易ではありません。①で示されている脚注の場所自体は、ここにあると判明はさせましたが、そこには「男性収容地区だけで、8月1日から19日の間に、4113名の死亡が記録されている。」とは書いてありますが、「8000名」はどこに書いてあるのかわかりません。こんな出鱈目な参照の示し方があるでしょうか? (註:後述する別のマットーニョの論文では、「8,600人」となっている)

②の方の実際のコピペ元は、こちらのグラーフの論文にあり脚注番号は[88]です。そこには「流行の頂点は1942年9月7日-11日であり、平均して、1日375人が死亡した」とは書いてあります。

いずれにせよ、その文章の元を辿っても、どこにもその死亡者数がチフスによるものだという記述はありません。プロの修正主義者は、書いてもいないことを書いてあると言ったり、書いてないことを書いてあると言ったりする明白な嘘つき修正主義者もいますが、マットーニョやグラーフのレベルになると、そんなことはあまりしないようです。だからと言って、それらの修正主義者が嘘つきでないわけではありません。

残念ながら、①も②もネットで公開されていない(チェヒの『アウシュヴィッツ・カレンダー』はイタリア語版ならありますが、公開形態が異なっていて、ページ番号では検索できません)ので、直接調べることもできません。

しかし、私は①の本当の参照先であるマットーニョの他の論文を翻訳しているので、そのトリックを示すことはできます。

note.com

該当箇所を引用すると、

1942年8月には、アウシュビッツ収容所史上最高の月間死亡率を記録した。この月の間に約8,600人の囚人が死亡したが[18]、これは7月(約4,400人死亡)の約2倍にあたる。追加で3つの火葬場を建設するという決定が最初に言及されたのは、8月14日(その日に「火葬場IV/Vの計画1678」が作成された)にさかのぼる[19]。 その月の1日から13日までに、2,500人の囚人が死亡しており、1日平均で190人以上が死亡したことになる。14日から19日(21日の覚書に記載されているインタビューが行われた日)にかけては、さらに高い死亡率が記録されている。約2400人の捕虜が死亡し、1日平均約400人が死亡した。最も悲惨だったのは8月19日で、500人以上の囚人が亡くなった。

8月1日には、21,421人が男子収容所に収容された。19日までに4,113人の捕虜が死亡し、その数は1日平均216人、うち14日から19日までは1,675人で、1日平均279人だった。1日から19日までの期間、収容所の平均人員は約22,900人であった。 もし、20万人の収容所で同様にチフスが流行したら、どのような結果になるか想像してみて欲しい

この引用で示されている死亡者数について、一切その死亡要因は書かれていません。その上で末尾に強調したように、チフスの流行をマットーニョは書くのです。叙述トリックというか意図的にミスリードを狙っているというか、です。マットーニョはそれらの数字を上げる際に一切、チフスでそれらの人数が死んだとは書いていないのです。

少し頭を働かせて欲しいのですが、一体どうやって、そのような細かな死亡者数データを得ることが出来るのでしょうか? そこが肝心なのです。後でも出てきますが、これらの数字について、例えば上の引用の中にある脚注番号[18]に、マットーニョはこう書いています。

Die genannten Zahlen fußen auf einer statistischen Untersuchung der in den Sterbebüchern von Auschwitz enthaltenen Daten.

上記の数字は、アウシュビッツの死亡帳に記載されているデータの統計的調査に基づいている。

私は、マットーニョがどうしてその「統計調査」とは一体何なのかを書かないのか、それが非常に怪しいように読めます。「アウシュヴィッツの死亡帳」とは何かというと、英語では「Auschwitz Death Book」と呼ばれ、デボラ・リップシュタットのサイトから説明を引用すると、

アウシュビッツの死の本とは?
死の本とは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの囚人のうち、登録され、番号を与えられ、そこで死亡した者の死亡証明書をまとめたものである。死の本には、1941年7月29日から1943年12月31日までの死亡者のみが記載されている。全てが残されていたわけではないが、346冊はアウシュビッツ・ビルケナウのゲシュタポ事務所に保管されていた。

死亡証明書(死亡記録、死亡簿)には、発行日、姓名、出生情報(日付と場所)、死亡情報(日付、時刻、場所、原因)が記録されている。死因はたいてい架空のものだった。1945年1月、ロシア軍がアウシュビッツ・ビルケナウを解放したとき、彼らは死の帳簿をモスクワに持ち帰った。1989年に研究者が使用できるようになるまで、その存在は知られていなかった。1991年、それらはアウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館に送還された。

死の本それ自体はネットでも見たことはありませんが、死の本に含まれる死亡記録は以下のようなものです。

これは、こちらのHolocaust Controversiesの記事の中でリンクを貼ってあったところへ飛んで、現在では閲覧不可だったためWebアーカイブから掘り出してきたものです。修正主義者はこれが異常に好きなので、後で見るように加藤もどこかから探してきて動画の中に貼っているようですが、修正主義者のサイトにたくさんあったのですがどこか忘れてしまいました。

このソ連から見つかったアウシュヴィッツの死の本には、上記のような68,864件の死亡記録が含まれていますが、前述した通りその期間は1941年7月29日から1943年12月31日までの死亡者についてだけで、この期間内にも欠落期間があります。当然ですが、この記録は修正主義者が決して認めない、アウシュヴィッツに到着して囚人登録されずにすぐにガス室送りになって殺されたユダヤ人は含まれません。登録囚人についてのみの記録なのです。

さて、この死亡簿には確かに死因が書いてありましたが、リップシュタットサイトからの引用にある「死因はたいてい架空のものだった」については、Holocaust Controversiesにも記事があります。当該記事では、本当に架空の記載があったことを見事に証明しています。日本語訳はこちらにあります。一例を以下に示します。

23歳で心臓発作はおかしいと考えるのが普通でしょう。アウシュヴィッツの死の本がソ連から発見される17年前に以下のような証言を行っている元囚人がいます。

私の仕事は、死亡診断書を書くことでした。囚人が死んだ病気の記述は、収容所で殺された者にも当てはまります。銃殺、注射による殺害、ガス室。それぞれのケースヒストリーが必要です。もちろん、架空のものです。それが収容所当局の要求であり、私が命じられたことでした。そもそも、撃たれたとわかっている囚人の場合、「心不全」と書いていたのは、正直なところです。しかし、後になって、この心不全が多すぎたと思い.....例えば撃たれた人の場合、下痢と書いたり...要するに、無防備な囚人に対して行われた大量殺人の痕跡をすべて消し去るという、死に関わる記録の素っ気ない改ざんに他ならなかったのです[39]。
(引用はこちらから)

死の本が発見されるずっと前の証言内容が、死の本からわかる事実に一致しているのです。

しかし、死の本にある死亡簿には、改竄であれ事実であれ、死亡原因が書かれてはいます。つまり、この死亡簿の死亡原因を見ることにより、そこに「チフス」と記載があれば、それを集計して死の本にあるチフス死亡者数を統計的に得ることは可能ではあります。しかし、私が翻訳した以下の記事では、「(死の本にある)68,864人の死者のうち、チフスによるものはわずか2060人であった」と書かれています。

note.com

これは、その脚注に「Grotum and Parcer, "Computer Aided Analysis of the Death Book Entries", 220-221.」によるものであると書かれています。この資料それ自身はネットでもその内容が公開されていないので、私自身が調べることはできませんが、ネット上で検索する限り、アウシュヴィッツの死の本にあるチフス死亡者数の統計データは、上の記事にしかないようなので、これを正しいとする限り、否定派の主張はウソになります。

ただし、アウシュヴィッツの親衛隊は、アウシュヴィッツの衛生状況を誤魔化すために、実際にはチフスが死亡原因であっても、チフス死亡者数を低く見せかけるために、死亡簿には別の死亡原因を書いて改ざんしていたようなので、実際のところ、68,864人の限定された死亡簿内であっても、その正確なチフス死亡者数を死の本から突き止めることはできません

アウシュヴィッツ収容所では、1942年の夏、8月頃にチフスの流行があったことは確かなようです。しかし、その流行でチフスによる死亡者が何人いたのかは不明なのです。仮に、死の本でその時期のチフスと書かれた死亡簿から突き止めようとしたとしても、残された記録の全期間でたったのたったの2,060名なのですから、流行時期だけに限定したとしたらもっと少なくなるので、マットーニョの書くような8月の囚人死亡者数8,600名のほとんどはチフスではあり得ないことになります。

今回の記事はこれで終わっても良さそうなのですが、続けます(笑)

 

1:15/デタラメなサイトにあった謎の棒グラフを提示されても困るのですが……。

ホロコースト・デプログラミングコース(Holocaust Deprogramming Course(ホロコースト脱洗脳講座))」は、Webアーカイブで見ることが出来ますが、画像が多いので読み込むのに時間がかかる場合があることにご注意ください。元々は誰が作ったのかわからない(=匿名の人が作った)ウェブサイトです。X(旧Twitter)で見かける多くのホロコースト否定の投稿に用いられるネタがいっぱいここに詰まっています。

で、確かにそのグラフはそこにありました。

このグラフの下にはいくつかのリンクがつけられていますが、いずれも怪しい否定派さんのサイトといった雰囲気ですが、それらを辿っても、このグラフの元データは分かりませんでした。辿っても辿っても出てくるのは怪しい否定派さんばかりで……。

いずれに致しましても、前項で述べた通り、アウシュヴィッツの死の本からわかるチフス死亡者総数はたったの2,060人のようですから、このグラフも検証の必要はありません。

あえて付け加えるとすると、推測ですが上のグラフはアウシュヴィッツ死の本をまとめた出版物から調べたものかもしれません。死の本の死亡簿件数は68,864件ですから、数字が一致していませんが、判読不能の死亡記録があったのかもしれません。ですが、死亡簿には死亡原因が書いてあるのに、死亡原因には触れずにユダヤ人数を区分してあるのは、グラフ作成者がチフス死亡者数があまりに少ないのに気づいて、誤魔化した、と考えられなくもありません

ところで、「ホロコースト・デプログラミングコース(Holocaust Deprogramming Course(ホロコースト脱洗脳講座))」は、以下で嘘と間違いだらけであることは暴かれていますのでご一読を。

note.com

 

6:37/チクロンBからのシアン化水素ガスの発生速度は「ゆっくり」?

1920年代、ドイツは、画期的な殺虫剤、チクロンBを開発しました。この商品は、第二次大戦の頃までには、石膏を添加されることによって、ガスの発生を遅らせるように改良されたのです。
これは、1942年のR. Irmscherの論文による。 それによると、石膏 (ERCO) が添加された丸薬からのシアンの放出は、華氏59度で3時間後である。この点については「ルドルフ報告」を参照。

チクロンBはフランクフルトのデゲシュ社が製造免許を持ち、製造していました。 第二次大戦が終わるまで、チクロンBは、食糧倉庫、列車や船のような大型輸送機関での害虫やネズミの駆除にきわめて重要な役割を果したのです。

これが、チクロンBです。
細切れの固体が缶に詰まっているのです。誤解されがちですが、これは、ガスが固体
化されているのではありません。
多孔質の固体に、液体状のシアンガスがしみこませてあるのです。
使い方はいたって簡単で、缶のふたを開けたら必要量だけを床の上に敷いた紙の上にばら撒けばくだけです。

すると、その直後から自然にシアンガスが 気化して発生し、バルサンをたくように、 建物中を殺虫処理できるのです。
この「使用法」から、化学の知識が一切無 くてもシアンガスの特性が理解できることにお気づきでしょうか。
つまり、言い換えれば、シアンガスはふたが閉まって圧力がかかった状態なら、絶対に気化しないのです。

そして、先ほど説明したとおり、チクロンBは3時間ほどかけてゆっくり気化するように改良されていますから、使用する人間は室外に退避する時間が十分にあるのです。
それでも、シアンガスは極めて危険な物質でしたので、家や部屋を燻蒸するにあたっての詳細な手順を記したチクロンBの使用ガイドもありました。

動画はチフスに関する情報をダラダラ流して、続いてそのチフスを媒介するシラミを駆除するための害虫駆除剤であり、かつ大量虐殺に用いられた毒ガス発生剤でもあったチクロンBの解説に移っています。

さて、上記テキストをここで引用したのは、ネットでさまざまな修正主義者とやりとりする中で、「チクロンBは青酸ガスをゆっくり放出するように作られている」と主張する人がいたのを覚えていたからです。しかし、この「ゆっくり放出するように作られている」の根拠を見つけることはできませんでした。上では「ルドルフ報告」が出典に挙げられていますが、これはもはや言う必要もなく当然孫引きであり、実際には赤で示した文章はサミュエル・クロウェルの『シャーロック・ホームズのガス室』にある脚注122の文章(「これは、1942年のR.Irmscherの論文に示唆を受けた。それによると、石膏(ERCO)が添加された丸薬からのシアンの放出は、華氏59度で3時間後である。この点と前述の点についてはルドルフ報告の最新バージョンを参照。http://www.vho.org/」)を少し書き換えただけであることはわかっていて、その脚注がつけられている文の直前にある「缶が開けられると、丸薬が撒き散らされ、ガスがゆっくりと放出される」から加藤がそう書いたのでしょう。

で、そこにある「R. Irmscherの論文」ですが、私がそれをPHDNで見つけて翻訳しています。

note.com

チクロンBは、石膏や珪藻土のペレット状のものにシアン化水素の液体を染み込ませてあるものです。確かに、米国の処刑用ガス室で使用されるような方法である、硫酸にシアン化カリウムを投入して直接化学反応で青酸ガスを発生させる方法や、加藤がこの動画内で説明しているアメリカ軍が用いていたとされるような瓶詰めにされた青酸ガスそのものよりは、ガス拡散速度は遅いでしょう。チクロンは液体の蒸発を待たないといけないからです。その蒸発速度は、上記で私がグラフ化したものを示すと以下のとおりです。

気温によって差はありますが、「シアンの放出は、華氏59度(15℃)で3時間後」と書けば遅いように思えるかもしれませんが、グラフを見ればわかるように、初期放出速度の方が後半よりも速いのです。上のグラフは1時間毎の放出量測定値を直線で繋いだものですが、実際には曲線で表されるだろうことは容易にわかるかと思います。シアン化水素の液体の蒸発速度が速いのは、蒸気圧を見れば分かります。

  • 水(20℃):23.4hPa
  • エタノール(20℃):58.7hPa
  • シアン化水素(20℃):826hPa

気温が20℃の場合、液体シアン化水素は水の35倍、エタノールの14倍も蒸発しやすいことがわかります。ディゲシュ社のチクロンBの取扱説明書であるNI 9912にも、「液体が蒸発しやすい」と書かれています。チクロンBは液体シアン化水素を染み込ませてあるペレットですから、液体そのものよりも放出速度は若干遅いとは思われますが、それでもペレット表面近くにあるシアン化水素はすぐ蒸発するはずです。

何故修正主義者たちが、チクロンBからのシアン化水素ガスの放出を「遅い」などと表現したがるのかというと、目撃者の証言では「即死した」や「数分で死亡した」などと言われているからで、それら証言をウソだと否定してしまいたいからだと考えられます。

また、もし仮に、犠牲者の死亡時間が遅いと思ったのであれば、チクロンBの投入量を増やせばいいだけなので、その意味でも「ゆっくり」という言い方には意味がないことがわかります。

「使用する人間は室外に退避する時間が十分にある」も、加藤の書く意味では事実上ウソで、NI 9912には、以下のとおり記述されています。

X 建物の薫蒸

<中略>

  • ガスマスクを装着する。

写真は、ペレットではなく、ダンボールディスク状のチクロンBを用いた作業風景写真ですが、シアン化水素ガス専用のフィルター付きガスマスクの装着は必須でした。もし、Amazonプライム(またはその他の配信サイト)の動画を視聴できるのであれば、『アウシュヴィッツ ナチスホロコースト』という動画の一話目の41分30秒あたりからその作業風景(動画の方はペレット)がありますので、ぜひご確認ください(Amazonプライム動画はスクショさせてくれません)。作業員は、作業開始前の缶開けから作業中までずっとマスクをつけています。

 

11:05/セントラルサウナ自体は現存してますが。

さて動画では、害虫駆除室の話をしているところで、次のような図が表示されています。

これもまた、加藤の単純な勘違いの指摘ですが、いわゆる「Zentralsauna」はちゃんと現存しています。

加藤は、この直後にある参照文献名にあるとおり(といってもそのテキスト自体は孫引きです)、プレサック本を読んでいるはずなのですが、ちゃんと読んでいなかったのでしょう。その本にあるセントラルサウナの解説の章では、プレサックが撮影した写真(キャプションにPMOナンバーが付されていない写真は全てプレサック自身が撮ったもの)まで載っているのですが。プレサックによると「50年代か60年代には、Zentral Saunaの中央部分の屋根が落ちた。その後、アウシュビッツ博物館によって、かなり完全な修復が行われた」そうですが、2001年4月からは観光客向けにも公開されているそうです(ドイツ語版Wikipediaより)。

 

12:38/ナチスの「衛生細菌検査センター(保健衛生バクテリア検査局)」情報が公開されていないって何の話?

アウシュヴィッツ収容所に隣接するライスコ収容所では1942年に収容所の保健衛生環境 を改善するための 「保健衛生バクテリア検査局

Hygienisch-bakteriologische Untersuchungs-Stelle

を設置しました。
ドイツの赤十字国際委員会追跡センターにこの研究所のファイルは保管されています。 これは現在非公開になっているようですが、貴重な歴史資料を何故公開しないのでしょうか。
恐らく、「悪意のある研究」 に使われることを防ぐためではないでしょうか。

その「Hygienisch-bakteriologische Untersuchungs-Stelle」のことは私はほぼ知りませんが、ナチス親衛隊のその組織がヤバいことをやっていた程度のことは知っています。例えば、こちらのドイツ語Wikipediaでも参照されるといいかと思います。このナチスの「衛生細菌検査センター」は、あの731部隊(日本の歴史修正主義者に言わせると「単なる防疫給水部隊であった」らしいですが)を連想しそうな感じです。

さて加藤の言うファイルが何のことなのか、加藤は例の如くきちんと資料参照を示さないのでよくわからないのですが、加藤が読んでいるはずの歴史修正主義研究会にあるルドルフ報告を途中まで翻訳した文章の中に、こうあります。

武装SSおよび強制収容所での衛生に責任を持っていたのは、"Hygieneinstitut der Waffen-SS"[132](武装SS衛生研究所)であった。それは、1942年にベルリンに設立され、アウシュヴィッツ近くのライスコに"Hygienisch-bakteriologischen Untersuchungsstelle Südost d. W-SS" (武装SS衛生・バクテリア実験ステーション南東)をそなえた支部を持っていた。この実験センターのファイルは現存している。(1943年から1945年までの151巻)[133]

で、この脚注133には何と書いてあるかと言うと、

[133]Heinz Bobrach et al., Inventar archivalischer Quellen des NS-Staates, K. G. Saur, Munich 1995, volumes 3/1, 1991. 約110000の実験が行なわれている。多くの有益な情報はファクシミリのかたちでHefte von Auschwitz, nos. 1 through 19, special editions, Auschwitz State Museum Publishers, Auschwitz Museum, since 1959で見ることができる。

だそうです。「見ることができる」のに公開されていないとはどう言うことなのでしょう?

ドイツ語Wikipediaといい、ルドルフ報告のこの参照文献といい、情報はかなりよくわかっているようなのですが、「貴重な歴史資料を何故公開しない」とはいったい何の話なのかよくわかりません。

なお、加藤が書いている「ドイツの赤十字国際委員会追跡センター」とは、ここのことだと思います。

arolsen-archives.org

これもまた、私はまだまだ不勉強なのであまり良くは存じておりませんが、翻訳していると、アロルゼン(アロルセン、なのか、アーロルセンなのか…)国際追跡センターという言葉は時折出てきますから、名前程度は知っています。

しかし、アーロルセンの追跡センターは、加藤の動画公開時点である2018年ごろはすでに国際赤十字には属していません。この英語版Wikipediaの説明によると、「これらの新しい活動は人道的使命の一部ではないため、ICRCは2012年12月にITS(註:International Tracing Service(国際追跡サービス))の運営から撤退した[5]。」とあります。

ただ、同Wikipediaには「アーカイブは現在、クラウドソーシング・プラットフォーム「Zooniverse」を通じてデジタル化され、書き起こされている。2022年9月現在、アーカイブの約46%が書き起こされている[4]。」とのことですので、単にまだデジタル化されていないだけなのかもしれません。ナチス時代の当時の資料を公開しないとしても、その理由はプライバシー(故人の名誉等)に関わること以外では考え難いので、「「悪意のある研究」 に使われることを防ぐ」などあり得ないと思います。

 

13:21/「ホロコーストサバイバー」って何?

次に表示するのは、モスクワの公文書館で 発見された、アウシュヴィッツでの治療記録 です。
3138人のハンガリーユダヤ人の治療記録 が1944年6月28日に作成されています。
Gosudarstvenny Arkhiv Rossiskoi Federatsii (GARF), Moscow, 7021-108-32, p. 76.
pl National Socialist Concentration Camps: Legend and Reality Jurgen Graf より引用

  外科のケース 1426
  下痢:327
  便秘 253
  扁桃腺炎 79
  糖尿病 4
  心臟疾患 25
  疥癬 62
  肺炎 75
  インフルエンザ 136
  発疹炎症 59,268
  その他 449
  猩紅熱 5
  流行性耳下腺炎 16
  はしか 5
  丹毒 5"

次に表示する画像は、ホロコーストサバイバー」から引用した、アウシュヴィッツ博物館所蔵の資料です。囚人名ソロモン・ラダスキー No.128232の治療記録です。

加藤は、以降ダラダラとアウシュヴィッツで囚人に医療が施されていたことについて述べているのですが、一旦労働者として登録したユダヤ人囚人は労働力として貴重なのだから、病気・怪我を多少治療して治る見込みがあるのなら、治療する方針だったのです。だから、アウシュヴィッツ収容所(ビルケナウ収容所)には病棟ブロックがあったのです。これらのことは、絶滅収容所強制収容所の二つの目的を兼ね備えていたのがビルケナウ収容所であったことを考えれば、矛盾しているように見えて別に矛盾しているわけではないのです。(アウシュヴィッツでのユダヤ人の取り扱い方針に矛盾・対立があったことは前回述べたとおり)

ところで、引用の末尾で強調して示した「ホロコーストサバイバー」とは一体何なのでしょう? 本の名前? でもそんな名前の本はありません。「holocaust survivor」でありそうですが、見つかりません。それでググると今度は、どれがどれだかわからないほどたくさんヒットします。加藤は本当に困った人です。自分が見てもいない参照先はこれ見よがしに示すくせに、どうして自分が見ている参照先を示さないのでしょうか。

でも、割と簡単に見つけました。ここです。

www.holocaustsurvivors.org

このサイトが有名なのかどうか、私自身は知りませんでした。で、ソロモン・ラダスキーはここです。

今回は、かなり長くなっているので、ここで一旦切ります。で、このソロモン・ラダスキーのページを以下に全翻訳しておきます。加藤が参照を示さない理由がわかると思います。彼はこうした証言の都合の悪いところは否定するホロコースト否定者ですからね

なお、当該ページの最初の写真以外は以下では引用しませんので、必ず元記事を参照してください。また、元記事には用語にリンクが貼ってあって、ポップアップで説明が出るようになっていますが、以下では同記事のリンクを入れるだけとし、説明は翻訳しません。点線枠の注釈は、私自身が解説が必要かと思って独自に挿入したものです。

 


ソロモン・ラダスキー

「どうやって生き延びたか? 人はトラブルに巻き込まれると、生きたいと思うものだ。ある人は言う、「なるようにしかならない」と。そうではない! 日々、自分のために戦わなければならない。ある人々は気にしなかった。私は生きたくない。何が違うんだ? どうでもいいんだ。私は日々考えていた。私は生きたい。人は自分の意志を持ち続けなければならない。」

出生地:ポーランドワルシャワ
出生:1910年5月17日
死去:2002年8月4日
戦時中の生活:ワルシャワ強制収容所
職業:毛皮職人
家族:既婚、子供2人

ソロモン・ラダスキーのサバイバー・ストーリー

どうやって生き延びたかですか? 人はトラブルに巻き込まれると、生きたいと思うものです。ある人は言います、「なるようにしかならない」と。そうではありません! 日々、自分のために戦わなければなりません。ある人々は気にしませんでした。私は生きたくありません。何が違うのですか? どうでもいいのです。私は日々考えていました。私は生きたい、と。人は自分の意志を持ち続けなければならないのです。

私はワルシャワ出身です。ヴィスワ川の対岸のプラガに住んでいました。そこでの生活は楽しかったのです。自分の店を持っていて、毛皮のコートを作っていました。ワルシャワでは、ユダヤ人の祝日が来ると、それが祝日であることがわかりました。すべての店が閉まり、人々はシナゴーグにいました。

私の家族78人のうち、生き残ったのは私だけです。私の両親は3男3女をもうけました、 両親はヤコブとトビーで、兄弟はモイシェとバルク、姉妹はサラ、リブカ、レアです。彼らはみんな殺されました

註:「私の家族78人(the 78 people in my family)」とあるが、文章を読めばこれは「8人」のミスタイプだろう。

母と姉は1941年1月の最終週に殺されました。1941年は雪の多い寒い冬でした。ある朝、SDユダヤ人警察が私を路上で捕まえました。私は線路の雪下ろしを大勢の人たちと一緒にやらされました。私たちの仕事は列車を走らせ続けることでした。私がゲットーに戻ると、母と姉が殺されていたのです。ドイツ人は、ゲットーの人々から金と毛皮を集めるようユダヤ人評議会(ユーデンラート)に要求しました。ドイツ人は母に宝石や毛皮のことを尋ね、母は何も持っていないと言ったのです。それで母も姉も撃たれたのです

父は1942年4月に殺されました。彼はゲットーに食料を密輸していた子どもたちからパンを買いに行きました。子供たちはパンやジャガイモ、キャベツを壁を越えてワルシャワ・ゲットーに持ち込んだのです。ドイツ人は父の背中を撃ちました

註:こうしたワルシャワ・ゲットーへの子供による「密輸」は、ロマン・ポランスキー監督の映画『戦場のピアニスト』でも描かれている。

強制送還は1942年7月22日に始まりました。他の2人の姉と2人の兄はトレブリンカに行きました。その後、私は家族の誰とも会うことはありませんでした

私は毛皮職人です。ゲットーではトッベンスの店で働いていました。ドイツ軍用のラムウールのジャケットを作っていました。今でいうアイゼンハワージャケットです。

昼食にはパンとスープをくれました。夕方にはまたパンとコーヒーが出ました。ポーランド人が店に来ると、余分な食料と交換できました。シャツ数枚でサラミ1枚、パンやジャガイモでスープを作りました。しかし、私たちの状況はいつまで続くのでしょうか?

ある日、選別があり、私は店から引き出されました。ただ、幸運だったのは、ある民族ドイツ人が私のことを優秀な労働者だと言ってくれたことです。それで私は店に戻ることを許され、他の誰かが私の代わりになったのです。

友人が、シュルツの店で私の姉妹が働いているのを見たと教えてくれました。私は彼女に会いたかったのですが、3キロも離れていて、どうやって行けばいいのかわかりませんでした。あるユダヤ人警官が、ドイツ兵に一緒に行ってもらえば連れてきてくれると教えてくれました。500ズロチもする大金でしたが、私はOKしました。

兵士は私に手錠をかけ、私が囚人であるかのようにライフルを持って私の後ろを歩きました。シュルツの店に着いたとき、妹が見当たりませんでした。そして、私はそこで立ち往生していることに気づきました。ゲットーはドイツ兵に包囲されていたので、私は戻ることができませんでした。翌朝は1943年4月19日で、ワルシャワ・ゲットー蜂起が始まった日でした。

1943年5月1日、私は右足首を撃たれました。弾丸は骨ではなく肉を貫通したので、足を失うことはありませんでした。私はUmslagplatzに連れて行かれました。トレブリンカ絶滅収容所は1日に1万人しか収容できませんでした。私たちのグループは20,000人でした。彼らは私たちの列車の半分を切り離し、マイダネク強制収容所に送ったのです。マイダネクも死の収容所でした。

マイダネクでは服を取り上げられ、縞のシャツとズボンと木靴を与えられました。私は21番兵舎に送られました。私がベッドに横になっていると、年配の男性が「調子はどうかな?」と言いました。彼はパリで医者をしていました。 彼は小さなポケットナイフを持ち出し、私を手術しました。今でも、彼がどうしてナイフを収容所に置いていたのか理解できません。薬も包帯もありませんでした。彼は言いました、「私は薬を持っていないから、自分で何とかするしかないよ。排尿の際、尿の一部を傷口の消毒薬として使いなさい」

職場まで3キロ歩かなければなりませんでした。足を引きずることなく、まっすぐに体を支えてキャンプの門を出なければならなかったのです。怖かった。足を引きずれば、列から外されました。マイダネクではどんな些細なことでも吊るされました。どうしたらうまくいくのかわかりませんでした。神様が助けてくれたに違いないのです。私は幸運でした。

私たちは木靴を履いて点呼のところに立ちました。そして門を出るときには、木靴を脱いで紐で肩に縛らなければなりませんでした。私たちは裸足で通勤しなければなりませんでした。道には小さな石が落ちていて、皮膚に食い込み、多くの人の足からは血が流れていました。仕事は汚い現場仕事でした。数日後、それに耐えきれなくなった何人かが道路に倒れこみました。起き上がれない場合は、横たわったまま撃たれました。仕事が終わると、遺体を担いで戻らなければなりませんでした。1,000人が仕事に出れば、1,000人が戻ってこなければならなかったのです。

ある日、私たちが点呼に並んでいると、列の最後尾にいた男がタバコを吸っていました。ヘビースモーカーは、何かを吸っている気分になるために、紙切れを見つけては火をつけるのです。ドイツ人の収容所長が背の高い黒馬に乗ってやってきました。馬の頭には白い斑点があり、脚も白かった。美しい馬でした。収容所長は手に鞭を持っていました。この男は怪物だったのです。日が暮れていました。彼はタバコの煙を見ました。

収容所長は私たちを見下ろして、誰がタバコを吸ったのか知りたがりました。誰も答えませんでした。「私は10匹の犬を吊るすつもりだ」彼は言いました「3分時間をやろう」彼らは私たちを犬と呼んでいました。背番号入りのタグをつけていたからです; 私の番号は993でした。私たちはあちこちを見回しましたが、誰も答えません。

ラーガー総統は3分も待たず、2分も待ちませんでした。彼は鞭を取り、5人の囚人の2列を切り落としました。 私は10人のグループにいました。

彼は、「誰が最初にベンチに上がりたい?」と尋ねました。ベンチに立ってロープを首にかけなければならなりませんでした。私はベンチに上がった最初の3人でした。私はベンチに上がり、自分の首にロープをかけました。

彼は私たちを殴り始めました。頭に血が流れるほど殴られました。

そうなる前に、ある兵士がマイダネクにやってきて、別の収容所に連れていく750人のグループを3つ選ぶという目的を持っていました。 私は750人の第2グループに選ばれました。この兵士はルブリンの本局で私たちの書類を処理していました。私がベンチに立っていると、その兵士が絞首台のところに戻ってきました。

何が起きているのか見ると、彼は大声で 「止まれ、止まれ! ここで何が起きているんだ?」と叫び始めました。

収容所長は言いました、「犬がタバコを吸った。どの犬か言わないので、10匹の犬を吊るすことにする」

「誰の犬ですか」と兵士が尋ねました。「私はこの人たちを移送する書類を持っているし、死んだ犬を連れてくることはできない。生きたまま連れてこなければならない」

兵士は私の首に巻かれていたロープを外しました。あと数秒あれば、私は死んでいたでしょう。彼はベンチを蹴っ飛ばすところでした。私たちがベンチから飛び降りて列に戻るまで、兵士は私たちを殴り続けました。

兵士は私たちを線路に連れて行き、列車に乗せて翌朝マイダネクを発ちました。私は9週間そこにいました。食料も水もなく、2泊3日の列車の中でした。マイダネクでの9週間、私はシャツを着替えず、体も洗いませんでした。私たちはシラミに食われ、多くの者が空腹でむくんでいました。

列車を降りると、アウシュビッツに到着していました。そこでは選別があり、何人かはそこの野原で機銃掃射されました。ガス室には連れて行かれませんでした。

私は腕に数字のタトゥーを入れるために連れて行かれました。128232という番号です。その数字を足すと18になります。ヘブライ語では、アルファベットは数字を表します。18という数字はヘブライ語で「Chai(チャイ)」、つまり命を意味するのです。タトゥーを入れた後、私はジャガイモをもらいました。

私は最初にブナの収容所に送られました。私は検疫から出た後、私は線路建設の仕事に就きました。そこのカポは殺人者でした。私は背が低いのですが、彼は背の低い男と背の高い男を一緒にして、20フィートの長さの鉄を運んでいました。背の高い男は膝を曲げなければなりませんでした。

ある時、私は転んで起き上がれなくなりました。カポは叫びながら私を殴り始め、私を脇に引き寄せました。一晩中、服を脱いで裸で立っていなければなりませんでした。 翌朝、赤十字のついたトラックがやってきて、私たちを押し込みました。私たちは、彼らが私たちをガス室に連れて行くのだと思いました

その代わり、私たちはアウシュビッツ第一収容所に連れて行かれました。ポーランド人の男性が建物から出てきて、私たちに番号を呼ぶように言いました。私は「128232」と言いました。彼は紙を見て、私の名前を尋ねました。私は「スラマ・ラドシンスキ」と言いました。ポーランド語で私の名前ですが、ユダヤ人の名前には聞こえません。彼は私に、どこから来たのかと尋ねました。「ワルシャワです」と私は言いました。 いつからそこにいたのか?「そこで育ちました」と私は言いました。

彼は私の人生で聞いたこともないような罵声を浴びせ始めました。彼は私を列から引きずり出し、隅に追いやりました。彼は「ここにいろ」と言いました。彼は私に毛布を持ってきて、それで体を覆いました。私は凍えていたので、彼は私をバラックの中に入れました。

私は横になった。何が起きているのか、何を考えているのかわかりませんでした。若い男が近づいてきて、「あなたを知っている」と言いました。私は彼に「あなたは誰ですか?」と尋ねました。彼はエルリッヒと名乗り、マイダネクから私を知っていると言いました。

私は彼にこの場所が何なのか尋ねました。彼は病院のバラック、ブロック20だと言いました。彼は私にこう言いました。「メンゲレ博士は週に2回、選別に来る。でも今日は火曜日で、今週はもう来ないだろう。何が起こるか、また知らせる」私は月曜日から何も食べていませんでした。彼は私にパンをくれました。

註:アウシュヴィッツで「選別」と言えば、親衛隊員が不要な囚人を処分する(殺す)ために選び出すことを意味する。

エルリッヒはそこに5週間いました。彼は私と同じ日にマイダネクからアウシュビッツに来ました。病院の二人の医師は、クラクフのラビであった彼の祖父を知っていました。彼らはメンゲレ博士から彼を隠しました。その医師たちは、クラクフユダヤ人を匿う手助けをしようとしていました。SSが来て匿ったユダヤ人を殺し、医師たちをアウシュビッツに連れて行ったのです。

木曜日にエルリッヒが私のところに来て、「君はここから出ていかなければならない 」と言いました。私は言いました、「2階の窓から飛び降りればいいのか?」午後になると、彼は再びやって来て言った、「ここから出なければ、明日以降は死ぬことになるぞ」約1時間後、一人の男が入ってきてテーブルに座りました。彼は「仕事に行きたい者はいるか?」と尋ねました。病院にいたポーランド人たちは、仕事に行くことを心配していませんでした。赤十字から小包をもらい、食べるものも十分にあるのに、なぜ働きに行かなければならないのか? と。

註:国際赤十字は、ナチス強制収容所の囚人に食料小包を送っていた。しかし、ユダヤ人には届かなかった。このエピソードでもポーランド人には食料小包が届いているのに、ユダヤ人のソロモンには届いていないことがわかる。

私はこの仕事に就かなければなりませんでした。テーブルの男は私に電話番号を聞き、そして私を罵りました。私は彼に懇願しました。「外に出たいのです。外に友達がいるのです。外に出してください」と。彼は私にブロック6と書かれた紙を渡しました。

私はブロック6まで歩き、その紙を見せました。そこにいた男は、「夜の9時まであなたを入れることはできない」と言いました。私は男たちが仕事から戻るまでそこにいました。ある男性が私に尋ねました、「君はここに来たばかりだが、出身地と職業は?」、私は言った、「私はワルシャワ出身で、毛皮職人でした」、どこに住んでいるのかと聞かれたので、そう答えました。彼は私に、ある男の名前を知っているかと尋ねました、  「そう、彼も毛皮屋で、こんな通りに住んでいるんだ」

男の一人が言いました、「私はあなたを信じない; この男は何と呼ばれているのだろう? 彼にはあだ名がある」 、この人は左耳の脇に小さな皮が垂れ下がっていて、「ツチク」(イディッシュ語=乳首)と呼ばれています」と私は言いました。そう言うと、彼らは私を助け始めました。大きなパンと冷たいスープを持ってきてくれました。

彼らは私にどこで働くのかと聞くので、その紙を見せました。彼らは言いました、「それはダメだ! その仕事では8日や10日では終わらない」その仕事は炭鉱での仕事でした。「その仕事に就いている人は最長で2週間。その後は火葬場行きさ」 私は怖んくなりました。私の番号はそこで働いていると登録されていました。私は言いました、「もし私がそこに行かなければ、私は厨房の隣に吊るされ、囚人たちは私の横を通り過ぎることになるのです」

彼らは言いました、「心配無用だ」ある男が別の男を呼んでこう言ったのです、「これを直してきてくれ!」と。彼らはその紙切れを持ってカポのところへ行きました。このカポは殺人犯でした。緑の三角巾を持っていました。ドイツ人は刑務所を開放し、囚人たちを我々のボスにしたのです。何人かはカナダで働いていました。輸送が来ると、貴重品を分けてくれました。彼らは命がけで金塊などを密輸したのです。毎日、彼らはこのカポにタバコやサラミを持ってきたので、彼は「はい」と答えた。

註:「カナダ」とは、囚人が持ち込んだ荷物を親衛隊が奪い取って、それら荷物を分別整理する収容所内の場所のこと。カナダは豊かな国だと思われていたのでそう呼ばれるようになった。カナダで働かされていた囚人は、囚人仲間にそれら荷物を横流ししていた。

翌朝、彼らは私を起こし、私を連れて行きました。彼らは私を列の真ん中に並ばせ、私たちは一緒にゲートを出ました。彼らはゲートを出てすぐに私に言いました、毎日6,000人以上の囚人がゲートを出て行くが、誰が誰だか誰も知らない、と。

美しいオーケストラが門のそばで演奏していました。彼らは私を他の仕事に行かせてくれませんでした。アウシュビッツ清算される最後の瞬間まで、私は彼らと一緒にいてくれました。かれらは小さなパンとスープをくれました。

ある日、少年たちがカポに帽子を作ってくれないかと頼んできて、ストライプの生地を持ってきてくれました。私は計測のために紐を取りました。私は糸と針を頼んで、2時間ほどでキャップを作りました。硬さを出すために、セメント袋から紙を取り出し、上部を二重にしました。カポはそのキャップを気に入ってくれました。それ以来、私は彼の部下となり、彼はずっと私を打ち負かしたことはありませんでした。

私は1年以上、少年たちと一緒に同じ仕事で砂を掘っていました。私たち10人は砂鉱山で働いていました。ブレスラウ出身の小柄な男がいて、私たちが監督にしたのです。彼は上に立ち、私たちは20フィート下にいました。毎日、荷車に砂を積んで16キロの道のりを歩きました。片道4キロ、往復4キロを2往復しました――1日10マイル以上です。

私たちは1日に2回、死者の灰を覆うために砂をビルケナウまで運びました。その砂は、火葬場から出た灰を覆うためのものでした。私はこれを1年以上続けました。

火葬炉は火葬場の片側にあって、灰はそちら側から出てきました。反対側にはガス室がありました。ゾンダーコマンドは火葬炉から灰を出しました。灰を入れる大きな穴があり、灰を砂で覆ったのです

私は輸送が来たときに見たのです。私は入っていく人たちを見て、誰が右で誰が左かわかりました。私は誰がガス室に行くのか見ました。私は本物のシャワーに行く人も見ましたし、ガスに行く人も見ました。1944年の8月と9月、私は彼らが生きている子供たちを火葬場に投げ込むのを見ました。手足をつかんで放り込むのです。

註:ソロモンは火葬場内には入っていないので、子供を火葬炉に投げ込むことは見ているはずはない。これは、火葬場Ⅴの裏手にあった野外焼却場へ子供を放り込んでいる光景なのかもしれない。子供を火の中へ放り込む目撃談はいくつかあるので、これもその一つであるとは言えるが、ソロモンがそれら戦後の証言に影響されている可能性はある。

ある土曜日、作業をしているときに後ろを振り向いたら、ライフルを持った兵士がいた。その兵士は言いました、「ゆっくりやっていい、今日は安息日だからな」彼はハンガリー人で、こう言った、「4時に私のバラックに来てくれ。ゴミを入れたバケツを出しておく。ゴミの下を覗けば、11個のパンが見つかるだろう」2、3週間、彼は私たちのためにパンを出してくれました。カナダからお金を持ってくるように言われたので、そうしました。彼はよくユダヤ教の祝日の名前を教えてくれました。ある日、彼は姿を消しました。

ロシア軍はスターリングラードでドイツ軍を追い返していました。ウッチのゲットーから輸送がやってきました。その時、私たちは彼らが幼い子供たちの頭と足をつかんで、生きたまま火葬場に放り込むのを見ました。そして、ハンガリーユダヤ人の人々がやってきました。

註:上記のハンガリーユダヤ人のリンク先の説明には「55万人」とあるが、1944年5〜7月のハンガリーユダヤ人の絶滅作戦の時にアウシュヴィッツに輸送されたユダヤ人の人数は、ハンガリーナチスドイツが占領後にハンガリー全権となったフェーゼンマイヤーの報告によれば、437,402人であるとされる。こちらによると、そのうち選別されてすぐに殺害された人数は32万人程度と推計されている。

火葬場を破壊しようとする若者のグループがいました。ビルケナウには4つの火葬場がありました。若い女の子たちは弾薬工場で働いていて、爆薬を密輸していました。一つの火葬場が破壊されました。私たちが仕事から戻ると、彼女たちのうち2人が私たちの前に吊るされました。

生存は続いていました。1945年1月18日にアウシュビッツ清算が始まるまでは、毎日がさまざまな問題がありました。18日に私はアウシュビッツを離れ、9日後にロシア軍が解放しました。この7日間で、私は5ヶ月を費やしました。

出発するときは、みんなバラックから出なければなりませんでした。私はソスノヴィエツから来たラビと一晩中歩いていました。ラビは仕立て屋だったブロック2から来ました。私たちの後ろにいた兵士たちが、倒れている人たちを撃っているのが見えました。ラビは道路に倒れ、ベルギーから来たこの少年と私はラビを挟んで支え、歩き続けました。兵士が引いているソリが見えたので、ラビを乗せたソリを朝まで引いてもらえないかと頼みました。

仕立て屋のバラックであるブロック2に住んでいた男たちは、人々が服の裏地に縫い付けていた金やダイヤモンドを手に入れることができました。彼らはブロック長に金とダイヤモンドを渡し、ラビをバラックに隠しました。彼らは壁に作ったクローゼットに彼を隠しました。彼らは朝6時の点呼に出るときにラビをクローゼットに入れ、夕方戻ってきたときに連れ出しました。私は何度も朝5時にそこに行き、ラビと一緒に両親のためにカディシュを唱えました。

昼間、私たちは小さな町に到着し、農家の人たちが私たちを厩舎に泊めてくれました。夕方には外に出なければなりませんでした。鉄道の駅まで歩きました。2日後、列車が私たちをグロース・ローゼン収容所に運んでくれました。私は二度とラビに会うことはありませんでした。

グロース・ローゼンは人殺しでした。看守たちは手に鉄パイプを持って歩き回っていました。彼らは言いました、「私たちはあなたを助けるつもりだ;私たちはあなたをここから連れ出すつもりだ」私たちは2000人の男たちと一緒に小屋に入れられました。昼間は立っていなければならず、夜は頭を食べ物にくっつけて寝ました。食事は夜、パン1切れとコーヒー1杯だけでした。そこで死ぬかと思いました。

彼らは私たちを鉄道駅まで送ってくれ、そして3日後にダッハウに到着しました。列車の旅はひどかったです;列車は引き上げては引き戻し、引き上げては引き戻した。水のために雪を食べました。ある男が息子と一緒に入っていて、その息子は気が狂ってしまいました。その息子は父親の首をつかんで窒息死させたのです。ダッハウでは、チフスのブロックに選別されました。私にはラドム出身の強い友人がいました。でも、彼はチフスブロックに入れられました。

私は1945年4月26日か27日にダッハウを出発しました。解放されたのは5月1日でした。その間、私たちは列車で移動していました。ツッツィング、フェルダーフィング、ガルミッシュにいました。そこには大きな山がありました。ある日、列車から降りさせられ、山の反対側まで20フィート登らなければなりませんでした。するとドイツ軍が機関銃を設置し、我々を狙い撃ちし始めたのです。私たちが列車に駆け戻ったとき、数百人が殺されました。 

翌日、私たちは飛行機が爆弾を落とす音を聞きました。数時間後、兵士たちが列車のドアを開けました。爆弾の後片付けに数人必要だというのですが、私たちは怖くて行けませんでした。それで、「お前、お前、出て行け」と言われ、私は捕まりました。これで終わりだと思ったのです。ゲットーに何年もいて、みんなを失って、これで終わりだ、と。私の家族のためにカディッシュを唱えるために誰が残されるのだろう?、と。

私たちは山の反対側にある小さな町に行ったのですが、そこは駅が爆撃された場所でした。ある男にはシャベルを、別の男にはほうきを、そして私にはピックをくれました。私は駅構内で小さな黒パンを売っているカウンターを見ました。殺される前にパンを一切れ食べたい、と自分に言い聞かせました。私はキドゥシュ・ハシムの準備ができていました。私は上着から黒パンを取り出し、食べ始めました。兵士が私を見て、「仕事に行け」と叫びました。私はパンを食べるまでそこにいました。殴られても動かなかったのです。転んだら蹴られたけど、起き上がりました。私はその小さなパンを食べ終えなければなりませんでした。頭に血が流れました。食べ終わると仕事に行きました。願いは叶いました。そして、私は生き残ることを知ったのです。

翌日の早朝4時、ツッツィング付近で高速道路の激しい交通音が聞こえました。私たちは列車の2つの小さな窓から外を見ました。ロシア軍が来るかと思ったのですが、アメリカ軍でした。私たちは大声で叫びました。二人の兵士を乗せたジープが走ってきました。一人は背の低い男で、憲兵でした。ドイツ語が上手でした。彼は私たちが誰なのか尋ねました。私たちは強制収容所から来たと答えました。みんな大声をあげて泣き出しました。アメリカ兵は、我々は自由だと言いました。彼らはドイツ人を逮捕し、ドイツ人は怖くなったのです。1945年5月1日のことでした。

アメリカ人がご飯を作ってくれました。憲兵は私が米を食べるのを見て私に言いました、「そんなものは食べるな。食べたら死ぬぞ。脂肪分が多すぎて、今は食べられない。胃が縮んでいるから、それを食べると下痢をする。パンをあげるからトーストしなさい」

「トーストって何です?」と私は尋ねました。彼は言いました、「トーストとはパンを硬くすることだ」私たちはフェルダフィングに連れてこられました。私は日向に座っていました。少しの水と砂糖を沸かしました。2週間で私の胃は伸びました。パジャマはくれましたが、靴はありませんでした。

ある日、同じMPがジープに乗っているのを見かけました。私たちは彼に言いました。「あなたは私たちに自由を与えてくれました」彼は「ここから3キロのところにいるから、明日の朝7時に来い」と言いました。私たちは朝6時にそこにいました。兵士たちが朝食を取っているのを見ました。彼は私たちにも朝食をとるように合図し、大尉に私たちのことを話しました。大尉は私たちを連れてこいと言いました。私たちはパジャマに裸同然で、靴も履いていませんでした。大尉は私たちにPXに行くようにと紙を渡し、私たちは靴、ズボン、シャツ、ジャケットを手に入れました。昼休みに戻ってくるように言われました。何週間も1日3食でした。

フェルダフィングの避難民キャンプで、入院している姪に食べ物を持って行ってほしいと頼まれました。私はオレンジとパンとバターを持っていきました。彼女が元気になると、白いリネンのズボンをくれました。「あなたは私の命を救ってくれた」と彼女は言いました。

ドイツでは、フェルダフィングは行方不明者を探す場所として有名でした。壁には生存者の名前が書かれたリストが貼られていました。解放された多くの人々が親族を探しに来ました。一人は以前から知っている女性で、もう一人のソフィアは私の妻の友人でした。

ソフィアは言いました、「私のガールフレンドの家族も毛皮業を営んでいたの。バーシュティンという名前を聞いたことがある?」私は 「バーシュティン家と取引していた」と答えました。彼女は私にタークハイムまで会いに来てほしいと言いました。

失うものはもう何もありませんでした。ウッチから来た仕立て屋の二人の兄弟が、グレーと白の毛布でスーツとズボンを二着作ってくれました。友人と私は荷物を一つにまとめ、ヒッチハイクでトゥルクハイムに向かうため高速道路に出ました。私は1945年8月にフェルダフィングを出発しました。

翌日、妻のフリーダがソフィアに会いに来ました。妻は恥ずかしがり屋で、私に会うために階下に降りて来ようとしませんでした。そこでソフィアは、「窓のところに行って見てごらん」と言った。彼女は見てくれました。それ以来、私は「妻が窓から釣り竿を覗き込んで、私を釣り上げた」と言っています。

私たちは1946年11月に結婚しました。妻は私と同じ町の出身で、彼女の家族とはよく付き合いがありました。私たちには家族のような感覚がありました。

私たちはとても貧しかったのです。当時はカードがないと買えませんでした。市長のようなバーガーマイスターのところに行って、スーツを買うためのクーポンをもらいました。問題は、それを買うお金がなかったことです。妻とソフィアがスーツを買うために貸してくれた少しのお金があって、そのスーツを友人が結婚するときに貸したのです。

妻はドレスを持っていませんでした。私たちは土曜日の夜に結婚する予定でした。土曜日の昼間、私は知り合いのドイツ人女性の家のドアをノックしました。彼女とは道で何度か話したことがありました。彼女にはフリーダと同じ大きさの娘がいました。私はタバコ2箱、ハーシー・チョコレート・バー2本、小さな缶コーヒーを手に入れ、紙袋に入れました。

彼女がドアに出ると、私たちは話をし、彼女は私にこう言いました、「あら、市役所で見たわよ、結婚するのね」「はい」、私は言ったんです、「申し訳ありませんが、私の花嫁にはドレスがありません」と。

彼女は「オー、ノー!」と言って天井に向かって飛んだのです。彼女の母親が彼女に尋ねました、「彼はあなたのことなど何も言っていないのに、なぜ飛ぶの?」、彼女は言いました、「彼はドレスを欲しがっているわ」、私は言いました、「そう、ドレスが欲しいのです」、私はその女性に、強盗に来たのではないと言いました。彼女に助けを求めに来たのです。

杉の衣のところに行き、扉を開けると、スカイブルーのドレスが目に入りました。ハンガーにかけられたそのドレスを手に取り、かざしてみると、とてもきれいな色でした。娘は泣き出した。私は小さな袋を取り、テーブルの上にひっくり返して言いました。「これが私の全財産です。後で、少しあれば、もっと払うつもりです」。母親は「持っていきなさい」と言いました。私はお礼を言って外に出ました。娘は泣いていました。その後、私は自分を取り戻したとき、娘に怒られるのが嫌でその家には戻りませんた。道で母親を見かけ、話しかけました。私は彼女に「あなたたちが私たちにしたこと」とは言いませんでした。

私たちは1946年11月11日に結婚しました。結婚式には、町の緑豊かな人たちがみんな来てくれました。私の友人は金曜日に早く家を出て、鯉とアヒルとガチョウを持って帰ってきました。私たちはチャラとケーキを食べ、歌と踊りを楽しみました。ただひとつだけ欠けていたのは、親戚でした。

私たちはタークハイムからランツベルクに移り、4年後にアメリカに来ました。私の息子は1948年5月13日に生まれ、イスラエルは1948年5月14日に誕生しました。

私たちは1949年にニューオーリンズに来ました。私は英語が話せませんでした。毛皮屋に行くと、毛皮をくれて、ミシンを指さしました。私は縫いました。それから皮を伸ばすための枠を指差して、それができることを見せました。さらにナイフを手に取り、裁断ができることも見せました。初心者の時給は50セントだというのに、時給75セントで雇ってくれたのです。

私は50ドルでミシンを買い、仕事を受け始めました。その後、ハスペル兄弟の店に雇われ、主任になりました。そして2人の子供を育て、教育しました。28年後、フリーダと私は1978年にイスラエルへ最初の休暇に出かけました。

戦前、ワルシャワには37万5千人のユダヤ人が住んでいました。今そこに住んでいるのは5千人もいないでしょう。この話をすることは、私にとってとてもとても重要なことなのです。

<以上>

 

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ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

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「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

今回は前置きなしで早速。前回はこちら。このシリーズは必ず第一回目からお読みください。

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説2/20 強制収容所での生活、労働環境について。」と題された動画を論破する。

youtu.be

0:28/クリスタル・ナハト(水晶の夜)について詳しく語りたがらないのは何故?
1938年11月8日の暴動 「水晶の夜」の後、 ナチスユダヤ教徒を収容所に収容したのですが、その多くはすぐに釈放されました。 その後、ナチスはヨーロッパからユダヤ教徒 を「一掃」すること。 すなわち、「ユダヤ間題の最終解決」を計画しました。

クリスタル・ナハトの解説をもっとちゃんとやれ! ……とまでは言わないけれど、ユダヤ人」を強制収容所に入れた後すぐ釈放した、としか書かない意図は何なのでしょうね? 安直にWikipediaから引用しようかとも思いましたが、文責がはっきりしている米国ホロコースト記念博物館のサイトであるホロコースト百科事典から引用します。強調は私自身によるものです。

クリスタル・ナハトは、「水晶の夜」(破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のように光っていたことから)とも呼ばれるこの事件は、1938年11月9日と10日に起こった凶悪な反ユダヤ主義暴動を指しています。

<中略>

この暴動は、主にナチ党員とSA(Sturmabteilungen: 直訳すると「突撃部隊」で、ストーム・トゥルーパーとしても知られている)の構成員、そしてヒトラー・ユーゲントによって扇動されました。

この事件の直後に、ドイツ当局はクリスタル・ナハト がエルンスト・フォム・ラートの暗殺に対する市民感情の自発的爆発によるものであったとの声明を発表しました。フォム・ラートは、パリのドイツ大使館に配置されていた書記官でした。この大使館員が、ヘルシェル・グリンシュパン(17才のポーランドユダヤ人)により1938年11月7日に銃撃されました。事件の数日前、ドイツ当局によりドイツ在住の何千人ものポーランドユダヤ人が帝国から追放されました。グリンシュパンは、1911年からドイツに住んでいた両親もその中に含まれていたということを知りました。

グリンシュパンの両親を含む追放されたポーランドユダヤ人は、自らの出生地であるポーランドへの入国も拒否されました。彼らは、ポーランドとドイツの国境地域にあるズボンシンの町の近くの難民キャンプにとどまることを余儀なくされました。パリで不法滞在をしていたグリンシュパンは、自身と家族の惨状に絶望して復讐を試みました。ドイツ大使館を訪れて、応対したこの大使館員を銃で撃ったのでした。

フォム・ラートは、1938年11月9日、銃撃の2日後に死亡しました。その日は、偶然にも1923年のミュンヘン一揆記念日(国家社会党員にとって重要な日)と重なっていました。祝賀行事のためにミュンヘンに集合していたナチ党の指導者は、この機会を反ユダヤ主義の暴動を発動するきっかけとして利用することにしました。クリスタル・ナハト大暴動の主な扇動者である国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、召集されたナチ党員に世界中のユダヤ人が暗殺を企んでいると吹聴しました。「総統は、…この暴動は党により準備された、あるいは組織されたものであってはならないが、自発的に噴出したものである場合には、それを妨げるものではないとの判断を下している。」と告げました。

11月9日~10日

ゲッベルスの発言は、明らかに暴力の行使を容認する命令であると解されました。この発言の後、集結した各管区の指導者たちはそれぞれの部署に指令を出しました。11月9日の晩から翌10日の早朝にかけて、帝国各地で暴力行為が勃発しました。保安警察(Sicherheitspolizei)長官ラインハルト・ハイドリヒは、11月10日午前1時20分に州警察の本部および各署と管轄地区のSA指導者へ暴動に関する指令を含んだ緊急電報を送りました。全ドイツおよび統合地域のSA、そしてヒトラー・ユーゲントにより、ユダヤ人が所有する家や商店が破壊されました。この暴動が「大衆による怒りによる蜂起」であるという呈をなすため、部隊の構成員の多くは一般市民の服を着用していました。

自然発生的暴挙であり、帝国中の各地で発生した局所的事件であることを装ってはいましたが、ハイドリヒが伝えた中央からの命令には詳細に渡る指示が含まれていました。曰く、「この『自然発生的な』暴徒は、非ユダヤ系ドイツ人の生命または資産に危害を加える行為を為さないこと」、「外国人(ユダヤ人であっても外国籍の者)には暴行を加えないこと」、そしてユダヤ人コミュニティのシナゴーグ及びその他の所有物を破壊する前にすべてのシナゴーグアーカイブ(文書、資料、記録)を撤去し親衛隊情報部(SD)へと移送すること」。また、「警察当局は各地の刑務所に収容できる限りできるだけ多くのユダヤ人(望ましくは若く健康な男性)を逮捕すべきこと」も指令に含まれていました

シナゴーグ及び建築物の破壊
暴徒により、ドイツ、オーストリアとスデーデン地方で267のシナゴーグが破壊されました。地元市民や消防隊の眼前で、多くのシナゴーグが夜通し焼き払われました。消防隊には、近くの建物に延焼が及びそうなときのみ介入するよう命令が出ていたのです。SA及び国中のヒトラー・ユーゲント構成員により、ユダヤ人が所有する推定約7,500軒もの商店のショーウィンドウが粉砕され、その商品が略奪されました。また、多くの地域でユダヤ人墓地が冒涜の対象となりました。

暴動は、ドイツ帝国内の2大ユダヤ人コミュニティ、べルリンとウィーンで特に壊滅的であったことが明らかになりました。SAの暴徒たちは、街を徘徊して家屋内のユダヤ人を攻撃したり、道で出会ったユダヤ人に公衆の面前で辱めたりしました。中央からの指令には殺害は含まれませんでしたが、クリスタル・ナハトの11月9日~10日の間に少なくとも91人のユダヤ人の命が奪われました。この時期の警察記録では、強姦と暴動後の自殺の件数が大幅に増加しました。
<以下略>

グリンシュパンの事件を、ナチスが利用して水晶の夜暴動を引き起こし、ユダヤ人殺害命令こそ確認できないものの、少なくとも91人のユダヤ人が殺されているのです。クリスタル・ナハトはホロコーストに至るまでの経緯の中で重要な転換点とされています。これを契機に、一気に反ユダヤ主義政策は過激化していったからです。もちろん、加藤はホロコースト否定論者ですから、そうした説明に利用されないよう、クリスタル・ナハトの詳細な解説をしたがらず、むしろナチスユダヤ人に対して穏便だった、と視聴者を誤解させておきたい気持ちはわからなくはありません。

何せ今回の動画はそのために作られているのですからね(笑)

 

1:08/ユダヤ人移住計画の話を長々とするのは修正主義者の特徴のひとつではあるが……

ちょっと長くなりますが、動画からテキストを引用します。

 ドイツ国家元帥ヘルマン・ゲーリングは、 ラインハルト・ハイドリヒに、「あらゆる手段でユダヤ教徒の移住を推進すること」を目標とする 「ユダヤ移住中央国家局」の設置を委任しました※。
 しかし、戦争が進展し、ドイツの支配圏が拡大すると、必然的にポーランド、フランスなどの地域にいた大量のユダヤ教徒も、ドイツの支配圏内に入ったのです。

※Nuremberg document NG-2586-A

 1940年6月24日、ハイドリヒは「領域的解決を拡張することが必要である」 とドイツ外務大臣だったリッベントロップに伝えたのです。

NG-2586-J

 そして、外務省はこの指示にこたえ、ドイツの支配圏内の全ユダヤ教徒マダガスカルに移住させることを目指す「マダガスカル計画」を立案しました。

Magnus Brechtken, Madagaskar fur die Juden.
Antisemitische Idee und politische Praxis 1885-1945,
Studien zur Zeitgeschichte, vol. 53, 2nd ed.,
Oldenbourg, Munich 1998; Hans Jansen,
Der Madagaskar- Plan. Die beabsichtigte Deportation der europaischen Juden nach Madagaskar, Herbig,
Munich 1997; cf. the review by Ingrid Weckert,
"Madagaskar fur die Juden," VffG 3(2) (1999),
pp. 219-21.

 ここで、思わず耳を疑った人もいたのではないでしょうか。 まるで、トンデモ陰謀論の ような話に聞こえるかもしれません。しかし、これは、疑いようの無い歴史的事実なのです。当時、マダガスカルはフランスの植民地でした。 その為、フランスがドイツに降伏した後はこのマダガスカル計画はフランスとの「交渉の対象」となったのです。

 1941年7月31日 「ユダヤ問題の最終解決」がゲーリングの指令によって導入されました。

NG-2586-E. PS-710

<後略>

加藤が「思わず耳を疑った人もいたのではないでしょうか」と書くように、マダガスカル計画等、確かにホロコーストに無知な人は知らないかもしれませんが、ホロコーストに至るまでの経緯に関する知識が多少あればそんなの当然知っていることでしかありません。

ナチスドイツはユダヤ人の処置については、ユダヤ人自身の意思によるドイツからの出国政策では多くのユダヤ人をドイツから追い出すことができなかった上に他国への侵攻に伴ってさらなる大勢のユダヤ人を抱え込むことになってしまったので、ユダヤ人の強制移送計画を考慮するようになり、一旦はポーランド占領時にそのポーランド各所にゲットーを作ってそこへユダヤ人を集中的に詰め込み(ゲットー化)、さらにはそこからどこか遠くへ強制移送する、その一つがアイデアとしてはナチスドイツが考えるよりずっと前からあった、マダガスカル島へ移住させるという計画を考えるようになっていったのです。

芝健介氏の『ホロコースト』(中公文庫)によると、マダガスカル計画自体は1885年からあり(ポール・ド・ラガルト)、他にもドイツと同じくらい反ユダヤ主義政策の強かったポーランド外務省でも検討されていました(1937年にはマダガスカル島の現地調査までしていたそうです)し、他でも考慮されていたくらいでした。とにかく、欧州の多くの国で当時は反ユダヤ主義が蔓延っていたからです。忌々しいユダヤ人などマダガスカル島へ追い出してしまえ!ってわけです。

こんなことは、ホロコーストを学んでいる人にとっては初学者ですら常識的な知識にすぎません。だからこそ、無知な視聴者を狙ってホロコースト否定論の洗脳を行いたいとしか思えない加藤のような輩の主張に引っかからないように、まずはちゃんとしたホロコーストの勉強をすべきなのです。加藤は明らかにホロコーストに無知な視聴者に狙いを定めているとしか思えません。

ところでこれはちょっと余談ですが、上の引用中の赤い、参照文献を示すテキストのうち、「Magnus Brechtken」で始まる数行の記述が実際にはどこにあるかというと、ここにあります。

ゲルマー・ルドルフの『ホロコースト講義』を歴史修正主義研究会が日本語公開しているものです。加藤が「孫引き」ばかりしていることは以前にすでに述べているのでそれはいいとして、その末尾の「pp. 219-21」は歴史修正主義研究会版の誤りそのままで、「pp. 219-221」が正解です。本当に加藤は実際の参照先から文献名をコピペしかしてないことがバレバレなのです。しかし、こんな小細工で、「一次資料を使ってるから正しいっぽい」と誤解させることができるのですから、効果的ではあったかもしれませんけどね(笑)

 

さて、動画は初歩的な説明が続くので、少し飛ばします。

11:41/ナチスドイツが強制収容所の囚人の死亡率を下げるような指示を出していた話は別に不思議でもなんでもないのだが……。

 このように、 収容所の囚人は、ナチスにとって貴重な労働力でした。
 しかしながら、初期の収容所では死亡率が非常に高かったようです。 その要因が劣悪な栄養状態であることは全ての研究者で意見の一致があります。
 そこで、ナチスは収容所の労働条件の改善を図りました。1942年12月28日、 強制収容所監督官グリュクスは19※の収容所の所長に次のような指令を出しています。

※より正確には、15の強制収容所 (ナチヴァイラー、ダッハウザクセンハウゼン、ブッヘンヴァルト、グーゼン、 シュトゥットホフ、フロッセンビュルク、 ラーフェンスブリュック、ノイエンガムメ、ニーダーハーゲン、アウシュヴィッツ、ヘルツォーゲンブッシュ、 ルブリン) と2つの「特別収容所」 (SS特別収容所ヒンツァート、SS特別収容所モリンゲン)、 2つの懲罰施設(シュトラウビヒ監獄、 ダンツィヒ/マツカウ監獄収容所)

「収容所の医師団は、自分たちの持っているあらゆる手段を使って、収容所での死亡率が かなり低くなるようにするであろう。 … 収容所の医師は、以前よりも注意深く、囚人の栄養状態に配慮し、 収容所長の行政的措置に対応しながら、改善策を提案すべきである。こうしたことは、紙の上だけではなく、収容所の医師団によって定期的に監察されるべきである。・・・ SS全国指導者は、収容所の死亡率を是が非でも低くするように命令している」

NO-1523.

 事実、これらの改善策によって以降の8ヶ月で収容所の死亡率は80%も下がったとされます。

PS-1469.

もう指摘はいいかなと思いつつ、一応言っておくと、赤で示されている「※より正確には、15の強制収容所〜」の部分はこちらの脚注36をコピペしたものです。文章の多くもこのグラーフの論文から適当に使っているのでしょう。

さて、ナチスドイツによるユダヤ人の絶滅方針は、労働力にならないユダヤ人はすぐ殺す、労働力になるユダヤ人は使い倒して殺す、でした。あのアンネ・フランクアウシュヴィッツに到着してすぐ殺されなかったのは、彼女は当時15歳であり、労働を可能とする基準年齢が概ね14歳程度だったので、労働力とみなされたからです。こうした方針は、ユダヤ人絶滅の始まった頃とされる1941年6月22日の独ソ戦開始以降、しばらくの間はなかったようなのですが、当時は戦時下ですから、ナチスドイツとしては主に軍需面で労働力が必要だったため、強制労働力としてすぐに利用できるユダヤ人を使うのは必然的な流れでした。ナチスドイツは思うがままにユダヤ人を迫害していたからです。有名なヴァンゼー会議の議事録にもこう書いてあります。(註:加藤がこの議事録を捏造と考えているのは以降の動画にありますが、それを私が再反論するかどうかはこれを書いている時点では未定です。捏造疑惑への反論自体はこちらにあります)

適切な指導のもと、最終的な解決の過程で、ユダヤ人は東部での適切な労働に割り当てられることになっている。体力のあるユダヤ人は、性別によって分けられ、道路工事のために大規模な労働力としてこれらの地域に連れて行かれるが、この活動の過程で、間違いなく大部分のユダヤ人は自然消滅する。最終的に残る可能性のあるものは、間違いなく最も抵抗力のある部分で構成されるので、それなりの扱いを受けなければならない。なぜならば、それは自然淘汰の産物であり、解放されれば、新たなユダヤ人の復活の種として機能するからである(歴史の経験を参照)。

ここに書かれた道路工事については、実際には計画はあったものの実行されなかったと聞き及びますが、「体力のある」ユダヤ人を労働に使う方針を明確にしつつ、それ以外のユダヤ人への言及が一切ないことは非常に示唆的なものです。

さて、ヴァンゼー会議の主催者であったラインハルト・ハイドリヒは、1941年7月31日付で、ヘルマン・ゲーリングからユダヤ人問題の最終解決に関する全権を委任されていました。ハイドリヒは、国家保安本部(RSHA)長官であり、その権限はユダヤ人問題を解決することであっても、強制収容所で労働力となった囚人のユダヤ人を管理する権限はありませんでした。これらの労働力となる囚人を管理したのは、国家保安本部に遅れて設置された経済管理本部(WVHA)の方(強制収容所総監リヒャルト・グリュックスの管轄)でした。このRSHAとWVHAの関係は、単純に言えば、ユダヤ人囚人に関しては対立する関係にあったのです。RSHAはユダヤ人を絶滅させる目的でアウシュヴィッツに移送しているのに、WVHAはアウシュヴィッツで一旦囚人として登録されたユダヤ人に対しては、労働力確保の観点から無闇に殺すな!、だったのです。ですから、ホロコーストの否定を主張する人の多くがこれを「矛盾している!ユダヤ人を絶滅させるというのに生かせ!と言うのはおかしいではないか!」と文句言うのですが、実際に矛盾していたのだから仕方ありません。したがって上の引用で示されているグリュックスからの指示も当たり前でしかありません。しかし、これもまたホロコーストをちょっと勉強するだけですぐわかる話なのです。

ところで、上で示されている「事実、これらの改善策によって以降の8ヶ月で収容所の死亡率は80%も下がった」は本当なのでしょうか? このPS-1469はハーバード大学のプロジェクトの一つとして実施されているニュルンベルク裁判に提出されたドキュメント資料の公開プロジェクト公開されています。

以前この文書を解読しようと試みたことがあるのですが、印字が掠れていてうまく読み取れないこともあり、一体どこに80%も死亡率を低下させたと書いてあるのか、判然としませんでした。PS-1469は修正主義者が好んで使う文書であることは知っていますが、なぜか修正主義者もこの文書自身をテキスト抽出さえしてくれません。英語に得意な方、解読していただけないでしょうか?

しかし、英語が苦手な私ですら、PS-1469に「ユダヤ人(Jews)」の記述がないことはわかります。修正主義者にとって、問題はユダヤ人の死亡率なのではないのでしょうか? 強制収容所の囚人は全てユダヤ人だったわけではありません。アウシュヴィッツですらも、比率こそ存じませんが、囚人の全てがユダヤ人というわけではありませんでした。アウシュヴィッツの囚人の中にはドイツ人でさえいたのです。

いずれにしても、強制収容所の囚人労働力は加藤の言う通り、貴重だったのは確かであり、むやみやたらに死なれてもナチスドイツにとっては困るのですから、死亡率を低下させる必要もあったのでしょう。但しそれは、強制収容所に囚人登録された囚人についてのみの話であり、絶滅収容所で囚人登録もされずにすぐ殺されたユダヤ人にはなんの関係もない話であったことは忘れてはいけません。特にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は強制収容所でありかつ絶滅収容所でもあったのです。

 

13:02/それって信用できるの?……って言いたくなる情報の紹介。

次に紹介するのは、1998年にマウトハウゼン収容所で発見された資料です。
囚人に与えられる一週間分の食料の規定量が記されています。これは、全収容所に共通に適用されました。

John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos 試訳: 航空写真と矛盾している12の 「目撃証言」 ジョン・ボール歴史的修正主義研究会試訳 より引用

<中略>

これによって、肉体労働者の一日の摂取カ ロリーは合計 2709 kcalとなり、身長175 cmの人間にとっては、まずまず十分な摂取カロリーとなります。また、興味深いことに、カロリーが全くない疑似コーヒーが、純粋な嗜好品として配給されています。

※他の期間の数字
41/8/1-42/5/14    2981kcal
42/5/15-44/4/27   2786kcal
44/4/28~45/2/28   2703kcal
45/3/1~      1967kcal
参考資料
ソフィア先生の逆転裁判 part13

この数字が表向きだけの物でなかった証拠としては、戦時中収容所に出入りしていた国際赤十字による調査結果があります。書籍からの引用ですが、「1943年から 1944年の間で、 重労働者は最低でも一日に2750キロカロリーを摂取していた」とあり、先ほどの数字とほぼ一致しています。

Did Six Million Really Die? Richard E Harwood The Red Cross Report, examined below, demonstrates conclusively that throughout the war the camps were well administered. The working inmates received a daily ration even throughout 1943 and 1944 of not less than 2, 750 calories, which was more than double the average civilian ration in occupied Germany in the years after 1945.

え〜、まずマウトハウゼンの食料の規定量についての文書ですが、これ、よくわかりません。元ネタとしては、上に記されている通り歴史修正主義研究会のサイトにあるのです(註:余談ですが、「孫引き」をする加藤も流石に引用元である歴史修正主義研究会が、食料規定量の文書の参照先をジョン・ボールのサイトとしか示しておらず、そこにも「そもそもの出典先」が書いてないのでそれを示せないのが笑えます)が、その翻訳元になっているジョン・ボールのサイトはもう存在していません。webアーカイブにはあるにはあるのですが、作り方が古い「ホームページ」のためか、どこをどう見たら良いのかよくわかりません(数個のアーカイブを試しましたが、うまく閲覧することができませんでした)。ジョン・ボールって誰なの?と思われる方は、以下を参考にしてください。そこに含まれている別の記事も出来ればご覧ください。こんな奴信用できるの?……っていう。

note.com

でもまぁ、そんな文書はあったのだとしておきましょう。さすがに、修正主義者だからと言って当時の文書資料を偽造まではしないでしょう。とは言え、どういった類いの文書なのかその内容がわからないため、実際のところ論評のしようがありません。一応、ネット上で同文書を探してはいるのですが、今のところ未発見です。

加藤はそんなことはお構いなく、言うまでもなく孫引きの状態で上のようなことを書いているわけですが、参考にしているソフィアのページ(そもそも、ソフィアのページの著者って誰なのでしょうか? 「お前はどうやねん?」ってのはさておくとしてw)ですらも、ソフィアのページの著者自身が行ったカロリー計算について「こんな素人が計算したようなデータが、信頼に値すると本気で思っているのか?」と自分自身で突っ込むほどなのです。

で、加藤は、そのソフィアのページで引用されている、ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』の文章をそのままそっくりコピペ(ほんのわずかに編集はされているが)しているだけなのに、加藤は「書籍からの引用」などと平然と嘘をつき、またしても孫引きしているだけ、という具合なのです。

ではそのハーウッド本の記述(戦時中収容所に出入りしていた国際赤十字による調査結果<中略>重労働者は最低でも一日に2750キロカロリーを摂取)は正しいのでしょうか? 

いいえ、ハーウッドの嘘です。

まず、ハーウッド本のその該当箇所には、何の脚注指定もなく、どこを見てそんなことを書いているのかはさっぱりわかりません。ハーウッド本が出鱈目だらけであることは、私自身の他、Holocaust Controversiesの執筆者やデボラ・リップシュタットなどが暴いています。

note.com

これらを読めばわかる通り、当時の国際赤十字委員会はナチス強制収容所の実態など把握していませんでした。赤十字は戦争末期にほんのわずかな強制収容所に入れただけで、それ以外、強制収容所に出入りなと出来なかったのです。アウシュヴィッツにも行きはしましたが、収容所内は入らせてもらえず事実上門前払いでした。それ故、強制収容所内の労働者の摂取カロリー量など赤十字にわかるわけありません。

故に、こんな連中を信頼する方がおかしいのであって、上でリンク紹介しているソフィアのページにある冒頭のアウシュヴィッツ博物館の説明の方がよっぽど信頼できると考えるのが常識的判断です。私は実態はもっと酷かったということを、証言を翻訳していて知っています。

note.com

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館サイトによる2023年8月現在の説明は以下のとおりです。

栄養
囚人たちは1日3食を与えられた。朝は、半分のリットルの「コーヒー」、つまり沸騰したお湯に穀物ベースのコーヒーの代用品を加えたもの、あるいは「紅茶」(ハーブティー)しか飲まなかった。これらの飲料はたいてい無糖だった。昼の食事は約1リットルのスープで、主な材料はジャガイモ、ルタバガ、少量のグロート、ライ麦粉、アボ食品エキスであった。スープはおいしくなく、新しく収容された囚人たちは、しばしば食べることができなかったか、嫌々ながらしか食べることができなかった。夕食は約300グラムの黒パンに、約25グラムのソーセージ、マーガリン、大さじ1杯のマーマレードやチーズが添えられた。夕方に出されたパンは、翌朝の必要量をまかなうためのものであったが、飢えた囚人たちはたいてい一度に全部食べてしまった。これらの食事の栄養価の低さには注意が必要である。

栄養不足と過酷な労働の組み合わせは、生体の破壊を助長し、脂肪、筋肉量、内臓組織の貯蔵を徐々に使い果たしていった。その結果、やせ細り、飢餓病となり、収容所ではかなりの数の死者が出た。飢餓病に苦しむ囚人は「ムゼルマン」と呼ばれ、ガス室の選別の犠牲者になりやすかった

収容所当局が食料小包の受け取りを許可した1942年後半には、囚人の栄養状態はある程度改善された。しかし、ユダヤ人とソ連兵捕虜はこの特権を共有できなかった

ナチス強制収容所におけるユダヤ人の扱いが酷かったことは、少し調べるだけで誰でもすぐにわかる話です。あるいは、強制収容所以外でもユダヤ人たちは無理やりゲットーに押し込まれていたことを否定する修正主義者は流石にいないでしょう。それらゲットーの実態はどうだったのでしょうか? ほんのわずかに頭を働かせるだけで、こんな下らない嘘に騙されることはないのです。

ポーランドワルシャワ、ゲットーの舗道で飢餓に苦しむ子供たち。
提供:ヤド・ヴァシェム(写真はこちらから)

そして続けて加藤は、強制収容所の食料事情等はそんなに悪くなかったかのように色々と資料を列挙し、Wikipediaにあるアウシュヴィッツの説明の中に食料事情が酷かったと書かれていたことを示した上で、次のように述べていたので、私は思わず吹き出してしまいました。

Wikiの内容が、常に間違っているとまでは言えないでしょうが、注意が必要だと一般に言われるのは、こういうことがあるからなのです。

 

どの口でそんなことを言ってるんだ?」と(笑)

 

 重要なポイントなので、あえて繰り返します。 ナチスは、収容所での死亡率を下げ、 労働環境を改善することが、 軍需工場の生産効率を上げるために必要不可欠だと考えていました。
 それを裏付ける、非常に貴重な資料がアウ シュヴィッツ博物館に所蔵されています。

 次に紹介するのは、1943年10月26日、SS 経済管理中央本部長オズヴァルト・ポールが全ての強制収容所長に送った回覧状です。少し長いですが、全文を読み上げます。

Archiwum Muzeum Stutthof, 1-1b-8, S. 53 ff. Julij 19
Carlo Mattogno Healthcare in Auschwitz: Medical Care and Special Treatment of Registered Inmates. p298 より引用

 ドイツの軍需産業の分野では、過去2年間に実行された改善努力のおかげで、強制収容所は戦争の中で決定的に重要となった。われわれは無から、比類の無い兵器工場を建設してきた。今、われわれは 全力を傾けて、すでに達成されている生産レベルを維持するだけではなく、それをさらに改善しなくてはならない。そのことは、作業場や工場が今のまま残っているかぎり、囚人の労働力を維持し、高めることによってのみ可能であろう。再教育政策が採用されていた初期の時期には、囚人が有益な仕事をするかどうかは問題とならなかった。しかし今では、囚人の労働能力は重要であり、収容所長、連絡所長、医師団のすべての権限は囚人の健康と効率を維持するために拡大されるべきである。偽りの同情からではなく、われわれは囚人たちの手足を必要としているからである。囚人たちはドイツ民族の偉大なる勝利に貢献しなくてはならないのだから、われわれは心から囚人の福祉に配慮しなくてはならない。私は、病気のために労働できない囚人を10%以下に抑えることを第一の目標としたい。責任ある部署にいる人々は、一丸となってこの目標を達成すべきである。それには以下のことが必要であろう。

1)   適切な栄養供給

2)   適切な衣服供給

3)   すべての自然保健措置の利用

4)   仕事の実行には必要ではない作業をさけること

5)   報奨の奨励

私は、本書簡の中に繰り返し記述されている措置の監督に個人的な責任を負うつもりである。

紹介されているオズワルド・ポールの文章が実際にはこちらにあるのは別に良いとして、オズワルド・ポールは経済管理本部(WVHA)の長官(本部長)ですから、すでに述べた通り、強制収容所の囚人を管理する側の人間であり、その長なのですから、こんなの当然なのです。従って、「ナチス、収容所での死亡率を下げ、 労働環境を改善することが」の主語はナチスではあっても、より正確には「経済管理本部」なのです。これについては繰り返し説明するよりは、ヘスの自伝から引用しましょう。

 ユダヤ人担当官─アイヒマンとギュンターは、じつにはっきりしていた。一九四一年夏のヒムラーの命令にもとづき、全ユダヤ人が虐殺されねばならぬことになった。国家保安本部は、ポールの提案により、ヒムラーが働けるユダヤ人の選別を命じたとき、はげしく異議を申し立てた。
 国家保安本部は、つねに、ユダヤ人を一人残らず抹殺することだけを眼目とし、新しい労働収容所で何千という働けるユダヤ人が、解放される恐れがあるとし、何らかの事情で生き残らぬものでもないと考えたのである。どの関係係官でも、国家保安本 部とユダヤ人担当官ほどに、ユダヤ人の死亡率の上昇に関心をよせた者はない。
 それにたいしてポールは、出来るだけ多くの抑留者を軍需配置につかせるようにと ヒムラーの委託をうけていた。従って、彼はできるだけ多数の抑留者の調達、それゆえまた虐殺のための移送ときめられたユダヤ人の中からも、なるべく多く働ける者をえらび出すことに最大の価値をおいた。彼はまた、たとえ効果は少なくとも、こ れら労働力の維持に最大の価値をおいた。
 つまり、国家保安本部と経済行政本部とは、まったく正反対の見解に立ったのである。しかし、ポールの方が強いように見えた。というのは、彼の後ろには、ヒムラー が立ち彼はまた、総統にたいする約束にせまられて軍需用抑留者を要求して、火がついたように責めたてたからである。
 他面、ヒムラーは、できるだけ多くのユダヤ人を抹殺することも望んでいた。一九 四一年、ポールが強制収容所部門を受けもって以来、ユダヤ人は、ヒムラーの軍需計 画に編入されていた。戦争がきびしくなるにつれて、ヒムラーは、いよいよはげしく 抑留者の配置転換を要求した。しかし、抑留者の大部分は、東部にあり、しかも後には、ユダヤ人になった。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社学術文庫、2019、pp.330-331

このように、強制収容所におけるユダヤ人の扱いについては、実際に矛盾していたことがわかると思います。ところが、修正主義者たちは、国家保安本部側のことは極力語らずに、経済管理本部側のことばかりを目立たせようとするのですね。

 

19:33/ホロコースト否定論の定番:アウシュヴィッツのプール、など。

アウシュヴィッツのプールの話は、その件だけで記事をすでに作成してあります。

holocaust-denial.hateblo.jp

この話題は、他にもサッカーなどの遊興競技、アウシュヴィッツの楽団、図書館、労働クーポンの話(ユダヤ人はもらえなかった)、福祉相談、結婚、出産、アウシュヴィッツの子供、子供の遊び場、などの話が続きます。これらを概ね扱っている反論記事は以下になります。

note.com

なお、23:15くらいからある「囚人釈放」の話には、ユダヤ人の存在は確認できません

ともかく、この手の話は、要するに徹底的に印象操作して、アウシュヴィッツのイメージを反転させようってだけの魂胆は見え見えなわけです。中でも酷いなと思ったのは以下の話です。

note.com

ネットで否定派とやり合ってて、この話が出てきたので、このページを示したら、相手は、3000件の出産があったのは本人の話だから信用できるが、乳児が殺されたり死んだりしたことを本人は確認していないだろうから信用しない、とまで言われて、呆れたものです。

結局、ホロコースト否定は本質は信仰なのだと思うしかありません。それを信じたいがため、否定派はプールの類の話に固執するのです。こちらは、アウシュヴィッツにプールがあろうとも、そこでユダヤ人絶滅が行われていたことは史実として疑いないものと思っています。信仰ではなく、単純に事実は事実として認めるべきだと考えるからです。もちろん、否定派から言わせれば、私の方が信仰に見えるでしょう。「(プールなどの話を)ここまで言われてもまだホロコーストを信じるの?」ってわけです。しかし、プールがあろうとも、そこでユダヤ人絶滅が行われていたことは論理的な矛盾は何もないのです。そして、ユダヤ人絶滅には十分過ぎるほど証拠があります。その上で、否定派は嘘ばかりついていることも知っています。これでいったいどうやって、ホロコーストなどなかった(あるいはそんなに酷くなかった)と信じろというのでしょうか?

 

今回は以上です。今回も14,000文字まで来てしまったし(笑)

 

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ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(1)

ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

 

ホロコースト論争」動画シリーズについて。

非常にめんどくさいので、放置していた件なのですが、この動画シリーズをご存知の方もおられるかと思います。

www.youtube.com

www.nicovideo.jp

YouTubeニコニコ動画以外にもあるかもしれませんが、YouTubeの方は動画がいくつか削除されてしまっています。通報があったのか、Youtubeが自動的に削除したのかは知りませんが、ニコニコの方は全部あるようです。ニコニコ動画ホロコースト否定動画を規制していないので、この人の動画以外にもホロコースト否定動画はそこそこあります。

この動画シリーズの作者さんのお名前は「加藤継志」とされていますが、実名かどうかはわかりません。何冊か本も出しておられますが、その著者名が「加藤継志」なのです。この記事内では、「ホロコースト論争」チャンネルの主催者を「加藤」と呼ぶことにします。

しかしこの本は、国立国会図書館にも納本されておらず(国会図書館に納本しないのは違法ですが、およそ8割程度の納本率だそうです。当然ですが全国の図書館にどこにもありませんので、読みたいのなら買って読むしかありません)、Amazon以外には古本屋にある程度で、流通もしていません。出版社を調べてみると面白いかも知れませんが、それはここでは話題にしません。ちなみに、西岡昌紀の『アウシュヴィッツガス室」の真実』の再販本もその出版社から出ています。

さて、私が2019年頃、この動画シリーズの存在を知ったことも、ホロコースト否定論に本格的に取り組むきっかけの一つになっています。その頃は私自身、ホロコースト否定論の細かい内容をほとんど知らず、歴史修正主義を単に嫌っておりましたので、「とっくに論破されているのに、何を今更……」程度にしか思っていませんでした。

それで、2020年頃だったか、動画シリーズにいくつかコメントを書いてみたのですが、あまりに私が反感を込め過ぎたコメントをしてしまったせいなのか、動画主曰く「荒らし」かと思われて、非表示(コメントした本人にはわからない事実上のブロック)措置を取られてしまいました。今から思えば、当時の私は知識が初心者すぎて、実際のところはその頃は加藤氏の方が知識が私を遥かに上回っており、適当にあしらわれた気がします。

しかし、加藤氏からの返事がないのが気になって別アカウントをわざわざ取って確認したら、私が非表示にされていることがわかったので、それがまた私にしてみれば腹が立って、いずれ徹底的に論破してやろうとさえ思ってはいたのです。

 

――が、それにはちょっと問題があったのです。

 

この動画、一本あたりの視聴時間が30分程度と、やたら長く、数十分に上るものも複数あり、動画と言っても下から上に流れるテキストが主体であり、それをいちいち読まないと内容が掴めないのです。機械音声のアナウンスや背景音楽は眠いだけなので消音すればいいし、倍速で視聴すれば半分の時間で済むのですけれど、それでも全部で20本もありますので、全部見終えるまで5時間もかかりますし、5時間の相当の時間がかかりそうなので、そのような長時間視聴は苦痛です。見ようとチャレンジしたことは何回もあるのですけど、必ず途中で眠たく😴なってしまうのでした(笑)

また、もっと大きな問題があって、動画なので、テキストコピペができないのです。無理やりやろうと思えば、一旦停止して自分で読み取って手入力するか、Googleレンズでも使ってスクショからテキストを取り込むかすればできなくはありませんが、いずれも面倒です。テキストコピーは、ググって情報検索するには必須なのです。また、普通のネットサイトならば、その記事の中を検索したいワードで検索するのは簡単ですが、動画ではそれも出来ません。

したがって、倍速だろうとなんだろうと、動画をじっと見続けなければならないのです。これが非常にめんどくさいので、ずっと放置してきたのです。内容自体は、少し見るだけで欧米の否定論の寄せ集めに過ぎない程度はわかっていたので、欧米の否定論それ自体をHolocaust ControversiesPHDN(THHP)などを翻訳しながら学ぶ方が先決だろうと考えました。ホロコースト否定議論の必須文献であるプレサック本の全翻訳も、第一の目的は内容を学ぶことだったからです。

holocaust.hatenadiary.com

でも、いずれは論破してしまいたいと思ってはいたので、対抗の動画シリーズの作成こそ私には全く動画作成スキルがないので今の所無理ですが、テキストベースなら出来ますし、まだまだ知らないことも多いので全部は無理としても、いくつかは論破できるくらいには知見はあると思いますので、今回から不定期に論破シリーズを始めたいと思います。

さて、それでは本論に入りますが、その前に、この最初の動画の公開日はYouTube上では2018年のようですが、そこから約5年、チャンネル登録者は6770人(2023年8月10日現在)となっていますが、数年前の記憶からすると全然増えていないようです。興味深いのは、この動画チャンネルの最大視聴回数動画は(初回のホロコースト否定動画を除くと)本題のホロコースト否定ではなく、アイヌ問題の動画だったりします。なぜそうなっているのか理由はよくわかりません。私自身は今のところアイヌには無関心なので動画の内容も興味がなく見ていません。


「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説1/20 イントロダクション&アウシュヴィッツの「ガス室」に関するとある事実について。」と題された動画を論破する。

youtu.be

さて、動画を相手にするのには、ブログのようなテキストサイトを使う場合、スクショを取って、批判していくと言うやり方もありますが、それだと記事がスクショ画像だらけになってしまって見難いかもと思ったので、スクショは必要に応じて最低限度とし、動画の中の時間と、対応するテキストを引用していくやり方を取ります。

 

1:25/慰安婦問題への軽々しい言及
それでは、「慰安婦の強制連行」 についてはどうでしょうか? 韓国ならば、 みんなが 「あった」 と信じて疑っていません。しかし、実際には事実無根の捏造であることがはっきりしています。

追記:日本のネット上でホロコースト否定に賛同する人のうち、おそらく100%の人が「慰安婦問題」に関し、いわゆる「否定派」であることは間違い無いと思っています。従って、そうした人たちは以下に私が記述した内容を読めば「鼻で笑う」でしょう。私は確かに慰安婦問題については、コアな論争内容はほぼ知らないど素人と言っていいでしょう(私は今のところ慰安婦問題に首を突っ込む程度で、深入りする気はありません。私より詳しい人はいくらでもいるので私が関わる必要はないだろうと思っています)。しかし以下に述べる内容は、あくまで加藤の認識が極めて「薄っぺらい」ことを指摘しているだけであって、慰安問題に関しての否定も肯定も関係ありません。


慰安婦問題は長年にわたって、日本と韓国の間の大きな歴史認識問題であり続けていますが、私自身はあまり知らない領域の話だったりします。が、「韓国ならば、みんなが「あった」と信じて疑っていません」も「事実無根の捏造」も妥当ではないことくらいはわかります。

日本人の保守右派が主張している「強制連行」は「吉田清治」に代表される軍による強制連行のようですが、韓国の挺身隊研究会の定義では「詐欺または、暴行、脅迫、権力乱用、その他一切の強制手段」としているようであり、これは日本の歴史学者である吉見義明氏の考えに沿ったものです。この考え方は一般に「広義の強制連行」と言われるものであり、本人の意思に反しているのであればそれを強制だとする考え方なのであって、本人の意思に反していたこと自体は何も否定されていないので、捏造とすらも言えません。(「慰安婦の強制連行」問題についてはWikipediaを参照)

慰安婦問題はこの後にもチラッと出てきますが。ここで取り扱う議題ではないのでこれ以上は述べません。しかしこうした記述は加藤の認識が非常に薄っぺらいものであることを示していると思います。

 

3:04/ガス室の設計時期なんてほとんどの人が知らないわけだが。

加藤は、自分の動画を初めて見る人がホロコーストにほとんど無知なことを意識して、「ホロコーストは事実として証明されていると思っていませんか?」のように問いかけた後、以下のように述べます。

「ビルケナウの焼却棟のいわゆるガス室は、 初めから殺人用に計画、設計された物でしょうか? それとも死体安置室として計画されたものが、 完成間近で改造された物でしょうか? 後者だとすれば、その変更の時期は何年の何月ごろでしょうか? これについてどのような見解を持っていますか?」

加藤が意識する無知な視聴者がそのようなことがわかるわけがありませんが、聴衆が無知なのを利用して講演者がそれらの聴衆の意識を引き付けるテクニックの一つとしてよく用いられる手法ではあると思います。加藤は上の引用のすぐ後に「え?」というテキストを表示させていますが、加藤はまさにそうなることを狙ったのでしょう。この手法は悪用にも善用にも普通に使われるので、それ自体は悪いことでもありません。

しかしながら、ビルケナウの「焼却棟」の「ガス室」は最初から設計計画されたものではなかったことは、よほど詳しい人でなければ知らないことです。多分、興味がなければ歴史学者だって知らない人もいると思います。そんなこと知らなくとも、歴史的事実としてアウシュヴィッツではたくさんのユダヤ人らがガス室で殺されたことは確定しているので、修正主義者以外にとってはなんの問題でもありません。

ところが、修正主義者にとっては「殺人ガス室はなかった」のです。ガス室だとされているところは図面には「死体安置室」とし書かれていなかったのであって、プレサックがその主著である『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』で暴いたような、焼却棟の建設中に計画変更が行われて、焼却棟に計画されていた死体安置室の一つが殺人ガス室に変わったことなど、なかったのです。従って、修正主義者にとっては非常に重要な設問ではあるのです。

なお、加藤の設問の回答は、

ビルケナウの焼却棟のいわゆるガス室は、 初めから殺人用に計画、設計されたものではなく、当初は死体安置室として計画されたものが、 完成数ヶ月前に計画変更されたものです。その変更時期は諸説ありますが、少なくとも図面2003の日付となっている1943年12月19日までの時期です。

となります。計画変更の理由は、アウシュヴィッツ司令官であったルドルフ・ヘスの自伝を読むと、以下のように書かれています。

 さて、戸外での最初の屍体焼却の時、すでにこのやり方は、長く続けられないことが明らかになった。悪天候や風の強い時など、焼却の匂いはあたり数キロにひろがり、周辺の住民全部が、党や行政当局の反対宣伝にもかかわらず、ユダヤ人焼却のことを話題にしたからである

 一方、この虐殺作戦に加わった全てのSS隊員は事態について沈黙を守るよう、特に厳しく義務づけられていた。しかし、後のSS法廷での審理でも示されたことだが、関係者はこれに関し沈黙を守らなかった。重い処罰も、このおしゃべりを封じることはできなかった。

 さらに、防空隊も、夜陰にも空中で見えるこの火に対して抗議を申し入れてきた。しかし、つぎつぎ到着する移送者をとどこおらせぬためには夜も焼却をつづけねばならなかった。輸送計画会議で、交通省によって正確にきめられた輸送計画は、関係路線の渋滞と混乱をさけるためにも(特に軍事的理由からして)、無条件に厳守されねばならなかった。

 こうした理由で、全力をあげて計画を推進する一方、結局、大きな火葬場が二つ建てられ、ついでは一九四三年にはそれより小規模のもう二つが追加された。さらに後になって、規模の点では既存のものを遥かに凌ぐような火葬場が一つ計画されたが、これはもはや実現の運びに至らなかった。というのは、一九四四年秋、ヒムラーユダヤ人虐殺の即時中止を命令したからである。

具体的には、1942年の春頃からビルケナウの敷地外にある農家を改造した2箇所(最初は1箇所)の「ブンカー」でユダヤ人のガス室での大量絶滅が始められていたのですが、最初はそれらの死体は付近に穴を掘って埋めていただけだったのを、ヒムラーの命令により再度掘り起こして全て焼却することになったのです。その野外焼却が上記の通り問題を引き起こしたので、1942年8月ごろからビルケナウで建設の始まっていた焼却棟で、遺体の焼却を行う方針に変更され、と同時に1941年秋からアウシュヴィッツの主収容所の焼却棟ではその死体安置室をガス室として利用していたのと同じように、ビルケナウの焼却棟でも同様に死体安置室をガス室として利用することになったのは自然な流れでした。

ヘスの上記引用内の書き方では、ブンカーの後でビルケナウの焼却棟が計画されたようにも読めてしまいますが、事実はそうではなく、プレサックが膨大な資料から読み解いたように、建設途上で計画変更されたものなのです。(註:プレサック説が完全に正しいとも言えないと私は考えますが、それはかなり細かい話なのでここでは述べません)

holocaust.hatenadiary.com

このように、かなり資料を読まないと、加藤の設問がわかるわけありません。それなりにアウシュヴィッツのことを知っている人でもかなりの人が、ビルケナウの焼却棟は最初からガス室併設の焼却棟を建てる計画だった、と誤解しているようです。例えば以下の記事でも誤解している人がいることがわかります。

note.com

 

5:21/ホロコーストの「検証」という否定派の主張

皆さんは、ホロコーストの検証は、外国では法律で禁じられているものだという認識を 持っていないでしょうか。
しかし、それはホロコーストに関して広まっている大きな誤解の一つです。
ホロコーストの検証は、今も昔も、世界のどこの国でも、一切法律で禁じられたことはありません。

これは単なる私の意見ですが、誤解しているのか意図的に無視しているのかは知りませんが、修正主義者が「法律で検証が禁止されている」などと主張するのは、自分達のホロコースト否定の主張を「歴史学者がやっているのと同じ純粋な検証である」などと歪曲したことを言っているにすぎません。これが広まって、「検証が法律で禁止されている」になっているだけなのです。しかし、こちらにあるような明らかに悪意のある風刺画が流布される世界のどこが検証なのでしょうか?

 

12:43/参照文献の「孫引き」

私がまず、この動画で「こりゃダメだ」と思ったのがこれです。この動画の評価を見ると、しばしば「一次資料に基づいている」などと言っている人がいるのですが、普通に言われる「一次資料」が意味するものは、例えば当時の文書史料それそのもの、とまでは言わなくとも、その当時の文書史料を掲載している書籍などを意味します。例えば私が「ヘスの自伝にはこう書いてある」と言ったときに示される資料は、アウシュヴィッツ博物館が保管しているヘス自伝の原稿そのものではなく、講談社学術文庫の日本語版のことです(当たり前)。

従って、大事なことは、著者自身が実際には何を見ているのか?なのです。ですから、私が引用するときに、文献名を記述する場合は必ず、ヘスの自伝なら私が実際に所有している講談社学術文庫版の何ページかを付記します。前述の例では、引用はリンクで示すにとどめてありますが、それはそのリンク先が私自身のものであり、そこにはちゃんと講談社学術文庫版のものであることを示しているからです。

ところが加藤が上で赤で示している文献名は、加藤が実際に見ているものではありません。例えば、上に示された赤の「テロップ」は、こちらにあります。短いので全部引用する(小文字化しました)と、

3.5.6 文書資料的証拠

L(聴衆):トレブリンカでは囚人は死ななかったのですか?

R(ルドルフ):もちろん、死にました。例えば、1943年秋、懲罰労働収容所でチフスが流行し始め、1943年11月12日から12月12日のあいだに、148名の囚人がチフスで死んでいます[1]。ウカシキエヴィチもこの犠牲者たちの埋葬地を発見しています。

 

L:SSはこれらの死体を焼却しようとはしなかったのですね?

R:そのとおりです。

 

L:大量殺戮説を立証する文書資料的証拠にはどのようなものがあるのですか?

R:トレブリンカについての現存の文書資料は非常に少ないのです。巨大な絶滅行為の土台となる計画、組織、資材の調達、人員、予算などの文書資料はまったくないのです。まったくないのです。

 トレブリンカへの移送については、一連の文書資料が残っていますが、それとても、「疎開」とか東部地区への「再定住」と述べているだけです。

 

L:それは、殺戮のカモフラージュ言語なのではないですか?

R:ホロコースト正史はそう考えています。この時期、ユダヤ人に何が起ったのかについて、カナダのメインストリームの教授Eugene Kulischerは、興味深い人口学的研究を上梓しています。クーリッシャーは、詳しい研究調査の中で、多くの権威ある国際組織――そのすべてが第三帝国に敵意を持っていました――が提供するデータに依拠しています。クーリッシャーの結論はこうです[2]。

 

ポーランドのゲットーは、ユダヤ民族の強制的東方移住の最終段階ではなかった。1941年11月20日、総督ハンス・フランクは、ポーランドユダヤ人は最終的にはもっと東方に移されると放送した。1942年夏以降、ドイツ占領下の東部地区のゲットーと労働収容所が、ポーランドと西ヨーロッパ・中央ヨーロッパからの移送者の目的地となった。とくに、ワルシャワ・ゲットーからの大量の移送が報告されている。多くの移送者はロシア戦線に近い労働収容所に送られた。その他は、ピンスクの湿地帯、バルト諸国、ベラルーシウクライナのゲットーに労働者として送られた。」

 

 クーリッシャーは絶滅収容所についてはひとことも述べていません。

 

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[1] Photocopy of this document in S. Wojtczak, op. cit. (note 634), pp. 159-164.

[2] E. Kulischer, The Displacement of Population in Europe. Published by the International Labour Office, Montreal 1943, pp. 110f.

これを一般に「孫引き」と呼びまして、学術論文なんかでは孫引きはやっちゃダメと言われています。例えば、以下のように言われていたりします。

孫引きとは、原典を直接引用せずに、他の論文や書籍で引用された文章をそのまま用いることを意味します。

論文やレポートで引用する文献は、基本的に必ず元の論文を自分の目で確認しなければなりません。引用の中には、引用者が意図的に文章を一部変えてわかりやすくしていたり、引用時に間違えているケースがあります。その場合、孫引きをするとそのまま自分も間違えた情報を載せてしまうことになるんです。

文章に限らず、文献や図表も原典にあたらず引用した場合には孫引きとなります。

なお孫引きが後日発覚した場合には、論文と書いた人の信頼性は大きく低下し、責任問題に発展することもあります。現に、以下の記事で実例を示していますが孫引きで社会的信用を落としたり職を解かれた研究者は過去にいます。気を付けましょう。
こちらから引用)

大事なことは、一次資料に直接当たることではなくって、二次資料を用いているのならば、著者自身が参照している二次資料を示す必要があることなのです。ネット上から得た情報であるならば、そのURLを示すことは必須なのです。ところが加藤は、例えば、動画の三回目ではこんな風に示しているのです。

加藤が、ダヌータ・チェヒの『アウシュヴィッツ・カレンダー』を直接参照したわけがありません。これは、こちら脚注番号24を単にテキストコピーしただけのものであり、完全に孫引きです。歴史修正主義研究会のサイトがマットーニョの『アウシュヴィッツ:伝説の終焉』を日本語訳したものですから、孫引きの孫引きです。

このように、この動画では出典の示し方が極めて杜撰であり、これを検証しようとする物好きな私などからすると、調べるのが大変です。いちいち、動画内からスクショを撮るなりして参照文献名のテキストをコピーして、ググらないといけません(ただ単純にググればいいというわけでもありません)。

欧米の歴史修正主義者の論文には、一般の学術論文のように脚注が多数あって、参照文献等もたくさん示されていることが多いですが、これは「真面目な体裁を装う」ためだと言われています。しかしそれでも、この動画のように「孫引き」で示すような杜撰なことはしていないと思います。ところがどういうわけか、ホロコースト論争の動画の他にも、日本の修正主義者は出典の示し方について、かなり杜撰なケースが目立ちます。以前にそれで西岡昌紀氏に怒ったことがあります。

note.com

出典をきちんと示す意義は、著者が何を根拠にしてそのように記述したのかを読者に明確にするためです。それにより、読者はその記述を読者自身で確かめることを可能とします。出典を示すことは、その記述を「もっともらしい」と思わせるために装飾することではありません。こんなこと私がわざわざここで書かなくとも、常識レベルの話です。

何故出典の示し方をきちんとしたやり方にしないのか、理由は分かりませんが、次に示すようにもっと意味不明なものもあります。

追記:細かいことを言えば、加藤の場合、正確な意味では孫引きですらありません。加藤が実際に直接参照した文献について、「文章をそのまま用い」ておらず、出典名の盗用か、あるいは「孫参照」とでも呼ぶべきかと思われます。しかし「出典名の盗用」では意味が分かりにくいし、「孫参照」なる言葉はないので、加藤の動画への言及上は以降全て「孫引き」と呼んでいます。

12:54/意味のないアーカイブの略記の説明

ソースは、 研究書からの引用や文書資料などです。 各種文書は、ロシア、ポーランド、 ドイツなどの文書館に所蔵されていたものです。
略記の意味は以下の通りです。

AGK→Archiwum Głównej Komisji Badania Zbrodni Przeciwko Narodowi Polskiemu Instytutu Pamieci Narodowej,Warschau.
APK→ Archiwum Państwowe w Katowicach
APMO→Archiwum Państwowego Muzeum
<以下省略>

最初の「Instytutu Pamieci Narodowej」とは、ポーランドの公的機関である「国家追悼研究所」(この訳し方が正しいのかどうかは存じません)のことで、「Archiwum Głównej Komisji Badania Zbrodni Przeciwko Narodowi Polskiemu」とは、「ポーランド民族に対する犯罪調査委員会の文書館」です。以下、続く略称の意味も同様の文書館などを意味しますが、もちろん加藤がこれらの文書館に直接訪問して資料収集したわけもありません。

要するに、前述したように、加藤は歴史修正主義研究会などのネットサイトから脚注テキストをコピペしたので、そのテキストの中に書かれている「AGK」などの略称の意味をそれっぽくここで表示させているだけなのです。しかし加藤のやっていることは述べた通り「孫引き」なので、ほとんど無意味です。繰り返しますが、大事なことは、当時の資料を示すのであれば、その資料を加藤自身がどこで拾ってきたのかを示すことです。それが出来ていないと言わざるを得ないので、不正な孫引きという他はありません。

 

15:55/「ナチスドイツが敵視したのは「ユダヤ人」ではなく「ユダヤ教徒」」なる珍説とデタラメ。

 また、既にお気づきの方もいるでしょうが、 この動画シリーズでは、 「JEWS」 という英語に対して、特別な場合を除いては、一般に良く使われる ユダヤ人」ではなく、 「ユダヤ教徒 という訳語を使用することにします。
ユダヤ」は狭い意味での「民族」でも「人種」でもありません。

 事実、 1940年 大ラビのヴェイユもフランス国家元首に「人類学の研究により、ユダヤ人種のようなものは存在しないことが疑問の余地なく証明された」 と説明しています。Kaplan "French Jewry", American Jewish Year Book47(1945-46):89.

 ニュルンベルク法を読み解けば明らかなことですが、当時のナチスが敵視していたのは、ユダヤの「血統」ではなく、本質的には「信仰」でした

 よって、とりわけこのホロコーストという問題を扱う場合においては、「ユダヤ民族」や「ユダヤ人種」 という意味合いで受け取られてしまう「ユダヤ人」という表現よりは、「ユダヤ教徒」の方が適切だろうと判断いたしました。

真ん中あたりに書いてある、「人類学の研究により、ユダヤ人種のようなものは存在しないことが疑問の余地なく証明された」が本当はどこに書いてあったのかについては、加藤は前述の通り孫引きをするので、示されている文献名だとは思えませんが、単純にその文章でググっても分かりませんでした。そこには「Kaplan "French Jewry", American Jewish Year Book47(1945-46):89.」と書いてありますが、それはこれのことです。

FRENCH JEWRY UNDER THE OCCUPATION
Jacob Kaplan
The American Jewish Year Book, Vol. 47 (1945-46 / 5706), pp. 71-118 (48 pages)

とにかく、加藤はまたしても孫引きをしていると思われるので、この文献を直接は読んでいないと思います。ただ「89」とは書いてあるので、これはページ番号だと思い、その前後を翻訳したのが以下です。

公式の抗議
 フランスのユダヤ人は、可能な限り、反ユダヤ主義的措置、逮捕、虐殺に対して激しく、精力的に抗議した。
 1940年10月、ユダヤ人憲章が発布される前で、閣僚会議が発行したコミュニケがそのような憲章が準備中であることを示していたとき、フランスの大ラビであるイザヤ・シュワルツはペタン元帥との謁見を要求した。事務総長のブレカール将軍が元帥の名で大ラビを迎えた。フランス・ユダヤ人の精神的指導者は、クレミュー勅令の破棄と憲章の問題について彼と議論し、ユダヤ人の名において次のような覚書を手渡し、彼は、宗教や人種による市民の差別に抗議した。問題の法令が公表された10月22日、「フランスユダヤ人の名によるフランス大ラビの宣言」が国家元首と全閣僚に宛てて出された。この宣言には次のように記されている:

「この不名誉な法令をユダヤ人に課すことで、新法は彼らの悲しみを増大させるだけだ...ユダヤ人に対して公布された法律は、ユダヤ民族の恣意的な定義を含んでおり、彼らの良心の自由を最も深刻に侵害するものである。それにもかかわらず、ユダヤ人は自分たちが人種的マイノリティでも政治的マイノリティでもなく、単なる宗教的共同体であると宣言している。ユダヤ人は国際主義とアナキズムという悪名高い非難に抗議し、そして、祖国への愛を誇らしげに語る; さらに、戦友のそばで倒れたユダヤ人たちは、その事実を顕著に証明している」

 1941年3月と1943年2月の二度にわたって、フランスの大ラビはペタン元帥に謁見し、政府のユダヤ人排斥策に対する抗議を口頭で述べた。パリの大ラビ、ジュリアン・ヴァイルとパリ共同体もペタン元帥に書簡を送った。1940年10月23日付のこの通信には、次のような内容が記されていた:

「フランスの法律は、民族的な観点から進められているので、外見上は信教の自由を侵害するものではない。しかし、人類学の研究により、『ユダヤ民族』など存在しないことが疑いなく証明された。したがって、この法律の執行は、ドイツの条例の場合と同様に、宗教的根拠に基づいてのみ可能であり、したがって、フランスの伝統的な自由を重大に侵害するものである」

 ヴィシー政府の反ユダヤ政策が明らかになるにつれ、他の抗議行動も起こった。その多くは、フランスユダヤ人中央協議会会長ジャック・ヘルブロネルからのものであった。1941年7月1日付でペタン元帥に送られた彼の抗議文は、ユダヤ人憲章を修正する法律についてこう述べている:

「それにもかかわらず、フランスのユダヤ人は、迫害者に対する憎悪と軽蔑の自然な感情を抑えようとはせず、永遠のフランスの運命に対する信仰を守り、今日犯された法律に対する正当な復讐を遂げようとする」

総督府がフランス・ユダヤ人総同盟の設立計画を発表したとき、中央協議会は1941年10月26日、ペタン元帥、国防長官、ユダヤ人問題総局に宛てて、動議という形で厳粛な抗議を行った。
<後略>

ナチスドイツは、1939年9月1日、ポーランドに電撃的に侵攻して第二次世界大戦が勃発したのですが、1940年5月にはベネルクス三カ国に侵攻し、その後ドイツ軍はパリに無血入城、6月16日、フランスのポール・レノー内閣は総辞職、後継のフィリップ・ペタン元帥はドイツへの休戦を申し入れ、6月22日、コンピエーニュの森において独仏休戦協定が調印されました。

その後、首都をヴィシーとしたフランスの臨時政府であるヴィシー政権は、ナチスドイツに協力し、ユダヤ人を人種で定義してその権利を制限するStatut des Juifs(ユダヤ人規定)を制定、ドイツでやったのと同様にフランスのユダヤ人に対しても迫害が始まるのです。

加藤が全然わかっていないのは、加藤が引用した「人類学の研究により、ユダヤ人種のようなものは存在しないことが疑問の余地なく証明された」は、前後の文脈を読めば、フランスがユダヤ人を排斥しようとして定めた「Loi portant statut des Juifsユダヤ人の地位に関する法律)」を実行しようとすると、ユダヤ人は人種としては定義不能なので、ドイツのニュルンベルク法のように宗教に基づく定義を行なってユダヤ人排斥を行うしか方法がなく、それはフランスでは重要な信仰の自由を侵害することになってしまうと言っているのです。つまり、ドイツのユダヤ人政策に協力しようとするフランスのヴィシー政権の方針はあくまでもユダヤ人が人種であることが前提なのです。

ナチスドイツの方針がユダヤ人を人種としてみなしていないのであれば、わざわざその人種性を否定するこの抗議文は存在し得ず加藤の解釈とは真逆にこの文言はナチスドイツがユダヤ人を人種として見ていた証拠(こんなこと言うまでもないことなのですが)でもあるのです。いったい加藤は何を読んでそんなデタラメなことを言っているのでしょうか?(だからこそ孫引きはダメなのです)

私は加藤が、「ニュルンベルク法を読み解けば明らかなことですが、当時のナチスが敵視していたのは、ユダヤの「血統」ではなく、本質的には「信仰」でした」と書く意味が理解できません。普通に、当時のナチスドイツの政策を学べば、当時のナチスが敵視していたのはユダヤの「血統」です。だからこそ、純粋アーリア人であるドイツ人とユダヤ人の結婚を禁止したのです。しかし、フランスの大ラビの言う通り、ユダヤ人の定義を実際にしようとすると、祖父母が「ユダヤ教共同体」に属するという定義にするしか方法がなかったのです。Wikipediaのニュルンベルク法で示されているユダヤ人の定義を見ればそれは明らかです。

  • 4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体に所属している場合は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」[3][16][18]。
  • 4人の祖父母のうち2人がユダヤ教共同体に所属している場合は次のように分類する[3][16][18]。
  • ニュルンベルク法公布日時点・以降に本人がユダヤ教共同体に所属している者は、「完全ユダヤ人」
  • ニュルンベルク法公布日時点・以降にユダヤ人と結婚している者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
  • ニュルンベルク法公布日以降に結ばれたドイツ人とユダヤ人の婚姻で生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
  • 1936年7月31日以降にドイツ人とユダヤ人の婚外交渉によって生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
  • 上記のいずれにも該当しない者は、「第1級混血」(ドイツ人)
  • 4人の祖父母のうち1人がユダヤ教共同体に所属している者は、「第2級混血」(ドイツ人)[3][18][19]。

「本人の信仰を問わず」と書いてあるのに、どうして「信仰」が「本質的」になるのでしょうか? 本人の信仰を問わないのですから、「ユダヤ人」の意味するところが「ユダヤ教徒」であるわけがありません。

 

加藤が何故、ユダヤ人を人種としてではなく、教徒と考えたがるかの理由はよく分かりません。ナチスドイツは人種差別をしなかった、と言いたいのか。多分そうなのだろうと思われますが、定説的に言えば珍説としか言いようがないので、その解説だけでもっと詳しく動画を作るべきだったと思われます。欧米の修正主義者で加藤のようなことを言っている人は私は存じません。

 

18:09/ブンカーが一つでは計算が合ってないわけだが。

これはまぁ単純なミスだと思いますが、あるいは加藤が否定派だから「そんなものはなかった」と勝手に決めつけているだけだからかもしれませんが、加藤はこの直前で7つのガス室があったと言っているのですから、もう一つの「農家」を忘れてはいけません。下記図面の14番がそれです。

ホロコースト記念博物館サイトより

18:52/第一ガス室の観光者の入り口はそこではない。

これは完全に間違いです。以下の動画を見て貰えば分かります。

youtu.be

加藤はいったい何を見ていたのでしょうか? 実際に上の動画のような観光客撮影のものはYouTubeには昔から大量にありましたから確認は簡単だったはずです。加藤が示した図面上での入り口は、加藤自身が後で説明しているように、防空壕に改修した1944年に作られたものですし、そこからは原則としては観光者は出入りできません。勝手にそこから入ろうとする人は後を絶たないようですが。[2024年4月22日追記:これは私の勘違いで、加藤が図示した箇所からも観光客は入れるようです。ただし、加藤が図示している順路の出入り口は、防空壕に改修した時に作ったものであり、ガス室として使用していた時期には存在しなかったものです。

 

19:35/とっくの昔に否定されているのに繰り返される第一ガス室捏造説

実はこの「ガス室」は、戦後に作られた物なのです。

歴史修正主義者は、どんなに論破されても、同じ否定論を繰り返すだけなので仕方ありませんが、これもホロコースト否定論に興味がなければ今でも知らない人が多いとは思います。アンネの日記捏造論やその他の各種否定論もそうですけどね。ともかく、こちらのブログでも過去にこの話題についてはすでに説明しています。ホロコースト否定論を扱う場合、絶対に外せない話題でもありますので、しっかりお読みいただくことをお勧めします。初学者には若干わかりにくい部分があるかもしれませんが、重要なことは、修正主義者たちは実際には捏造の疑いを挟んでいるだけであって、何一つ捏造の証拠もなく、捏造の証明も一切されていないことです。

holocaust-denial.hateblo.jp

 

30:58/アウシュヴィッツ博物館は第一ガス室(焼却棟1)が戦後に再建されていたことを隠していたか。

つまり、博物館は問い詰められた結果真相を渋々明かしましたが、 そうでない限りは、 虚偽を説明し続けたのです。

アウシュヴィッツ主収容所の第一ガス室捏造疑惑については、上に示した本ブログの私自身の解説で尽きていると思いますが、修正主義者は絶対にガス室だけは認めたりはしないので、何がなんでも捏造だったと言い張ります。そのポイントとしてよく挙げられる一つの問題に、アウシュヴィッツ博物館は戦後の再建の事実を隠していた、あるいはずっとガス室のオリジナルのままだと説明していたが実際にはそうではあり得なかったので虚偽の説明をしていた!と攻め立てます。

しかし、案内係のアリシアの説明は間違ってはいましたが、彼女は「意図的に」虚偽の説明をしたのでしょうか? デヴィッド・コールのビデオに示されたのは、単にアリシアが事実とは異なった誤った説明をした事実があるだけです。以下の動画でそれを確認して見てください。

ゲッベルスの日記は捏造? 

前回から間が空いてしまいましたが、ブログの方は出来る限りオリジナルの自分の記事にして、noteの方は翻訳記事をメイン(それだけではありません)にする方針に固めようと思っています。が、早くもネタに詰まってしまいました(笑)

反論対象の記事か何かあれば、それをおかず的に扱って逐次反論していくスタイルでやれば割と簡単なのですが、以前に加藤一郎の記事でそれをやりましたが、日本人で否定論をオリジナル的に述べている人ってほとんどいないので、それをやると加藤一郎ばっかりになってしまいます。もちろん欧米の歴史修正主義者はいっぱいて、論文もいっぱいありますが、今度は一旦翻訳しなければならない手間が増えてしまい、知らないことも多いため、これもなかなか厄介な話です。

まー、焦らずに思いついた時に記事を起こすしかないかなと。と言うわけで今回は、小ネタです。それでも頑張って書いたら結構な長さになりました。しょーもないけど僅かに独自調査もあります。

 

ゲッベルスの日記は捏造?

1. ゲッベルスの日記の出所

ヨーゼフ・ゲッベルスと言えば、ナチスドイツの国民啓蒙宣伝大臣として有名ですが、彼はまめに日記をつけていたことでも知られています。一般に、日記は歴史史料として非常に価値があるものとされることが多く、その理由は日記は通常、その日のことはすぐに記録されるからであり、しかも当事者自身が書いていることもありますし、さらには日記は普通は公開を前提としないプライベート的な意味合いも大きいため、それだけにやばいことが真実味を持って書かれていると考えられることが多いのです。ゲッベルスナチスドイツの政権中枢にいて、しかもヒトラーの側近の一人ですから、ナチスドイツの真実を知る上でゲッベルスの日記は極めて重要な史料なのです。

ゲッベルスの日記は1926年からつけられていたそうですが、うち、政権を取った時期の日記については、ゲッベルス自身がまとめて、1939年に出版しています。では残りの部分についてはどうなったのでしょうか? 実は、日記の原本はちょっと特殊な経緯を経ることになります。英語版ウィキペディアから以下にその解説を紹介します。

1944年11月までに、ゲッペルスにとってドイツが戦争に負けることは明らかだった。彼は日記にこう書いている: 「この美しい世界はなんと遠く、異質に見えることだろう。内心では、私はすでにこの世界から去っている」第三帝国の崩壊を生き延びられそうにないことを悟った彼は、マイクロフィルムという新しい技術を使って、彼の日記を安全に保管するためにコピーするよう命令を下した[11]。ベルリン中心部にあるゲッベルスのアパートに特別な暗室が作られ、ゲッベルスの速記者リヒャルト・オッテが作業を監督した[12]。

ゲッペルスは死の数時間前、1945年5月1日の午後に日記に最後の書き込みをしたが、それは保存されていなかった[要出典]。最後の日記は1945年4月9日のものである。マイクロフィルム化された日記の入ったガラス板の箱は、1945年4月にベルリンのすぐ西にあるポツダムに送られ、そこで埋葬された。オリジナルの手書きとタイプされた日記は梱包され、帝国首相官邸に保管された<[13]。これらの一部は現存し、戦後、日記の一部(主に戦時中のもの)を出版する基礎となった。ポツダムにあったガラス板の箱はソ連に発見され、モスクワに運ばれたが、1992年7月にイギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングが匿名の情報源からその存在と場所を知らされ、発見するまで未開封のままだった。そのとき初めて、日記全文の公開が可能になったのである。

これによるとゲッベルスの日記として知られる原稿には3種類あって、

  1. マイクロフィルム化された原稿
  2. マイクロフィルム化された日記の入ったガラス板の箱
  3. 手書き及びタイプされた紙原稿

があることになります。一応、ドイツ語版Wikipediaも確認しておきましょう。

ゲッペルスは1923年10月以降、定期的に日記をつけており、手書きで6,000から7,000ページ、口述筆記で50,000ページに及ぶ。赤軍の侵攻後、ベルリン帝国総統府のこれらの所蔵品はバラバラになった: 断片から、1942年から43年、1925年から26年、1945年の日記の版が1946年[158]、1948年、[159]、1960年[160]、1977年[161]に作成された。日記全体の約3分の1は1969年にマイクロフィルムソ連からドイツ民主共和国東ドイツ)に届き、残りの大部分はその後帝国首相官邸の廃墟で発見されたが、1972年に連邦共和国(西ドイツ)に売却されるまで秘匿されていた。手書きの断片はすべて、エルケ・フレーリッヒが現代史研究所(IfZ)を代表して編集した『Die Tagebücher von Joseph Goebbels. Sämtliche Fragmente(ヨーゼフ・ゲッベルスの日記。すべての断片)』(1987年)である[162]。フレーリッヒは、日記の内容を確認するために、ゲッベルスの側近の人々にインタビューを行った。その中には、1987年2月5日に彼の恋人リーダ・バーロヴァー、1987年4月1日に彼の妹マリア・カタリーナ・キミッヒが含まれている[163]。
冷戦終結後の1992年、エルケ・フレーリッヒはモスクワの公文書館で、ヨーゼフ・ゲッペルスマイクロフィッシュ法の前段階として日記を保存していたガラス板を発見した。<後略>

ドイツ語版Wikipediaでも日記の原本は同じですね。

しかし、発見者がデヴィッド・アーヴィングじゃなくてエルケ・フレーリッヒになってますね。どっちが正しいのかまでは知りません。但し、アーヴィングがソ連からそのガラス板を勝手に持ち出した事実は、リップシュタット裁判で争点の一つとして出てきますので、アーヴィングが発見者の一人であったことは間違いなさそうです。

しかしその後、学術的資料として、ゲッベルスの残した膨大な量の日記を出版物に編纂したのはエルケ・フレーリッヒ(他)です。

 

2.ゲッベルスの日記には何が書いてあるの?

私自身はゲッベルスの日記を読んだことがあるだなんて到底言えないレベルしか知りませんが、ホロコーストに関し、否定派にとっては非常にまずい記述があることは知っています。有名な1942年3月27日の一説は以下のとおりです。

ユダヤ人は今、ルブリン付近から始まって、東の方にある総督府から押し出されている。ここではかなり野蛮な処置が行われており、これ以上詳しく説明することはできないし、ユダヤ人自体もあまり残っていない。一般的には、60%は清算しなければならず、40%しか働かせることができないという結論になるだろう。この行動を実行している元ウィーンのガウライター(グロボクニク)は、かなり慎重に、あまり目立たないような手順でやっている。

時期と内容から、これは明らかにラインハルト作戦のことです。つまり、どうにかして否定派にはこれらのまずい記述を否定する動機があると言うことになります。

 

3. ゲッベルスの日記を捏造と主張したツイッタラ

Twitter上では有名なホロコースト否定派のこれです。

この種の投稿を初めて見たのは2021年だったかと思うのですが、一体どういうことなのか調べたくなって、その付加されているリンクを踏んでみました。すると、確か今年(2023年)の4月頃に存在しなくなった、かつては有名なホロコースト否定論サイトだった「ソフィアの逆転裁判」がネタ元だったのです。Webアーカイブには保存されていますので、当該部分をスクショしましょう。

当該ツイッタラーは、これもまた有名な否定派の小冊子であるリチャード・ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』の主張をガチで信じている人なのですが、反修正主義者の間では、デタラメばかり書いてあることはよく知られています。私も自分自身で調べて呆れ果ててしまいました。

note.com

それはさておき、上のハーウッド本の引用文はなんと書いてあるかと言うと、

ブラウニングによれば、ゲッペルスは「覚書」を書いたのではなく、「日記」を書いたのだという。「ゲッペルスは強制労働の必要性を強調するのではなく、正反対のことを言った;例えば、1942年3月27日には、ユダヤ人の60%は清算され、40%は強制労働に使われなければならないと書いている。ブラウニングは、ゲッペルス日記の原本の信憑性を確認したことはなかったが、市販の印刷物を受け入れていたことを認めた。歴史家のウェーバーは、ゲッベルスの日記全体がタイプライターで書かれていたため、その信憑性には大きな疑問があったと証言している。そのため、真偽を確認する方法がなかった。アメリカ政府自身は、日記の正確性については一切責任を取らないと表明した: オリジナルの布装版には、「原稿の信憑性を保証するものでも、否認するものでもない」という米国政府の声明が含まれていた。ブラウニングは、セラフィム報告などの他の文書に依拠して、ドイツ人がユダヤ人を労働力として利用することを優先しなかったことを示した。歴史家ウェーバーはこの意見に反対した。彼の見解では、ユダヤ人はドイツ軍にとって貴重な労働力の供給源であり、ヒムラー自身が、強制収容所の収容者を戦争生産にできるだけ広く利用するように命じていた」。

ブラウニングとは、日本では『普通の人々: ホロコーストと第101警察予備大隊』で有名なホロコースト研究者のクリストファー・ブラウニングのことです。ウェーバーとは、かつてはホロコースト否定派の総本山だった歴史評論研究所(IHR)の所長であるマーク・ウェーバーのことです。但し、『600万人』の頃はまだIHRはありませんでした。

ところで、先に当該ツイッタラーの主張の中にある「正史においてもこの日記は偽書とされている」について述べておきましょう。答えは、そんな事実はありません、で済みます。すでに、エルケ・フレーリッヒによって日記全てが編纂されている、と示したとおりです。多くの歴史家がそれを利用しています。また後述しますが、実はマーク・ウェーバーでさえ本物だと認めているのです。

さて、「ソフィア」の著者は「アメリカ政府自身は、日記の正確性については一切責任を取らないと表明」だけでは、偽造とするには根拠が薄いと思ったのかもしれません。他の論拠をどうにかネット検索を駆使して探し出してきたようです。それがツイッタラーの書いている「その複製には「カチンの森は我が国ドイツの仕業」と書かれ」です。

追記:ちなみにこの「カチンの森」の記述を根拠にしたゲッベルス日記の捏造説は調べた限りでは日本のネット上でのオリジナルの説のようです。結構頑張って検索してみましたが、少なくとも英語で検索する限りではそんな議論は全く見つかりませんでした。

カチンの森事件は、ソ連崩壊の直前、当時のソ連共産党書記長であったゴルバチョフが実施していた、情報公開政策であるグラスノスチで、カチンの森事件ソ連の犯行であるとそれを証明する文書を唐突に出して世界を驚かせていたのです。それまではソ連カチンの森事件ナチスドイツの仕業だと主張していました。従って、カチンの森事件の真犯人はソ連であるとわかっているので、ゲッベルスの記述は事実に反していることになります、もし本当にそう書いてあったのなら。

 

4.ほんとにゲッベルスは「カチンはドイツの仕業」と日記に書いたの?

で、例示したソフィアのページのその下を読んでいくと、以下のような参考資料の引用があります。

参考資料:ゲッペルス日記 1943年9月29日
一九九二年十一月号『中央公論』より
(アドレス:www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/new_page_19.htm)
 ところが歴史はまわり、時代がかわり、ソ連が崩壊し、ソビエト時代のあらゆる秘密文書が外に流れ出した一九九二年七月のはじめに、モスクワのロシア国立公文書館で、ナチス・ドイツの宣伝相であったあのゲッペルスの自筆日記が発見された。ヨゼフ・ゲッペルスこそ「カチンの森」事件を最初に世界へ向かってスターリンの犯罪だ
と呼びかけた張本人だった。その本人の日記に驚くべきことが記されていた。そのいきさつについては一九九二年十一月号の『中央公論』に作家の逢坂剛氏が書いているが、ゲッペルス日記の一九四三年九月二十九日付にはつぎのように書いてあった。
「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の 一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」と。ゲッペルスは一九四三年四月段階では対外的にソビエト政府とスターリンの犯罪だと声明しつ つ、同年の九月の日記には「われわれが殺した事実」を認めつつ、このことがナチスヒトラーへはねかえってくることを心配しているのである。

ソフィアの著者はこれを見つけてきっと小躍りしたに違いありません(笑)。しかしまぁ、確かにそう書いてあるようには見えますが、その「アドレス」として示されたリンクはどうなのでしょう? ……と思って、Webアーカイブにあるそのページの冒頭を見て椅子からひっくり返りそうになりました。

少し読み進めるだけで眩暈がしそうな、スターリニストの共産主義者の主張が怒涛の如く続いています。「もっと他になかったの?」と思うところではありますが、このページから、「ゲッベルス」をよく間違えられる「ゲッペルス」に変更してテキスト検索すると……ありました。引用は上で済んでいますので再度は示しませんが、確かにそう書いてあります。

しかし、そこでさらに登場してくる小説家の逢坂剛氏がそんなことを書いたのは本当なの? がまだ未確認です。ええ、図書館行ってきました、わざわざそれだけのために(笑)


図書館で「コピーするまでもないな」と写真撮ってきただけだったのですけど、綴込みの部分がうまく撮れていないことに気づかず、失敗(笑)。しかし、確かにそう書いてありました。逢坂氏も、グラスノスチソ連の犯行説は確定しているのにこれは変だと「カチンの森の事件をナチス・ドイツの犯行と自認したのは、いったいどういうことなのだろうか。ゲッベルスの日記の全貌が明らかにな った今、ぜひ専門家のご意見を聞かせてほしいと思っている。」として首を捻っておられる様子です。

ただ、残念なことに、逢坂氏がいったいどのゲッベルスの日記資料を読んだのかまではこの記事には書いていなかったことです。

また、逢坂氏がその後、専門家の意見を聞いたのかどうかも定かではありません。この日記の記述部分に関する真相を確かめる方法はないのでしょうか? しかしゲッベルスの日記の当該部分を含む資料本は日本にはありません。一体どうすれば? 途方にくれるしかないのでしょうか?

……いえいえ真相を調べるのは意外と簡単でした。

 

5. 英語版ウィキペディアにあるカチンの森事件の解説から。

逢坂氏も早合点過ぎるか、あるいは逢坂氏が参照したであろうゲッベルス日記の資料をちゃんと読んでいないのではないか、と思われます。逢坂氏は同記事で、1992年以前からすでに出版されていた四つの日記本のうち、その二つが「邦訳されていない」と不満を漏らしておられます。その邦訳されていないうちの一つの記述期間が1942年1月21日〜1943年12月9日まで、とご自身で記述されているのです。これは、逢坂氏の示している日記の範囲が含まれています。

英語版ウィキペディアカチン虐殺に、同じくその範囲に含まれている別の日のゲッベルスの日記に以下のような記述があるのです。

カティンの虐殺はナチス・ドイツにとって有益であり、ナチス・ドイツソ連の信用を失墜させるためにこれを利用した。1943年4月14日、ゲッペルスは日記にこう書いた:

「我々は今、GPUに殺された1万2000人のポーランド人将校の発見を、反ボリシェヴィキ宣伝のために大々的に利用している。我々は中立のジャーナリストとポーランドの知識人を彼らが発見された場所に送った。現在、前方から我々に届いている彼らの報告はぞっとするようなものである。総統はまた、われわれがドイツのマスコミに思い切ったニュースを流すことを許可した。私は、宣伝材料を可能な限り広く利用するように指示した。我々は2、3週間はこれで生活できるだろう」[53]。

まず、この脚注53は何かというと、「Goebbels, Joseph; Translated by Lochner, Louis (1948). The Goebbels Diaries (1942–1943). Doubleday & Company.」とあり、これは逢坂氏が同記事で邦訳本がないと不満を漏らしているうちの一冊なのです。上の引用で強調した「GPU」とは何かと言いますと、日本語では「国家政治局」や「国家政治保安本部」と呼びまして、あのKGBの前身組織の一つなのです。つまり、ゲッベルスははっきりここでカチンはソ連がやったと言っているのです。多分ですけど、逢坂氏が見ていたのはこの本のはずなので、同じ日記の中で、一方ではソ連がやったと言い、一方ではドイツがやったと書いていること、先ずはそれ自体がすでに矛盾していると気づくべきだったのです。

そして、問題の箇所のゲッベルスの日記の記述です。逢坂氏はちゃんとその直後を読まないといけなかったのです。同じWikipediaの記述から。

ヨーゼフ・ゲッペルスは1943年9月、ドイツ軍がカティン地区から撤退しなければならないと知らされると、日記にある予測を書いた。1943年9月29日の日記にはこうある:

「残念ながら、我々はカティンをあきらめなければならない。ボリシェヴィキは間違いなく、我々が12,000人のポーランド人将校を射殺したことをすぐに「発見」するだろう。このエピソードは、将来、われわれをかなり苦しめることになるだろう。ソビエトは間違いなく、できるだけ多くの集団墓地を発見し、それを我々のせいにするつもりだろう。」[53]。

これでもまだ、事情をよく知らない人はわかりにくいかもしれないので解説すると、当時、ドイツがカチンの森ポーランド将校が大量に埋葬されていることを発見すると、これを世界中に大々的に報道します。ゲッベルスは宣伝大臣ですから、それがお仕事なわけです。

その宣伝目的を解説すると、先ず、ポーランド亡命政府がロンドンにあり、発覚する前から、ソ連に捕虜になっていて解放されたはずのポーランド将校が行方不明になっていることを訴えていたのです。もちろんソ連が捕虜にしたことはわかっているのですから、ソ連が大きな疑惑の対象でした。ソ連は当然知らんぷりです。満州の方向にでも行ったんじゃないか?とかすっとぼけていたようです。

そうした状況の中で、先にソ連が占領していたカチンの森地域を、独ソ戦開始とともに一気に占領したドイツは、1942年末か1943年初頭ごろ(時期については諸説あり)にそれら大量埋葬墓を発見したのです。そこで、それを聞きつけたゲッベルスは計略を思い立ちます。同英語版Wikipediaによると、

ヨーゼフ・ゲッベルスはこの発見を、ポーランド、西側連合国、ソビエト連邦の間にくさびを打ち込み、ボリシェヴィズムの恐怖とそれに対する米英の従属に関するナチスプロパガンダ路線を補強するための優れた道具と考えた[48]。 徹底的な準備の後、4月13日、ベルリン帝国司令官は、スモレンスク近郊のカティンの森でドイツ軍が次のものを発見したと世界に放送した。

とあります。要は、連合国であった米英とソ連の分断を図ろうということです。ポーランド亡命政府がロンドンにあったのですから、この発見により、亡命政府は激おこで、「ソ連なんか切れ!」とチャーチルに言ったとか言わなかったとか。しかしゲッベルスの目論見は外れます。連合国の最優先事項はナチスドイツを打破することにあったからです。

ソ連ソ連で、カチンの虐殺はドイツのでっち上げだとアピールし続けました。そして、カチンの森ソ連が取り返すと、ゲッベルスが上の日記のように予想したとおり、今度は逆に「カチンの森はやはりドイツの仕業だった!」と宣伝を行うに至るのです。

こうして、歴史事実に即して解釈するだけで、ゲッベルスの日記に書かれたそれは、何の不思議でもないものになるのです。専門家の解説があった方が良いに越したことはありませんが、カチンの森事件に関する独ソの当時の反応を学ぶだけで、ど素人でもすぐわかる話なのです。

 

6. IHRのマーク・ウェーバーも本物だと認めていた。

さて、そのマーク・ウェーバーは確かにツンデル裁判の証人として出廷した時に、ゲッベルス日記について、ハーウッド本の記述に従うようなことを述べたようなのですが、実は完全にゲッベルスの日記を本物だと認めているとしか読めない発言を行なっています。なんと、その論述はIHRのサイトに今もあるのです。それは以下で読めますが、この記事の本題は、マーク・ウェーバーが、ホロコースト否定は成功していないとして「ホロコースト修正主義は助けになるのと同じくらい邪魔になることが証明されている。」とまで述べて当時物議を醸していたことにあります。

note.com

この中で、ゲッベルスの日記から三つほど、肯定的に引用されています。

 

以上、「アメリカ政府自身は、日記の正確性については一切責任を取らないと表明した」ことなど、一部はっきりさせられなかったことはありますが、ゲッベルスの日記が捏造であった証拠などかけらもないことくらいはお分かりいただけるかと思います。

 

たった百文字と少しのツイート文章に、実質八千文字も費やさないと論証できない(手間も結構かかってる、図書館調べとかw)のがなんだか納得できないものもありますが、ファクトチェックはこればかりは致し方ありません。

アウシュヴィッツの火葬場とその火葬能力

アウシュヴィッツの火葬場の概要

アウシュヴィッツ収容所(アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所)に関する否定派の議論において重要な論点の一つに火葬場があります。何故重要な論点になるかと言えば、アウシュヴィッツでは現在、110万人が犠牲になったとされており、そのほとんどが火葬処理されたとされるから(但し、ソ連による開放時には600体程度の死体が収容所内にあったそうです。死因は知りません)です。否定派の目論見は、否定派自身の検証によって100万体を超えるような火葬能力はなかった、と結論づけることにより、アウシュヴィッツでの大量虐殺などあり得なかったと示すことにあります。それは果たして成功したのでしょうか?

しかしこの検証をさらに批判的に検証するには、当然ながら、アウシュヴィッツの火葬場に関する基礎的な内容を知っておく必要があります。その詳細についてはやはり、下記の文献を多少は流し読み程度でも読んでおくべきでしょう。この記事ではまずこれら資料を参考に概略的に解説していきます。

holocaust.hatenadiary.com

なお、最初に断っておきますが、本記事では野外火葬については述べません。しかし、アウシュヴィッツのトータルでの火葬能力を検討する場合、野外火葬について考慮することは避けられないことを知っておくべきではあります。野外火葬についてはいずれ別の記事を投稿予定です。

アウシュヴィッツ収容所地域の地図

アウシュヴィッツ収容所は複数の収容所からなる収容所群を形成しています。そのうちメインとなるのは、アウシュヴィッツ第一収容所(主収容所)、アウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ収容所)の二つです。規模から言えばこれに三つ目の第三収容所であるモノヴィッツ(ブナ)収容所を加えて説明されることが多いです。これらの大規模収容所区域の他に様々な目的で設置された小さな副収容所が50箇所程度あったそうです。

黄色で示される箇所が三つの主たる収容所の区画を示します。親衛隊は収容所区画だけを管理していたのではなく、これら地域を包括的に管理していました。したがって「アウシュヴィッツ」とだけ表現する場合、これら地域全体を指す場合があります。しかし、ホロコーストを主たるテーマとして論じる場合は、アウシュヴィッツ第一収容所及び第二収容所のみを語る場合がほとんどであり、私などは特に区別するために「アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所」と呼ぶ場合も多いです。特に、主たる絶滅の現場は地図上で一番左端のビルケナウ収容所であり、アウシュヴィッツ主収容所(第一収容所)は無関係とは言いませんが、主収容所でのガス処刑の犠牲者は一万人を超えないとされており、規模の点ではほとんど関係がありません。さらにビルケナウ収容所でのユダヤ人絶滅が本格化し出すと、主収容所のガス処刑及び火葬場の使用は順次中止されています。

アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅が始まったのはブンカー1(赤い小屋)、そしてブンカー2(白い小屋)。

ヘスの自伝(ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』)には、ヘスはヒムラーから、ヒトラー総統がユダヤ人問題の最終解決を命じたと聞かされ、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅の準備をアドルフ・アイヒマンと共に進めよと命令された、との下りがあります。否定派はこのヘスの証言内容には時期的な矛盾があることから偽証であると結論づけていますが、確かに証言を文字通り受け取るなら時期的に明確な矛盾はあります。「正史派」はこの時期の矛盾を、ヘスの記憶の混同・混乱と説明します。ヘスはこの時期のことを概ね5年後に語っているので、証言内容に時期的な矛盾があることは十分あり得ます。そうした問題があることを頭に入れた上で読まないといけませんが、ヘスはこう書いています。

 結局、この問題について、われわれは結論を出せぬままに終わった。アイヒマンは、簡単に作れてしかも特別な設備を必要としない様なガスを調査した上で、私に報せると言った。

 次に、われわれは、適当な場所を探すためあたりの地勢を見てまわった。我々はのちにビルケナウ第三分区となる北西の一角にある農場を適当と判断した。そこは引っ込んだ場所で、まわりの森や植え込みで見通しをさえぎられ、しかも鉄道線路からそう遠くない。

 屍体は、隣接する草原に深くて長い壕を掘って埋葬する。焼却という事はその時点でまだわれわれの念頭に浮かばなかった。われわれは、適当なガスを濃縮化すれば、そこに既存の屋内で、優に八〇〇人は殺害できると計算した。この計画は実際ぴったり合った。

 作戦開始の時点は、アイヒマンもまだ私にはっきりいえなかった。万事がまだ準備段階で、それにヒムラーもまだ命令を下していなかったからだ。

この話に一致する内容をアイヒマンも語っています。ただし、アイヒマンは実際には何度もアウシュヴィッツを訪問していたようで、ヘスよりもさらに記憶が混同・混乱しているようにも思えます。一度きりの訪問のように語っているからです。あと、ヘスは最も大きな火葬場である第2、あるいは第3火葬場のガス室には最大でも3000人が入る程度としか言っていないので、「一万人」はアイヒマンの誤解だと思います。

私が構内の視察に行ったとき、ヘースは車を用意してくれました。私はアウシュヴィッツのことをよく知らなかったので、彼も車で一緒に案内してくれました。司令部から離れて正門の前にきたとき、私はそれ以上中へ入ることはしませんでした。別に強制されることもありませんでした。それから、ある大きな建物の前を通過しました。それは工場のような建物で、巨大な煙突がそびえていました。ヘースは「ここには、一万人を入れることができる!」と言いました。ちょうど現場では、労働可能な人間と、労働不能者とが選別されていたところでした。私はガス室殺人の現場は見ませんでした。見ることができなかったんです。もし見ていたら、卒倒していたかもしれません。心の中では、あぁ、また逃げているな!と思いました。ついで、ヘースは巨大な溝のところへ案内しました。すごく大きな溝です、どの位か、ちょっと分かりませんが、一〇〇メートル位か、あるいは一五○から一八〇あったか。それから、大きな鉄の網がありました。その上で屍体を焼いていました。私は気分が悪くなりました。気分が悪くなって。
(ヨッヘン・フォン・ラング編、『アイヒマン調書』、岩波現代文庫、p.103)

特に「長い壕」「大きな溝」について、ヘスは「焼却という事はその時点でまだわれわれの念頭に浮かばなかった」と書いているのに、アイヒマンは焼却中の様子を述べているので一見矛盾しているように読めますが、この壕での焼却は後に行われているので、アイヒマンは自分は絶滅作戦の計画立案者でもなんでも無い、ただの傍観者だと印象付けたかったのでしょう。

いずれにしても、内容そのものは一致しており、決定的な矛盾は何もありません。ここでこれを紹介したのは、ヘスの記述によれば、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅については、最初はビルケナウ収容所の火葬場を使う計画はなかったことを知ってもらうためです。

時期ははっきりしないのですが、1942年の初春ごろに、このビルケナウ収容所の敷地外にある農家を改造してガス室を設置し、アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人絶滅が始まり、当初はその遺体を全て長い壕を掘ってそこに埋めていただけだったのです。この最初の農家を改造して作ったガス室のことを日本語では「ブンカー1」と呼びます。また「赤い小屋」とも呼びます。初夏ごろにはブンカー1から南へ500m程の敷地外に「ブンカー2(白い小屋)」も作られました。

このブンカーでは概ね10万人くらいの犠牲者が出たそうですが、最初は焼却するつもりもなく壕に埋めていただけだったものを、ヒムラーの命令で全焼却することになり、アイヒマンの言う通り、壕で焼却処分しています。この壕での野外焼却の煙と匂いが地域周辺に広がったりしてしまったことから、ビルケナウで建設中だった火葬場での焼却に変わっていくことになります。

なお、ブンカー1は1943年に使用が停止すると解体・撤去されましたが、ブンカー2は1943年に使用が停止しても解体されず、1944年5月から始まったハンガリーユダヤ人の絶滅作戦の時には再稼働されています。

アウシュヴィッツ主収容所の第1火葬場

話が前後しますが、アウシュビッツ第一収容所(主収容所)の火葬場(第1火葬場)はアウシュヴィッツ収容所が設立された1940年半ば、元はポーランド軍が弾薬庫として使用していた建物を利用して改築する形で作られます。こちらから図面を流用しますが、1940年11月にはこのように二つの炉室(マッフル、レトルトなどと呼ばれる)を持つ火葬炉が2基設置されていました。

したがって、炉室の数としては最初は4つあったことになります。この二つの炉室をもつ火葬炉を二重マッフル炉(ダブルマッフル炉)などと呼びます。二つの炉室を持つ意味は、炉室が繋がっているからで以下のようになっています。以下は、マウトハウゼン収容所の衛星収容所であるグーゼン収容所にあったダブルマッフル炉です。炉室の境界に二箇所穴が空いているのがわかるかと思います。

このように隣り合う炉室が内部で空間としては繋がっている構造になっているのは、熱を効率よく共有するためです。炉室の下にある扉は、そこから燃えた残骸を掻き出して回収する仕組みであり、そのため上の炉室内の底面は格子状になっていて、その隙間から燃え滓が下の灰皿に落ちるようになっているのです。このグーゼンの火葬炉はアウシュヴィッツの火葬炉と同じでコークスを燃料としていましたが、コークスの熱源は写真には写っていませんが背面下部にあります。そこからコークスを燃やして燃焼ガスを炉室内に行き渡らせる構造になっていました。

なお、当時、ナチスドイツの強制収容所に火葬炉を供給していたのは、トプフ・アンド・サンズ社とコリ社の2社ですが、アウシュヴィッツの火葬炉は全てトプフ社でした(一部例外はあります)。

第1火葬場の火葬炉は翌年末にかけてさらに一基が増設されて計3基、6マッフルとなっています。

第一火葬場は1943年7月頃、使用が終了しているそうで、1944年には火葬炉なども一旦は解体されて防空壕に改造さていたことこちらでも述べた通りです。

ビルケナウ収容所の火葬場

ビルケナウ収容所の火葬場が、アウシュヴィッツにおけるユダヤ人絶滅では議論の中心になります。この火葬場の設立経緯など詳しく説明することはここでは省きます。知っておかないといけない事柄としては、ビルケナウ収容所の火葬場は当初はユダヤ人絶滅とは無関係に計画されたものであることです。ただし、最初は第二火葬場だけだったはずの計画が、なぜか四つに増やされていることはユダヤ人絶滅とは無関係だったとは言い難いことも頭に入れておく必要があります。否定派の結論(意見)としては、1942年の夏にチフスが猛威を振るったから、とされているようです。1942年夏にチフスが猛威を振るったこと自体は事実のようです。但し、それでどれだけ犠牲者が実際にいたのかはまた別の話です。

第2・3火葬場

ビルケナウの四つの火葬場のうち、第2・3の二つの火葬場は、ビルケナウ敷地の南西の端に建築され、向かい合う形で鏡像構造として作られました。現在の航空写真を以下に示します。

第2火葬場は1943年3月に完成し、第3火葬場は同年6月に完成しています。現在は写真に見る通り、1945年1月のナチス親衛隊の撤退時にダイナマイトで爆破された状態となっていて建物は残っていません。この火葬場の火葬炉の配置は冒頭に示した写真の通りですが、図面だと以下のようになっています(第2火葬場)。

図面では五つの四角形が煙道に繋がるような構造になっていますが、一つ一つの火葬炉は第1火葬場の火葬炉が二重マッフル炉だったのに対し、第2・3火葬場では三重マッフル炉になっています。従って第2・3火葬場各々で15マッフルずつあったことになります。この三重マッフル炉では、マッフルは三つありますが、コークスを燃やす箇所は火葬炉の左右に二箇所しかありません。

第4・5火葬場

第4・5火葬場の位置はビルケナウの北西にあり航空写真では以下の通りです。

第4火葬場は1943年3月に稼働を開始し、第5火葬場は同年4月から稼働しました。この二つの火葬場も2・3火葬場同様、鏡像構造となっていて、以下の図面の右側にあるのが火葬炉になります。

火葬炉の構造ですが、但し細かい構造図や写真は残っていないようで、いくつかの図面や文書から推測するしかありません。元々はベラルーシ白ロシア)のモギリョフで使われることになっていた4重マッフル炉をアウシュヴィッツに転用したもので、これを二つ合わせて8重マッフル炉として使う構造になっています。

アウシュヴィッツの火葬炉の公式火葬能力

これについては、有名なヤニシュ書簡と呼ばれる、アウシュヴィッツ親衛隊建設部による公式文書が残されています。

文書の右上に記される日付は1943年6月28日となっていて、「現存する火葬場の24時間稼働性能」として、以下のように記述されています。

第1火葬場 340体
第2火葬場 1440体
第3火葬場 1440体
第4火葬場 768体
第5火葬場 768体
合計 4756体

この火葬能力に基づくと、これを1日の最大値と仮定した場合、アウシュヴィッツでの最大火葬総数の最大値はどのようになるか、簡単に計算してみましょう。計算しやすくするため、火葬場の稼働開始日については1943年6月1日より前は無視するとして、その日を稼働開始日とし、稼働終了日を1944年10月31日とすると、期間日数は518日となります。ユダヤ人絶滅の現場ではない第一火葬場を除くと、火葬能力日最大値は4416体となりますから、これをそのままかけると、2,287,488体、つまりおよそ230万体の遺体を火葬できる能力があったと計算されます。

実際の犠牲者数は、110万人とされていますから、これだけの人数を火葬するのには十分であったことがわかります。本来ならここで議論は終わりです。推定犠牲者数と当時の文書に記された火葬能力数値は矛盾していないからです。

もちろん、否定派は議論を終わらせたりしません。否定派の推定によると、もっと大幅に火葬能力は低かったとされ、親衛隊による上の文書は偽造なのだそうです。偽造者は不明ですが……。

ソ連の推定したアウシュヴィッツの火葬能力

アウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、アウシュヴィッツ収容所を現地調査し、USSR-008とナンバリングされたソ連戦争犯罪調査委員会による報告書を作成しています。この報告書では、ソ連が推定したアウシュヴィッツの犠牲者総数である400万人の算定根拠として、火葬能力値が挙げられています。報告書からその部分を以下に引用します。

400万人以上が殺害された。

ドイツ軍は撤退に先立ち、アウシュビッツで殺された人間の正確な数を全世界が知ることができる資料をすべて破棄し、アウシュビッツでの恐ろしい犯罪の痕跡を慎重に消し去ろうとしたのである。しかし、収容所内で彼らによって人間の生命を絶滅するために建てられた巨大な設備、赤軍によって解放されたアウシュヴィッツ収容者の証言、200人の目撃者の証言、発見された文書、その他の重要な証拠は、アウシュヴィッツ収容所で数百万の人間を絶滅、ガス処刑、火葬したドイツの虐殺者を有罪とするには十分である。52の火葬炉を持つ5つの火葬場だけで、ドイツ軍は、設置以来、以下の数の囚人を絶滅させることができた:

24ヶ月間存在した第1火葬場では、毎月9,000体を焼却することができたので、全期間を通じて合計216,000体を焼却できたことになる;

対応する数値は以下の通り:

- 第2火葬場:19ヶ月、9万体/月、総数171万体;

- 第3火葬場:18ヶ月、9万体/月、総数162万体;

- 第4火葬場:17ヶ月、4.5万体/月、総数76万5千体;

- 第5火葬場:18ヶ月、4.5万体/月。

5つの火葬場すべての火葬能力は、1カ月あたり279,000体で、全期間での総数5,121,000体という数字であった。

ドイツ軍はまた大量の死体を薪で火葬している(註:野外火葬のこと)ので、アウシュヴィッツの人間絶滅のための施設の能力は、この数字が示唆するよりも、実際にははるかに高いと考えなければならない。しかし、個々の火葬場がフル稼働していなかったかもしれないし、修理のために一部停止していたかもしれないことを考慮しても、技術委員会は、アウシュヴィッツ収容所が存在していた期間に、ドイツ人首謀者がソ連ポーランド、フランス、ユーゴスラビアチェコスロヴァキアルーマニアハンガリーブルガリア、オランダ、ベルギー、その他の国々の市民400万人を下らない数の人々を殺したと立証した。

アウシュヴィッツの犠牲者総数が400万人だったという説の根拠はここから生じたものだと推測できますが、この報告書に書かれた1日あたり約9000体の火葬能力の算定根拠は何も述べられていません。推測としては、アウシュヴィッツの囚人の生存者の何人かが自身の推定値として400万人と証言しているので、それに合わせて火葬能力をでっち上げただけではないかと思われます。

アウシュヴィッツ収容所の司令官だったルドルフ・ヘスニュルンベルク裁判でその犠牲者総数を250万人(+病死・餓死者50万人)と答えていますが、同時に250万人という数字の出所はアドルフ・アイヒマンであるとも述べており、ヘスは250万人を過大だと考えており、自身の推計値はどうやら150万人程度だったようです(ヘス自身は記録を取ることを許されていなかった。アウシュヴィッツの政治部は記録を取っていたようですがそれら文書資料は全て焼却処分されたと考えられます)。

しかし、ソ連の推定火葬能力は親衛隊の想定を倍近く上回っており、信用に値しないものだと考えられます。ついでに言えば、親衛隊の文書が偽造ならば、なぜソ連の報告書の半分しか能力がないのか? それもまた不自然です。ヘスもソ連の犠牲者総数を否定していますので、偽証とするのも変だと思われます。

15分で一体を火葬できた理由は複数遺体の同時装填だった。

親衛隊の文書によると、例えば第2火葬場では、日あたり1440体の火葬が可能だったとあります。第2火葬場の炉室数は5×3=15室なので、1室あたりで1日96体が火葬できたことになり、時間あたりにすると4体、つまり15分で1体を火葬できたことになります。しかしここで、火葬時間をGoogleに教えてもらうことにします。

火葬にかかる時間は幅がありますが、一般的な目安は1時間前後です。

Google検索で色々調べていると最も多いのがこの「1時間」で、火葬方法の違い(ロストル式)で35〜40分とするものもありましたが、15分は流石に見つかりません。したがって、安直な否定派式に言えば親衛隊の文書はウソだということになります。

しかし、アウシュヴィッツの火葬場には民間の一般火葬場とは異なる大きな使用上の違いがありました。民間の火葬場では一般に、火葬された遺体の遺灰・遺骨は遺族に返還されなければなりません。従って、一般的な火葬場では遺体の火葬は炉室への遺体装填〜火葬〜遺灰・遺骨回収まで一体ごとにしか出来ません。他人の遺体の遺灰・遺骨が混ざるなどあってはならないことだからです。アウシュヴィッツでも一応はドイツ人囚人の遺体の場合は遺族に返却していたようではありますが、ユダヤ人の場合は特にその必要はありませんでした。つまり、遺体を一体ごとに焼却処理する必要はなく、可能な範囲で複数の遺体をまとめて焼却処分することができたのです。ヘスの自伝には次のようにあります。

屍体は、すぐ特殊部隊の手で金歯を抜かれ、女は頭髪を切られる。次に、屍体は昇降機にのせられ、その間に熱してある上の階の炉にはこびこまれる。屍体は、その状熊に応じて、炉の各室に三人まで入れられた焼却時間は屍体の条件によって異なるが、平均二〇分である。
アウシュヴィッツ収容所』、p.409

詳細な証言を行ったことで知られるユダヤ人ゾンダーコマンドとして働いていたヘンリク・タウバーは第2火葬場での経験として、以下のように証言しています。

レトルトの内部には鉄の部品はなく、シャモット(耐火煉瓦)製の格子がついていました。1,000~1,200℃にもなる炎で、鉄の部分が溶けてしまうからでしょう。シャモット格子はレトルトの中で横向きに配置されていました。レトルトの扉や入り口の穴は小さめで、レトルト自体は長さ約3m、幅約80cm、高さ約1mでした。このようなレトルトで焼くのは、4~5体が一般的です。しかし、もっと多くの死体をレトルトに装填する場合もありました。「ムスリム」(痩せこけた囚人のこと) なら8人まで入れることができました。空襲警報の時に、火葬場長の知らないところで、このような大きな荷物を燃やしました。煙突からもっと火が出るように、そして飛行士に気づいてもらえるようにと考えたからです。そうすることで、自分たちの運命を変えることができると考えたのです。
Chronicles of Terrorにあるタウバーの証言より翻訳引用)

第5火葬場で同様にゾンダーコマンドとして働いていたシェロモ・ドラゴンも次のように語っています。

火葬場での作業はモルによって指示され、その命令の実行者はゴルガー作業主任、第二作業主任はエックハルトでした。衛兵にはSSのクルツシュルスとグスタスがいました。この火葬場は、火葬場IVと同じように作られました。これらの火葬場はどちらも、両側に4つのオーブンを備えていました。各炉室には3体の死体が入れられました。脱衣室とガス室(バンカー)は地上にありました。ガス処刑自体は、これらの火葬場でも、ブンカー1、2と同じように行なわれました。
Chronicles of Terrorにあるドラゴンの証言より翻訳引用)

他にも複数遺体の同時装填を証言している親衛隊員や囚人はいますが、火葬炉メーカーのトプフ社による当時の書簡にも記録があります。以下の文書の日付は1942年9月12日です。

最近特にアウシュビッツで顕著になった強制収容所向けの焼却炉の強い需要、そしてプリュファー氏の報告によれば、再び3マッフル炉7基の注文があったことから、マッフル付きの従来の炉方式が上記の場所に適しているかという疑問が検討された。私見であるが、ブッフェルのオーブンでは火葬が十分に進まず、望まれるほど短時間で多数の遺体を処理することができない。このように、多数の炉やマッフルを用意し、個々のマッフルに複数の死体を詰め込むことで、根本的な原因、つまりマッフルシステムの欠陥を改善することなく、自助努力している。

このように、一つの炉室に複数の遺体を同時に詰め込んで焼却処分を行うことにより、計算上の一体あたりの火葬時間を短くすることができたのだと考えられます。これは何も、本当に同時に一気にまとめて何体も炉室に突っ込んだことを意味するだけでなく、炉室の中の焼却中の遺体の体積が減ってきたら、それらの遺体が完全に焼却されるのを待つことなく、次から次へと遺体を追加装填していくことも意味します。タウバーは実際4〜5体であるとか8体であるとか過剰な遺体装填数を証言していますが、以下のようにも証言しているのです。

死体を載せるためのトロッコは、火葬場IIでは短期間使用されただけで、その後、鉄製担架(ドイツ語でLeichenbrettと呼ばれる)に変わり、レトルト扉の下縁に取り付けられた鉄製ローラーでレトルトの奥まで滑るようになりました。これは、トロッコを使うと死体の炉への装填が遅れるためでした。これらの新しい装置は、上級カポのアウグストによって発明されたようです。その後、すべての後続の火葬場に適用されました。火葬場IIとIIIの炉では、1つの炉の3つのレトルトすべてに1組のローラーがあり、レトルト扉の前にある鉄棒の上を滑っていました。火葬場IVとVでは、各レトルトの扉の前に別々のローラーが常設されていました。各火葬場には、死体をオーブンに装填するための鉄製の担架が2つありました。これらの板は、レトルトの前に置かれていました。 二人の囚人が死体をその上に寝かせました。最初の死体は足をレトルトの方に向け、背中を下にして顔を上にするように並べられたのです。この死体の上に、もう一人の死体が上向きに、頭をレトルトに向けた状態で置かれました。こうすることで、上の死体が下の死体の脚を押し、上の死体の脚が炉の中に押し込まれることなく、自ら炉の中に引き込まれるようにしました。

担架への死体の積み込みは、2人の囚人によって行われました。他の2人は、レトルトに近い方の担架の端の下に置かれたロッドのそばに立っていました。死体を担架に乗せる間、一人がレトルトの扉を開け、もう一人がローラーを準備しました。5人目の囚人は担架をハンドルで持ち上げ、前の2人がバーに持ち上げ、ローラーに乗せた後、担架をレトルトの中に押し込むのです。死体がレトルトの中に入ると、6番目の囚人が鉄の棒でレトルトの中の死体を押さえつけ、この5番目の囚人が死体の下から担架を引っ張り出しました。6人目の作業には、オーブンから取り出した担架に水をかけることも含まれていました。その理由は、オーブンで熱せられた担架を冷やすためでした。また寝かせたばかりの遺体が担架にくっつかないようにするため、石けんを水に溶かして、遺体が担架の板金の上をよく滑るようにしたのです。

ただし、2組目の死体については、かなり急がなければなりませんでした。1組目の死体は、その間にすでに手足をあげて燃えていたので、遅れると2組目の死体を炉に入れるのが難しくなったからです。この2組目の死体を炉に装填しながら、死体が焼かれる過程を観察することができました。まるで死体が体の本体をまっすぐに伸ばしているように見え、腕が立ち上がって縮み、脚も同様でした。体に水泡ができ、古い死体の場合、ガス処刑された後、2日間も予備室で腫れぼったくなって寝ていることもあり、腹部の横隔膜が破れて内臓が出てくることもありました。また、死体の燃焼を早めるために熊手(火かき棒)を持って炉内を操作する際、燃焼の過程を観察することもできました。とにかく、積み込みが終わるたびに、親衛隊の作業長が、オーブンがきちんと積み込まれているかどうかをチェックしたのです。私たちは彼のために各レトルトの扉を開けなければなりませんでしたが、その過程で内部で何が起こっているのかを見ることができました。

遺体装填作業に関するかなり詳細な証言で、内容を仔細に検討すると非常に興味深いのですが、ここではこの装填作業が最初に2体の遺体を炉室に装填してから、炉室から一旦引き抜いた担架に水をかけたり、石鹸水を塗ったりしてから、引き続いて2体を装填している点に注目すると、必ずしも多数の遺体を一回の装填でまとめて装填していたわけではないことがわかります。

以上の通り、親衛隊文書にある一体当たり15分の火葬時間は、複数遺体の同時装填によって実現されていた、計算上の一体あたりの火葬時間であることがわかります。

ホロコースト否定派の火葬における否定の論理

否定派は、当時の文書や戦後の証言によってアウシュヴィッツの火葬処理能力は、現在の推定犠牲者数である110万人を十分処理できたと立証できているにも関わらず、これら当時の文書史料や証言を全否定します。それは否定派の称するところの「科学的・技術的」な論理や知見によって、否定派が編み出した理屈によります。

これを詳細に紹介しようとして、イタリア人修正主義者のカルロ・マットーニョの論文を翻訳して解説しようとしたのですが、少々量が多すぎて、今回は断念しました。なので、非常に簡潔にだけ、その論理の一部を紹介するにとどめます。

  1. 燃料が不足していたので、110万人もの遺体を火葬することが出来たはずがない。

    多くの素人的否定派がこれを主張します。戦時中だったから燃料は貴重であり、110万人もの死体を火葬する余裕などあり得たわけがない、との主張です。アウシュヴィッツの火葬場は石炭を加熱することで生成されるコークスを燃料としていました。このコークスのアウシュヴィッツへの納入量は一部だけ記録が残されていますが、トータルの量は不明です。不明なのですから、それら素人的主張は無視してかまわないものでしょう。

  2. アウシュヴィッツへのコークス燃料の納入記録に基づくと、記録のある時期にガス処刑されたと推定されている犠牲者数は到底火葬できるコークス量ではなかったので、それらの犠牲者数はウソである。

    死体一体あたりの焼却に必要なコークス量を約30kgとしたのはカルロ・マットーニョです。彼は、様々な文献からそのように想定していますが、アウシュヴィッツでは前述した通り、複数遺体の同時装填という技術が使用されており、その場合、遺体それ自体の燃焼エネルギーも遺体の燃焼に加味されなければならず、その計算をマットーニョは行なっていないため、マットーニョの推定は妥当であるとは言えません。

  3. 複数遺体の同時装填は、遺体火葬効率を上げることにはならないので、もし仮に実施されていたとしても、そのような火葬能力はなかったとの結論は変わらない。

    マットーニョは、火葬炉の連結数が火葬効率をやや上昇させることには同意していますが、複数遺体の同時装填についてはそれを認めていないようです。遺体の燃焼には、遺体自身に含まれている60〜70%の水分の蒸発、脱水がまず必要であり、遺体の燃焼エネルギーが遺体自身の燃焼にある程度は寄与するにせよ、その脱水がなければ燃焼が始まらないのだから、何れにせよ相当量のコークスが必要なはずである、とします。一定量のコークスである限り、遺体数が増えれば、それに比例して脱水時間もかかるはずであり、処理時間を短縮させることにはならない、とするのです。しかしマットーニョは、遺体の同時装填だと仮定しているだけであり、実際には既に述べた通り逐次投入していたのですから、逐次投入し続ける限り、燃焼中の遺体が炉室内にあり続けることになり、その遺体の燃焼エネルギーによる脱水を無視することはできません。さらには、アウシュビッツの火葬炉は炉室が連結されているのですから、隣り合う炉室にも燃焼中の遺体があるので、そこからも遺体の燃焼エネルギーが絶えず供給されていることにもなっています。従って、複数遺体の同時装填による火葬効率の向上を無視することはできません。

  4. 複数遺体は炉室のサイズを考えれば、同時の装填は不可能であった。また複数遺体を装填すると多重マッフルの横方向にある燃焼ガスの通路を塞いでしまうので火葬の妨げになってしまう。

    上に挙げている炉室の写真を見ると、横方向には狭いかもしれませんが縦方向には十分な大きさがあるようにしか見えません。タウバーは遺体を遺体の上に積んだと証言しています。大人と2体重ねてその上に子供を2体程度を積むことくらいできたと思われます。穴を塞ぐという主張に対しては、タウバーの証言では「死体の燃焼を早めるために熊手(火かき棒)を持って炉内を操作」とあり、対処方法は存在していたので問題はありません。

    アウシュヴィッツでゾンダーコマンドを経験した元囚人であり画家である、フランス人のダヴィッド・オレールによる絵。この絵を見たある修正主義者は、「炉の口が大きすぎる! その隣にガス室などなかった! だから嘘だ!」のようなことを言っていましたが、そもそもオレールの絵は図面のような正確さを求めるような絵ではありません。また、扉の開いているところをガス室だとオレールは書いていません(位置的には死体リフトのある通路の一部です)。なぜ修正主義者はもっと考えないのか、私には理解できません。

以上、出来るだけ総合的かつ簡潔にしたつもりではありますが、それでも相当な文字数になっているので、この辺で。異常な量の執筆家であるイタリア人修正主義者であるカルロ・マットーニョがこの火葬に関して執念を燃やしているのですが、もちろんそれに対しても欧米の反修正主義者は反論し返しています。以下にその翻訳内容のリンクを紹介して今回は以上です。

note.com

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アウシュヴィッツに子供がいたら不自然なのか?

 

現在、次の記事に向けてある記事を翻訳中なのですが、思っていたよりも長くてかなり時間がかかっており(というか翻訳作業は眠たくなることが多くて(笑))、わざわざ翻訳などしなければよかったと後悔中です。でもあまり間が開きすぎてもなんなので、今回は短いネタを一つ。

 

西岡昌紀氏が疑惑に思ってるアウシュヴィッツの子供の映像について。

西岡氏は、繰り返し同じことを主張する壊れたテープレコーダー、あるいはエンドレステープみたいな人なのですが、この件についても同じことを何度か主張しています。

多分もっと過去にも同内容のツイートをしてこられたんじゃないかとも思われますが、西岡氏の悪いところは、疑惑だけを主張して真相を調べようとしないところにあります。

まず冒頭に挙げた写真、つまりアウシュヴィッツ収容所のソ連による解放時に撮られた映像とされ、アウシュヴィッツにいたと考えられる子供が被写体になっている写真はいくつかあります。

 

細かい話(どうでもいい話)ですが、冒頭に示した写真は他の写真に比べ画質が落ちていることがわかるかと思いますが、これはスチル写真と動画から切り取られた写真の二種類があるからです。この動画については、もちろん現在はネットでそれを見ることが簡単にできます。

encyclopedia.ushmm.org

この動画の元は、以下のアウシュヴィッツ解放時の映画映像として編集されたものが以下で見ることが出来ます。上記動画はここから抜粋されたものです。

collections.ushmm.org

私は本当に西岡氏が何を疑惑に思っているのか理解しかねています。例えばこの全体動画を一度でも見たことがあるのだろうか?と。そこに写っていた多くの死体はガス殺死体ではありませんでしたが、それでもアウシュヴィッツ収容所が悲惨な状態だったことは十分窺い知れます。あるいは、ソ連が開放時にいた子供達の映像を撮りたいと思って、アウシュヴィッツ第一収容所の二重の鉄条網の間を歩かせて撮影した、そのこと自体にどうして疑惑があるのでしょうか? 確かに、後述するように、それら集団で歩く子供達の映像は、一般に言われているようにソ連アウシュヴィッツを解放したその日、1945年1月27日の撮影ではなかったのですが、だからと言ってそれらの子供たちが実際にはアウシュヴィッツにはいなかった子供達だったわけではありません。

アウシュヴィッツには確かに子供たちの囚人もいた。それをプロパガンダ映像として撮影して何が悪いというのでしょうか? それを映像として紹介することは何か邪悪な意図を感じなければいけないのでしょうか? 私には西岡氏の疑惑の思惑がさっぱりわかりません。次に説明するように、むしろ開放時に子供がいたことは否定派にとって喜ばしいことですらあったように思うのですが……。

ともかく、西岡氏がそのように疑問に思うのなら、これらの生存者が生存のうちにご本人に聞いてくればそれで疑惑は解消したはずなのです。なぜ聞かなかったのでしょうか?

アウシュヴィッツの子供達に関する否定派のくだらない疑惑

絶滅収容所でもあったアウシュヴィッツ収容所については、「労働に適したユダヤ人は囚人として登録されたが、労働に適さない老人、病人、子供は直ちにガス室で殺された」としばしば言われています。否定派のくだらない疑惑とは、こうした「正史派説」は、開放時に子供がいた写真・映像が存在することによって矛盾しているではないか! とするものです。これに関する詳細な指摘は以下にあります。

note.com

アウシュヴィッツの子供に関してはいくつも本が出ているくらいの常識的な話なので、それをわざわざ疑惑視する否定派の精神性には眩暈がしそうです。

 

 

で、アウシュヴィッツ解放時の子供の映像はいつ撮られたの?

さて、今回のメインの話題ですが、随分と前に知ってはいたのですが、その本を読んではいなかったので、やっと図書館で読んできたのでそれを紹介します。

図書館で読んできたと言っても時間がなかったので、解放時の映像に関する情報を確認するので精一杯でした。しかし、この本の絵が非常に平和なタッチで描かれているのに対し、内容は一般の生存者の体験談と変わりません。この本は、2018年に著者のマイケル・ボーンスタイン氏が来日して、日本テレビの『世界一受けたい授業』に出演されて、紹介されています。

www.ntv.co.jp

では、同著からその開放時の子どもたちの映像に関する情報の内容を引用紹介します。

 おばあちゃんはずっと僕に言い続けていた。「もうすぐ家に帰れるからね――もうすぐだよ」 僕はジャルキのことは何一つ覚えていなかった。でも、きっともう母さんがそこで僕らを待っ ているのだろうと想像していた。

 (註:アウシュヴィッツ収容所の解放日である1945年1月27日から)さらに三日か四日が過ぎたある朝、ソ連兵たちが生存者の一部をあるエリアに呼び出して、以前の縞模様の囚人服をもう一度着てもらえないだろうかと言った。

 おばあちゃんはその話を聞いて、ぽかんと口を開けた。なんで今さら、あの寄生虫だらけの、 泥にまみれた制服を着なければならないの?

 ソ連兵たちは説明した。自分たちはただ、収容所から人々が出てくる歴史的瞬間を映像で記録しておきたいのだ。収容所を解放した当日には、あいにくカメラを回していなかったので、と。 なんだか奇妙な話だった。けれど兵士たちは、縞模様の囚人服は消毒済みだし、着ている時間はほんのわずかだと請け合った。真冬で外は凍るように寒かったため、人々は囚人服の下に何枚も衣服を重ね着することを許された。兵士らは僕たちの健康をとても気遣っていた。

 「お手伝いしましょうか?」。僕がバラックから出ようとしていると、一人の将校がロシア語で声をかけてきた。僕は三枚服を重ねた上に、かなりサイズの大きな青と灰色の縞の囚人服を着込んでいた。将校は僕に手を貸し、ボタンを上まで閉めると、おばあちゃんの手から僕を抱き取った。

 おばあちゃんは止めようとしたにちがいない。唯一の保護者であるおばあちゃんは、僕が手の届かないところに行くのをいやがったはずだ。でも結局のところ囚人はみな、ソ連兵を信じるほかなかった。彼らは小さな子どもたちを列に並べた。歴史上最大の、そしてもっとも悪名高い死の収容所を生き延びた少数の子どもたちが、ずらりとそこに並んだ。「袖をまくって、みんなの番号を見せてください」。一人の兵士がカメラを回しながら指示した。ロシア語だったので、僕は理解できなかった。通訳が身振りを交えながら、もう一度ポーランド語で言い直した。僕はまわりの子どもたちと同じように、ぶかぶかの囚人服の袖をまくり上げ、入れ墨を見せた。

 そのときにはわからなかったが、この映像はのちに世界じゅうの無数の人々にアウシュヴィッツの非道を思い起こさせる材料になる。そしていつの日か、スクリーン上に幼い自分の姿を見つけた僕を仰天させることになる。縞模様の囚人服を着た幼い僕は、アウシュヴィッツの隠れんぼチャンピオンの一人だった。

(pp.192f.)

マイケル・ボーンスタイン氏は冒頭の写真の手前右側に写っている子どもです。以下記事に2018年の来日当時のものと思われる写真が載っていますが、子供の頃の面影そのまんまなのでご本人に間違い無いでしょう(そのように疑うことすら戸惑いますが)。

book.asahi.com

というわけで、これで解放時の子供の映像の真相がはっきりしたのでは無いかと思います。あと、否定派は子供がぷくぷく太っているので、収容所では子供が虐待されていたわけではなかった、栄養が行き届いていたようにしか見えないし、アウシュヴィッツの悲惨な話は嘘である証拠だ!とまで主張することがありますが、撮影時には相当に着込んでいたと証言されていますし、それらの服はアウシュヴィッツのカナダエリアに行けばいくらでもあったそうです。実際にはそれほど太っていたとは言い難いことは上に紹介した動画の中を確認してください。

否定派は、単に疑惑を主張するだけで、この解放時の映像やアウシュヴィッツの子供達について、真相を確かめようとはしないことがよくわかる話だと思います。実際にプロパガンダ活動を行っているのは否定派の方なのです。