ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

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ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

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「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説5/20 ホロコースト正史の公式設定について。」と題された動画を論破する。-2

youtu.be

 

では、前回1/3ほど論駁した動画の続きです。今回でこの動画への論破は終わらせたいので、ちょっと長くなるのをご勘弁ください。加藤は無駄に孫引きばかりしているので、それを全面引用しているため(晒すため)、長くなるのはやむを得ません。読まれる場合は引用文内の指摘箇所のクリックやタップ、そしてブラウザの「戻る」操作か、または文中にある「引用文に戻る」で読まれることをお勧めします。

当然、 収容所に集められた人々に対する扱いも、それぞれに異なります。

(1)絶滅専用収容所では、健康な人間も含めて、よって、これらの収容所には「囚人」はいませんでした。無条件で全員殺害しました

アウシュヴィッツとマイダネクは労働兼絶滅収容所でしたが、ここでは移送された 人々のうち、(2)労働可能な人は、囚人となり工場で働くことになります。

重要なポイントですが、(3)移送者も囚人も、ガスで殺された場合は記録に残されませんでした。
その他の要因で死亡した場合には、死亡証明書が残されるのです。

前の動画で、ホロコーストの犠牲者は記録に残っておらず、大半は囚人では無かったと説明しましたが、その理由はこの正史の(4)仮説に基づいています。

そして、(5)通常の収容所では、労働不能な人間も含めて、無条件で生かします
「囚人になった後で疫病にかかっても、死ぬまで治療し続ける」
ということです。

ここまでが、 (6)1960年以降に固まった正史の枠組みです。
しかし、正史の中で確定しているのはここまでです。
これ以外の個別の内容については、全くと言っていいほど定説が得られていないのです。

例えば、(7)ホロコーストが始まった時期、つまりヒトラーによる絶滅命令が下された日付です。
これからして、正史派の研究者の間で意見の統一が成されていないのです。

後の動画で詳しく解説しますが、 永らくそれは、1942年1月だと言われていました。 しかし、それを支持する人は今では少数であるようです。
ざっと列挙しますと。

エーバレオン・ポリャーコフ 1941年初め
ロベルト・ケンプナーとヘルムート・クラウスニック 1941年春。
ラウル・ヒルバーグ 恐らく1941年夏。
ルドルフ・ヘスの自白によれば、 1941年夏。
エバルハルト・イェッケル 1941年9月24日
ディードリヒ・アダム 1941年秋
セバスティアン・ハフナー 1941年12月初め

つまり、いつ出されたのかは判らないが、とにかく命令はあった……ということです。このように、 絶滅命令が出されたとする時期が最大で一年間も違いがあるということは、 それに従った無差別虐殺が始まった時期も同じだけ幅があるということに注意して下さい。

さらに、ヒトラーは命令を出さなかった、とする説もあります。
先に挙げた(8)ドイツ連邦現代史研究所長のマルチン・ブロシャートは、ヒトラーは、ユダヤ絶滅について最終決定を下さなかったし、 全体命令を出さなかったという立場を取りました。

(註:上の画像を動画では「終戦までヒットラー(Hitler)は根本的な決定を下さなかった」の部分だけを画像遷移でハイライト表示させている)

さらに、驚くべきことに、「ホロコーストヒトラーが知らない所で行われていた」、という説まで現れたのです。これを唱えて世界に衝撃を与えた歴史著述家デビット・アーヴィングは、その後修正派の説を大筋で受け入れるようになり、裁判沙汰になったのです。

また、(9)アウシュヴィッツで行われたとされる、最初の「ガス処刑」がいつ行われたのか、という日時も全く定説がありません。

アウシュヴィッツ・カレンダー』によると1941年9月3日と5日の間です。

D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945, pp. 117-119.

ポーランドの歴史家クロジンスキは、この日付を9月5日と9日の間に変えています。

S. Klodziński, "Pierwsza zagazowanie więzniowi jencow w obozie oświęcimskim", Przegląd Lekarski, I, 1972.

歴史家フィリップ・フリードマンは9月15日としています。

Carlo Mattogno, Auschwitz: La prima gasazione [Auschwitz: The First Gassing]
(Edizioni di AR, Padua 1992). p. 85.
「最初の犠牲者がガス処刑されたのは、ブロックII (ママ) の以前の弾薬貯蔵庫の中で、 1941年9月15日 のことであった [Filip Friedman, This Was Oswiecim:
The Story of a Murder Camp, London, 1946, p. 18.]

ミチャル・クラの1945年6月11日の供述においては、1941年8月のこととなっ
ています。

Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas. Hermann Langbein, Adalbert Ruckerl et al. S. Fischer Eine Dokumentation. Edited by Eugen Kogon,
Verlag, Frankfurt am Main, 1983, p.205

ヤン・ゼーン判事の言葉に従えば、これは 1941年12月以降となります。

Carlo Mattogno, Auschwitz: La prima gasazione [Auschwitz: The First Gassing] (Edizioni di AR, Padua 1992)., p. 159:

我々は、これを一体どう受け止めればよい のでしょうか。
(10)よく、「ホロコーストが無かったというのなら、原爆投下も太平洋戦争も無かったのか?」という反論が聞かれます。
実は、これは全く同じように 「南京虐殺否定論」「慰安婦強制連行否定論」 についてもなされてきた反論であります。
しかし、日本が対米開戦を決定したのは 1941年11月5日と明確に判明しています。 原爆投下も広島市については5月10日、長崎市については7月24日と、決定された日時が判っています。
(11)命令した日時が判らないばかりではなく、説によって一年間も幅があるとか、日米の指導者たちがはっきり決定を下さなかったとか、ましてや知らなかったなどという異説は聞いたことがありません

これだけではありません。(12)各収容所での犠牲者数はさらに問題なのです。
次に、様々な犠牲者数のソースを、収容所ごとにまとめてみましょう。

まず、最初に作られたとされる絶滅収容所ヘウムノですが、驚くべきことに、この収容所での殺人方法は、殺人ガストラックです。
耳を疑った方も多いかもしれませんが、「正史ではそのようになっている」という意 味で、これは全くの事実なのです。
つまり、この収容所のみ、ガス室は「建設」されたものでは無く、荷台の部分にガス室を装備した特殊な殺人トラックが「駐車」しているのです。部屋に閉じ込められた人々は、ディーゼルエンジン排気ガスによって殺されるというのです。

Pravda, July 15-19, 1943; cf. The Trial in the Case of the Atrocities Committed by the German Fascist Invaders and their Accomplices in Krasnodar and Krasnodar Territory, Foreign Languages Publishing House, Moskau 1943; cf. also the indictment of the Soviets at the IMT, vol. VII, pp. 571-576

(註:ヘウムノの犠牲者数は)

36万人 Martin Gilbert
Martin Gilbert, Auschwitz and the Allies, Holt, Rinehart and Winston, New York 1981 p. 329, fn. 2.
34万人
①L. Dawidowicz, ②B. Nellessen, ③IMT
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149 for the individual camps, also including non-Jews. 2 B. Nellessen, Der Prozess von Jerusalem, Econ, Dusseldorf/Vienna 1964, p. 57.
3IMT, vol. VIII, p. 331.
30万人 ①Polish Historians, ②Heinz Hohne
①E. Kogon, H. Langbein, A. Ruckerl et al. (ed.), Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas, S. Fischer Verlag, Frankfurt 1983 E. Kogon et al., op. cit., p. 101.
②H. Hohne, Der Orden unter dem Totenkopf. Die Geschichte der SS, Bertelsmann, Munich 1976, p. 431
14万5,500人以上 Jury Court Bonn
E. Kogon, H. Langbein, A. Ruckerl et al. (ed.), Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas, S. Fischer Verlag, Frankfurt 1983 p. 101.
15万人 Raul Hilberg
Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.
>10万人 ①Raul Hilberg, ②Ernst Klee
①R. Hilberg, The Destruction of the European Jews, Harper & Row, New York
1983, p. 572.
②Ernst Klee, Willi Dresen, Volker Ries, Schone Zeiten. Der Judenmord aus der Sicht der Tater und p. 371.
5万4990人
Faschismus - Getto - Massenmord
Judisches Historisches Institut Warschau (ed.), Faschismus - Getto - Massenmord, Roderberg, Frankfurt/M. 1962, p. 285.
3万4000人 Jacques Delarue
J. Delarue, Geschichte der Gestapo, Athenaum, Konigstein/Ts. 1979, p. 257.

次に、ソビボルです。
殺害の方法は、
「シャワー室に偽装された死の部屋の天井にある穴から落ちてくるらせん状の黒い物体」
A. Pechersky, "La rivolta di Sobibor", in: Yuri Suhl, Ed essi si ribellarono. Storia della resistanza ebrea contro il nazismo, Milan 1969, p. 31.
ディーゼル・エンジンの排気ガス
L. Poliakov, Harvest of Hate, Holocaust Library, New York 1979, p. 196.
Die Enzyklopadie des Holocaust v. III, p. 1496.
「ガソリン・エンジンの排気ガス
ラウル・ヒルバーグが 「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」邦訳下158頁で引用している戦後の裁判でのSS隊員エーリヒ・フックスの自白 )
というバリエーションがありましたが、現在では二番目のディーゼルエンジンガス室だとされているようです。

(註:ソビボルでの殺害人数は)

200万人 ゼルダ・メッツ
Testimony by Zelda Metz, in N. Blumental (ed.), Dokumenty i materialy, vol. I, Lodz 1946, p. 210
25万人 ルーシー・ダヴィドヴィチ
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149
20万人 ヴォルフガング・シュフラー
ラウル・ヒルバーグ
Ino Arndt, Wolfgang Scheffler, Organisierter
Massenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern, in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,24
(1976), pp. 127f
3-3.5万人 ジャン・クロード・プレサック
Entretien avec Jean-Claude Pressac realise par Valerie Igounet, in: Valerie Igounet, Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, pp. 640f.

続いて、 ベウゼッツです。
殺害方法は
地下貯水槽での電気による殺戮
Stefan Szende, Der letzte Jude aus Poland, Europa Verlag, Zurich 1945, pp. 290-292; Engl. Stefan Szende, Adolf Folkmann, The Promise Hitler Kept, V. Gollancz, Landon 1945/ Rov. New York 1945. pp. 159-161.
金属板の上での電気による殺戮、続いて、死体で石鹸を製造
S. Wiesenthal, "RIF," in Der neue Weg, No. 17/18, Vienna 1945.
貨車の中での石灰による殺害
Foreign Office papers, 371/30923, xp 009642, pp. 78f., and 371/30917, xp5365, pp. 78f.
びん詰めの一酸化炭素
ラウル・ヒルバーグがヨーロッパユダヤ人の絶滅p. 941: 邦訳下158頁で引用している不詳の目撃者
びん詰めのシアンガス
西ドイツ裁判所の判決
ガソリンエンジンから出る排気ガスではない何らかのガスによる殺戮
ZStL, 252/59, vol. I, p. 1226
(translation from Polish into German).
ディーゼル・エンジンの排気ガス
参考資料試訳 : ディーゼルガス室: 拷問には理想的な代物、殺人には馬鹿げた代物
フリードリヒ・パウル・ベルク
歴史的修正主義研究会試訳

と、何と7通りも説がありました。
一応、正史派の権威、ラウル・ヒルバーグ氏は4番目と7番目を採用しています。

(註:ベウジェツでの殺害人数は)

300万人 ルドルフ・レーダー
GARF, 7021-149-99, p. 18.
200万人
ツォイゲ ユージーナスG.
ZStL, 252/59, vol. I, p. 1136
180万人 ユースタキー ウクライスキ and T. Chrosciewicz
ZStL, 252/59, vol. I, p. 1118. p. 1225.
100万人 ミハエル・トレゲンザ
M. Tregenza, Das vergessene Lager des Holocaust, in I. Wojak, P. Hayes (ed.), Arisierung im Nationalsozialismus, Volksgemeinschaft, Raub und Gedachtnis, Campus Verlag, Frankfurt/Main, New York 2000, p. 242.
80万555人 ロビン・オニール
R. O'Nei," Belzec: A Reassessment of the Number of Victims", in East European
60万人
ポーランド中央委員会
②イツハfN・アラド,
③ヴォルフガング・シュフラー
Central Commission for the Investigation of German Crimes in Poland, cf. E. Szrojt,
Oboz zaglady w Belzcu, in Biuletyn Glownej Komisji Badania Zbrodni Niemieckich w
Polsce, Poznan 1947, III, pp. 43f.
②Yitzhak Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka.
The Operation Reinhard Death Camps, Indiana University Press, Bloomington/ Indianapolis 1987 p. 177.
③Ino Arndt, Wolfgang Scheffler,
OrganisierterMassenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern, in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,
55万人
① タチアナ・ベレンスタイン
② ラウル・ヒルバーグ
①T. Berenstein, Eksterminacja ludnosci zydowskiej w dystrikcie Galicja (1941-1943) , in Biuletyn zydowskiego Instytutu
Historicznego w Polsce, 61, 1967, p. 29.
②Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.
最低30万人
ミュンヘン裁判
A. Ruckerl, NS-Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse, dtv, Frankfurt 1977, p. 136.
10~15万人 ジャン・クロード・プレサック
Entretien avec Jean-Claude Pressac realise par Valerie Igounet, in: Valerie Igounet, Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, p

トレブリンカでの殺害方法は非常にバリエーションがあります。
部屋から空気を排出し、 真空状態を作ることによる窒息死。
Wassili Grossman "Die Holle von Treblinka", Foreign Language Publication House, Moscow 1947, partially quoted by Udo Walendy in Der Fall Treblinka, Historische Tatsachen, no. 44, Verlaga fuer Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1990.
ベルトコンベアの上で、 首筋を撃つことによる殺戮
ユダヤ世界会議のThe Black Book---The Nazi Crime against the Jewish People, Reprint Nexus Press, New Press, New York 1981, p. 398. The Black Book は、蒸気、ガス処刑窒息について報告している。
熱い蒸気スチームによる熱死。 これが、最も多いパターンで、ニュルンベルク裁判でも、これが事実として採用されました。
ポーランド委員会報告 PS-3311
しかし、現在ではディーゼル・エンジンの排気ガスが正史では採用されているようです。
Y. Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka. The Operation Reinhard Death Camps, Indiana University Press, Bloomingtan/ Indianapolis 1987, pp.392-397
その他、 可動式ガス室
Krystyna Marczewska, Władyslaw Waźniewski, "Treblinka w świetle Akt Delegatury Rządu na Kraj", in: Biuletyn Głownej Komisji Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polsce, vol XIX, Warsaw 1968, p.136.
固定ガス室、 即効性と遅効性の毒ガス、
同上pp.137ff.
石灰、同上pp.153ff.
機関銃、同上pp. 153ff.
電気処刑、Emmanuel Ringelblum, Kronika getta warszawskiego, Artur Eisenbach, Czytelnik, Warsaw 1983, p.416.
塩素ガス、チクロンB
URSS-337, p. 9 of the German version.
などの説が存在しました。

(註:トレブリンカでの殺害人数は)

350万人 ソ連ユタヤ委員会報告1944年 300万人 ヴァシリー・グロスマン
Wassili Grossmann, Treblinski Ad (Die Holle von Treblinka), Verlag fur fremdsprachige Literatur, Moskau 1946.
277万5千人 サミュエル・ライズマン
USSR-337. GARF, 7445-2-126, p. 240.
158万2千人 リシャルト・シャーカフスキー
Ryszard Czarkowski, Cieniom Treblinki, Wydawnictwo Ministerstwa Oborony Narodowey, Warsaw 1989, pp. 189-202.
120万人 フランチシェク・ザベック
Head of railway station in Treblinka, acc. to Gitta Sereny, in: Eberhard Jackel, Jurgen Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, Deutsche Verlags-Anstalt,
Stuttgart 1985.
107万4千人 ラヘル・アウエルバフ
Rachel Auerbach, "In the fields of Treblinka" in: A. Donat, The Death Camp Treblinka, Holocaust Library, New York 1979
97万4千人 フランク・ゴルチェウスキ
W. Benz, Dimension des Volkermords, Oldenbourg, Munich 1991. p. 495.
91万2千人 マンフレッド・バーバ
Manfred Burba, Treblinka. Ein NS-Vernichtungslager im Rahmen der "Aktion Reinhard", Gottingen 1995, p. 18.
90万人 ヴォルフガング・シェッフラー
Expert report for the Dusseldorf Schwurgericht, A. Ruckerl,
NS-Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse, dtv, Frankfurt 1977, p. 199; Ino Arndt, Wolfgang Scheffler, "Organisierter Massenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern," in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,24 (1976), pp. 127f.
88万1390人 イツハクアラド
Y. Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka.
The Operation Reinhard Death Camps, Indiana University
Press, Bloomington/Indianapolis 1987, pp. 392-397
87万人 ホロコースト百科
Israel Gutman (ed.), Encyclopedia of the Holocaust, MacMillan, New York 1990 vol. 4, p. 1486.
80万人 ルーシー・ダヴィドヴィチ
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149 for the individual camps, also including non-Jews
73万1600人ズジスワフ・ウカシェヴィチュ
URSS-344. GARF, 7445-2-126, pp. 323-323a(p. 9f. of the report); Zdzislaw Lukaszkiewicz, "Obozzaglady Treblinka," in: Biuletyn Glownej Komisji Badania
Zbrodni Niemieckich w Polsce, no. 1,
Poznan 1946, pp. 133-144, here p. 142.
75万人 ラウル・ヒルバーグ
Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.
70万人以上 ヘルムート・クラウスニック
Expert report for the Dusseldorf
Schwurgericht, A. Ruckerl, NS-Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse, dtv, Frankfurt 1977 , p. 199; Ino Arndt, Wolfgang Scheffler, "Organisierter Massenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern," in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,24
20~25万人 ジャン・クロード・プレサック
Valerie Igounet, Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, pp. 640f.

 

マイダネクの殺害方法は、 ガスボンベに詰められた一酸化炭素チクロンBから発生し たシアンガスとなっています。
Communique of the Polish-Soviet Extraordinary Commission for investigating the crimes committed by the Germans in the Majdanek extermination camp in Lublin, Foreign Languages Publishing House, Moscow 1944; USSR-29, cf. IMT, vol. VII, pp. 379f., 451f., 565.

(註:マイダネクの犠牲者数は)

170万人 ルブリン裁判
Verdict Lublin, Dec. 2, 1944, APMM, sygn. XX-1, p. 100.
150万人 ニュルンベルク裁判
Dokument USSR-29, IMT, vol. VII, p. 590.
138万人 ルーシー・ダディドヴィチ
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149 for the individual camps, also including non-Jews.
36万人 ①ズジスワフ・ルカーシェビチ
イスラエル ガッドマン
①Zdzislaw Lukaszkiewicz,
"Oboz koncentracyjni i zaglady Majdanek," in: Biuletyn Glownej Komisji Badania Zbrodni Niemieckich w Polsce, vol. 4
(1948), pp. 63-105.
②Encyclopedia of the Holocaust, vol. III, p. 939.
25万人 ヴォルフガング・シュフラー
ホロコースト大百科
23万5千人 Czeslaw Rajca
C. Rajca, "Problem liczby ofiar w obozie na Majdanku" (The problem of the number of victims in the camp at Majdanek), Zeszyty Majdanka, Vol. XIV (1992), p. 127.
16万人 Jozef Marszalek
J. Marszalek, Majdanek. The Concentration Camp in Lublin. Interpress, Warsaw 1986. p. 125.
12万5千人 Martin Gilbert (Jews only)
Martin Gilbert, Auschwitz and the Allies, Holt, Rinehart and Winston, New York 1981 p. 329, fn. 2.
10万人 Jean-Claude Pressac
"Entretien avec Jean-Claude Pressac realise par Valerie Igounet, in: Valerie Igounet," Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, pp. 651f. (www.vho.org/aaargh/fran/tiroirs/tiroirJCP/jcpvi0003xx.html).
5万人 Raul Hilberg (Jews only)
Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.

最後に、 問題のアウシュヴィッツです。 殆ど知られていないことですが、 実はアウ シュヴィッツでの殺害方法は、戦時中には色々な説が唱えられていたのです。
戦時中のポーランド抵抗運動報告では、
電気風呂 ? ?、
空気ハンマー??、
戦争ガス??、
という随分と幻想的な方法が登場しています。

この報告全文は、 Enrique Aynatによって、 Estudios sobre el “Holocausto, locausto "Graficas Hurtado Valencia 1994に公表されている。

そして、アウシュヴィッツが占領された直後、 1945年2月2日発行の「プラヴダ」 には、ユダヤ系従軍記者ソ連人ボリス・ポレヴォイによるレポートが掲載されました。
そこで描かれたのは、なんと「殺人電気ベ ルト・コンベア」 でした。これが中々に面白い文章なので、全文を読み上げます。

「昨年、赤軍がマイダネクの恐るべき、おどろおどろしい秘密を全世界に暴いたとき、アウシュヴィッツのドイツ人は犯罪の痕跡を消し始めた。彼らは、収容所の東側にあったいわゆる『古い埋葬地』の土をならし、電気ベルトコンベアを壊し、その痕跡を消した。そこでは、数百の人々が同時に電気処刑され、その死体はゆっくりと動くベルトコンベアの 上に投げ捨てられ、溶鉱炉のてっぺんにまで運ばれて、そこに捨てられ、完全に焼却された。残った骨は、粉引きミルに運ばれて粉々となり、周辺の農場に送られたというのである。
子供を殺すための特別な可動装置もあった。 収容所東地区の固定ガス室はうまく作りかえられており、ちょっとした出窓や飾りもつけられていたので、なんでもないガレージのように見えた」

それ以外に、炉の中で、生きたままで焼却する①壕の中で生きたままで焼却する②、といった方法も証言があります。
①Eugene Aroneanu, Camps de Concentration, Office Francais d'Edition, Paris 1945, p. 182. ②Elie Wiesel, Night, New York, Hill andWang, 1960, p. 42.

そして、終戦以降はご存知の通りチクロンBを使ったガス室による処刑が定着したのです。
アウシュヴィッツでの「殺人ガス室」についての証言自体は、戦時中ハリコフで行 われた虐殺裁判で、すでに登場していました。
次に表示するのは、1943年12月16日、SS 将校ハイニシュによる証言です。

検事:ゾーマンとの会話について話してください。
ハイニシ:ゾーマンは、 毒ガスによる死が苦痛もなく、人間的であると話しました。ガス・トラックでは、死は非常に急速だが、 実際には、12秒以内ではなく、もっと遅いこともあり、その場合には、苦痛を伴うと話しました。ゾーマンは、囚人のガス処刑が実施されているドイツのアウシュヴィッツ収容所のことを話してくれました。人々に対しては、どこかに移送されると話され、外国人労働者に対しては、本国に送還されると話され、 浴室に入るとの口実でそこに送られた。処刑される人々は最初、「殺菌駆除」との標識のついた場所に入り、そこで服を脱いだ。男性は女性と子供から分けられた。そして、「浴室」との標識のついた場所に進むように命令された。人々が自分の身体を洗っているときに、特別なバルブが開かれ、ガスを送り込んで、彼らを殺した。死者は200体を一度に焼却できる特別な炉で焼かれた。
The People's Verdict, p. 90.

興味深いことにガスは特別なバルブが開かれて送り込まれることになっています。

この方法は、チクロンBを天井の穴から落とすという現在言われているバージョンと は全く異なります。

ともあれ、アウシュヴィッツでの犠牲者数を多い順から列挙していきましょう。
900万人ドキュメンタリー映画 『夜と霧』
32分のモノクロ映画 『夜と霧』 は、フランスの大学、高校・中学、テレビで繰り返し上映されている。
800万人
フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービス。
700万人
Raphael Feigelson (1945)。
600万人
ミクロスニーシェリ (1951)の序文の筆者Tibere Kremerによる。
500万から550万人
Bernard Czardybon (1945) による、何名かのSS隊員の自白
450万人
Henryk Mandelbaum (1945).

そして、最も重要な人数は、ニュルンベルク裁判で認められた、400万人です。
この数字の起源は、1945年5月6日のソ連側資料です。多くの重要な証言が、この数字と合致しています。ルドルフ・ヘスの自白では彼が収容所長をしていた任期中に250万人殺された、となっています。この数字も比例計算をすると、総計で約400万人となります。

続いて……

350万人
Dictionnaire de la langue francaise
『フランス語辞典』 published by Hachette(1991) による。
300万人のユダヤ教徒
David Susskind (1986)
250万人
アイヒマン裁判 (1961) でのルドルフ・ウルバによる。
200万人
レオン・ポリョーコフ
ルーシー・ダヴィドヴィチGeorges Wellers(1973).
160万人
Yehuda Bauer (1989)。
150万人
Lech Walesaが選択した1995年に修正されたビルケナウの記念碑
1471595人
歴史家Georges Wellers (1983) 200万人から修正 ※1352980人がユダヤ
125万人
100万人のユダヤ人が「殺され」、25万以上の非ユダヤ人が「死亡」。
ラウル・ヒルバーク
110万人から150万人
Yisrael Gutman, Michael Berenbaum, Franciszek Piper (1994)
100万人
ジャン・クロード・プレサック (1989)
80~90万人
Gerald Reitlinger (1953) による。
77.5~90万人
ジャン・クロード・プレサック (1993)
63~71万人
ジャン・クロード・プレサック (1994)
36万人
フリツォフメイヤー (2002)
(ガス処刑された人数)

長々と、犠牲者数を読み上げましたが、ようやく終わりました。 全てをまとめると、この表の通りです。

さて、これほど幅のある数字から、ホロコースト全体の犠牲者数をどのように算出すればよいのでしょうか。
研究者によってどの数字を支持しているのかは、非常に異なります。

終戦直後ではこのようになっていました。

研究者の例を挙げますと、ラウル・ヒルバーグはこのように採用しています。

ルーシー・ダヴィドヴィッチは、このように採用しています。

(13)屋外での殺害数なども合わせた虐殺合計数はこのようになります。

どうでしょうか。

各数字は、まるでバラバラなのに、合計数では500〜600万人の間に収まっていることが判ると思います。

この数字(註:上表の※で記される600万人のこと)については、単独のソースです。 だから上の数字の合計と全く合わないのです。

(14)この600万人という有名な犠牲者数は、二人のドイツSS官僚の伝聞証言にもとづいています。そのうちの一人、ヴィルヘルム・ヘットルによる証言は、ニュルンベルク裁判では文書証言としてだけ提出されました。
もう一人のディター・ヴィスリセニイは法廷で証言をしました。

IMT, Nuremberg 1947, Vol. III, p. 569, Vol. XI, p. 228-230, 255-260, 611, Vol. XXII, p. 346, Vol. XXXI, p. 85f. vol. IV, pp. 371.

二人の証人とも、アイヒマンから600万人という数字を聞いたと証言しました。ただし、アイヒマン自身は1961年のエルサレムでの裁判でこれを否定しています。

R. Aschenauer, ed., Ich, Adolf Eichmann (Leoni [Bavaria]:
Druffel, 1980), pp. 460-461, 474; Jochen von Lang, ed., Eichmann Interrogated (New York: Farrar, Straus and Giroux, 1983), pp. 117-118. Dieter Wisliceny, another former SS officer, made a statement similar to Hottl's at Nuremberg on Jan. 3, 1946, but spoke of "only" four or five million Jews killed. IMT, vol. 4, p. 371. Eichmann later called Wisliceny's comments "theater," and said that he never had any figures of "exterminated" Jews. See von Lang, ed., Eichmann, pp. 164-165, 94-95, 110-117.

所が驚くべきことに、この(15)600万人という犠牲者数は、終戦後に判明したのかと思いきや、戦時中から存在しているのです。

First quoted by Arthur R. Butz, The Hoax of the Twentieth Century, Historical Review Press, Brighton 1976. All quotes from the 3rd edition, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, p. 100-104

ニューヨーク・タイムズ』 1943年3月10日の記 事12頁: 「・・・ 200万人のユダヤ教徒がヨーロッパで .. 殺された。 ・・・計画によると、 残りの400万人が殺されようとしている」 (2+4=6百万人)
ニューヨーク・タイムズ』 1943年3月2日の記事 1、 4頁:「ナチの拷問と虐殺から逃れることをできる人々を救うことで、 同胞ユダヤ教徒600万人の生きる自由を保障するように [とラビのヘルツは述べた]」
ニューヨーク・タイムズ』 1942年12月13日の記事 21 頁: 「・・・信頼すべき情報によると、 すでに 200万のユダヤ教徒が悪魔的な野蛮な方法で虐殺されており、ナチ支配下ユダヤ教徒すべてを絶滅する計画が発動されている。 ヒトラー支配下ユダヤ住民3分の1がすでに殺戮されており [3×200万= 600万] 全員を殺戮することは比類のないホロコーストである」

さらにさらに驚くべきことに。この(16)数字の起源は、第二次大戦勃発前、1920年までさかのぼることができるのです。

ニューヨーク・タイムズ1920年5月7日:「... 中央ヨーロッパと東ヨーロッパのユダヤ戦争難民、ここでは600万人が、飢餓、疫病、死という恐ろしい状況に直面している・・・」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月5日 9 頁:「東ヨーロッパの600万人の男女を飢餓と疫病による絶滅から救うために・・・」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月5日19頁:
「戦争に引き裂かれたヨーロッパの、 飢えと熱病に苦しむ 600万人が、われわれに訴えている・・・」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月3日11頁:「東ヨーロッパと中央ヨーロッパ600万人の命を救うためにあなた方の援助が必要です」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月2日1頁:「600万の人間が、食料、宿舎、衣服、 衣料のないまま放置されている」
ニューヨーク・タイムズ』 1919年11月12日 7 頁:「600万人、世界のユダヤ人口の半分、100万の子供と…500 万の両親と老人が、悲劇的なほど窮乏化し、飢え、疫病にかかっている」

(註:以下は当時の記事のまとめを紹介するサイトの画像)

http://balder.org/judea/Six-Million-140-Occurrences-Of-The-Word-Holocaust-And-The-Number-6,000,000-Before-The-Nuremberg-Trials-Began.php(註:このアドレスにあるサイトは閉鎖れておりアクセスできないので、閲覧する場合はWebアーカイブを参照してください)

(註:以下、いくつかの画像(上記サイト内にあるものばかりです)を紹介しながら画像を変えるたびに「600万人」とだけアナウンスが入っています)

何と、1869年まで遡る事が出来るのです。
一説には、「600万人の同胞を失ったのちに約束の土地に帰ることをユダヤ教徒に約束する古代ユダヤの予言」があるとされますが、信憑性は不明です。

Benjamin Blech, The Secret of Hebrew Words, Jason Aronson, Northvale, NJ, 1991, p. 214.

このような事実を踏まえて、この表を改めてご覧ください。

まるで、 600万人という結論が初めにあったが、終戦直後に認定した個別の人数だと合計 が多すぎてしまう そこで次第に合計数が 600万に近づくように個別の人数が調整されていった……そんなように見えませんか? これでは、ホロコースト正史に対して不信感を覚えるのも無理からぬことではないでしょうか。

次回の動画では、 さらに正史の内容を突っ 込んで分析していきます。
その為に、世界で最も有名な収容所の死者 に登場してもらいましょう。
そうです。 あの少女です。
アンネ・フランクが辿った運命を紐解けば、ホロコースト正史の正体が見えてくるのです。

 

 

(1)絶滅収容所には囚人は一人もいなかったの?

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ではいったいどうやって、殺したユダヤ人の遺体処理を行っていたのでしょうか? これは一例に過ぎませんが親衛隊が、囚人であれ非囚人であれそれらの遺体処理をユダヤ人ゾンダーコマンドにやらせていたことは、ホロコーストではイロハのイのレベルの常識です。絶滅収容所でも、他にも様々な雑用的労務があり、それらは選別して生かしておいたユダヤ人囚人にやらせていたのです。だからこそ、トレブリンカやソビボルでは囚人による暴動が起きたのです。

絶滅収容所の反乱 | ホロコースト百科事典

加藤の基本的知識のなさには呆れるばかりです。

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(2)強制収容所では囚人たちは「工場」でしか働かなかったの?

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いいえ。収容所内などの建設工事、鉱山労働や土木工事、収容所内のあらゆる雑務、親衛隊業務の補助、もちろん火葬場の遺体処理等、可能な仕事はなんでも囚人にやらせていました。医師資格があるなら囚人医師として働かされたし、音楽家ならアウシュヴィッツオーケストラのような収容所内楽団にも配属されたし、写真家なら囚人の登録写真なども撮っていたし、・・・とにかく可能な限りのありとあらゆる仕事をさせられたのです。加藤は本当に雑な認識で困ります

ジャン・クロード・プレサック『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』p.339より

 

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(3)「ガス処刑」自体は記録に残ってはいませんが……。

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ナチスドイツ自身による当時の収容所での死亡者に関して、毒ガスで殺されたと明記された記録文書は一切残されていないのは確かです。加藤が図で示した「移送集団」の図はかなり杜撰ですが、それはともかく、その図の右下にある「死亡証明書」がなぜ存在するのかというと、ドイツの法律によるものだったからです。アーロルゼン・アーカイブ(ナチス迫害国際センター、旧国際追跡サービス(ITS))の説明によると、

この書類は、正式には死亡台帳記載事項または死亡帳記載事項として知られている。強制収容所の囚人だけでなく、他の囚人にも公式に記入された用紙である。現在でも適用される正式な法律として、死亡者はドイツの登記所に登録しなければならない。強制収容所で死亡した囚人もまた、死亡登録簿に記載されることになっていたが、この登録簿は囚人の国籍やユダヤ人とみなされるかどうかによって大きな違いがあった。この書式は、すべての収容所と市民登録所で基本的に同じであった。このため、異なる強制収容所のスペイン人、ドイツ人、ポーランド人死亡囚人の記載は類似している。書体とそれぞれの登録官の筆跡が異なるだけである。

「(ガス)処刑」は、法的な処刑でない限り、純粋に不法な殺人ですから、こうした正式な記録に残せないことは当然ですが、囚人として登録されている場合は登録されている以上、囚人が収容所内(ナチス管理下)で死亡した場合には、原則としてこの死亡台帳記載事項を発行しなければならなかったと考えられます。しかし、死因を書かねばなりませんから、「(ガス)処刑」とは書けず、死因を改竄したと考えられます。それがこちらにある記録の改竄です。このように、死因の改竄があったので、ガス処刑されて死亡した囚人の死亡記録が存在したとしても、死因が書き換えられているため、死亡記録上はガス処刑が存在しないことになっているだけだと考えられます。

加藤は、死亡記録の改竄があった事実を知らないので仕方ないとは思いますが、「その他の要因で死亡した場合には、死亡証明書が残される」ではなく、死亡記録には(ガス)処刑以外のその他の要因しか書かれていない、だけなのです。

もちろん、アウシュヴィッツやその他の絶滅収容所で囚人登録されずに殺された、あるいは現地で大量虐殺にあったようなユダヤ人の死亡者のような場合、そもそもが囚人として登録されていないのですから、死亡記録を発行する必要もなかったでしょう。それらの人たちは、書類記録上は死んでおらず単に行方不明になっただけ、とでも考える他はありません。もちろん、その本当の行き先を修正主義者に尋ねてもわかるわけありません。

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(4)ホロコーストの犠牲者は「仮説」なのか?

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「仮説」とは、単純に言えば、証明されていない真偽未定の説、とでもいうことになるでしょう。しかし、加藤の説ではない一般世間の説では、死亡記録に残っている囚人の死亡者もホロコースト犠牲者に含まれると考えていいでしょう。あるいは、例えば、ホロコーストの写真としてよく使われてきたベルゲン・ベルゼンなどの強制収容所の大量死体について、その死亡記録が全て発行されてきたとは思えません(例えば、あのアンネ・フランクの死亡記録は見つかっていません)が、死亡記録がないからと言って、死体があったのが確実なのに、実際には死んでいなかった、とは少しも考えは及ばず、また一般的にそれらもホロコーストの犠牲者に含まれます。これらは決して仮説ではありません。

ガス処刑、あるいは銃殺(他の暴行などもあったでしょう。細かく言えば人体実験なども含まれます)による、ナチスドイツが隠したはずの犠牲者についてはどうでしょうか? もしかしたらそれらのケースは実は死んでないのでしょうか? ガスで殺されておらず、銃殺もされていない? むしろそちらの実際には死んでないという方が仮説なのではないのでしょうか? しかも証明不能の。

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(5)絶滅収容所以外の収容所ではナチスは囚人を生かし続けるだけだった?

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批判の対象としてホロコースト否定論にばかり集中していると、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所以外の強制収容所については、なかなか関心が向かないのですが、さすがに強制収容所で囚人を一人も殺さなかった、なんて説は聞いたことがありません。例えば以下のページを読んでみましょう。

ブーヘンバルト (簡約記事) | ホロコースト百科事典

「親衛隊員は囚人を馬屋で射殺したり、焼却炉の周辺で絞首刑にしたりしました」

「1941年からは、多数の医師や科学者がブーヘンバルトの囚人に人体実験を行いました。これらの実験は主に伝染病を対象としていたため、何百人もが死に至りました

「親衛隊員はブーヘンバルト収容所システム全体で定期的に「選別」を行い、虚弱で働けない者を安楽死施設」に送って毒ガスで殺害しました。また、ブーヘンバルトでは、親衛隊医師が働けない囚人にフェノール注射を打って殺害しました」

「1945年4月初旬に米国軍が侵攻してくると、ドイツ軍はブーヘンバルトとその補助収容所から約3万人の囚人を避難させました。その3分の1が極度の疲労で死亡するか、親衛隊によって射殺されました」

「親衛隊は少なくとも5万6,000人の男性囚人をブーヘンバルト収容所システムで殺害し、そのうち1万1,000人がユダヤでした」

私は述べた通り、強制収容所についてはこれらの既存の記述からしか知識を得ていないので、これらの殺害がどのような根拠によっているかなどについては知りません。しかし、加藤がそこで述べているのは「正史の枠組み」だと言ってます。でも、上の引用は、米国ホロコースト記念博物館のサイトであるホロコースト百科事典にある説明であり、正史の代表的な説明としか言いようのないものです。そこには、加藤の言っているのとは全然違うことが書いてあるのです。一体この違いはなんなのでしょうか? 

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(6)以上が「1960年以降に固まった定説」?

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(1)〜(5)で述べた通り、加藤の認識は間違っているので、そもそもが話にならないのですが、「1960年以降に固まった定説」自身の根拠が何も書かれていません。しかし、「1960年以降に固まった定説」と述べて、加藤が何を言いたいのか、よくわかりません。おそらく、前回述べたブローシャートのディーツァイト誌への寄稿を意識して「1960年」と述べたのでしょうが、ブローシャートの寄稿が「正史派」の世界に影響して定説が作られていったとする説の証明は何もありませんし、加藤がそれ以外の当時の説を検討した気配も全くなく、何故そんなことが言えるのかさっぱりわかりません。ともあれ、認識が間違っているので無駄な説明ではあります。

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(7)ヒトラーによるユダヤ人絶滅命令のあった日がバラバラと言いますが……。

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さて、ヒトラーによるユダヤ人絶滅の命令についてですが、明確な命令書が存在しないことは、ホロコースト否定に興味があったら誰でも知っていることかと思います。ほとんどの歴史家はヒトラーによるユダヤ人絶滅命令は口頭でなされたと考えているようです。例えば、日本の代表的なホロコースト研究者の一人である横浜市立大学客員教授(2023年現在)である永岑三千輝氏は以下のように述べています。(加藤の中身のない話を読むよりこちらを読む方がはるかに為になると思うのですが)

ヒトラーユダヤ人「絶滅命令」も、80年代以来、ひとつの大きな論争の的である。右翼作家アーヴィングを代表とする一部の極右勢力とそのエピゴーネンは「絶滅命令」書が存在しないことを理由にヒトラーの絶滅命令、彼の直接的関与を否定する。しかし、仮にヒトラーの絶滅命令がなかったとしても、ユダヤ人大量虐殺の厳然たる事実を否定できない。その証拠はホロコーストの主体的担い手である帝国保安本部の文書類をはじめとして無数にある。したがって、ヒトラー命令が存在しないと主張することは、ヒトラーの免罪と英雄化、さらに深くはヒトラーの思想と行動の基本にある民族主義的世界観、人種主義的民族主義への共感・賛美を意味するに過ぎない。この潮流は、歴史の風化に掉さして、さまざまの次元でホロコーストを否定しようとする。第二次世界大戦後、現在まで、世界の民族主義、人種主義、反民主主義、反ユダヤ主義の潮流は、ナチズム、ファシズムに共鳴し、その汚点をぬぐおうとする。この潮流は、現在のアメリカに見られるように、移民、黒人、ヒスパニック、アジア系アメリカ人、そしてゲイやレスビアンへの攻撃を行っている。その潮流の思想と運動の一環として、ホロコースト否定論がある。
歴史修正主義」を標榜するこの潮流の妄言を別とすれば、十数年来の論争を通じて、ヒトラーの「絶滅命令」が口頭で発されたことに関して歴史研究者の認識は一致している。逆にいえば、ヒトラーが何らかの命令を下すことなくしてあのような歴史的悲劇ユダヤ人の大量虐殺はありえない、ということである。すなわちホロコースト政策の展開においてヒトラーは直接、ヒムラー、ハイドリヒなどに口頭命令を発し、あるいはヒムラーやハイドリヒが提案する具体策に承認を与え、鼓舞しながら関与したとみる点で歴史研究者は共通している。歴史家の間で論争になっているのは、「絶滅命令」の具体的な発令時点であり、その発令内容の具体的中身である。歴史家は公刊・未公刊の既知史料群の再検討を行いながら、ソ連東欧崩壊によって新たに接近が可能となった文書館で発掘した史料を加味し、今日的視野から過去の歴史叙述を修正し、ホロコーストの事実経過と結果をより精密に描く努力を続けている。ヒトラーがいつ、どのような理由で、誰に、どこで、いかなる意味合いで、どのような「絶滅命令」を発したのか、こうしたことの精密な確定が問題となる。論争の厚みからして、議論は細部に及ぶことになる。

永岑 三千輝、「ヒトラー「絶滅命令」とホロコースト(論点をめぐって)」、『土地制度史学』、土地制度史学会、2000年42巻2号、pp.37-38(pdfファイルダウンロードリンクはこちら:強調は私)

私は学者でも研究者でもない、ホロコースト否定論だけに特化したまだまだ未熟なアマチュアでしかないので、2023年現在のホロコースト研究成果までは存じておりません。ですから、永岑氏のこの解説以降、もしかしたら説が色々と改定されている可能性もありますが、とりあえずここでは永岑氏のこの解説を参考とします。

加藤はそこで、その命令の発令時期について、諸説があることを述べています。それ自体は永岑氏も加藤が述べているのとは別の研究者の名前を挙げて、同論文で解説されておられるように、諸説があります。加藤は、これら諸説があることを、後述で「未だ命令の発令日も不確かな状況で、ヒトラーの命令があっただなんてよく言えるな!」の趣旨のことを述べていますが、修正主義者でない歴史研究者たちは、そもそもがホロコーストがあったこと自体を否定などしていないのですから、ヒトラーの命令がなかったこと自体が考えられない、としているのです。

しかし、その発令時期については、明確な証拠がないので、様々な歴史的事実を示す根拠から、その発令時期を推測するしかないのです。これは例えば、邪馬台国畿内説と九州説の関係のようなものかもしれません。未だ二つの説があるからと言って、邪馬台国がなかった、あるいは卑弥呼はいなかったという人はいないのではないでしょうか? さらには、こうした諸説が存在する状況について、それ自体がおかしいとする加藤の言い分は、全く理解できないものでもあります。未確定の事柄について諸説が存在することはよくある話でしかないからです。例えば、ケネディ大統領暗殺事件について、米国政府はオズワルド単独犯行説で決着させてはいますが、未だに他にもいくつもの説があることはよく知られています。もちろん諸説があるからと言って、ケネディが実際には暗殺されなかったと主張する人はいません。

ところで、ここでは加藤は少々手を抜いており、ネタ元を表示し忘れているようです。そこでリストされている「エーバレオン・ポリャーコフ」から「セバスティアン・ハフナー」までのネタ元は、他にもいくつかのネタを使ってはいるようですが、当然ですが加藤自身はそれらの研究者等の記述を直接調べてはいません。例えば、ユルゲン・グラーフによる「粘土足の巨人」の中からネタを引っ張っていることはわかっています。グラーフはそこで、クリストファー・ブラウニングの論説を引用しているので、形式上は孫引きに近いものではありますが、加藤はそもそも出典を明示していないので、単なる出所不明の情報にすぎず、孫引きですらもありません。

しかし余談ではありますが、私は「エーバレオン・ポリャーコフ」なる人物の名前を聞いたことがありません。ミスタイプだと思いますが、正しくは「レオン・ポリャーコフ(レオン・ポリアコフ:Léon Poliakov)」です。ちなみに、「ポリャーコフ」の表記は、歴史修正主義研究会で紹介されている翻訳文中にしかありません(ネットのどこにもそこ以外はないようです)。また、リストの中に入れられているルドルフ・ヘスの証言による発令時期は、研究者が発令時期推定の一つの根拠として用いるものなので、研究者の推定と一緒に並べるのは不適切です。

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(8)そのブローシャートの資料らしきものは何でしょう?

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そこにある画像のことですが、その画像内の文字列でググっても、如何なる資料もヒットしません。加藤はその出典を明示しておらず、どこからそんな文章を出してきたのかもわかりません。ただし、加藤の述べる「ブロシャートは、ヒトラーは、ユダヤ絶滅について最終決定を下さなかった」については、こちらのイタリア人修正主義者であるカルロ・マットーニョの論文の翻訳記事からのネタであることはわかっています。

ミュンヘンの現代史研究所前所長マルティン・ブロシャートは、ブローニングが指摘しているように、「ヒトラーは決定的な決定を下しておらず、最終解決の全体命令を出してもいなかった」という論理的な結論に達しています。

ともかく、加藤が孫引きの常習犯であるのはもう十分過ぎるほどわかっているのでそれはいいとして、せっかく自分でどこからから引っ張ってきた資料の出典名を示さないのは意味がわかりません。出典名を出してしまうと何か不都合でもあるのでしょうか?

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(9)アウシュヴィッツでの最初のガス処刑について

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ここでは、アウシュヴィッツ主収容所(第一収容所)で行われたブロック11での最初の毒ガスによる殺害実験がいつであるかについて述べられていますが、ここでもいつものとおり、あたかも加藤自身が赤で示した文献を調査したかのように「孫引き」を使っていますが、元ネタはばれています。元ネタは、

アウシュヴィッツ 伝説の終焉(マットーニョ)

です。しかし、そのマットーニョの議論には問題があることは以下で述べられています。

note.com

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(10)「ホロコーストが無かったというのなら、原爆投下も太平洋戦争も無かったのか?」という反論についての加藤の反論自体がおかしい。

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憶測にすぎませんが、加藤はネットでのホロコーストについての大論争をしていた時期に、論敵からそんなことを言われたのでしょう。私自身は何人もの修正主義者とネットで議論を重ねていますが、そんな反論をした記憶はありません。ただ、西岡昌紀と旧Twitterでやり合っていた時に、広島の原爆の話をした記憶はあり、加藤とそっくり同じ反応が返ってきた記憶があります。「アウシュヴィッツの再建された第一ガス室が捏造だというのであれば、広島の原爆ドームは何度も修復工事を受けているがあれも捏造だというのか?」みたいなことを言ったかと思いますが、西岡は加藤同様に原爆ドームは修復の記録もちゃんと残ってるとかなんとか言ってましたっけ。

私自身は、旧Twitter上で外国人の修正主義者から、原爆投下捏造論みたいなことを言われたことがあるのですが、理論的には何でもかんでも捏造であると疑惑視することは可能です。証拠があってもそれを証拠の偽造とすればいいだけだからです。ですから、西岡や加藤のような再反論は、そもそもの反論の趣旨をわかってないわけです。私がたまに例示する論理に、バートランド・ラッセルによる「世界5分前仮説」と呼ばれるものがあります。

世界五分前仮説 - Wikipedia

この仮説は否定することは不可能です。論理形式的にはこれと同じで「陰謀論」はどんなことであろうとも、その陰謀論で説明可能だ(が証明はされない)、という事実はよく知られていると思います。ホロコースト否定論は、どうやったって陰謀論に頼らざるを得ないので、実はホロコースト否定論の根本的問題はその「陰謀論=未証明の仮説」に頼らざるを得ないことにあるのです。ユダヤ人や連合国の陰謀って奴ですね。例えば、否定派はユダヤ人虐殺を証明するような文書などの証拠が出てくると、それを解釈で否定できない場合、捏造を主張し始めるのがそれです。だったら、その捏造それ自体について5W1Hを証明しなければならないはずです。しかし否定派からそれが示されることはありません。あるいは後述するような「600万人説の起源」については、それ自体が陰謀の証拠であると否定派は主張しますが、陰謀疑惑のみを前面に押し出している時点でそれらの主張が無意味であることをわかっていません。

さて、加藤は、そうした否定論への反論に対して、「日本が対米開戦を決定したのは 1941年11月5日と明確に判明」と述べていますが、開戦決定日については諸説があるのではないでしょうか? その日の御前会議で決定されたのは、米国との交渉に決裂した場合に武力を発動する方針(帝国国策遂行要領(11月5日付))であって、文面上は、開戦それ自体を決定したわけではないようにも読めます(明確に「対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す」と書いてあります)。「対米英蘭戦争決意し」とは書いてありますが、「決定」とは書かれていないですし。流れとしては11月26日のハル・ノートで交渉を絶望的だと判断したからこそ、11月5日の要領に基づいて12月1日の御前会議で対米戦争を決定したのではないのでしょうか?

もちろんこれは形式上というか、手続的な流れの話であって、意思決定は11月5日とする考え方もありますが、たとえそうだからと言ってもそれと同様に、ホロコーストにおけるユダヤ人絶滅決定日が説として確定してなければおかしい、ということにはならないと思います。少なくとも、ヒトラーユダヤ人絶滅を承認していたことは、いくつかの証拠があり、その一つがいわゆる第51号報告書だったりするわけです。歴史家たちはなんの根拠もなしに命令があったと言っているのではないのです。

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(11)命令日が未確定だからホロコーストはなかった?

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前項と同じ趣旨ですが、加藤は、原爆の投下日決定が判明しているのに、ユダヤ人の絶滅決定日が不確かなのはおかしいではないか、のようなことを述べていますが、原爆の投下日決定が判明したのは戦後のことでしょう(いつ判明したのかなんて知りませんが、当たり前のことです)。しかし、もし仮に、投下日決定を示す決定的資料(資料で判明したのかどうかも知りませんが)が米国で行方不明になっていたとしたら、判明していなかった可能性があります。もしそうだったとしても、原爆投下の意思決定はなかった、なんてことにはならないでしょう。その場合には、ホロコースト同様に、原爆の投下日決定について諸説が入り乱れていた可能性も十分あり得ます。これは論理的には前述の対米開戦決定日にも言えます。

あるいは、逆に加藤のような意見を持つ修正主義者に聞きたいのは、ではホロコーストユダヤ人なり連合国なりが捏造しようと決定したのは何年何月何日の話なのでしょうか? それこそ修正主義者たちがそれを諸説として説明したことすらありません。

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(12)各収容所の殺害方法や犠牲者数がバラバラだとおっしゃいますが。

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ここでは加藤の議論そのものが無茶苦茶です。今回引用が長くなったのは、加藤自身の説明をもっともらしく見せかけるために装飾の意味だけで入れている孫引きの文献名がやたらとたくさんコピペされているからですが、加藤はそもそも「定説が定まっていない」ことを示すためにそれらを列挙していたはずです。ヒトラーによるユダヤ人絶滅決定の発令日の話がそうでしょう。確かに発令日については近年でも諸説があって確定しているとは言えないようです。

しかし、犠牲者規模や殺害方法について挙げられているものは、とっくの昔に否定されているようなものまで含まれています。例えば、トレブリンカの蒸気説は、ニュルンベルク裁判ですら採用されていません。これらについて以下、加藤の並べた順で収容所別に手短に解説したいと思います。但し、装飾目的の文献名について、それが本当はどこにあるのかについては、流石に量が多過ぎるので、今回はいずれもどこにあるのかは、すぐわかったもの以外は、探しません。

一応言っておくと、加藤はその文献名をコピペするだけのために手間がかかることをやっていることもしばしばあります。例えば歴史修正主義研究会で翻訳されている記事の元の原典をあたって、そこからコピペしたり、さらにそこから別の文献名をどうにかこうにか探していたりすることなどもあるので、また、それらがpdf文書であったりする場合も多く、単純にググるだけでは検索に引っかかってこない場合があります。どうしてそこまでして、自分が読んでもいない文献名だけをコピペするのに手間をかけるのか意味がわかりませんが。

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ヘウムノ(クルムホフ)

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ヘウムノ絶滅収容所は、世間的な認知はあまりない収容所のようで、知らない人がいても無理はないと思います。しかし、私が教科書のようにして使っている反修正主義者の代表的なサイトであるHolocaust Controversiesブログサイトでは、極めて詳細なヘウムノ収容所に関する記事シリーズが掲載されています。これを全部翻訳しようと一時期頑張っていたのですが、2023年9月現在、中途で挫折中です。

note.com

以上の記事に記されている通り、これほど大量の文書、あるいは証言などによって裏付けられているヘウムノ収容所での絶滅について、それが否定できるとは到底思えません。さて加藤は、「驚くべきこと」としてヘウムノ収容所での殺害方法が「ガス車」であったことを述べていますが、何が驚くべきことなのかについての理由の説明がないようで、単に視聴者に同意を求めているだけなのでしょう。

ヘウムノで3台のガス車が使われることになったのは、ヘウムノ収容所の起源が他の絶滅収容所とは異なるからだと考えられます。元々は、ポーランドを占領後、ヘルベルト・ランゲの特別行動部隊が各地の精神障害者を殺害するのに、一酸化炭素ボトルを使ったガス車を使用していたことに始まります。このゾンダーコマンド・ランゲが当初はヘウムノ絶滅収容所でのユダヤ人絶滅を行ったからなのです。

ヘウムノ絶滅収容所の目的は、ヴァルテ管区(ヴァルテガウ)やウッチ(リッツマンシュタット)・ゲットーのユダヤ人の絶滅にありました。このような経緯を学んでいたら、他の絶滅収容所ガス室のように定置式でないことについて、特に驚く必要はないでしょう。加藤は歴史をきちんと学ぶ気がないことがここでもはっきりわかります。

犠牲者数に諸説があることについては、加藤があげた資料を全て直接調べるのは困難なため、事情はよくわかりませんが、一言で言えば「ナチスドイツが公式データを残していない」ので、推計に頼るしかないから、です。こちらによると、「少なくとも15万2,000人」だそうです。

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ソビボル

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ソビボル絶滅収容所については、私自身は未だ詳しいことはほとんど知りません。解説は色々と読んでますし、勉強用に自分で英語版Wikipediaを翻訳したりしてはいますが、あまりホロコースト否定論にも出てこないので頭に入ってきません。

note.com

 

ですが、加藤が引用している「シャワー室に偽装された死の部屋の天井にある穴から落ちてくるらせん状の黒い物体」は、つい最近読んだことがあるのですが、どこに書いてあったか忘れました。多分、加藤の動画への反論のために色々と読んでいる最中だったので、加藤の元ネタを反論している反修正主義者のサイトにあったのでしょう。

当然ですが、そのような証言は、歴史家たちのいわゆる「定説」には採用されていません。無数の証言の中には「見てきたような嘘」もあるので、当然精査されて嘘や間違いは省かれなければなりません。

ガス室で使用された毒ガスである一酸化炭素排出用のエンジンの種類については、そのエンジンを持ってきて設置した親衛隊軍曹のエーリッヒ・フックスが1963年の裁判で証言しているので、ガソリンエンジンで間違いないでしょう。

.....We unloaded the motor. It was a heavy Russian benzine engine, at least 200 horsepower. we installed the engine on a concrete foundation and set up the connection between the exhaust and the tube.

I then tested the motor. It did not work. I was able to repair the ignition and the valves, and the motor finally started  running. The chemist, who I knew from Belzec, entered the gas chamber with measuring instruments to test the concentration of the gas. 

Following this, as gassing experiment was carried out. If my memory serves me right, about thirty to forty women were  gassed in one gas chamber. The Jewish women were forced to undress  in an open place close to the gas chamber, and were driven into  the gas chamber by the above mentioned SS members and the Ukrainian auxiliaries. when the women were shut up in the gas chamber I and  Bolender set the motor in motion. The motor functioned first in neutral. Both of us stood by the motor and switched from "Neutral" (Freiauspuff)  to "Cell" (Zelle), so that the gas was conveyed to the chamber. At the  suggestion of the chemist, I fixed the motor on a definite speed so  that it was unnecessary henceforth to press on the gas. About ten minutes later the thirty to forty women were dead.

"BELZEC, SOBIBOR, TREBLINKA - the Operation Reinhard 
Death Camps", Indiana University Press - Yitzhak Arad, 1987, p. 31-32

当然ですがこれは私の孫引きで(笑)、自分で翻訳していた記事を経由して、こちらからコピペしたものです。翻訳すると、

モーターを降ろした。少なくとも200馬力はある、ロシア製の重いベンジンエンジンだった。私たちはエンジンをコンクリートの土台の上に設置し、排気とチューブの接続をセットした。

それからモーターをテストした。動かなかった。点火装置とバルブを修理して、ようやくエンジンは動き出した。ベウジェツで知り合った化学者が測定器を持ってガス室に入って、ガスの濃度をテストした。

これに続いて、ガス処刑実験が行なわれた。私の記憶が正しければ、一つのガス室で30人から40人ほどの女性がガス処刑された。ユダヤ人女性たちはガス室の近くの開けた場所で服を脱がされ、上記のSS隊員とウクライナ人補助員によってガス室に追い込まれた。女性たちがガス室に閉じこめられたとき、私とボレンダーはモーターを作動させた。モーターはまずニュートラルで機能した。私たち二人はモーターのそばに立ち、「ニュートラル」(Freiauspuff)から「セル」(Zelle)に切り替えて、ガスがガス室に運ばれるようにした。化学者の提案で、私はモーターを一定の速度に固定し、以後ガスを押す必要がないようにした。約10分後、30~40人の女性が死んだ。

となり、ベンジンエンジンとは、ドイツなど欧州の何カ国かではガソリンエンジンを意味します。エーリッヒ・フックスはドイツ人なのでガソリンエンジンで間違いありません。

また、加藤は「現在では二番目のディーゼルエンジンガス室だとされている」と書いているので、英語版ウィキペディアで確認してみましょう。

The first gas chambers at Sobibor were built following the model of those at Belzec, but without any furnaces.[23] To provide the carbon monoxide gas, SS-Scharführer Erich Fuchs acquired a heavy gasoline engine in Lemberg, disassembled from an armoured vehicle or a tractor.

<日本語訳>
ソビボルの最初のガス室は、ベウジェツのガス室をモデルとして建設されたが、炉はなかった[23]。一酸化炭素ガスを供給するために、親衛隊軍曹エーリッヒ・フックスはレンベルクで装甲車やトラクターから分解した重いガソリンエンジンを手に入れた。

英語版Wikipediaより

あら? 加藤の言っていることと違いますね。この英語版ウィキペディアの記述箇所に用いられている文献は、

Schelvis, Jules (2014) [2007]. Sobibor: A History of a Nazi Death Camp. Translated by Dixon, Karin. Bloomsbury Publishing. ISBN 978-1-4725-8906-4.

だそうですので、2023年現在、あるいは加藤の動画の公開時点である2018年から言えばこの文献が最近のものであることに間違いありません。実は、ソビボルのガス室ガソリンエンジンを使っていたことはずっと以前から定説らしかったことも知っています。1999年に書かれたこちらでも、

少なくともソビボルで、ガソリンエンジンが使われたことは、フクスの証言から明らかになっています

のように、同様にエーリッヒ・フックスの証言からそのように述べられています。加藤はディーゼルエンジン説の根拠に1969年の古い文献名しか示していないし、加藤の言う「現在」がディーゼルであることの根拠は何も示されていないので、「それって嘘じゃないの?」と言いたくなりますね。

実は、歴史修正主義研究会の翻訳論文を読むと、ソビボルがディーゼルエンジンを用いたガス室だったとの記述が何度も登場するのです。例えば修正主義者でディーゼル・マイスターと呼ばれるフリードリッヒ・ポール・ベルクはこちらの記事で、「トレブリンカ、ベルゼク、ソビボルで行なわれたとされる行為をディーゼル・エンジンを使って行なうことは…」のようなことを述べています。ベルクは同記事で、ガソリンエンジンを使っていた説があることを否定までしてディーゼルに拘る姿勢を見せています。ベルクは、毒ガスとしてディーゼルエンジンの排ガスを使うのは不自然として、ガス処刑を否定する論者ですから、ディーゼル説でないと困るのでしょう。

確かに、ラインハルト作戦の三つの絶滅収容所(ソビボルが除かれる場合が多いが)のガス室やガス車では、毒ガス生成用に使われたのはディーゼルエンジンだったと言われていたようです。前述に示した1999年の日本の論述(その元サイトである対抗言論でも)でもガス車やトレブリンカ、ベウジェツについてはディーゼルエンジン説を主張していたようです。

しかし、実際にはガソリンエンジンの可能性の方が高かったようなのです。これは、以下にある一連の記事で説明されていますが、戦後の証言や様々な情報を精査することにより判明しています。

note.com

詳細についてはこれらの記事をじっくり読んでいただくとして、加藤がソビボルもディーゼルとされていると述べるのは、歴史修正主義研究会の資料にそう書いてあるから、以上のものではないと考えられます。

ソビボルの犠牲者数については、ヘウムノ同様「諸説があるのは、「ナチスドイツが公式データを残していない」ので、推計に頼るしかないから」ってだけの話だよね」ですね。ホロコースト百科事典によると「少なくとも16万7,000人」だそうです。

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ベウジェツ

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ベウジェツの殺害方法について加藤がリストアップした(実際にはユルゲン・グラーフの論文の54ページからコピペされているだけであるが)「7通り」の説は、これもまたディーゼル・エンジン説以外は歴史家が採用していない説(ヒルバーグの説として挙げられている「びん詰めの一酸化炭素」は引用された証言内に書かれているだけである)であり、そもそもベウジェツの殺害方法については、修正主義者が「嘘ばかり書いてある」として切り捨ててしまうクルト・ゲルシュタインが書いたレポートの中に書かれているディーゼルエンジンを用いた排ガスによるガス室による処刑のみが事実上、ニュルンベルク裁判以降ずっと採用されてきたことを、修正主義者が一番よく知っている筈ではないのでしょうか。

犠牲者の人数については、戦後の証言と研究者の推定数字が混ぜて並べられている雑さであり、これまた推計で複数の値が出るのは当たり前の話に過ぎません。ホロコースト百科事典によれば、「ドイツは約43万4,500人ユダヤ人と、不特定多数のキリスト教徒のポーランド人とロマ族(ジプシー)をベウジェーツに移送して殺害しました」とあります。

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トレブリンカ

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「殺害方法は非常にバリエーションがあります」と加藤は述べていますが、もちろんそれを一つ一つ私が調べることはできません。しかし、それら個々の殺害方法の出所は様々であるようなので、「こんなバラバラなんだからデタラメに決まってる」と述べるだけでは議論が雑すぎるでしょう。例えば、単なる噂話の伝聞に過ぎないものを、直接の目撃談とただ単純に同じレベルに並べるのは、情報の確からしさとして平等ではありません。従って、それら一つ一つの殺害方法の出所を可能な範囲で精査する必要があります。

実は、私が過去にHolocaust Controversiesブログサイトの記事を訳していて、その中の表も日本語訳してあります。

これらは、トレブリンカ収容所から脱走して、ワルシャワ・ゲットーの地下組織などの人たちに証言し、その記録が残っているものを示しています。こうして一覧を眺めると、多くは殺害方法は述べておらず、殺害方法を述べているものでは「ガス」が最も多いことがわかります。またこの一覧では、「電流(電気)」は一つしかなく、「蒸気」は3つしかありません。「電流」については、元記事の脚注によると、

[93] ある同僚が、キェルツェのトレブリンカ逃亡者とされる人物との面会について、電気について言及した「又聞き」の報告書を私のところに持ってきたのだが、その誤報はおそらく「収容所内部」からもたらされたものだろう。この同僚は、他の電気に関する報告も、周辺の田舎に渦巻く伝聞であった可能性があると指摘する。ベウジェツに関する誤った報告に基づく事前の伝聞の影響は確かである。

とあります。つまり、ベウジェツの殺害方法として挙げられている電気説と関連がある可能性があるのです。

また加藤は蒸気説についてニュルンベルク裁判でも、これが事実として採用されました」と述べていますが、そう書いた報告は裁判に提出されましたが、判決には採用されていません。詳しくはこちらにあります。

note.com

ここにあるとおり判決では、

働ける人は全員、強制収容所の奴隷労働者として使われた。働けない人は、ガス室で破壊され、体は焼かれた。トレブリンカやアウシュビッツなどの強制収容所は、この主目的のために用意されていた。

と述べられているだけなのです。何度も何度もですが、修正主義者は息を吐くように嘘をつくので、サラッと根拠もなしに書いてあることには本当に気を付けて読まなければなりません。

ちなみに、修正主義者はトレブリンカの殺害方法としてしつこくしつこく蒸気説に拘りますが、親衛隊が丁寧に殺害方法を囚人に教えるわけもないので、ガス室を外から直接見ていたとしたところで、ガスは見えないのですから、殺害方法を蒸気と勘違いしたところで何も不思議はありません。大量に犠牲者が裸で詰め込まれて、毒ガスで殺された後にドアを開けたら中から白い煙のようなものが見えたので、死体表面が汗まみれだったのと合わせて、その白い煙を蒸気と誤解した、のような可能性は大きいわけです。

いずれにしても、上の表にあるとおり、種々の殺害方法についての出所のほとんどがトレブリンカ収容所の脱走者によるものであり、彼らは当然ユダヤ人大量虐殺について証言しているので、もし「蒸気説」がワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちによる捏造だと言いたいのであれば、それら証言が本当は脱走者の証言でないことや、本当の捏造した人物を突き止めてから言ってもらいたいものです。

トレブリンカの犠牲者数については、他の収容所について述べたことと同じです。何でもかんでも混ぜてリストにすればばいいとは思わないですが、一応、現代の定説としてはホロコースト百科事典では「ドイツ軍とその協力者たちはトレブリンカで87万~92万5,000人ユダヤ人を殺害しました」とあります。

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マイダネク

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マイダネクの殺害方法をガス室に限定するのは違和感があるのですが(収穫祭作戦があるから)、それはまぁいいとして、マイダネクのガス室では一酸化炭素ボンベとチクロンんBの両方が用いられたとされているのは確かです。

犠牲者数について述べる前に、一覧に挙げられている「ルーシー・ダディドヴィチ」は「ルーシー・ダヴィドヴィッチ(Lucy Dawidowicz)」の誤りです。ついでに、このダヴィドヴィッチのあげているマイダネクの犠牲者数の数字である「138万人」は、明らかにマイダネクの報告書にある数字を足したものであることがわかっています。1944年に作成されたソ連の委員会によるマイダネク収容所の報告が、以下にあります。

Majdanek Report

これには、次のような記載があります。

The Committee established the fact that in the crematorium alone over six hundred thousand bodies were burnt; on gigantic bonfires in the Krembecki Woods over three hundred thousand corpses were burnt; in the two old furnaces over eighty thousand corpses were burnt; on bonfires in the camp near the crematorium no less than four hundred thousand corpses were burnt.

委員会は、火葬場だけで60万人以上の死体が焼かれたという事実を立証した;クレムベッキの森の巨大な焚き火で、30万体以上の死体が燃やされた;二つの古い炉で8万人以上の死体が焼かれた; 火葬場近くの収容所の焚き火で、40万体以上の死体が焼かれた。

ここの数字を足すとちょうど138万人になります。ダヴィドヴィッチはマイダネクの犠牲者数を推計するための数的根拠を、これしか知らなかったのでしょう。

ソ連ニュルンベルク裁判に150万人の犠牲者数を報告しているようですが、判決では触れられていません。また、ズジスワフ・ルカーシェビチ(ズジスワフ・ウカシュキェヴィチ:Zdzisław Łukaszkiewicz)の値として挙げられている36万人は、ウカシュキェヴィチはポーランドの犯罪調査委員会の判事であり、つまりはポーランドは1948年にソ連の値をとっとと否定していたと言うことになります。

そして、流れとして犠牲者数推計値が減っていくのですが、ラウル・ヒルバーグは『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の初版を出した1961年の時点ですでにマイダネクの犠牲者数を5万人としていました。このようなかなり少ない犠牲者数規模については、イギリスの当時の暗号解読文書の機密公開に伴って。2000年に発見されたヘフレ電報で裏付けられることになります。そこには、1942年末の値として24,733人の数字が記載されていたのです。

加藤は、現在のマイダネク博物館による公式数字を挙げていませんが、公式の犠牲者推計値は78,000人(うちユダヤ人59,000人)とされており、これはマイダネク国立博物館研究部のトマシュ・クランツ部長が、2000年にヘフレ電報が発見されたことを受けて、2005年に決定したものです(英語版Wikipediaより)。アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のサイトにあるニュース記事によると、

クランツは、現存する収容所死亡帳の断片、死亡登録簿、ナチスがルブリンの小教区に送った囚人死亡通知、1970年代末から1980年代初頭にかけてデュッセルドルフで行われた裁判でのマイダネクに駐屯していたSS隊員の証言、生き残った囚人の証言など、入手可能なすべての資料を調査したと主張している。

だそうです。

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アウシュヴィッツ

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アウシュヴィッツについて、まず加藤が述べている電気風呂、空気ハンマー、戦争ガスは、もちろん加藤がそこで示している資料を読んでいるはずもなく、ユルゲン・グラーフの『民族社会主義ドイツの収容所の実像とガス室神話の起源』に書いてあるものです。

アウシュヴィッツ強制収容所では、レジスタンス運動は、1941年から、際限のないホラー物語と囚人の大量殺戮という情報を捏造していた。しかし、このときには、チクロンBという殺虫剤はまったく登場していない。その代りに、絶えず話が変化しているのではあるが、殺戮は、「電気風呂」、戦闘用毒ガス、「空気ハンマー」で行われたという話になっていた[110]。

で、加藤がいい加減すぎるなぁと思うのは、ここでのグラーフの文脈はこれらの話は、加藤が書いている「戦時中のポーランド抵抗運動報告」ではなく、「アウシュヴィッツ収容所内のレジスタンス」の活動によるものだ、としていることです。アウシュヴィッツ収容所内にはいくつかのレジスタンスグループがあり、有名な組織としては「アウシュヴィッツ戦闘集団(Kampfgruppe Auschwitz)」と呼ばれるものがあります。グラーフとしてはおそらくは、明言はしていないものの、このレジスタンス・グループを意識しているのではないかと考えられますが、ここではそれ以上は追及しません。もし気になる方がいらっしゃるのであれば、上の引用中にある脚注番号110に記されているEnrique Aynatの論文をご自身で確かめていただけるようお願いします。ちなみに、Enrique Aynatは修正主義者の一人です。

https://aaargh.vho.org/fran/livres6/EAestu.pdf

次に書いてある「ボリス・ポレヴォ」の記事の話についてですが、リップシュタットvsアーヴィングの裁判でリップシュタット側の専門家証人として出廷した、ヴァン・ペルトの報告書の中にそこそこ詳しく書いてあります。ヴァン・ペルトはなぜポレヴォイがそのような話を書いたのかについて、次のように推測しています。

絶滅の設備として、ガス室といわゆる「溶鉱炉」との間に電気ベルトコンベアが含まれていたというポレヴォイの主張の出所については、推測するしかない。 火葬場2と3では、電気エレベーターが地下ガス室と焼却室をつないでいた。解放時のアウシュヴィッツの混乱の中で、ポレヴォイは、電気エレベーターについての言及を誤解したのかもしれない。溶鉱炉に関しては、焼却炉メーカーであるエルフルトのJ.A.Topf & Söhneが1942年11月5日に提出した「集中使用のための連続運転死体焼却炉」の特許出願T 58240が最も有力な出典である。そのデザインは、ポレヴォイの説明をおおむね反映している。アウシュヴィッツ中央建設事務所がこの特許出願のコピーを持っており、ポレヴォイがこの書類を見せられて結論を出した可能性がある。特許T58240の詳細については「J.A. Topf & Söhne, Erfurt, Patent Application, "Kontinuierliche arbeitenderLeichen-Verbrennungsofen für Massenbetrieb", Archive Auschwitz-Birkenau State Museum in Oswiecim, BW 30/44.」の第IX章を参照のこと。 

(上記図面はプレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』p.101から引用)

レヴォイがアウシュヴィッツに来たのは、当然ですがソ連による解放後のことです。当時、アウシュヴィッツ主収容所の火葬場1は1944年に改築された防空壕の状態のままであり、ビルケナウの四つの火葬場はすべてダイナマイトで破壊されていたので、火葬場やガス室の詳細を、現物の目視により確認することは不可能でした。ヴァンペルトの推測通りかどうかは分かりませんが、可能性はゼロとは言えません。

「炉の中で、生きたままで焼却する①壕の中で生きたままで焼却する②」については、確かにそうした証言はあります。今回は探して紹介することまではしませんが、以下の証言集の中にもどこかにありますので気になる方は探してみてください。

note.com

確かに、非常に残虐な殺し方であり、大人の囚人の処刑ならば抵抗もあって難しいかもしれませんが、絶対になかった、とまでは言えません。

続いて、ソ連のハリコフ裁判での親衛隊員による証言があるとのことで挙げられている事例ですが、これも当然孫引き参照文献しか上げられていませんが、実際にはサミュエル・クロウェルの『シャーロック・ホームズのガス室』の中に書いてあるものです。これを、原著のテキストの12ページから独自に翻訳して以下に示します。単にいまいち、歴史修正主義研究会の翻訳は信用ならないからですが。

検察官:ソマンと話したことを話してください。
ハイニッシュ:ソマンは、ガス中毒による死は苦痛がなく、より人道的だと私に言いました。彼は、ガス車の中では死はとても早かったが、実際には12秒ではなく、もっとゆっくりと死が訪れ、大きな痛みを伴った、と言いました。ソマンはドイツのアウシュビッツの収容所について話してくれました。その人たちは別の場所に移されることを告げられ、外国人労働者は送還されると告げられ、それを口実に浴室に送られました。処刑される者はまず、『消毒』と書かれた看板のある場所に入り、そこで服を脱がされました -- 男たちは女や子供たちとは別にされました。そして、「浴室」という看板のある別の場所に進むよう命じられました。人々が体を洗っている間に、特別なバルブが開けられ、死因となったガスが注入されました。その後、死者は特殊な炉で焼かれ、約200体を同時に焼くことができました。

加藤はこの強調してある部分が、定説の方法とは違うとの趣旨で指摘していますが、これ、誰がどう読もうとも「伝聞」です。伝聞の情報は、たとえそれが嘘の情報でなくとも、本人が直接知ったわけではないので、聞いている時の聞き間違いや誤解等により、正確性が問題になることは誰でも知っていると思います。しかしこの証言のその前に書いてある、消毒と書かれた看板や、脱衣して浴室と書かれた場所に進むように命じられた、についてはこれは他の多くの証言に一致します。従って、それら証言とともにこの部分については裏付け情報になります。

 

続いてアウシュヴィッツの犠牲者数についてですが、これはいちいち確認しませんが、元ネタはロベール・フォーリソンの記事からです。

アウシュヴィッツでの死亡者は何名か?(フォーリソン)

修正主義者なら絶対に奉らねばならないフォーリソンの論文なのに、ちゃんとそれを書かない加藤の失礼さには空いた口が塞がりません(笑)。しかもそれを勝手にあちこち書き換えています。

ともかく、アウシュヴィッツの犠牲者数も例に漏れず、ナチスドイツはデータを残さなかったため、基本的には推測の数字がいくつか存在しているだけです。フォーリソンも当然、言うまでもなく修正主義者ですから、修正主義者にとっては信頼できる存在ではあっても、実際には信用できないことはわかっているので、ここでは簡単に、400万人説と収容所長のルドルフ・ヘスの証言である250万人説について、説明します。フォーリソンの言い分を事細かに批判していたら、ただでさえとんでもなく長くなっているこの記事が延々と終わらなくなってしまうからです(笑)

さて、ソ連の報告書にある400万人説の起源は、基本的には不明です。報告書には火葬能力から推計したと書いてありますが、その火葬能力をどのように推計したかについては一切書かれておらず、また肝心の収容所への移送人数を全く推計していません。入ってくる人数がわからないのに、どうやって犠牲者数を推計できるのでしょうか? このようにあっさりと、ソ連の報告は信用できるものではないと捨て去ることができます。

次に、400万人と証言した囚人についてですが、これも全員かどうかまでは知りませんが、私の知る限りの全員は自身の推計であると明言しています。しばしば登場する、ゾンダーコマンドだったヘンリク・タウバーの証言では以下のとおりです。

今日、火葬場やピットでガスをかけられて焼かれた人たちの正確な数を私は知ることができません。火葬場で働いていた人たちは密かに番号を書き留め、ガスを浴びた人たちに関する最も暴力的な事件を記録していました。彼らのノートは火葬場の近くの様々な場所に埋められていました。いくつかのノートは、ソビエト委員会がそこにいたときに回収され、持ち去られました。大多数はまだ土の中に隠されているはずで、探してみるのもいいかもしれません。埋まっていたものの中には、ガス室でガスを浴びた人の写真や、火葬場に運ばれてガスを浴びるために運ばれてきた輸送の写真などがあります。ゾンダーコマンドの一員としてアウシュビッツの火葬場で働いていた期間中、ガスを浴びた人の総数は約200万人と推測しています。アウシュビッツ滞在中、私は連れてこられる前にアウシュビッツの火葬場やバンカーで働いていた様々な囚人と話をする機会がありました。私が火葬場で働き始める前に、第1、第2バンカーと第1火葬場ではすでに約200万人がガス処理されていたと言われました。そのため、アウシュビッツでガスを浴びた人の総数は約400万人と推定しています。この数には、ユダヤ人とアーリア人の両方のヨーロッパの様々な国からの様々な輸送や、選抜の結果、ガス室に送られた収容所の囚人が含まれています。

囚人に、正確な犠牲者数がわかるわけがありません。タウバーなどは常に一箇所の火葬場にしかおらず、自分が働いていない火葬場については伝聞でしか犠牲者数を知り得ないはずですし、自分の働いている火葬場ですら、その処理遺体数をずっと数えていたわけもありません。可能性としては、ソ連のでっち上げた400万人に合わせるような証言を強要された可能性もないとは言えませんが、たとえそうだとしてもタウバーは「正確な数を私は知ることができません」とはっきり述べています。従って、囚人の述べた犠牲者数は、一つの参考値以上のものではありませんし、正確性を担保するような根拠は何もありません。

では、ヘスの250万人説はどうでしょうか。加藤は「ルドルフ・ヘスの自白では彼が収容所長をしていた任期中に250万人殺された、となっています。この数字も比例計算をすると、総計で約400万人となります」と述べていますが、これははっきり間違いです。すでに以前述べていますが、引用はしていなかったので、今回はこちらから引用します。ヘス自身の裁判での証言です。

アイヒマンという一人の男が、私が説明した行動で破壊されたユダヤ人の数に関するすべてのメモを持っていました。アウシュヴィッツの数字は記録していなかったので言えません。私はヒムラーの命令にしたがって行動していました。1945年4月に帝国が崩壊する直前に、アイヒマンがグリュックスにユダヤ人の破壊・殺害数を報告したとき、私はその場にいました。私は、アイヒマンアウシュヴィッツで250万人という数字を出したことを正確に覚えています

前は「ヒムラーに報告」と書いていたような気がしますが、リヒャルト・グリュックスの間違いでしたね。

つまり、ヘスがニュルンベルク裁判で述べた250万人は、ソ連の400万人説を否定しているのです。このことは、ヘスが連合国に拷問で偽証を強要されたとする修正主義者の説明に矛盾しています。ヘス自身は犠牲者数のメモを許されていなかったので正確な犠牲者数を知らなかったのですが、彼自身の推計はせいぜい150万人であったことはすでに述べています。

しかし、私の知る限りでは、この数字(註:アイヒマンの述べた250万人)はあまりにも高すぎると思われる。私が今でも覚えている大規模な作戦の合計を計算し、なおかつある程度の誤差を考慮すると、私の計算では、1941年の初めから1944年の終わりまでの期間に、最大で150万人の作戦が行われたことになる。しかし、これは私が計算したものであり、検証することはできない。
1946年4月24日ニュルンベルク(署名)ルドルフ・ヘス

これも、修正主義者の説に矛盾しており、さらに現在のアウシュヴィッツ犠牲者数の推定値の最大値(アウシュヴィッツ博物館の記念碑)と同じです。

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(13)ヒルバーグやダヴィドヴィッチのホロコースト犠牲者数は不自然?

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これについては、元ネタがあることも知ってますが、反論はすでにありますので以下をお読みください。

note.com

ちなみに、ダヴィドヴィッチの個々の犠牲者数の推計値は、マイダネクの事例を挙げて当てにならないことはすでに述べたとおりです。

あと、加藤は前回の動画で、戦後のホロコースト犠牲者数の総数は1000万人だったはずだ、のような捏造を行なっていましたが、個々の収容所等の犠牲者数の推計値は、精査されない限り、そのままでは合計しても意味はありません。その個々の値についてその出所を検証するだけで、例えば上で述べたようにアウシュヴィッツの400万人の具体的内容がそれをそのまま犠牲者数の確定値としては使用できないことがわかります。

600万人は基本的にはあくまでも人口統計から判明する数字です。ユダヤ人の人口統計が、戦前から詳しくわかっていたことは、アルマナック・デマを使う修正主義者なら当然知っているはずです。ユダヤ人の関係機関(アメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)など)なら、戦時中は正確性に欠けるとは言え、ある程度の精度でユダヤ人の人口減少値はすぐに把握できたでしょう。

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(14)600万人説はニュルンベルク裁判での親衛隊将校によるアイヒマンからの伝聞証言に基づいているのか?

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いいえ。ヘットルらが述べたと言われる「アイヒマンが600万と言っていた」なる証言は、単に裏付け的な意味しかありません。ユダヤ人絶滅の中心にいたとされる、ユダヤ人問題担当のアイヒマンが述べていたとされたのですから、その数字はそれなりに重みはあると考えて当然ですが、犠牲者数の出来るだけ正確な数字は当然ながら、他の方法で調査されなければなりません。

実は、ヘットルの証言をするよりも前に、すでにニュルンベルク裁判の起訴状ではこう述べられているのです。

(d) 彼らの「支配者民族」政策を実行するため、陰謀家たちはユダヤ人絶滅を目的とした執拗な迫害計画に加わった。ユダヤ人殲滅は国家の公式政策となり、公式行動と暴徒や個人の暴力への扇動によって実行された。共謀者たちは公然とその目的を公言していた。例えば、ローゼンバーグ被告はこう述べている: 「反ユダヤ主義はドイツ再建の統一要素である。」また、別の機会に彼はこうも言った: 「ドイツがユダヤ人問題を解決したと見なすのは、最後のユダヤ人がドイツの生活圏から去ってからである。ヨーロッパは、最後のユダヤ人が大陸を去って初めて、ユダヤ人問題を解決したと見なすだろう。」被告LEYはこ述べた: 「我々は、ヨーロッパの最後のユダヤ人が絶滅し、実際に死ぬまで闘争を放棄しないと誓う。人類の敵であるユダヤ人を孤立させるだけでは十分ではない。」別の機会にも彼はこう述べた: 「ドイツの第二の秘密兵器は反ユダヤ主義である。なぜなら、ドイツが一貫して反ユダヤ主義を追求すれば、それはすべての国が考慮せざるを得ない普遍的な問題となるからである。」シュトライヒャー被告はこう述べた: 「最後のユダヤ人が死ぬまで、地上の国々を太陽が照らすことはない。」このような宣言や扇動は、ナチス共謀者の陰謀の過程における典型的な供述であった。 ユダヤ人に対する行動計画には、選挙権の剥奪、汚名の着せ替え、公民権の否定、身辺や財産を暴力にさらすこと、国外追放、奴隷化、強制労働、飢餓、殺人、集団絶滅などが含まれていた。陰謀家たちがどの程度その目的に成功したかは推し量ることしかできないが、ヨーロッパの多くの地方で消滅は実質的に完了した。ナチス支配下にあったヨーロッパの地域に住んでいた960万人のユダヤ人のうち、控えめに見積もっても570万人が行方不明になっており、そのほとんどは、ナチスの陰謀家たちによって意図的に殺された。ヨーロッパに残ったユダヤ人は少ない。

The Avalon Project : Indictment : Count One

この570万人と言う数字は、ドイツの歴史学者であるヴォルフガング・ベンツが編纂した『ジェノサイドの規模』によると、「ヨーロッパ・ユダヤ問題とパレスチナに関する英米調査委員会報告書」にある「5,721,800人」の数字のことのようです(詳細はこちら)。当該報告書自体は知らないので、それ以上のことは分かりません。が、ニュルンベルク裁判ではこうした別の数字も出ていたということであって、その他の様々な調査研究から総合的に考えて概ね600万人程度だろうと判断されているのです。

加藤は「アイヒマン自身は1961年のエルサレムでの裁判でこれ(ヘットルらの証言)を否定」と述べていますが、『ジェノサイドの規模』によると、「アイヒマンは、1961年のエルサレムでの裁判でこれらの発言(註:ヘットルらの証言)に直面したとき、それについて多くを語り、書き、トーンダウンし、議論したが、基本的にこれらの会話と虐殺の引用規模は否定しなかった」とあるので、アイヒマンのその時の証言を直接確認しない限り、どっちが正しいのかよく分かりません。

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(15)「600万人」は戦時中から判明していた、のは不可解?

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既に述べたとおり、戦時中であっても、ある程度の精度ならユダヤ人関係機関は虐殺規模を推定し得たはずですから、別に不思議なことはありません。ユダヤ人が欧州で大変危機的なことになっていることくらいわからなかった筈もないので、それなりに推定で規模を把握しようとしたでしょう。

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(16)戦前から「600万人」が殺されたことにする、と決まってた?

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修正主義者のストーリーはこうです。19世紀末、ユダヤ人のテオドール・ヘルツルがユダヤ人国家を建設することを訴え、第一回シオニスト会議が開かれます。こうして、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設することが目標となりますが、国を作るためには巨額の資金が必要で、ユダヤ人だけでは資金を準備できません(あるいはユダヤ人はお金はあったがもっと強欲だった)。また、ユダヤ人が勝手にパレスチナに新たに国家を作るだなんて国際的に許されるわけもなく、不可能です。そこで、資金のゲットと国際的な承認を得る目的で、絶大な同情を集められるに違いないと、反ユダヤ主義的な風潮を利用して、ユダヤ人が大量虐殺されたことをどうにかしてでっち上げようと企てたのです。どのくらいの大量?……そうだ! 600万人てことにしよう! と。計画が決まったので、ユダヤ人社主の新聞社であったニューヨーク・タイムズ紙を使って、ユダヤ人全員に伝えるべく、ユダヤ人を報ずる様々な機会に乗じて「600万人」の数字を記事内に書くようにしたのです。そして、ユダヤシオニストたちは機会を待ち、どっかの国が強力な反ユダヤ主義政策を遂行するようヨーロッパの各国で密かに工作活動を始めます。うまい具合にドイツで扇動者として極めて有望なアドルフ・ヒトラーが現れ、「よし!加害者をドイツにしよう!」と――みたいな、知らんけど(笑)

まぁ、修正主義者ならもっと丁寧な巨大陰謀論を構築できるのでしょうが、私には無理です(笑)。しかし、これらの陰謀論を設定しない限り、戦前に600万人にすることが決まってた!なる与太話を成立させることはできないと思います。

ところが不思議なことに、この「600万人戦前決定陰謀説」を世界が信じてくれる気配は全くありません。修正主義者たちは「こんなに幾つも600万人と書いた記事が戦前にあるではないか!明らかに陰謀じゃないか!」と叫んでいるのに、修正主義者仲間以外誰も信じようとしません。何故なのでしょう? ホロコースト否定を何カ国も法律で禁止するようにして、ホロコースト禁止が「悪だ」と世の人々を洗脳しているから?

しかし、ちょっと頭を使って欲しいのですが、巧妙な陰謀を実行する時、それがバレるような情報を世間に知らしめるようにするでしょうか? 修正主義者たちのほとんどはおそらく、自分たちが「目覚めた賢者」だとでも思っているに違いありませんし、だから修正主義者だけが陰謀に気付けるのだ、とでも思っているのでしょう。

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でも今回、引用含めて全部で4万6000字以上、それ以前を含めれば何十万字を費やしてまで、加藤がどれほどアホなことを言っているかを私は晒しました。これほどド恥ずかしいことを述べられる人が、「目覚めた賢者」なのでしょうか?

ほんのちょっど頭を使うだけで、「目覚めた賢者」でなくとも、誰にでもわかるように思います。

シリーズ終わろうかな(^^;;

 

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