ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

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「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説5/20 ホロコースト正史の公式設定について。」と題された動画を論破する。-1

youtu.be

今回もまた前回同様、全文引用します。全文を引用するのは著作権法に違反するのでは?と思い調べましたが、この記事は対象動画の主張を反論・批判する目的であるので、こちらの方で適当にカットして引用するよりは、相手の主張を可能な範囲で全部を引用した方が公正だと考えますので、主従関係を満たす限り、法的な問題はないと判断しています。但し、加藤の直接引用先が明らかに判明している場合には、動画からではなく、そちらの直接引用先から文章をコピーペーストしている場合もあり、その場合には文章が微妙に異なる可能性(チェックはしていますが)もあります。

なお、細かいことですが、引用文を改変することは基本的にはダメなのですが、加藤はユダヤ人は実は「ユダヤ教徒」が正しい」なる加藤独自の主張をしていて、その自分自身の考えに合わせるために元引用文のユダヤ人」を「ユダヤ教徒」に書き換えていたりします。元文章をコピペして使っていることは確実なので、加藤は確信犯的に書き換えているのです。その良し悪しは別として、私には改竄行為そのものだとしか思えません。その改竄がどこにあるのかはいちいち指摘しませんが、元引用文と比較すればすぐわかります。

それでは、ホロコースト正史の内容を、さらに詳しく解説していきましょう。 まずは、前回の復習です。
(1)正史派は、戦争前半期のいずれかの時期に、「ユダヤ問題の最終解決」 すなわちユダヤ教徒をヨーロッパから「一掃」する手段が「強制移住」から「無差別殺害」 に変更されたと主張しています。

殺害の主な手段は、 強制収容所に作られた 「殺人ガス室」による大量処刑です。存在自体は有名なガス室ですが、それらがどこにあるのかは、意外と知られていません。ホロコースト論争に於いて、(2)殺人ガス室があると主張されたことがある収容所の場所を地図上で確認しておきます。

ただし、これらの中で(3)「殺人ガス室」が物理的に残っており、科学的な検証が可能な場所は一部に限られます。

(4)1947年に始まったニュルンベルク裁判で、 イギリス首席検事ショークロス卿は、次のように述べました。
IMT, vol. 19, p. 434.

アウシュヴィッツダッハウ、トレブリンカ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、 マイダネク、オラニエンブルク [=ザクセンハウゼン]のガス室と炉の中で大量生産様式で行なわれた殺戮」

この時点では、世界での認識はこのようであった、ということを踏まえたうえで、「殺人ガス室」についての証言をお聞きください。

まずは、ブッヘンヴァルト収容所の囚人であった(5)チャールズ・ハウターの証言です。

機械的な装置にまつわる強迫観念は、絶滅に関係すると、文字通り豊かなものになっていった。 絶滅は急速に行なわなくてはならなかったので、 特別な産業様式が必要とされた。ガス室はこの必要にさまざまなやり方でこたえた。比較的洗練されたガス室は、多穴性の資材からできた支柱で支えられていた。ガスはそこから放出され、壁を通ってしみでてきた。きわめて単純な構造のガス室もあった。しかし、すべてのガス室の外観は豪勢であった。建築家たちが、喜んでガス室を設計し、それに関心を集中し、審美的な感覚のすべてをそれに与えたことは容易に見て取ることができた。ガス室は、収容所の中で愛情をもって建設された唯一の建物であった。」

Charles Hauter, “Reflexion d'un rescape" in: De l' Universite aux camps de concentration. Temoignages strasbourgeois, 2nd. ed., Belles-Lettres, Paris 1954 (c1947), pp. 525f.

次に、(5)ジョルジュ・ヘノククというフランス人による、1947年の、ブッヘンヴァルトの 「殺人ガス室」についての証言です。

「部屋はおそらく5平方フィートほどで、高さは3-3.5mほどだった。天井には、不規則間隔で、17個の気密シャワーヘッドが付いていた。それは普通のシャワーヘッドのように見えた。焼却棟の仕事を割り当てられていた囚人たちは、欺くために、シャワー室に入る前に、犠牲者にはタオルと小さな石鹸が渡されると私に警告した。不運な犠牲者たちは、シャワー室に入ると信じ込まされたのである。
重い鉄のドアが犠牲者の背後でとじられた。
ドアは厚さ50mmのゴムで気密にされていたので、室内には空気はまったく入らなかった。内壁は滑らかで、ひびもなく、上塗りされているように見えた……」

G. Henocque, Les Antres de la bete, G. Duraissie, Paris 1947, quoted according to Robert Faurisson, Memoire en defense, La Vieille Taupe, Paris 1980, p. 192ff.

また、(5)エリサ・スプリンガーは、回想録の中で、「ベルゲン・ベルゼンではガス室と炉が、ヨーゼフ・クラマーが所長となってから稼働し始めた」と述べています

Elisa Springer, Il silenzio dei vivi. All'ombra di Auschwitz, un racconto di morte e di risurrezione, Marsilio Editore, Venedig 1997, p. 88.

さて、このような証言を聞いて、どのように感じられましたか? 有名なナチスの「殺人ガス室」はそのような物だったのか……... と 納得した人もいるかもしれません。

しかし、実はこれらの証言は全て虚偽なのです。

しかもこれは、修正派が虚偽だと主張している、という意味ではありません。虚偽であると、完全決着している証言なのです。

これらの収容所でも、少なくとも大量殺人は行われていなかったということについて言えば、修正派と正史派で意見は一致しているのです。

一般論としては、学説が変更されること自体に何ら問題はありません。 研究が進めば、
定説も変わるのはむしろ当然です。 しかし、このケースにおいては、変更された経緯が問題なのです。

次に表示する記事をご覧ください。

1960年8月19日付けの西ドイツの週刊紙ディー・ツァイト』 に掲載された投稿です。

(6)マルチン・ブロシャートは、当時はドイツ連邦現代史研究所の研究員で、のちに同研究 所所長となりました。彼はこの記事の中で、 こう述べています。 

ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでもユダヤ教徒その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウガス室はまったく『完成して』おらず、稼働していなかった。数十万の囚人が旧ドイツ帝国領内のダッハウその他の強制収容所で死亡しているが、彼らは、とくに破局的な衛生・物資補給状態の犠牲者であった…。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941年42年にはじまり、もっぱら占領されたポーランド領内のいくつかの地点で(旧ドイツ帝国領内ではない)、すなわち、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ブク河畔のソビボル、トレブリンカ、チェウムノ、ベウゼッツで行なわれた。ここでは――ベルゲン・ベルゼンダッハウ、ブッヘンヴァルトではない――、シャワー室や害虫駆除室に偽装された大量絶滅施設が設置されていた…。

マルチン・ブロシャート、現代史研究所、ミュンヘン

Die Zeit, Aug. 19, 1960, see Ill. 24 in the appendix, p. 185. 画像
Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA August 2000,p185

単なる著述家が投稿した記事ならばともかく、ドイツで最も権威がある歴史学の研究所 から発表された文章としては、極めて不可解だと思わざるを得ません。
前述したとおり、終戦直後では、ナチス支配下にある全ての収容所で、例外なく大量虐殺が行われた、というのが世界での認識でした。

それを、大量虐殺はポーランドでのみ行われた、とするのであれば、極めて重大な転換であるはずです。
ところが、私が知る限りこの「新説」の起源は、雑誌に掲載された、このたった一ページの記事なのです。
一つの典拠も無く、根拠を一切示さずに結論だけがいきなり書かれた、およそ学術論文とは言えないこの文章によって、ドイツ国内での大量虐殺は否定されたのです。

「ナチ・ハンター」 サイモン・ヴィーゼンタールも、この見解を支持しました。
合衆国の雑誌1993年1月24日
星条旗」 (185ページ)

ドイツ国内には絶滅収容所がなかった、したがって、アウシュヴィッツ、トレブリンカその他の収容所で行なわれたような大量ガス処刑は行なわれなかったことは事実です。ダッハウではガス室が建設中でしたが、完成しなかったのです」

この問題については、後に再び取り上げますが、ともあれ、(7)これ以降ホロコースト正史のひな形が定着したのです。
以下、ホロコースト正史による、あくまでも 「仮説」を説明していきます。

 

まず、ナチスの収容所は三つに分類されます。
 1 絶滅専用収容所
 2 労働兼絶滅収容所
 3 通常の強制収容所

(8)「1」の純粋絶滅収容所は、ユダヤ教徒を殺戮するためだけに作られた施設です。他の機能は一切ありません。これは、ヘウムノ、 ソビボル、ベウゼッツ、トレブリンカの4箇所があります

次に、「2」 の労働兼絶滅収容所は、労働力としての囚人の収容と、殺戮という二つの目的を持っていました。これが、アウシュヴィッツとマイダネクです。

そして、それ以外の全ての収容所は「3」 の通常の収容所に属します。
ただし、この分類はあくまでもホロコースト正史の立場からのものだということを留意してください。
当時の文書資料の中では、全ての場所が単 に「強制収容所」 とのみ記載されていることを強調しておきます。

<次回へと続く>

 

(1)ナチスドイツは「ユダヤ人問題の最終解決」について、当初は「強制移送」としていたものを「無差別殺害」に変更した、と正史派は主張しているのか?

これは前回の動画にもあったのですが、細かい話だからいいかと思ったのと、自分自身はホロコーストそのものの歴史については素人の域を出ず、詳細な話は歴史学者でないと正確な話はできないだろうと思って、反論しなくてもいいかと放置しました。

が、私にできる範囲で少々簡単にでも説明しておきたいとは思います。以下はくれぐれもまだまだ素人である私が若干学んだ程度の知識でしか語っていないとご理解ください。

さて、ヒトラーは遠大な目的として、東方生存圏構想を持っていました。これを実現するのが大きな目的でポーランドに侵攻し、独ソ戦に至ったのです。これは、極端に簡単にいうと、ドイツ人の住む地域を東方の広い地域に拡大するということです。しかし、ヒトラーの考えるドイツ人の中に「ユダヤ人」が含まれるはずはありません。だからこそユダヤ人をドイツ人の生存権から排除する、それこそが「ユダヤ人問題の最終解決」だったと考えられます。ヒトラーは、ユダヤ人以上に共産主義者を蔑んでいたので、独ソ戦開始とともに、ソ連地域の共産勢力の一掃、つまり殺戮に取り掛かります。この時に、ユダヤ人も一緒にまとめて殺していったのです。こうした過激な絶滅方針を進めたのは、先に述べた通りこの戦争は東方生存圏を獲得するための戦争であって、生存圏はドイツ民族のためのものでしかないのですから、不要な敵性分子を排除するためのものでした。また、特にスラブ系民族を劣等民族と位置付けていましたから、独ソ戦がその地域に住む一般市民をも巻き込む形となった、いわゆる「絶滅戦争」となったのも当然の成り行きだったと言えるでしょう。

では独ソ戦前のポーランドではどうだったのか。ポーランドには300万人とも350万人とも言われるユダヤ人が暮らしていましたが、第二次世界大戦の勃発とともにポーランドの半分を占領したナチスドイツはおおよそ200万人のユダヤ人を一気に抱え込むこととなりました。当初はまだ、これらのユダヤ人をどうするか明確には決まっていませんでしたが、どっちにしろユダヤ人を排除する方針ではあったので、とりあえずは各地にゲットーを作ってユダヤ人をその狭いゲットーに押し込めていったのです(ゲットー化)。そして、非常に曖昧な政策として、ポーランド占領地域の東部に設定した総督府(ルブリン地区)にユダヤ人を強制移住させるプランを考えます。これが最初の東方移送計画です。ところがこの最初のプランは遅々として進まず、ゲットー化だけが推し進められていくこととなってしまったのです。1940年になってフランスを支配下に収めると、フランスが植民地としていたマダガスカル島ユダヤ人を移送するマダガスカル計画が浮上しますが、こうした計画が半ば場当たり的に浮上したことは、ユダヤ人問題の最終解決の具体策が迷走してたことを示しているのです。そして、ゲットーだけがユダヤ人で溢れかえっていく――。

結果、独ソ戦でより広い地域を確保できると考えて計画していた、ソ連方面の広い地域への東方移送計画も独ソ戦の戦局悪化で頓挫、マダガスカル計画も制海権をイギリスから奪えず棚上げするしかなくなり、独ソ戦開始とともに先行して進んでいた形のユダヤ人の物理的絶滅、つまり大量虐殺を推し進めるしかなくなった、――と、現代の歴史家たちは歴史をそのように見ているようなののです。

私自身は、ヴァンゼー会議が開かれることとなったのは、前述した通り、「ユダヤ人問題の最終解決」の具体策がナチス政権の中ではっきり定まらず半ば迷走状態にあったため、それをはっきりさせるためと、親衛隊のイニシアティブ、すなわち当時はまだ暗殺されていなかったラインハルト・ハイドリヒの主導のもとで実施していくことを明確にするためだったと考えています。

加藤の言うように、強制移送を殺害に変更した、とする言い方が必ずしも間違っているわけではありませんが、その強制移送方針がまだプランの一つとして存在していた間にユダヤ人の大量虐殺は始まっていたので、強制移送計画が中止され、ユダヤ人の大量虐殺だけが続いたと表現する方がより正確でしょう。

ところで、これもどうでもいい話なので無視していますが、加藤はなぜ「無差別殺戮」と表現するのかよくわかりません。一般的には「絶滅」が用いられるのではないかと思うのですが。

(2)殺人ガス室があったと主張されたことがある収容所は?

過去に、殺人ガス室があったと主張された収容所がどこなのかについて、その全てについては私は知りませんが、ナッツヴァイラー(ストリュートフ)収容所が抜けているのはわかります。ストリュートフについては歴史修正主義研究会にある大量の記事の中でも一箇所しか出てこないのですが、そこをきちんと加藤は読んでいなかったとは言えるでしょう。

(3)現在でも殺人ガス室が残っている箇所は?

これも、私は正確には知りません。しかし、シュトゥットホーフが抜けているのはわかります。

www.deathcamps.org

 

(4)「【1947年】に始まったニュルンベルク裁判」?

それは一体何の裁判なのでしょうか? ニュルンベルク裁判(「国際軍事法廷における主要戦犯の裁判」:Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal、略称はIMT)は、1945年11月20日から1946年10月1日にかけて開かれました。

これは実は、そのすぐ後にこそっと書いてある「IMT, vol. 19, p. 434.」なる文献名が味噌で、もちろんこれもまた孫引きで、この文献名は実際にはこちらの脚注番号7にあります。そしてその脚注番号がつけられた、マーク・ウェーバーの本文の直前の文章にはちゃんと「1945-46年のニュルンベルク裁判」と書いてあるのです。では加藤は単にミスタイプをしただけなのでしょうか? いいえ、その可能性はないわけではありませんが、おそらく加藤はこの脚注の説明を誤解したのです。脚注7には以下のようにあります。

Trial of the Major War Criminals before the International Military Tribunal (IMT), vol. 1 (Nuremberg: 1947-1949), pp. 252-253; IMT, vol. 19, p. 434; and IMT, vol. 22, p. 496.

おそらく、と言うかまず間違いなく、加藤はこの表記を誤解したのです。これはニュルンベルク裁判の記録資料の一つとして知られる42巻からなる「Bule series」の出版年のことなのです。全部で42巻もあるので出版年が3年にもまたがっているのです。

だとするならば、加藤は自ら脚注の文献名をパクったその元の文章をちゃんと読んでもいないし、基本的な知識すらないのです。少し考えればわかる話だと思うのですが、ドイツの敗戦よりも後に敗戦を迎えた日本のあの東京裁判は1946年に始まっています。なのに、ドイツを裁いた裁判がそれよりも後なんてことがあり得るわけがありません。些細な間違いのように思う人がいるかもしれませんが、あまりにも基本的なことなので、私にはそんな誤解はあり得ないとしか思えません。単なるミスタイプであったことを祈るばかりです(笑)

なお蛇足ではありますが、不思議なことに、加藤が引用している「アウシュヴィッツダッハウ、トレブリンカ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、 マイダネク、オラニエンブルク [=ザクセンハウゼン]のガス室と炉の中で大量生産様式で行なわれた殺戮」の本当の引用元は、こちらのグラーフの論文のはずであり、なぜそこにつけられている脚注7の文献名を選ばすに、マーク・ウェーバーの論文の方を選んだのか、意味がさっぱりわかりません。

(5)ガス室がなかったことが判明した収容所について「ガス室があった」と虚偽の証言が存在している件について。

加藤は、チャールズ・ハウター、ジョルジュ・ヘノクク、エリサ・スプリンガーの三人の元囚人の証言を例示しつつ、これらの証言が虚偽であると説明し、それらの証言で言及された収容所では「これらの収容所でも、少なくとも大量殺人は行われていなかった」と述べ、そうした説の変更が行われたのが、ミュンヘンの現代史研究所所属のマルティン・ブローシャートの雑誌への投稿文書であると、説明しています。が、ここでは虚偽証言の件と、ブローシャーとの投稿の件を分けます。

まず、いつもの通り「本当の参照先」を示したいと思います。

チャールズ・ハウターについてはしかし、「本当の参照先」をグーグル先生は見つけていただけませんでした。記されている文献自体は知っているのです。「De l' Universite aux camps de concentration. Temoignages strasbourgeois」とは、このブログでも以前に紹介しているこれのことなのです。

しかし私自身は、このネットで公開されている文献がテキスト化されていないフランス語の画像pdfなので、読むのは非常に手間がかかる作業になるため、これを読むのを断念しています。ただし、ネット上にはそのチャールズ・ハウターの証言を引用紹介している、フランスの歴史学者であったピエール・ヴィダル・ナケの論文が全文公開されています。その論文のこちらから証言部分を以下に引用します。

An obsession with machinery literally abounded when it came to extermination. Since it had to occur quite rapidly, a special form of industrialization was required. The gas chambers answered that need in a very different way. Some, rather refined in conception, were supported by pillars of porous material, with which the gas formed and then seeped through the walls. Others were more simple in structure. But all were sumptuous in appearance. It was easy to see that the architects had conceived them with pleasure, devoting great attention to them, gracing them with all the resources of their aesthetic sense. These were the only parts of the camp that had truly been constructed with love.[25]

日本語訳すると、

絶滅に関しては、文字通り機械への執着があふれていた。 そのためには、極めて急速な工業化が必要だった。 ガス室は、まったく異なる方法でそのニーズに応えた。そのなかには、多孔質材料の柱で支えられ、ガスが形成され、壁からしみ出すという、かなり洗練された発想のものもあった。もっとシンプルな構造のものもあった。しかし、見た目はどれも豪華だった。 建築家たちが、美的感覚を総動員して、細心の注意を払いながら、喜びをもって設計したことがよくわかる。この収容所で唯一、愛情をもって建設された部分だった。[25]

ほぼ同じ訳文になる文章なので、おそらくこれがそっくりそのままどこかに引用されているのです。でも加藤がどこから引っ張ってきたかは今の所不明です(おそらくフォーリソンだという気はするのですが)。なお、ヴィダル・ナケはこの神学者の証言を「見たわけもないくせにガス室を絶賛している」として一蹴しています。

ジョルジュ・ヘノククの証言の本当の参照先はこちらのグラーフの論文です。元の歴史修正主義研究会の日本語訳版では「Georges Hénocque」となっているのに、何故かカタカナに変えてあるのが、何となく姑息に検索避けをしている気もしなくもありません(多分手打ちで入力したからめんどくさいので、カタカナにしただけでしょう。)。

エリサ・スプリンガー同じ論文からです。これも同様に「Elisa Springer」をカタカナに変えてあります。

私自身は、主流の歴史家たちがどのようにしてこれらの虚偽証言に対応してきたかを、上のヴィダル・ナケの言及を除いては知らないので、これらの虚偽証言を虚偽であると退ける以外に論評はほとんどできません。ただ、ホロコーストには虚偽証言がそこそこ存在するという程度は知っています。

note.com

ただ、これらの虚偽証言を含めて、あらゆる証言はそのまま鵜呑みにして信用するわけにはいかず、他の証言などの証拠、乃至は判明している事実などとの整合性などから、その他の要因や条件なども含めて、総合的な「裏付け」を取る必要があります。否定派がよくやるように、ホロコーストの証言には明確な虚偽証言がいくつもあるのだから、全ての証言が信用できない、ということにはならないのです。極端な話が、「人は嘘をつくことがあるのだから、人の証言は全て信用できない」わけがないのです。

 

(6)マルティン・ブローシャートは「たった一ペー ジの記事」でドイツ国内の大量虐殺を否定したのか?

まず、加藤がどこからブローシャートの記事が掲載されている『ディーツァイト』氏の画像をコピーしてきたかというと、加藤が赤で示している通りのゲルマー・ルドルフの著書のpdfからです。そして、その日本語版はこちらにあり、以下のように記述されています。

R:そのとおりです。ツィエライスもしくはマルサレクによれば、第二次世界大戦のヨーロッパの戦場でのアメリカ軍の戦死者の3倍から5倍の人々が、この小さな部屋の中で殺されたのです。

 このような噴飯ものの話にやっと疑問が寄せられたのは、ほぼ15年後のことでした。1960年代初頭、ドイツのメディアを嵐が駆けめぐりました。政治的右派の活動家が、ダッハウの殺人ガス室――ガス室として見学者に展示されています――の実在性に公に疑問を呈したのです。ジャーナリストはショックを受け、告発せよとの叫び声があがりました[7]。しかし、それ以上にはなりませんでした。当時のドイツの歴史学者たちが、ダッハウでの殺人ガス処刑の実在性に確信をもっていなかったためでした。例えば、ドイツ連邦現代史研究所のマルチン・ブロシャート――のちに同研究所所長となります――は、ドイツの週刊誌Die Zeit編集長に手紙を送り、その中でこう述べています[8]。

ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでもユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウガス室はまったく『完成して』おらず、稼働していなかった。数十万の囚人が旧ドイツ帝国領内のダッハウその他の強制収容所で死亡しているが、彼らは、とくに破局的な衛生・物資補給状態の犠牲者であった…。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941年42年にはじまり、もっぱら占領されたポーランド領内のいくつかの地点で(旧ドイツ帝国領内ではない)、すなわち、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ブク河畔のソビボル、トレブリンカ、チェウムノ、ベウゼッツで行なわれた。ここでは――ベルゲン・ベルゼンダッハウ、ブッヘンヴァルトではない――、シャワー室や害虫駆除室に偽装された大量絶滅施設が設置されていた…。

マルチン・ブロシャート、現代史研究所、ミュンヘン

加藤は、「(ドイツ国内のガス室での大量虐殺を否定した)「新説」の起源は、雑誌に掲載された、このたった一ページの記事」と書いていますが、加藤の参照先であると思しき、このルドルフの記事では強調したように異なることが書いてあります。ダッハウ収容所だけとは言え、否定(疑問視)したのはブローシャートではなく、「政治的右派の活動家」だとルドルフは述べているのです。そして、おそらくドイツ国内のジャーナリストからその右派の活動家の見解に「告発しろ」との声が上がったが、ブローシャートもダッハウガス室での殺人を否定してしまった、という流れだったのです。一体どういうことなのでしょうか?

実は、ルドルフが自著で紹介した記事は、冒頭が省かれているのです。ディーツァイト誌の当該記事は現在、ネットで公開されているのでそれがわかります。ただし、このリンク先は無料とは言え登録が必要なのでご注意ください。すでに随分と前に訳したものがあるので、こちらから引用します。

ダッハウでのガス処刑はない
1960年8月19日 7:00am 更新 2012年11月22日 1:18am
R. ストローベル:「彼と共に去る」、TIME No.33

R.ストローベル氏の寄稿に対して、残念ながら必要な批判的コメントをすることをお許しください。ストローベル氏は確かにアンレイン元帥に対しての発言は正しいのです。しかし、ダッハウはあまり適切な例ではありません。ミュンヘン補助司教ノイホイスラーの証言によると、囚人が対応する施設の建設を妨害したために、ガス処刑は行なわれなかったからです。したがって、『キリストと世界』のある著者は、すでに「ダッハウガス室を訪れたとき、そこで行われたガス処刑の伝説的な主張に屈した」ことを認めざるを得なかったのです。

したがって、ストローベル氏は、アンレイン氏のように、現代史に関する我々の研究結果は連合国のプロパガンダに過ぎないと主張する人たちを幇助していることになります。こうした研究成果と現代のポピュラー・ジャーナリズムの歴史的表象との間には、まだ大きな隔たりがあるのですから、なおさら残念なことです。

ヴィルヘルム・ファン・カンペン、キール・モンケベルク

ダッハウでもベルゲン・ベルゼンでもブーヘンヴァルトでも、ユダヤ人や他の捕虜がガス処刑されることはなかったのです。ダッハウガス室が完全に完成して「稼働」することはありませんでした。ダッハウや旧帝国の他の強制収容所で死んだ何十万もの囚人は、何よりも破滅的な衛生状態と供給条件の犠牲者でした。SSの公式統計によると、1942年7月から1943年6月までの12ヶ月間だけでも、帝国のすべての強制収容所で110,812人が病気と飢えで死亡しました。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941/1942年に始まり、この目的のために選ばれ、適切な技術設備を備えたいくつかの場所で、主に占領下のポーランド領(旧帝国のどこにもない)で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、バグ地方のソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウジェツでのみ実施されたのです。

ベルゲン・ベルゼンダッハウ、ブーヘンヴァルトではありませんが、あなたの記事にあるような、シャワー室や消毒室を装った大量絶滅施設が建設されたのです。この必要な区別は、強制収容所設立の犯罪的性質を少しも変えるものではないことは確かです。しかし、教えられない人たちが、正しいけれども文脈から極論を持ち出したり、全体的な判断は正しいけれども誤った情報に頼って急いで対応したりすることで生じる致命的な混乱を解消することができるかもしれません。

M.ブローシャート博士(ミュンヘン現代史研究所)

「R.ストローベル氏の寄稿」等当時の他の人による議論は把握しておりませんが、このブローシャートの寄稿がそれに先んじていたストローベルの寄稿をきっかけとしたものであることがわかります。これは、ルドルフが述べたような議論が当時あったことに一致しています。

つまり、事実は「「新説」の起源は、雑誌に掲載された、このたった一ページの記事」ではなかったのです。加藤は自分がディーツァイト誌の誌面をコピーしてきたルドルフの論文をちゃんと読んでいないのです。しかも、ブローシャートの寄稿を紹介したルドルフも加藤のような意見は述べておらず、同じ寄稿を引用しているグラーフも述べていません

実は、同様のことを西岡昌紀が述べていたのをうっすら覚えています。記憶なので誤りかもしれないと断った上で述べますが、西岡は「ダッハウガス室で大量虐殺が行われていたと言われていたのに、定説が変わっているではないか!」のようなことははっきり言っていたはずです。だとするならば、加藤は西岡に影響されている可能性が高いと思います。否定論を日本で細かく主張する人たちで西岡昌紀を知らない人はいないわけですから。

しかし、ブローシャートの寄稿は、1960年であり、終戦からまだ15年しか経っておらず、ホロコーストの定説と言えるようなものがあったのかどうかは非常に疑問です。その頃は単に、ダッハウベルゲン・ベルゼン、ブーヘンヴァルトなどのナチス強制収容所にはガス室があって大量虐殺が行われていた、と世間的に思われていただけであり、1960年ごろにはまだ学説上の定説として定まったものはなかったのではないのでしょうか? 一般的にはホロコーストの研究が急速に進むのは東西冷戦が終結する1990年頃以降のことだと言われているのです。もちろんそれまでもホロコースト研究はされてはいましたが、東西冷戦の壁は例えば西側研究者は東側の公文書館等を自由に使えなかった、などの大きな研究上の制約がありましたし、東側は単純に言えば共産圏の親玉であったソ連の意向に逆らい難かったのです。

従って、ブローシャートの寄稿は、ホロコーストの全体像の詳細が、学術的な研究を経て見え始めてきた萌芽のようなものであり、当時はまだ存在したとは言い難い「定説」を変更したわけではない、と言えるように思います。

 

(7)マルティン・ブローシャートの寄稿「以降ホロコースト正史のひな形が定着した」のか?

しかし、そこに挙げられているサイモン・ヴィーゼンタールの見解は1993年1月24日であり、ブローシャートの寄稿から30年以上も経っています。30年以上も経過した時点でのヴィーゼンタールの主張が、ブローシャートの寄稿によって正史の雛形が定着した根拠になり得るのでしょうか? 

ところが恐ろしいことに、またここでも加藤は自分が参照したルドルフの論文をちゃんと読んでいないのです。それはすでに前述で引用しているルドルフの論文の続きに書いてあります。その続きを引用します。

L:旧ドイツ帝国とは何のことですか?

R:1937年12月31日時点の国境でのドイツ、すなわち、オーストリアズデーテン地方、メーメル地方を併合する以前のドイツのことです。

L:ブロシャートは矛盾に陥っていますね。もしダッハウに絶滅施設が設置されていないとすれば、ダッハウの大量絶滅施設が完成されていなかったと述べることがどうしてできるのでしょうか?

R:この矛盾は、この問題についての歴史家たちのあいだでの意見の不一致を象徴するような矛盾なのです。しかし、このような見解を抱いているのはブロシャートだけではありません。1993年1月24日、有名な「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールもブロシャートの見解に組しました。彼は、合衆国の雑誌『星条旗』(185頁)にこう書いています。

ドイツ国内には絶滅収容所がなかった、したがって、アウシュヴィッツ、トレブリンカその他の収容所で行なわれたような大量ガス処刑は行なわれなかったことは事実です。ダッハウではガス室が建設中でしたが、完成しなかったのです。」

しかし、二人とも他の研究者の見解とは食い違っているのです。例えば、

この分野の権威とみなされている研究者たちが1983年に出版した著作の見解です[9]。この著作の編集者代表はオイゲン・コーゴンです。

L:ラッシニエが宣伝家であることを暴露した人物ですね。

R:それに、ルードヴィヒスブルクにある民族社会主義犯罪調査中央局長アダルベルト・リュッケルルです。

L:どのような組織なのですか?

R:ドイツの公式の「ナチ・ハンター」機関です。そして、第三の編集者が、共産主義者であり、アウシュヴィッツ委員会議長のヘルマン・ラングバインです。

L:なんとも「客観的な」グループですね!

R:ここでは、この編集者グループが客観的であるかどうかには立ち入りません。この著作では、旧ドイツ帝国領内のノイエンガムメ、ザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュックには殺人ガス室が実在して、数百ひいては数千の犠牲者がここでガス処刑されたとされていることが問題なのです。公的な著作が、旧ドイツ帝国領内の収容所では大量処刑施設が設置されていたと述べている一方で、公的なドイツ現代史研究所が、このような施設はこれらの収容所には設置されなかったと述べているのです。どちらかが間違っているはずです

 ダッハウに関しては、この著作の編集者たちは、ガス室が実在したと想定していますが、次のような留保条件をつけています[10]。

ダッハウ強制収容所で毒ガスによる殺戮が行なわれたかどうかはまだ確証されていない。」

以上のとおり、ルドルフは、加藤が述べたような「ホロコースト正史のひな形が定着した」どころか、「正史派」の中で説が矛盾していると言っているのですから、定着しているとは言い難いと見ているのです。

何故加藤は自分が参照していて引用までしているルドルフの論文それ自体をちゃんと読まず、全く逆のことを言えるのか意味がわかりません

私は決して、修正主義者のゲルマー・ルドルフが正しいと言っているのではありません。30年以上も離れたヴィーゼンタールの主張を、ブロシャート説がオイゲン・コゴンらの説と併存して対立しているかのような根拠にするルドルフもルドルフです。ヴィーゼンタールについては私自身はあまり信頼を寄せられる存在だとはみなしていません。ヴィーゼンタールは研究者ではなく、ナチハンターとして著名なだけです(ハンターとしても悪い評判さえ見たことがあります)。

しかしここでの私の批判は、加藤が依拠しているはずのルドルフの論文をちゃんと読まずにルドルフとは逆のことを述べている事実にあります。西岡昌紀もかなりいい加減でしたが、加藤は西岡と同レベルかそれ以上に杜撰だと思います。

 

(8)絶滅収容所ユダヤ人を虐殺するためだけの機能しかなかったのか?

はい、純粋な絶滅収容所である、ヘウムノ、ベウジェツ、トレブリンカ、ソビボル、の四つの収容所は、ユダヤ人絶滅を目的としてのみ設定・建設された収容所ですから、基本的な認識としてはそれで間違っているわけではありません。しかし、もう一つ決して無視できない重要な機能がありました。それは、ユダヤ人の財産を収奪することでした(但し、ユダヤ人からの財産の収奪は絶滅収容所に限られたものではありません)。

ヤド・ヴァシェム―アウシュヴィッツ・アルバムより

以下に示す文書は、ラインハルト作戦の総責任者だったオディロ・グロボクニク親衛隊中将による日付のない報告文書です。一枚目の左上にはうっすらと、その筆記が特徴的なヒムラーの受領サインが入っています。

ポーランドにおけるラインハルト行動[ユダヤ人財産の没収]で集められた金品に関する報告書

これは、私がホロコースト否定を調べ始めた最初の頃に翻訳したものなので、その翻訳やり直しをしたいと考えているのですが、一応、未修正の翻訳を以下に示しておきます(一部のみ)。

「ラインハルト作戦」で引き渡された貴重品

「ラインハルト作戦」からの貴重品は、以下のようにライヒ銀行またはライヒ経済省への伝送のために、ベルリンのSS WVHAで手渡されています。

a. RM, 合計額 - RM 53,013,133.51
b. 外貨、注記、地球のすべての主要国(特に50万ドルは注目に値する)、総額-RM 1,452,904.65
c. 外貨建ての金貨、合計 843,802.75 RM
d. 貴金属(約1,800kgの金と約10,000kgの銀のインゴット)、総額RM 5,353,943.00
e. 宝石、時計、眼鏡などのその他の貴重品、特に時計、約16,000個の時計が使用可能な状態で、約51,000個の時計が修理を必要としていることは注目に値し、これらは部隊の自由のために置かれています。
f. 織物の箱車約1,000台、総額RM 13,294,400.00
合計 - RM 100,047,983.91

織物は約1,000両の箱車がまだ在庫されており、その他の貴重品の約50%は、まだ数えて鑑定しなければならない。上記の評価額は、公定為替レートと価格に基づいて設定されていることを強調しておく必要があります。ただし、たとえば海外で貴石や金属を販売する場合は、固定値への移行が我が国よりも大きいため、商業的価値ははるかに高くなります。また、海外での販売は、私たちに外貨をもたらします。

ライヒスマルクの現在の貨幣価値として円に換算すると、1RM=1400円らしい*1ので100,047,983.91=140,067,177,424円、つまり、1400億円になります。これはまだ鑑定し終えたおおよそ半分と書いてありますから、ラインハルト作戦でユダヤ人から奪い取った財産の総額はざっくり3000億円になります。膨大な財産をユダヤ人から奪い取った計算になります。もちろんこれは、ナチスドイツがユダヤ人から奪い取った財産総量のほんのごく一部でしかありません。

ネット上などのホロコースト否定・肯定の議論ではほとんど語られないので、知らない人も多いようですが、ナチス親衛隊は、ユダヤ人を殺戮するとともに、財産をも奪い取っていた事実を決して無視することはできません

また、これほどの財産をユダヤ人たちから奪い去っておきながら、ユダヤ人を生かすつもりだった、などということが言えるでしょうか? もし、修正主義者の言うように、ユダヤ人を東方移送していただけであるのなら、ユダヤ人たちは無一文で、実際に身包みまで剥がされて、一体どうやって、その東方で暮らしていけたのでしょうか?

これに関する否定派からの答えはありません。

なお、細かい話なので気にする必要はないのですが、忘れれさられた絶滅収容所として一部の人には知られるマリー・トロスティネツ絶滅収容所というところもあったことを付け加えておきます。

youtu.be

では長くなり過ぎているので、一旦終了です。今回はもしかすると、三回に分けなければならないかもしれません💦 この調子じゃ絶対全部論破なんて無理(笑)

 

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*1:これはYahoo!知恵袋の回答から拾った換算値ですが、様々な情報から類推すると、どうもかなり低い換算値のようです。ただし今のところより確かな情報を持っていません