ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

アルマナック・デマの検証

アルマナック・デマとは何か?

ネット上のホロコースト否定派は、このデマを頻繁に使用します。どうしてこんな馬鹿馬鹿しい話をデマだと見抜けないのか? 私にはよくわかりません。内容の詳細が分からなくとも、「そんな馬鹿げた話があるわけがない、何かの間違いだろう」くらいには即座に考えるはずだと思うのですが、不思議なことに、そう考えない人たちがいっぱいいるのです。そこが未だにマジでよく分からない。

何に致しましても、本当に馬鹿馬鹿しいデマであることは確かです。戦後、東西冷戦になって、ホロコーストの詳細がよくわからなかった時代なら、こうしたデマもそれなりに少しは価値があったかもしれません。しかしもう、戦後およそ80年にもなろうかとしているのに――っていうか、本当にデマって消えないのだなぁと考えさせられる一件でもあります。

今回は、多少はやはり既存の研究に頼らざるを得ませんが、私自身の調査・考察を大幅に加えた上でアルマナック・デマについての記事を起こしました。

まずは、そのアルマナック・デマの内容を以下のブログ記事から引用します。色々とバリエーションはあるようですが、どれもこれも似たようなものなので。

ameblo.jp

世界のユダヤ

第2次世界大戦(1939年~1945年)前 1938年版世界年鑑   16,588,259人―①

第2次世界大戦後 
ニューヨーク・タイムズ(1948年2月22日号)推定

1500万人ー② ~ 1800万人ー③

 

だが、戦前のヨーロッパ在住のユダヤ人650万人ー④。
その9割の600万人をナチスが殺したとすればどうなる? ⑤
 
ヨーロッパの650万人(④)のユダヤ人のうち、600万人が殺されたら、戦後の世界のユダヤ人は1000万人台に減少していなければ勘定が合わない。

 

 ①-④≒1088万人
 
然し、戦前と戦後のユダヤ人の人口には、大きな変化は見受けられない。
(戦後、1500万人② ~ 1800万人③)
 
換言すれば、第二次世界大戦で死んだユダヤ人は少なく、非ユダヤポーランド人が大量に死んだと言える。大半のユダヤ人はアメリカなどに逃げたのである。

 

このことには、下記の資料でも裏付けられる。

   ▽

 

『ワールド・アルマナック』 (The World Almanac世界データ事典) 

 

ユダヤ人世界総人口

1924年版 15,286,000人

1939年版 15,290,983人

1940年版 15,319,359人

1945年版 15,688,259人

1948年版 15,713,638人

戦後、マイナス600万人どころか、逆に40万人も増えている。

 

   △

 

何故にこのような捏造が為されたのか?
 
結論から言えば、第二次世界大戦ユダヤ人国家『イスラエル』(1948年独立宣言)を創るための茶番劇だったので、それを隠すために歴史が捏造された。

 

簡単に言えば、戦前の世界ユダヤ人人口よりも戦後の方が多いので、ユダヤ人は減っているどころか増えているのだから、ホロコーストはなかった、とするものです。

 

……アホか、と一笑に付して仕舞えばいいだけの話なのですが。

 

戦前のヨーロッパのユダヤ人人口が650万人?

さて、まず、アルマナックとは関係のないウソを先に指摘しておきます。「戦前のヨーロッパ在住のユダヤ人650万人」とありますが、これは否定派のバイブルの一つであるリチャード・ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』にあるウソです。私がずっと前に適当訳したハーウッド本には、

チャンバース百科事典によると、戦前のヨーロッパに住んでいたユダヤ人の総数は650万人であった。

と書いてあります。確かにチェンバース百科事典には「650万人」の数字が書いてあるそうですが、こう書いてあるのだそうです。

ロシアは西部域がおそるべき災厄をこうむったが、そのロシアは別としてヨーロッパ大陸では、数的にはとるに足りぬ中立国のユダヤ人社会がほんのひと握りだけ、難を逃がれただけであった。そして、一九三九年時点で、ナチ支配地に居住していたユダヤ人六五〇万のうち、六年後に戦争が終った時点で生き残っていたのは、わずか一五〇万にすぎなかった。
デボラ・E・リップシュタット、『ホロコーストの真実(上)』、恒友出版、1995年、p.244:強調は私。

ハーウッドが述べている650万人には、書いてある通りソ連(ロシア)のユダヤ人は入っていません。このことは、ハーウッドのお仲間であるはずのIHR(歴史評論研究所)も指摘しています。

チェンバーズ百科事典が扱っているのは、ロシアを除くヨーロッパ大陸に住むユダヤ人の総数であって、パンフレットが述べているような戦前のヨーロッパに住むユダヤ人の総数ではない。

Did Six Million Really Die? -- Part 8

事実を捻じ曲げて嘘を書くのがハーウッドのやり方です。戦前のロシアを含めたヨーロッパのユダヤ人人口は概ね950万人程度であるとわかっています。

note.com

 

ニューヨーク・タイムズの戦後のユダヤ人世界人口推定が1500万人~1800万人?

これは何かというと、以下のニューヨークタイムズの記事にあります。サブスクしないと読めないので、読みたい方はサブスクして下さい。

Armies for Palestine; Need for International Force of 70,000 Believed Indicated as U.N. Faces Decision - The New York Times

この話は昔の修正主義者界隈で出回った結構古いデマのようで、反修正主義者の老舗サイトであるNizkorに丁寧に解説した記事が残っていましたので、少し長いですが以下に紹介します。

ベン・フリードマンについて調べたことがある。私の研究の文字化けしたものをalt-revisionismに投稿したが、参考までにここにコピーを掲載する。

 

ベン・フリードマン、アーサー・バッツ、そしてエンバラスド・リビジョニストたち

これはかなり複雑な話だが、論理的な順序で紹介してみた: ベンジャミン・ハリソンフリードマンは、1959年5月1日に出版された『コモン・センス』にこう書いている:

「1948年2月22日、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、1947年の秘密国勢調査に基づく数字を発表した。それによると、1947年の世界のいわゆる「ユダヤ人」の数は、最小で16,150,000人、最大で19,200,000人であった。1948年2月23日、NYタイムズの発行人であるアーサー・ヘイズ・サルツバーガー氏の好意により、筆者はボールドウィン中佐のオフィスでボールドウィン中佐[注:当時の『タイムズ』紙の軍事担当編集者で、日曜版に毎週コラムを書いていたハンソン・ボールドウィンのこと―― これはこの後の議論でも重要になる。]と会談し、NYタイムズが1948年2月22日に発表した数字を完全に裏付ける資料を調査した。筆者は、NYタイムズ紙が世界各地の事務所を通じ、また各国の政府や宗教団体の協力を得て実施した調査の結果を収めたファイルを閲覧することを許された。」

 

ところで、ベン・フリードマンとは誰?

ベンジャミン・ハリソンフリードマンは、今日のユダヤ人は聖書に登場するユダヤ人の子孫ではなく、7世紀にロシア南部を占領していたアジア系民族(モンゴル系も含む)のハザール人の子孫であり、彼らはユダヤ教に改宗したという説の創始者である。彼は1890年にニューヨークでユダヤ人として生まれたが、自らをファシストと呼び、「名誉アーリア人」と称した。第二次世界大戦が勃発すると、彼はヒトラーを支持し、ドイツが戦争に勝つと予言した。[フリードマンについての詳細とハザール人説の否定は、リクエストに応じて入手可能である。]

 

なぜフリードマンの数字が重要なのか?

ベンの「最低1615万人、最高1920万人」という数字は、戦後ユダヤ人の数が増加したことを示すためのものであり、ホロコーストの死者数が誇張されていたことを証明するものであった。 この数字は、長年にわたってさまざまなホロコースト修正主義者たちによって取り上げられた(通常、何らかの理由で1,500万人から1,800万人に四捨五入された)。

例えば:
アメリカ・ナチ党の故総統ジョージ・リンカーン・ロックウェルは、1966年4月に『プレイボーイ』誌のインタビューに答え、ハンソンの数字――ただし、高い方(1800万人)だけ――を引用している――そして、ヒトラーが絶滅させた600万人のユダヤ人を加えて、1948年の世界のユダヤ人人口は2400万人となる。彼は2400万人と1939年のワールド・アルマナックユダヤ人人口を比較している: 15,688,259人と比較し、1939年から1948年の間に8,311,741人のユダヤ人が地球上に出現したことを証明しようとしている。

もうひとつ(より関連性の高い)例を挙げよう:  1976年、アーサー・バッツは『20世紀のデマ』を書いた――ホロコーストシオニストの陰謀であり、600万人のユダヤ人はナチスの手によって死んだのではないとする本である。その本の中で、戦前と戦後の人口数についての議論(p13)の中で、バッツはこう述べている:

「N.Y.タイムズの軍事専門家であるハンソン・ボールドウィンは、1948年に書かれた記事の中で、国連などで入手可能な情報を基に、当時間近に迫っていたアラブ・ユダヤ戦争について、世界のユダヤ人人口を1500万から1800万人という数字と、パレスチナユダヤ人、中東のユダヤ人、パレスチナのアラブ人、アラブ人全体、モスレム全体などの数字を挙げている(脚注6)。」

ハンソンの48年2月22日付の記事(NYタイムズ4面)のタイトルは「パレスチナに軍隊を」だった: 国連が決断を迫られるなか、7万人の国際部隊の必要性が示唆された」(これはアラブ・イスラエル戦争の可能性に関する記事である)。本文にはこうある:

「. . . パレスチナユダヤ人居住区は、アラブ人に囲まれた飛び地である。パレスチナには65万から70万人のユダヤ人と約125万人のアラブ人がいる。さらに50万人のユダヤ人が中東の他のアラブ諸国に居住している。サウジアラビア、エジプト、シリア、レバノンイラク、イエメン、トランス・ヨルダンのアラブ人口は3,000万人以上である。これらの国々では、ユダヤ人は世界の1,500万から1,800万人のユダヤ人と宗教の絆で結ばれており、アラブ人のほとんどは世界の2億2,100万人のモスレムと宗教を共有している...」

[注:文脈を見ると、ボールドウィンはさまざまな人口の数字に文字通りの数字(つまり125万人)を示す一方で、ユダヤ人の推定人口には比喩的な数字(つまり「1,500万人から1,800万人」)を示していることがわかる。 この記事のために正確な数字を出すことは重要ではないと考えていたようだ。皮肉なことに、彼はモスレムに比べてユダヤ人がいかに少ないかを示そうとしていたのだが、それはまた別の話である。]

フリードマン氏の話に戻ろう。彼の「秘密の国勢調査」、サルツバーガー氏とボールドウィン氏との面会、そして「NYタイムズ紙が世界各地の事務所を通じ、また各国の政府や宗教団体の協力を得て行った調査の結果を収めたファイル」の捜索を覚えているだろうか? 注:フリードマン氏は、2月23日(月)にタイムズのオフィスに行ったという。新聞が出たのは22日の日曜日。かなりフットワークが速いぞ?

 

この事件に関して、私たちは他に何を知っているのだろうか?

『Hoaxers』(Branden Press、1970年)の著者であるモリス・コミンスキーは、ボールドウィン氏に手紙を書き[[注:これはバッツの出版日である1976年より前の話である]、次のような返事を受け取った:

「親愛なるコミンスキー様、
1月6日付のお問い合わせのお手紙、ありがとうございました。
この記事に掲載されている世界のユダヤ人人口の数字は、1948年版のワールド・アルマナックによるものです。その後、私たちはアメリカ・ユダヤ人委員会やその他の情報源と照合し、前回の手紙に記したように、戦時中のヒトラーによるユダヤ人の大虐殺によって、ユダヤ人の人口は今日おそらく1200万人にまで減少したというのが当局の見解である、と訂正しました(2/26/48)。
フリードマン氏が私と会ったとしても、私は覚えていません。問題は、あなたが19年前の出来事について話しているということです。私は年間何百人もの人に会っていますが、その多くはほんの数分しか会っていません。だから、フリードマン氏に会っていないと断言することはできませんが、もし会っていたとしても、私にもアシスタントにも何の印象も残りませんでした。
フリードマン氏の言う書類調査というのが何を意味するのかわかりませんが、私の知る限り、この問題に関係する書類は特にありませんでした。
もし他にお知りになりたいことがあれば、ご遠慮なくまたお書きください。
敬具、ハンソン W. ボールドウィン(ミリタリーエディター)」

 

まとめ:

「秘密の国勢調査」もなければ、「NYタイムズ紙が世界各地の事務所を通じ、各国の政府や宗教団体の協力を得て行った調査の結果を記したファイル」もない。編集に任命された元軍人が、ワールド・アルマナックで数字を調べただけなのである。フリードマン氏は、自分の主張を証明しようと躍起になったがために、知らず知らずのうちに、事実を確認しようともしない人々によって連鎖的に誤りが広まった。

修正主義者や人種差別主義者の主張を検証していると、多くの場合、誤りや文脈を逸脱した引用、データの選択的提示が見つかる。基本的な信条を論破するのがこれほど簡単だと、修正主義者の主張を真剣に受け止めるのは難しい。

Background data, Freedman Benjamin - Nizkor

こうしたデマが、今回テーマにしているアルマナック・デマの起源であるらしいです。しかしそれでもまだ、陰謀論めいた作り話を入れてあるだけまだいくらかマシというものです。現代のアルマナック・デマはこれより遥かに低レベルの酷いものです。

 

アルマナックユダヤ人人口ってどんな感じなの?

さて、まず知らなければならないのは、ワールド・アルマナックって何?って話です。

『ワールド・アルマナック・アンド・ブック・オブ・ファクツ』(World Almanac and Book of Facts)は、アメリカ合衆国で発行されている年鑑であり、その年の世界の変化や出来事、スポーツの偉業を掲載している。1868年に創刊され、1876年から1885年までの中断を挟んで毎年刊行されている[1] 。

ワールド・アルマナック - Wikipedia

ワールド・アルマナックアメリカではよく知られていますが、アメリカ人以外にはそれほどは知られていないようです。日本で言えば『現代用語の基礎知識』みたいなものだと思いますが、それ一冊あればその年の世界のことは大体わかるデータブックとして、アメリカでは広く一般的に知られています。

余談ですが、今回この記事を書くきっかけになったのは、近所の図書館に1933〜1949年ごろのワールドアルマナックが置いてないかな?と思って、検索してみたら1945年のものが一冊だけあったのを見つけたことです。

ハードカバー版もあるそうですが、これはいわゆる簡易なペーパーバック版です。洋書のペーパーバック版って、紙質が非常に悪いので、図書館で大事に保存されていても、78年も経つと、本当にそーっと触らないと、簡単に破れてしまいます。実際、今回図書館で閲覧している最中に数ページほど、端っこだけですけど数箇所破ってしまいました。以前に、アメリカから取り寄せた『死の軍団』は1983年版ですが、これよりはるかに酷くボロボロで、自力でのスキャン取り込みを諦めた経験があります。

さて今回記事のテーマにしている、アルマナック・デマとは、要するに上の他記事から引用した中に書いてある、ワールドアルマナックに掲載されているユダヤ人世界人口を使って、ユダヤ人人口が減ってない!とするものであることは述べた通りですが、では具体的に、アルマナックにはどのようなユダヤ人人口のデータが掲載されているのかを知っている日本人って、あんまりいないと思います。特にネットに巣食ってるホロコースト否定派のような人たちは全然知らないでしょう。

アルマナック・デマの簡単な解説については以下にあります。

note.com

解説及び反論自体はこれだけで事足りるとは思うのですが、どーも、やっつけ仕事感が拭えない記事でもあります。内容としては十分ではあるものの、それほど詳細には解説していないんですよね。アルマナック・デマ自体がよほど馬鹿馬鹿しかったのではないかと思われます。例えば以下のような記述があります。

反否定派の中には、ツイッターユーザーが引用した15,753,638という数字はアルマナックに掲載されていないと主張する者もいる。AJCのデータセットにはないが、掲載されており、これは間違いである。アルマナックも時には、否定派が使うような独自の推計値を掲載することもあった。問題は、アルマナックがこれらの推定値の出所を明記していないため、全く役に立たないということだ。おそらく、新しいセンサスがない中で、戦前のデータに基づいて、人口動態の変化を考慮しないまま、純粋に仮説として計算されたものであろう。これをホロコーストの「反証」に使うのは、量子力学の「反証」に[要出典]でいっぱいのウィキペディアの記事を使うようなものである。

掲載されてるっていうんだったら、どこに掲載されているのか示して欲しいところです。これがこの記事では説明されておらず、「どういうこと?」となるところでもあったのです。値が異なる同じ年のユダヤ人世界人口が掲載されているってどういうこと?ってことです。

 

ワールド・アルマナックに掲載されている世界ユダヤ人人口は「二つ」ある。

以前に1926年までのアルマナックならネットで閲覧可能なことを知って、確認してみたところ以下のような表(1926年版)を見つけています。見てわかる通り、これは宗教別人口表です。この中にユダヤ人の世界人口が書かれているのです(赤枠)。

1926年以前のいくつかのワールド・アルマナックも確認してみましたが、確認した限りでは、宗教別人口表以外はありませんでした。例えば、冒頭付近で引用紹介した記事の中にある1924年の値も、宗教別人口表の中にあるものであり、宗教別人口表しかありません。確かに1924年版は世界ユダヤ人人口を、15,286,000人としています

ネットでは1926年以降が公開されていないので詳細はわからないのですが、どうやら、1926年以降の何れかの年からは、世界ユダヤ人人口の詳細表も掲載するようになったようなのです。それが例えばHCの記事にある以下の表(1948年版)だったりします。

では、今回私が近所の図書館で見つけてきた、1945年版アルマナックではどうなっているかというと、まず宗教別を以下に示します。

上記のとおり、1945年の宗教別人口表ではユダヤ人世界人口は15,192,089人です。ただし、表の欄外下にある表記には、このユダヤ人世界人口の出典がないことにご注意ください。1924年版や1926年版の宗教別表の下には出典がH.S.リンフィールド氏によるものだと書いてあります。
では、1945年版のアルマナックにある世界ユダヤ人人口の詳細表はどうなっているかを以下に示します。ちなみに、上の宗教別版と違って色が茶色いのは、図書館でコピーしてきた用紙を無くしてしまい、念のためと思ってスマホで撮っていたからです💦

見ての通り、世界ユダヤ人人口の詳細表では15,688,259人となっており、宗教別人口表の値とは異なっています。また、世界ユダヤ人人口の詳細表の上部には出典が明示されており、次のように書かれています。

国内外のユダヤ
出典:入手可能な最新データからの編集。1938年、アメリカ・ユダヤ人委員会、米国シナゴーグ評議会ユダヤ人統計局、H.S.リンフィールド所長作成。
世界のユダヤ人、国別
下表の数字を出しているアメリカ・ユダヤ人委員会は、1939年の世界のユダヤ人人口を次のように推定している: ヨーロッパ8,939,608人、アフリカ598,339人、アジア837,809人、オーストラリア27,016人、アメリカ大陸5,283,487人、世界合計15,688,259人。

そう、この世界ユダヤ人人口の詳細表に書かれている1945年の世界ユダヤ人人口である15,688,259人は、1939年の世界ユダヤ人人口推定値だったのです。実はこれは、その二つ上にある1948年版の世界ユダヤ人人口の詳細表にも全く同じことが書かれており、数字も全く同じです。

つまり、1945年と1948年の世界ユダヤ人人口の詳細表しか確認してはいないものの、1939年から1948年までは、アルマナックにあったであろう世界ユダヤ人人口の詳細表にある世界ユダヤ人人口値は全て、1939年の世界ユダヤ人人口推定値の15,688,259人しか掲載していなかったことがほぼ確実だと考えられます。

「え?でも、その期間内で値が違っているのもあるじゃん」と指摘する人もいるかもしれません。最初の方で引用した記事の中にはこう書いてあるからです。

ユダヤ人世界総人口

1924年版 15,286,000人

1939年版 15,290,983人

1940年版 15,319,359人

1945年版 15,688,259人

1948年版 15,713,638人

1939年は15,290,983人、1940年は15,319,359人、1948年は15,713,638人ですから、15,688,259人ではありません。しかしこれはすでに述べた通り、宗教別人口表の方の値であると考えられます。実際、1948年の世界ユダヤ人人口の詳細表では15,688,259人であり、上の数字とは異なっています。

1939年〜1948年までのすべてのアルマナックを調査出来ていないので、モヤっとする感覚を持たれる方もいるかもしれませんが、アルマナックにある世界ユダヤ人人口データの出典になっているアメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)のYear Bookで事態は明確になりますので、以下をお読み下さい。

note.com

要はこれに書いてある通りで、AJCでは、1939年以降、1945年までのユダヤ人人口を統計値としては出しておらず、1946年の値としてやっとユダヤ人人口の統計値を出せたのです。当たり前のことですが、第二次世界大戦だったからです。アルマナックにあるデータの出典元のAJCがそう言っているのですから、それを認めるしかありません。

今回の記事は以上ですが、今後もし、1939年〜1948年頃の未入手のワールド・アルマナックを参照できる機会があったら更新するかもしれませんので乞うご期待!(期待しなくていいですw)東京大学法学部の図書館にはその頃のアルマナックは全部あるようです。私には行けませんし行く気もありませんw

 

追記:戦後最も早いホロコースト犠牲者数の推計表があったので、それを以下の記事で翻訳してあるので参考にしてください。

note.com

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(8)

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

ホロコースト論争」シリーズの動画はまだまだ続いていますが、前回のラストでも述べた通り、当ブログの論破シリーズは今回で一応終了です。「動画後半は論破できないからだろw」との声も聞こえてきそうなところですが、各動画の論破項目数を数えたら前回までで92項目にも上っており、毎日の作業時間が2〜3時間くらいとは言え、1記事あたり1週間くらいかかることもあるくらい面倒なので、全話の論破は疲れるだけなので勘弁してくれ、と。こんだけ論破してきたらわかるだろ、この動画がとんでもなく杜撰で低レベルなことが、と

でも、過去3年間くらいの自分の実績、つまりHolocaust Controversiesなどの海外記事を大量に翻訳し続けて、学んだ知識は活かせたかなと思います。本格的に正統にホロコーストの勉強をしたわけではないのでかなり邪道ですが、そろそろ修正主義者の言う「正史」を普通に少しずつでも勉強したいなと考えております。3年前に「ホロコーストのことをしっかり学んで否定論を駆逐してやる!」との勢いで大枚叩いて購入した『ホロコースト大事典』を実はほとんど読んでない、とか我ながら呆れてますし(笑)

さて、ラストの今回は8番目の動画ではなく、番外編と題された動画を選択しました。8番目の動画はヴァンゼー議定書の捏造疑惑を扱った動画なのですが、論破するとしてもほとんど私が過去に翻訳した以下の記事を参照するだけなので、あんまり意味ないかなと思ってやめました。

note.com

じゃぁ、8番目を止めるとしてどれにしようかなと適当に選んだのが、最初は以下の動画でした。

youtu.be

過去に簡単に紹介している、「No Holes, No Holocaust!」の話です。

holocaust-denial.hateblo.jp

これにプラスα的な内容もあったので、これにしようかと思って動画の時間数を見たら40分超え……、あっさり諦めました(笑)

それで、今回は9分ちょっとしかない以下の動画を選んだわけです。この話のもっと詳しい版もあるそうですが、Youtubeにはなく扱いにくいニコニコ動画版なので、確認もせず無視してることをお断りしておきます。

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説 番外編第3章 「ガス室」の化学分析について。」と題された動画を論破する。

youtu.be

02:36/マイダネクのガス室

違います。マイダネクのガス室(内部)の写真は以下で見ることができます。探してみてください、一致する箇所がありますか?

note.com

一致する画像はないわけです。実は加藤が用いている写真は、動画で続いて外観が紹介されている同じシュトゥットホーフ収容所のガス室です。

 


この写真はこちらにあるものですが、このガス室内の写真は加藤が用いているものと同じ写真であり、当該サイトにはこの写真のすぐ下に「シュトゥットホーフ・ガス室内のツィクロンBガスによるシミ 写真提供:ゲルマー・ルドルフ」とまで書いてあります。こちらにルドルフ・レポートがありますので、同じ写真があるのを確認して下さい。何度も言いますけど、加藤は自分が論拠にしているはずの修正主義者の著作でさえもちゃんと読まないのです。呆れているのは私だけですか?

なお、シュトゥットホーフ収容所のガス室についての解説は以下を参考にして下さい。

www.deathcamps.org

加藤は、この写真が出てくるまでに、ロイヒターレポートが間違いだらけであることを述べていますが、お前だってロイヒター以上に間違えまくってんじゃないか、と。他人のこと言えた義理かと。

 

03:00/ルドルフが採取した「バイエルン」の検出値について。

カラー写真で見れば、ある共通点があることに誰もが気がつくことでしょう。
全て壁に青いしみが浮き出ているのです。
これは、鉄シアン化合物と呼ばれ、シアンガスと壁の中にある鉄分が反応を起こして生成される物質の色です。
これは、鉄青、プロシアンブルーと呼ばれ、もっとも一般的な青色染料として利用されてきたものです。
プロシアンブルーは極めて安定した物質であり、壁がある限り存在し続けます。
害虫駆除室はいずれも連日のようにシアンガスにさらされましたから、写真のようにびっしりとプロシアンブルーが生成されたのです。
ロイヒターとルドルフはいずれも、収容所から取った幾つものサンプルから、どれだけの鉄シアン化合物が検出されるかを調べました。 それが、次の表です。

図表
試訳: ホロコースト講義 ゲルマール・ルドルフ 歴史的修正主義研究会試訳 3.4.6 化学的分析より引用

一見して判るとおり、害虫駆除室から検出される量は、桁外れに大きいのです。
収容所の各施設は、いずれも何回かはチクロンBによる害虫駆除処理を受けていますので、ごく微量の鉄シアン化合物が生成される可能性はあります。
しかし、この表の中で10mg以下の微量な数値は測定誤差の範囲内であり、何かを判定する基準にはならないようです。シアンガスに一切さらされなかったバイエルンの民家から取ったサンプルから9.6mgが検出されたことからもそれが判ります。

この、最後の行に書いてあるゲルマー・ルドルフが試料採取し、分析したらしい「バイエルンの民家(細かい話ですが「民家」ではありますが、ルドルフは「農家」と表現しています)」の値は個人的には懐疑的です。大事なことは、ルドルフ以外の測定値がないので、検証できないことです。ルドルフは、低濃度の測定値を「バックグラウンドレベルのようなもの」と結論づけようとして、無関係の場所の測定値を偽造した疑いがあります。もし無関係の場所であるバイエルンの農家からの値がゼロだとしたら、微量を検出しているガス室跡地でシアン化水素ガスが使われたことを否定出来なくなります。したがって、農家の値が陽性であることはルドルフの結論にとって都合が良すぎるのです。

少々事情を解説すると、まずロイヒター・レポートのシアン化物測定結果がありました。それによると、確かに害虫駆除室のシアン化物はガス室とされる場所の測定値と比べ桁数で3桁も上回っていました。修正主義者たちはその結果から、明白にシアン化水素ガスが使われたとわかっている害虫駆除室よりもガス室とされる場所の値の方がはるかに低いのだから、ガス室とされる場所はガス室であったはずはない、と結論しました。

しかし、ロイヒターレポートに記載されたガス室跡の測定値には、ゼロではない測定値がいくつもあり、シアン化水素ガスが使われなかったことは示されていない、と反論されてしまったのです。むしろ、ロイヒターの結果はガス室跡でシアン化水素ガスが使われていたことを示している、と。

そこで、ロイヒターはそれらの低い数字は、ガス室跡(火葬場)ではチクロンBを用いた害虫駆除作業が行われたから、その時の微量に残っていたシアン成分を検出したに過ぎない、と再反論しました。

ところが、微量のシアン成分が検出されたビルケナウの火葬場は、アウシュヴィッツ収容所でチフスが蔓延して害虫駆除作業が行われたとはっきりわかっている1942年8月頃には、まだ建設が少し始まった程度だったので、害虫駆除作業など行われているわけがなかったのです。したがってロイヒターの説明は嘘です。

そこで、修正主義者のルドルフは、ガス室跡の低い測定値は、測定値限界未満の値でしかなく、無視し得るものであることを証明しようとして、シアン化水素ガスなど使われた形跡もないバイエルンのどこかの農家の測定値を出してきたのです。

つまり、バイエルンの農家の測定値をわざわざルドルフが出してきた目的は、ガス室跡の微量の測定値を説明する目的以外ではないのです。だとするならば、そのルドルフの調査結果自体が検証されなければなりません。しかし、そのように検証される別の測定結果はないのです。

しかしそうすると、後述するクラクフ法医学研究所の住居棟の値が全てゼロであるのも、クラクフにとって都合が良すぎるではないか、と思われるかもしれませんが、ルドルフの結果をよく見て下さい、「別の会社」が分析を行なったとされる囚人バラックの8番目のサンプルはゼロとなっており、クラクフの値と一致しています。つまり、クラクフの値は皮肉にもルドルフの値が検証しているのです。

故に、検証データのないバイエルンの農家の値を以て「10mg以下の微量な数値は測定誤差の範囲内であり、何かを判定する基準にはならない」と言うことは出来ません。しかし仮にそうだとしても、それはロイヒターやルドルフの解析感度がそうなっているだけであって、クラクフ法医学研究所の解析感度はルドルフらの300倍あるので関係がないのです。例えて言うならば、ロイヒターやルドルフの分析は虫眼鏡で行なっているようなものであるが、クラクフ顕微鏡を使っている、ようなものだからです。

 

05:48/クラクフ報告について

科学的トリックによってロイヒター/ルドルフ報告を否定しようとした典型例は、1994年に行われたポーランドクラクフ法医学研究所報告です。
この報告では、なぜか、年月が経っても安定して検出できるプロシアンブルーを対象から除外したのです。替わりに不安定で時間が経ってしまったら殆ど検出不可能になってしまう物質を対象としたのです。
これでは、殺人ガス室であっても害虫駆除室であっても、数値は殆どゼロになるのは当 然です。

この表の、一番左の列の数字がそれです。
ところが、この研究所はそれよりも前の1990年にも別の調査を行っていたとされて
います。
その結果、害虫駆除室からは、いわゆる殺人ガス室とされる部屋よりも20倍も高いシアン化カリウムが検出されていたというのです。
その結果が左から二列目の数字です。

これは、研究所の内部からリークされたも のだとされています。
クラクフ研究所は、自分たちにとって都合の悪い結果を覆い隠そうとしたのではないでしょうか。
参考資料 クラクフ法医学研究所報告 (試訳と評注) 歴史的修正主義研究会試訳

クラクフ報告は以下で私の翻訳による日本語版が読めます。

note.com

まず、加藤に化学の素養がないことが、「シアン化カリウム」の表記でわかります。クラクフが報告書に記載しているのは「シアンイオン」です。シアン化水素ガスの化学記号はHCNであり、この化学物質を特徴づけているのはシアンイオンCN^-であることがわかります。シアン化水素ガスが水分に溶け込むことで加水分解が起こり、水素イオンH^+とシアンイオンCN^-に遊離すると、このCN^-はイオン結合により、他の金属陽イオン(カルシウム、カリウム、ナトリウム、etc)と結合する場合があり、そのうちの一つがシアン化カリウムKCNであるに過ぎません。

また、科学的素養に多少なりとも乏しい人たちに多いのが、前述した「虫眼鏡」と「顕微鏡」の区別が分かってないことです。

それを解説する前に少し説明します。クラクフが本調査である1994年よりも前の1990年に行なった調査を公表していないのは、1990年の時はクラクフ法医学研究所は単にアウシュヴィッツ博物館から調査の依頼を受けて、単純にそのままサンプル調査しただけで、ロイヒター調査を知らなかったのです。ですから、その時のクラクフの調査では、サンプル数はロイヒターよりも少なく、感度もロイヒターよりも悪い分析結果しか得ていませんでした。そこで、クラクフは1990年の第一回目調査をスクリーニング調査(予備調査)と位置付け、ロイヒターレポートを含めた先行研究を踏まえて、調査内容の検討を行い、その上で本調査として1994年の調査を行なったのです。

そこで、分析を行うにあたって大きな方法の違いとして、分析結果からはプルシアンブルーを省くこととなったことです。その理由をクラクフ報告では以下のように記述しています。

化学分析の引き受けには、慎重な検討が必要であった。修正主義者たちは、強烈な暗青色で、並外れた堅牢性を特徴とするプルシアンブルーにほぼ独占的に注目した。この染料は、特にビルケナウ収容所周辺の旧浴場・害虫駆除所の壁の外側のレンガにシミの形で発生している。あの場所でプルシアンブルーが生成されるに至った化学反応や物理化学的過程を想像するのは困難である。レンガは他の建材と違って、シアン化水素の吸収が非常に弱く、時には全く吸収しないこともある。また、プルシアンブルーの前駆体である(Fe(CN)_6)^{-4}イオンの生成には、2価の鉄イオンが不可欠であるが、この中に含まれる鉄は第3酸化状態になっている。また、このイオンは太陽光に敏感である。

J・ベイラー(1)は、共著作品「Amoklauf gegen die Wirklichkeit(現実を無視した暴挙)」の中で、レンガにプルシアンブルーが形成されることは単にあり得ないと書いている。しかし、彼は害虫駆除室の壁にこの色素が塗料として塗られていた可能性を考慮に入れている。なお、この青色は、すべての害虫駆除室の壁面に現れているわけではないことを付け加えておく。

シュトゥットホーフのガス室の写真に見られるような、ある意味自然に生成しているようなプルシアンブルーの形成機序がよくわからないのです。使われたのはチクロンBから発生するシアン化水素ガスであり、気体ですから、室内であれば割と均等に分布して拡散するはずなのに、壁面を見ると青いシミのあるところやないところが見受けられます。これはシアン化水素ガスが存在するからと言って必ずプルシアンブルーが生成するわけではないことを端的に示しているのです。

ベイラーは形成機序がよくわからないので、塗料かもしれないと推定したようですが、そのように形成機序がよくわからず、発生したりしなかったりするような不安定な生成をするプルシアンブルーを分析対象に含めるのは不適切と判断したので、クラクフはプルシアンブルーを分析対象から除外したのです。これを、クラクフ報告への序文を書いた反修正主義者である化学専門家のグリーン氏は「プルシアンブルーの形成は複雑であるため、総シアン化物の検出はシアン化物への暴露の信頼できるマーカーにはならない」と表現しています。

しかし、プルシアンブルーを除外してしまうと、分析値が極端に低くなってしまうのではないか、場合によっては検出されないこともあるのではないか、とは当然危惧されるところです。そこで、クラクフ法医学研究所では分析感度を高くしたのです。グリーン氏の解説によれば、ロイヒターらの300倍だと書いてあります。つまりこれが私の言っている「虫眼鏡」と「顕微鏡」の違いなのです。

したがって、加藤の示した表では単位がmgで示されていますが、クラクフ報告を見ればわかるように、μgで示されているのです。

以上でもまだわかりにくいかと思ったので、どうしてプルシアンブルーが省かれなければならないのかをわかりやすく説明しようと考え、私自身で以下の簡易な模式グラフを作成しています。

プルシアンブルーは風化に強く、長期間にわたって濃度はほとんど変化しないが、それ以外のシアン成分は風化に弱いため、長期間が経つとプルシアンブルーに比べて圧倒的に濃度が低くなってしまうことを示したものです。これは考え方を示したグラフであって、何か実測値に基づいているわけではないことは述べておきます。

いずれにしても、条件の違いを考慮すれば、害虫駆除室にしかないプルシアンブルーを示す「青色線」ではなく、害虫駆除室にもガス室にも共通して存在している「赤色線」の方を分析対象としなければならないことは明らかです。

で、感度を300倍にしていることで、クラクフはμgのオーダーでシアン残留物の測定結果をちゃんと得ているのです。

 

08:20/「「中間の値」となるはず」?

仮に、害虫駆除室よりは、ガス処刑室のほうがプロシアンブルーが生成されにくかっ
たという主張が正しいとしましょう。 その場合は、ガス処刑室の数値は、害虫駆除室よりは少ないが、シアンガスと無関係の場所よりは大きい、「中間の値」となるはずです。
ただの農家と同じように、殆どゼロに等しい理由にはなりません。

加藤は、クラクフがプルシアンブルーを分析から除外して、非プルシアンブルーであるシアン成分のみを分析対象とした意味を理解していませんし、クラクフがロイヒター・ルドルフの測定結果よりも分析感度を高く設定していることも分かっていません。これにより、ガス室の値は「中間の値」どころか、最大値を比較すると害虫駆除室で840μg/kg、ガス室跡で640μg/kgですから、ガス室跡の値は害虫駆除室の76%と、それほど遜色のない値を得ることができているのです。加藤は分析値の見方すら理解していません。

これを害虫駆除室の測定結果と含めて対照結果とすれば、ガス室跡のシアン残留濃度は、有意にシアン化水素ガスが使われていたとみなし得るものになります。

より詳しく、化学的な議論の内容を知りたい方は、以下の資料を参考にすることをお勧めします。

note.com

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おわりに。

以上で、とりあえずは『ホロコースト論争』の動画シリーズへの論破シリーズは終了です。2020年ごろに、私がこの動画シリーズを初めて見た頃は、動画主の加藤は単に「嘘をついている」だけだと思っていたりしたのですが、実際にはそうではなく、加藤は真面目にホロコーストの定説(正史)を正しくないと思っており、否定論の方こそ正しいと思い込んでいるのでした。

私は、ネット上で流布されるホロコースト否定論と3年ほど付き合ってきたわけですけど、それらを主張する加藤を含めたネット否定派さんは、当初私が考えていた以上にはるかに多いことを知りました。ホロコーストそれ自体は否定しないが、600万人説やガス室を疑わしいと思っている人を含めると、かなり多いと言っていいように思います。これは、最近の報道で知りましたが、ホロコースト教育が行われているであろうオランダでさえも実態がこうであることを知って、仕方ない面もあるのかなぁと思うようになりました。

www.nikkei.com

歴史教育の難しさを表しているのだと思います。おそらく、ドイツでも似たようなものなのでしょう。

でも、加藤のように積極的にホロコースト否定論を事細かに主張するような人たちは、間違ったことばかり言っているのも事実です。それは、この記事の最初の方で示した、シュトゥットホーフ収容所のガス室の写真をマイダネクのガス室の写真だと間違えるような杜撰なレベルと言っていいような間違いです。加藤とは別に、最近あるところでやり取りした人は、「600万人は盛っているに違いない」と主張するので、色々問い詰めていたら「ソ連の犠牲者とされるユダヤ人は、ソ連には強制収容所はなかったので、戦争の犠牲者がカウントされている」なる馬鹿げた主張をしました。この主張は何重にも間違っています。ソ連にも強制収容所はあったが、ソ連での犠牲者はアインザッツグルッペンに代表される現地での銃殺やガス車による殺害なのであって、戦争の犠牲者はほとんど含まれないことがわかっているからです。「歴史をもっと学ぶべき」のように言うと、「歴史学者は信用できない」のように言うので、お手上げです。

確かに、100%間違いのない歴史認識も、それはそれであり得ないのもまた事実です。私自身、自分の主張を読み返すと間違いが見つからないことの方が珍しいほどです。著名なホロコースト研究者の著述の細かい部分にさえも間違いを素人の私でさえも見出すこともできます。歴史を語る行為は、ある程度の間違いを含むのは必然であるとも言えるのかもしれません。

とは言え、たとえそうであっても、原則的な意味で、間違いがあってよく、正しくなくてもいい、と考える人はいないと思います。医者が誤診をすることがあっても、誤診ばかりしていて良い筈はない、ようなものです。

加藤は間違いだらけのホロコースト否定論を主張しました。しかもそれは、欧米の否定論にさらにオリジナルの間違いを加えるほどの酷さです。そのような間違いだらけの主張を信じて良いはずがありません。私はそれを強く主張したいと思います。

 

 

 

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「「証拠写真」の「偽造」を解説する!「ホロコースト論争」7/20 「数多くの証拠」の正体とは?」と題された動画を論破する。

4〜6番目の動画では一旦全部、テキストや画像を取り出してから、指摘箇所を選択してその箇所ごとに論破していく構成を取りましたが、今回は動画を流し見した感じ、その必要はなさそうなので、また初期のやり方とおり、動画内の時間を示しつつ、その箇所ごとに論破していく構成とします。

さて、加藤は今回の動画の冒頭の方で以下のように述べます。

00:29/ホロコーストの「写真」について。
ホロコーストは、数多くの証拠によって、 疑いようもなく証明されている」
これは、まるで定型句のように使われる表現です。
慰安婦問題」や「南京問題」を語る際にも、日本人がしばしばこの表現を使います。 しかし、このように口では言っていても、ホロコーストを立証する根拠がどんなものか、具体的に知っている人は実際には殆どいないでしょう。
「数多くの証拠」
これが、一体どのような物なのか、順序立てて解説していきましょう。
まずは、「写真」です。
大前提として、写真はそれ単体としては証拠として成立しにくい物なのですが、証拠能力がない訳でもありません。
今回の動画の加藤のテーマは「証拠写真」なのだそうです。先に述べておきますが、元ネタの多くは、ドイツの修正主義者であるウド・ヴァレンディ(Udo Walendy)です。元ネタ論文も歴史修正主義研究会で翻訳紹介されています。もちろんですが、ヴァレンディは写真の専門家でも何でもありません。
確かに、写真は「それのみ」では証拠になりません。最低でも、いつ何処で何を撮った写真なのか、といったその写真に対する説明が必要です。しかし、ホロコーストでは実に多くの証拠写真が存在します。修正主義者からすると、どれもこれもどうにかして否定したいものばかりです。例えば…

ミゾッホ・ゲットーでの大量処刑後、まだ生きている女性を射殺するドイツ警察官(1942年10月14日)

まさに大量射殺を行っている風景の写真です。この写真についての説明は、こちらWikipediaをご覧ください。この手の、主にソ連で行われた現地射殺の写真はいくつかは見たことのある方もおられるかと思います。探せばネット上からでもホロコーストのこのような残虐な光景の写真はいくらでも見つかります。これらの本物のホロコーストの写真については、残念ながらこの動画では扱われていません。

ただ、これらの本物の残酷な写真は、衝撃が強すぎるのか、あまり紹介されることがないのかもしれません。有名な写真の一つである「ヴィニツァ最後のユダヤ人」を最初に見た時は、かなりショックを受けたことを覚えています。その最初に見たときは、その媒体では確か下の方に写っている多くの遺体はトリミングされていたように思います。

加藤は、「写真はそれ単体としては証拠として成立しにくい」と書いていますが、説明がないと何の写真かわからないとはいっても、これらの写真はほとんど写真単体で証拠になるくらいに証拠力が強いとさえ言い得るでしょう。なお、ヴァレンディはこれらの写真を捏造であるかのように語っていますが、現在ですら写真が修正されるのは当たり前に行われていることであり、修正されているから捏造であるだなんて言い出したら、無数の写真が捏造になってしまうでしょう。ヴァレンディはそもそもの写真の出所をほとんど問題にしておらず、見た目だけの印象で判断しているだけだったりします。

さて、これらのソ連でのホロコースト写真は多いのですが、絶滅収容所でのホロコーストの証拠になりそうな写真は逆にほとんどありません。その理由はソ連では多くのドイツ軍人がカメラを持っていたことや、親衛隊は絶滅収容所での写真撮影を厳禁としたことなどが挙げられますが、今回は詳しくは述べません。

今回の動画では残念ながらソ連での写真は言及されていません。

 

01:14/ベルゲン・ベルゼンの遺体写真

「では、あの死体の山は一体何なのだ!」

と加藤が述べて示される写真は、前にも紹介したベルゲン・ベルゼンの遺体写真です。今回は、モザイクなしで以下に示します。

ベルゲン・ベルゼンの大量遺体の写真は他にもいくつもあり、動画だってあります。前にも述べた通り、ホロコーストの象徴的な写真として使われることが多く、加藤はウド・ヴァレンディの主張をそのまま使って、アウシュヴィッツの写真として、「虚偽のキャプションがつけられて」紹介されていたと非難しています。

しかし、西ドイツの媒体がこのように紹介したのは、単純に「誤用」なだけであって、意図的なものではないでしょう(調べればすぐわかるんだから)。

では、実際、アウシュヴィッツではどのような状況だったのでしょうか? こちらの米国ホロコースト記念博物館のサイトが公開している、アウシュヴィッツ開放後の動画を確認してみてください。10:45くらいから多数の死体の写真が写っています。開放時には600体程度の遺体があったということですので、ベルゲン・ベルゼンが13,000体程度だそうですから桁違いに少ないとは言えますが、それでもこんな感じだったのです。

 

そもそも、ガス処刑の犠牲者は焼却炉その他の方法で完全に焼却され、証拠は一切残らなかったという設定なのですから、 逆に写真が残っているのは正史の立場からしてもおかしいのです。

しかし、上のように写真(動画)は残っていました。これらは修正主義者が求めてやまない「ガス処刑遺体」ではないかもしれませんが、ホロコースト、つまりナチスドイツによる犠牲者であることには違いはありません。

なお、ベルゲン・ベルゼンの大量遺体写真について、ウド・ヴァレンディでさえも、これらの遺体が、連合国の爆撃によるものだとしか言わない不誠実な加藤のようなことは述べていません。

しかし、実際には、こうした状況は、たとえば、戦線に近い収容所の疎開、その収容者が(愚かにも)この時期にヒムラーの命令で国内へ移送されたこと、[17]といった外的状況の結果であった。残りの収容所では、この措置の結果、全面的な過密状態となり、また、この時期に爆撃で死に絶えつつあった第三帝国のインフラの崩壊により、収容所への衛生、医療、食糧の供給ラインが途絶えたことが、収容所の恐ろしい状況を生み出した。

Udo Walendy: Do 'Documentary' Photographs Prove the National Socialist Persecution of the Jews?

 

02;31/アウシュヴィッツのゾンダーコマンドによる写真

正確に言えば、アウシュヴィッツの死体の山……とされる写真は二枚存在します。この二枚の出どころは同じですので「一件」と扱えます。

前項の通り、アウシュヴィッツの死体の山の写真は二枚どころではなかったのですが。

野外で死体を焼却している……という設定のようですが、そもそもそこからして正史の設定とは異なります。 正史に於いては、ガス処刑された死体は、全て焼却炉か、焼却壕で焼かれたことになっています。 このように、地面に無造作に置いて焼いてなどいないはずなのです。

以下の写真がそのように見えるのなら、「お前病気なんじゃないのか?」と思わず言ってしまいそうになります。

この写真をよく見て、地上に置いてある遺体のどれかが焼かれているように見えるでしょうか? 白い煙が上がっているのは地上に置かれている遺体のその向こうであり、普通に考えればそこに壕(ピット、トレンチ)が掘ってあって、そこから煙が出ていると解釈するはずだと思うのですが。煙で隠されてしまっているため、壕そのものは見えません。

加藤と似たようなことを言っていた日本の修正主義者を知っていますが、どうして日本の修正主義者たちはちゃんと写真を見ようとしないのかよくわかりません。

さて、この二枚の写真(実質的には最初の一枚目だけ)に対する加藤の捏造疑惑はもちろん、ウド・ヴァレンディやゲルマー・ルドルフら欧米の修正主義者たちの主張が元ネタで、それらについてはHolocaust Controversiesブログサイトがすでに論破していますのでそちらを読んでいただくのが早いと思います。こちらでは、私の方でこの写真の撮影経緯などについての解説を別サイトから探し出してその翻訳を追加しています。

note.com

基本的なことを言えば、修正主義者の主張はこの写真が意図的に創作された捏造写真だということですが、どうしてこんな不鮮明で直接的な殺害風景でもないような写真をわざわざ創作して捏造するのか、私には意味がわかりません。それだけでも修正主義者の主張には無理がありすぎると思うのですが……。私だったらこのような写真を見せられても「これだけでは何とも言えない、修正主義者が主張するチフスなどの疫病による死体を焼却しているだけだと言われればそれまでのように思うし」となると思います。

ところが、この写真は、証言や航空写真を組み合わせると、その証拠価値がガラッと変わります。証言は複数ありますが、いつも利用しているルドルフ・ヘスばかりなのも芸がないので、ゾンダー・コマンドの証言から引用しましょう。

ハンガリーからの輸送が到着していた時期、私たちは火葬場Ⅴで2交代で働きました。日勤は午前6時30分から午後6時30分まで、夜勤は午後6時30分から翌日の午前6時30分まででした。3ヶ月ほどそのような作業をしました。しかし、火葬場の効率が悪くなったため、火葬場Vの隣にピットを掘り、ハンガリー人を燃やすために使用しました。大きなピットが3つ、小さなピットが2つありました。遺体は、火葬場Vによって、第1、第2バンカーによって、ピットと同様の方法で焼かれました。火をつけたのはモールです。焼却ピットの中の灰は、バンカーの中と同じように搬出されました。特殊な杵で潰して、ソワ川に運びました。当初、火葬場の炉から出た灰は、特別に掘った溝に埋められました。しかしその後、ロシア軍が攻勢に出ると、ヘスは穴から灰を掘り出してソワ川に移すように命じました。

アウシュヴィッツの様々な議論(10):証人の宣誓供述書2:シュロモ・ドラゴン(シェロモ・ドラゴン、スラマ・ドラゴン)|蜻蛉

航空写真も数枚ありますが、Holocaust ContorversiesによってGIF動画化された写真が一番わかりやすいと思います。

Holocaust Controversies: Personal Movement in the Auschwitz-Birkenau Compound on 25 August 1944 Aerial Photographsより

航空写真が機密解除で公開されるようになったのは1970年代以降のようなので、証言はともかく、このような航空写真を意識して、ゾンダーコマンドの野外焼却作業風景の写真が捏造されたはずもありません。このように、複数の証拠が相互に裏付けあって、強固な証拠構造を形成しているのです。

加藤は、以下のような写真をあげて、各所についてウド・ヴァレンディやゲルマー・ルドルフの論述を使って捏造だと主張していますが、

うち、②〜④について論じていたウド・ヴァレンディも自身の説にそんなに自信はなかったようで、以下のように述べています。

おそらく、本物の火葬シーンを再現するために、遺体や作業員を追加することで、望ましい「真実」を後押ししたのだろう。しかし、この写真が本物であったとしても、何を示しているのだろうか? 映し出された死体はガス処刑の犠牲者のものなのか、それともチフスの流行によるものなのか。いずれにせよ、煙が地面に沿って壁になっているという事実は、火葬に高さがないことを示しており、航空写真には穴がないことを示している[41]。したがって、この写真は、チフスで死亡した収容者のシラミに侵された衣服を燃やしているだけなのかもしれない。

Udo Walendy: Do 'Documentary' Photographs Prove the National Socialist Persecution of the Jews?

なお、ヴァレンディですら「煙が地面に沿って壁になっているという事実は、火葬に高さがない」などと述べて、地面に掘られた焼却ピットから煙が上がっている事実を否定しているのは滑稽にも思えます。上の航空写真のGIF画像でもわかるようにはっきりとそこには焼却ピットが写っているわけですから。

①の、フェンスの支柱に対するゲルマー・ルドルフのクレームも、どう考えても強引すぎで、こんなボケボケの写真でよくそんなことが言えるなと、仮にそうだとしても、なぜ捏造主がそんな形状の異なった支柱をわざわざ用意して撮影するのか意味不明だとは思わなかったのでしょうか?

 

4:58/SWCによる捏造写真

このように、明らかに修正された写真は他 にもあります。
最も悪質なのは、1991年に「サイモン・ヴィーゼンタールセンター」 が公式サイトに掲載していた写真です。

として、加藤が例に挙げているのはこれもウド・ヴァレンディの論文からです。

で、ヴァレンディの論文にも示されているSWCのサイトに本当にそんな写真が掲載されていたのかどうかを調べたところ、Webアーカイブにあった同サイトの最も最古のアーカイブ版である1999年10月6日の版にありました。ちなみに加藤は「1991年」と誤って書いていますが、ヴァレンディは1999年とちゃんと書いています。

元の写真は、これはあのAuscwitz Albumに含まれている写真で、ヤド・ヴァシェムにあるものを以下に示します。

このように、確かにこの元写真には煙のようなものはありません。しかし、SWCが本当に捏造したのかどうかはわかりません。誤って、何かの媒体にあった写真をそのまま使った可能性もなくはないからですし、SWCのサイトも上記の通り出典を示していないので、どこの写真を使ったのかは不明です。ヴァレンディは「フォトショでやったんだ!」のように言ってますが、フォトショを使うまでもなく鉛筆手書きでもできそうなレベルです。ただし、確かにSWCは「背景に煙が見える」などとキャプションしているのは事実で、一目見てはっきりわかるほど不自然な煙なのに、いい加減すぎるとは思います。

しかし、この写真が撮られたと推定される時期、つまり1944年5月〜7月の時期は、ハンガリーユダヤ人の絶滅作戦が行われていた時期であり、この時期にビルケナウの火葬場がフル稼働していたのは疑いの余地はありません。

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仮に、このハンガリー作戦を否定するとしても、火葬場があったことそれ自体を否定している修正主義者はいない(ビルケナウに火葬場があったのを知らなかったらしい元親衛隊員でアウシュヴィッツの副収容所に勤務していたらしいクリストファーゼンなる修正主義者はいますが)ので、もし仮にその煙が火葬場からの煙だとしても、何も不思議なことはありません。火葬場で遺体の火葬が行われていた、だけの話です。火葬場の煙突から煙が出ていたこと自体は、煙突上部に煤が見られる以下の写真からもわかります。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0341.shtmlより(クレマトリウムⅡの南側大部分を北から見た、1943年夏に撮影されたと思われる写真)

しかし、それとは別にSWCがいい加減すぎるのは非難されて良いとは思います。サイトを訂正したのなら、こっそり削除しただけにせず、せめて説明を残すべきだったと思います。Webアーカイブを調べた限りでは、2001年2月には写真が煙のない写真に差し替えられており、2002年12月には写真は消されています。いずれも何の説明もありません。これでは少なくとも不誠実と言われても仕方ないでしょう。

 

06:12/屋根に重なっている囚人の書き込み、など

これらのCIAが「偽造」したとされる航空写真については、その可能性はないときっちり本物の航空写真専門家2名によって説明されています。

note.com

私自身も、上のリンク先にある通り、ネット上から入手した出来るだけ精細なデジタル画像を拡大して確認してみましたが、よくわかりませんでした。航空写真の詳細な分析は専門家に委ねるしかありませんので、その筋の有能な専門家とされるキャロル・ルーカスやネヴィン・ブライアントの説明を信じるのが最善でしょう。

これを言い出したのは、修正主義者の航空写真専門家とされていたジョン・ボールですが、ツンデル裁判では裁判長に証人として認められなかった実績がある人物です。これも、ゾンダーコマンドによる野外焼却風景の写真と同調、意味のわからない捏造案件です。仮にCIAがそんな書き込みを行ったとして何か意味があるのでしょうか? 少なくともジョン・ボールの指摘箇所は、もしそうだったとしても、その書き込み内容はガス処刑等の残虐行為とは全く関係がありません。一つは単に囚人が整列しているだけであり、もう一つは収容所内を行進しているだけです。

報告書を書いたブルギオニらの主張には、ジョン・ボールの指摘とは別に、誤った指摘があったのは事実らしいですが、流石に意味不明な書き込みをするほど変人ではないと思います。

 

07:49/戦後すぐのシアン化合物検査について

それは、1946年、ポーランドクラクフで のアウシュヴィッツ裁判に証拠として提出さ れた、髪の毛と、髪の毛の留め金と亜鉛メッ キの金属カバーです。
Expert Opinion of the Cracow Institute, 1945,
B. Bailer-Galanda
クラクフ法医学研究所の調査によれば、これらからシアンガスにさらされた反応が出た、 ということです。

この戦後すぐのクラクフ法医学研究所による報告は、以下で翻訳紹介しています。

note.com

加藤はこれについて、

  1. 髪の毛や金属カバーから検出されたシアンの痕跡は、害虫駆除作業によるものである。
  2. モルタルの検査結果がないのは、シアン成分が検出されなかったからであろう。

のように述べていますが、まず大事なことは、シアン化合物が検出された事は、ガス室でシアン化水素ガスによる処刑を行っていたことに矛盾していないという事実なのです。また髪の毛はともかくとして、火葬場の換気口の亜鉛製閉鎖版からの検出は、火葬場自体を害虫駆除する理由が不明であり(死体は火葬されて一緒にシラミも死んでしまうのに何故火葬場を害虫駆除するのか?)、害虫駆除したことを示す根拠もないので、加藤の言い分は通りません。

また、検出されなかったからモルタル分については報告されなかったとする加藤の主張も、報告には単に書いていないだけなので、モルタルについては不明であることがわかるだけです。加藤の言うように害虫駆除されているならば、むしろ検出されていて当然であるとも言えるので、検出されなかったかのように主張するのは、加藤の主張自身に矛盾しています。40年以上後に調査を行なったロイヒターもクラクフ法医学研究所も、モルタルからシアン化合物を検出しているのですから、戦後すぐの調査で検出しなかったと考えることもまた矛盾しています。加藤は本当に何も考えていません

 

10:21/ガス処刑された遺体、大量埋葬墓。

では、(1)ガス処刑された死体の痕跡は発見されたのでしょうか
これも、全く確認されていません。
正史が正しいとすれば発見されるはずの(2)大量埋葬地も発見されていません
これについては、1987年にエルサレムで 行われた「デムヤンユク裁判」の時に行われ たポーランド当局による調査が興味深いです。 正史では、トレブリンカには絶滅収容所とされるトレブリンカⅡと、そうではないトレブリンカIがあったとされています。
しかし、(3)調査によれば、大量虐殺が無かったとされる「I」の方で1万人規模の埋葬地が発見され、絶滅収容所とされる「II」の方 は、それよりもむしろ少ない2~4千人程度の埋葬地しか見つからなかったというのです。 正史によれば、この地には80万とも300万人とも言われる死体の埋葬地が無ければならないのに······です。

Bilatyn Glownej Komisji do Badania Zbrodni Hitlerowskich w Plosce, vol 26 (1975), pp.117-195.(註:これは実際にはトレブリンカ・ホロコースト(ノイマイアー)が加藤がネタ元にした参照先です)

駄目押しのように、 1999年10月、専門家チームが、(3)地中レーダーをつかってトレブリンカ「絶滅収容所」の地中を探索しました。
この装置は、65フィートの深さまで、物体 の存在や掘り起しによる地層の乱れを検知することができるのです。
そのデータによると、地中には地層の乱れが一切存在しなかったといいます。

(1)本当にガス処刑遺体は発見されていないのか?

ガス処刑遺体について私自身が知っていたのは、昔の対抗言論で言及されていたマイダネク収容所のソ連による解放後の報告書に記載されているというものでした。

note.com

確かにこの報告書には「収容所の敷地内で一酸化炭素中毒の特徴的な症状を示す多数の死体が発見された」とは書いてありますが、この報告書は何度読んでも全体的に雑に書かれた報告書としてしか読めず、ガス処刑死体の発見もたったその一文のみであり、書かれている内容のどこまでを信用したら良いのかわかりません。というわけで、私自身はマイダネクでガス処刑死体があったというこの報告を信用していません

マイダネクのガス処刑については、今のところ私自身は得られている情報が少ないので、否定されるとは思っていませんが、どのように証明されるかまでは存じておりません。マイダネクのガス室については、マイダネク博物館の記事を以下に翻訳紹介しています。

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しかし、以下に示されているガス処刑に関する死体の報告は信頼性があるように思えます。死体の写真も添付されていて、クラスノダールでガス車が使われていた根拠も示されています。

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これを見て、「ガス処刑された死体の痕跡は発見され」ていないと主張するのはなかなか難しいと思われます。ただ、修正主義者のためにヒントを与えるつもりで言うのではありませんが、写真につけられている説明がなぜ英語なのか?、撮影者・報告者はソ連でありロシア語でないのは何故なのか? は確かに気にはなりますが、私には情報がないので何とも言えません。

しかし、今まさにガス処刑の最中である動画があり、ガス処刑遺体よりもガス処刑をやっていたことの説得力があると思います。

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(2)大量埋葬墓は本当に発見されていないのか?

ホロコーストの大量埋葬墓自体はいくらでもあります。閲覧注意ですが、以下には大量に写真が掲載されています。

Holocaust Controversies: Mass Graves and Dead Bodies

また、私が唯一知っている調査結果としては、2000年ごろに実施されたベウジェツの発掘調査があります。

アウシュヴィッツ以外の絶滅収容所を知る(6):ベウジェツ絶滅収容所の大量埋葬地の発掘調査|蜻蛉

 

さて、加藤がそこで参照したと判明しているトレブリンカ・ホロコースト(ノイマイアー)、のこのリンク先は歴史修正主義研究会によるものですが、そこに示されている原文リンクを辿ると、翻訳内容と大幅に異なっています。そこで、Webアーカイブから同リンクの最も古い版を参照したら、合ってました。ゲルマー・ルドルフ運営のvho.orgは何の注釈もなしに改訂版にすることがあるので、注意が必要だったりします。余談ですが、著者であるアーヌルフ・ノイマイアーは2000年に亡くなっているのですけど、亡くなった人の論文を勝手に書き換えて良いのでしょうか?しかもその著者名のままで。

で、加藤は労働収容所であったトレブリンカⅠで10,000体も死体が埋葬されていたのに、絶滅収容所のトレブリンカⅡでは「それよりもむしろ少ない2~4千人程度の埋葬地しか見つからなかったというのです。 正史によれば、この地には80万とも300万人とも言われる死体の埋葬地が無ければならないのに」などと書いてますが、加藤はまたしても自身が参照した記事をちゃんと読んでません

歴史修正主義研究会の翻訳の続きを読めば、

われわれが集めた情報によると、トレブリンカⅡの死体は、証拠を隠匿するために、掘り起こされて、焼却されたのではなく、ブク川の水位が上昇したときに、疫病の蔓延を防ぐために、掘り起こされて、焼却されたのである。トレブリンカⅠの大量埋葬地の10000名ほどの死体は、上昇した水位よりも上にあったので、掘り起こされもせず、焼却もされなかった。

と、トレブリンカⅡの埋葬死体が少なかった理由が書いてあるのです。これには流石に呆れて、変な溜め息が出ました。

 

(3)修正主義者によるトレブリンカの地中探査

GPR地中レーダーの測定装置はこんな感じです。

https://www.sensoft.ca/ja/blog/what-is-gpr/より

この件は、以下に解説があります。

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地中調査を行なったリチャード・クレゲは報告書を出していないので、それで尽きているのですが、クレゲの調査結果画像として拡散されてきたこれが、

GPRの専門家によると、こうなのですから、これもまた呆れるしかありません。

ホームページを拝見し、送っていただいた画像も拝見しました。これは、彼の「グリッド」のほんの一部に過ぎません。この画像は、彼が200MHzのアンテナを使い、巨大なグリッドの中で約1m間隔のトランセクトを集めているところです。その画像は加工されておらず、5mほどの長さの部分が一列に並んでいるだけのものです。また、その横断面でも、右側の地面に「物」がたくさんあるように見えますが、これは集団墓地と見て間違いないでしょう。

Twitterホロコースト否定論への反論(27):科学がホロコーストを論破?|蜻蛉

 

11:50/ビルケナウのピット跡の地中調査
1966年、アウシュヴィッツ国立博物館ポーランドの会社に、アウシュヴィッツ・ビ ルケナウの土壌を掘り起こして、サンプルを分析するように委託しました。
ところが、その結果は何故か公表されませんでした。

これは、Nizkor記事にあるものです。

「1965年、クラクフに本拠を置く化学採掘企業ハイドロコップは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館から、焼却坑と火葬場の位置を決定することを目的とした、ビルケナウでの地質学的テストの実施を依頼された。ハイドロコップの専門家たちは、深さ3mの穴を303個あけた。人間の灰、骨、毛髪の痕跡が42カ所で発見された。すべての穴の記録とその分布図は、博物館の保存部に保存されている。」(フランチシェク・ピーパー『アウシュヴィッツ死の収容所の解剖』p.179n)。

どうやら、ネット上にはこれしか情報はありません。ピーパー博士のこの本に載ってはいるようですが、この書き方からしてこの程度の情報しか載ってなさそうです。ゲルマー・ルドルフはこの件に関し、「採取された骨や毛髪のサンプルが、人間のものなのか動物のものなのかさえ明らかではない」などと言っていますが、上の通りNizkor記事では「人間」と書いてあります。ルドルフは、ウド・ヴァレンディが入手した情報をヴァレンディ自身の定期公刊誌で公開した、と書いていますが、その公開情報自体はネット上には見当たりません。

この調査は時期的に、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判のために実施されたのではないかとも考えられますが、はっきりしません。加藤は、如何にも疑惑があるかの如くに公表されないのは不味いからだとか言ってますが、アウシュヴィッツ博物館に行けば割と普通に見せてもらえるように思えます。そういうことは、博物館に行って確かめてから言え、と思います。また、同様の調査をその後行っていないのは怪しいかのようにも言っていますが、アウシュヴィッツ博物館はクラクフ法医学研究所にも調査を依頼してやらせていますし、

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ハリー・W・マザールらによるチクロンホールの調査にも当然協力しています。

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今回は短くて済みましたが、手間は相変わらずですね。というわけで、この論破シリーズも残すところあと一回かな。非常に馬鹿馬鹿しくて、それ以上はやる気がありません(笑)

 

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ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「「アンネ・フランク」がホロコーストの矛盾をあぶりだす?「ホロコースト論争」6/20 「失われた事実」は目の前にあった!」と題された動画を論破する。

この動画シリーズを論破するに当たってやっている作業は、

  1. 動画を冒頭で一旦停止する。
  2. その時点でコピペすべきテキストがあるならスクショしつつ、カーソルキーで動画をポーズしたまま移動して、動画ウィンドウ内全面が別の文字テキストになったらスクショする(基本はこの繰り返し)。
  3. スクショするたびにその都度、その画像を一旦Google Photoにアップロードする。
  4. アップロードしたスクショ画像をGoogle Lensにかけて、テキストだけを抜き出し、コピーする。
  5. コピーしたテキスト文字列を編集中のこのブログ記事に貼り付ける。
  6. 背景画像の文字列と重なっていて、うまくテキスト文字列を抽出できないときは手入力する。
  7. Google Lensによるテキスト文字列抽出は余計な空白が入っているので、目立つところだけ空白を手作業で取り除くなど、若干の修正を行う。
  8. 図表等の画像の場合は、できるだけその画像に重なっているテキスト文字列のない状態のところで一旦停止した上で画像をスクショする。
  9. 場合によっては、その画像の引用先が明確な場合は、その引用先から直接画像をコピペしてくる。
  10. たまに音声を聞かないとわからない部分もあるのでその場合は嫌々ながら渋々音声を聞く。

のような、先ずは動画からテキスト起こしするための単純作業の繰り返しになります。これが本当に流れ作業で単純作業の繰り返しなので、やってるうちに退屈になってきて、ゲームとかネット閲覧とか読書とかetc、他のことをし始めてしまいます。ですから先へなかなか進みません(笑)

今回などは、すでに6回、動画への論破記事をあげていて、相当つまらなく感じるようになっているので、やる気レベルもかなり低下した状態です。

でも、あと何回かは続けたいと思います、今回を含めてあと3回くらいかも。

 

スピードを出している自動車がゆっくりとカーブを曲がろうとするときは、暗闇で、月の光が明るかった。その中には、沈黙に沈みながら話をする、立っている人々が座っていた。((1)ドイツの有名なナンセンス子守唄)

ホロコースト論争」完全解説第6章
アンネ・フランクの運命から見えてくる「事実」

 

前回の動画でまとめた、各収容所別の虐殺数から、最小と最大の数字のみを抜き出してみましょう。

(2)全ての収容所で、人数に10倍を軽く超える開きがあることが分かるでしょう。

原爆投下の被害者などもはっきりとは確定していませんが、開きはここまで大きくありません。

これは、誤差といえる範囲をはるかに超越しています。少なくとも、どちらか一方は確実に間違いだと言えるのです。

私なりに、ホロコースト正史の本質を最も的確に表現するなら、

「全身がパラドックスで構成された巨大なモンスター」

となります。

この奇妙な生物は、体を構成している全ての細胞組織が、別の部分と互いに矛盾し合っているのです。

いくつか例を挙げてみましょう。
1.
(3)ニュルンベルク裁判においては、トレブリンカでの凶器は「高熱蒸気」だとして認定されました。 しかし、正史派の標準的研究書、ラウル・ヒルバーグ氏の著作では、これを当たり前のように「ディーゼルエンジン排気ガスだとしています※。

しかも、「蒸気処刑」 説が間違いである理由は一切説明されないのです。

※英語版ヨーロッパユダヤ人の絶滅, p. 878、 邦訳下 158

2.
(4)正史において最も重要な証拠とされるのは、元アウシュヴィッツ収容所長だったルドルフ・ ヘスの自白です。
彼によれば、1941年秋にアイヒマンが収容所に訪れた時に、チクロンBを使った処刑実験について報告しました。それ以降、大量虐殺の際にはシアンガスを使用することが決定された...... となっています※。

トレブリンカなどで使っていた一酸化炭素 が非効率的なので、シアンガスに決定したことになっているのです。
この自白が、それまではトレブリンカでディーゼルガス室が使用されていた根拠にな るのかと言えば、そうはいかないのです。なぜなら、時系列で言えばトレブリンカが
作られたのは、この話よりも後で、 1942年だからです。


Commander at Auschwitz,; Kommandant in Auschwitz,

つまり、ヘスはトレブリンカで 「42年以降」 使っていた一酸化炭素が非効率的だという理由で、シアンガスの使用を 「41年」 に決めたわけです。
そして、その後でトレブリンカ、ベウゼッツ、ソビボル、ヘウムノでは、なぜか、シアンではなく 「非効率的なはずの」 ディーゼルエンジン排気ガスを採用したわけです。

これは、「論理のブラックホール」と呼ぶ べきではないでしょうか。 ヘスはタイムマシンでも持っていたのでしょうか?

3・
矛盾の最たるものは、前の動画でも説明しましたが、絶滅の決定時期です。ヘスの自白では、(5)-1「1941年夏」に国家指導者ヒムラーのところに召喚され、ユダヤ絶滅命令を受け、それには「計画書もあった」ことになっています※。

※Commander at Auschwitz, pp. 171-174; Kommandant in Auschwitz, pp. 157-159.

これは、記憶違いや細かいミスなどといったことが有りえない、「最重要事項」のはずです。
ところが、その一方で戦後何十年も「ユダヤ絶滅は1942年1月に決定された」というのが、定説となっていたのです。
しかも、さらに驚くべきことは、このように決定的に矛盾した情報が、 何食わぬ顔で両立してきたこと、矛盾を矛盾だと指摘することがタブー視されてきたことです。
既に説明したとおり、マルチン・ブロシャートは「はっきりしたヒトラーの命令は無かった」と主張し、(5)-2ヒルバーグなどは「計画も青写真も予算もなかった」 という説を唱えた※のです。

これらの説は、「ヘスの自白は完全に虚偽だった」と言っているに等しいのです。

※Newsday, Long Island, New York, Feb. 23, 1983, p. II/3.

このようなことは、いちいちあげていったら切りがありません。 小さな情報から大きな情報まで、 全ての要素に、それを否定する情報が、正史自身の内部に存在するのです。
つまり、ホロコースト正史とは、一概にホロコースト肯定論とは言えないのです。

むしろ「部分的否定論の集合体」とみなせるということです。

しかし、ディテールについては定説が無いとしても、ホロコースト、つまり「ユダヤ絶滅計画」の大まかな枠組みについては、正史派の中で意見の統一があるではないか、という反論があるかもしれません。
ところが、その基本設定自体に、大きな問題があるのです。

まず、 労働不適格な人間は選別され、囚人としては登録されず、 殺人ガス室で殺される」という設定になっているのですが、 選別とはどのような基準でどれほどの割合だったのか、という問題があります。
正史派の説には全く一定した物が無いのですが、一例をあげればアウシュヴィッツ博物館長のフランチシェク・ピペルの1990年代の研究では、100数十万人が移送され、 そのうち110万人が虐殺された、となっています。
Die Zahl der Opfer von Auschwitz, National Museum Publishing House, Oświęcim, 1993
これによれば、ざっと8割は労働不能ガス室行き、という計算になります。

Wikiなどを参照しても、おおむね殺される割合は非常に高い、となっているようです。

ここで、あの世界一有名なアウシュヴィッツの収容者、 (6)アンネ・フランクが辿った運命を、この設定に合わせて検証してみましょう。
1944年9月、アンネとその家族は、アウシュヴィッツに移送されました。
移送集団は1019人いましたが、そのうち549人は登録されませんでした。
Wikipediaアンネ・フランクより

半数以上は殺人ガス室に送られる「労働不適格者」だったことになります。
しかし、アンネは登録囚人となりましたので、彼女は「労働適格者だった」ということになります。しかも、家族全員が 「適格者」だったのです。完全にくじ引きのように選別したのであれば、これは凄い偶然です。この事実だけを見ても、収容する場合には、家族がバラバラにならないような配慮があったという推測が成り立ちます。 実際ビルケナウには、(7)「家族収容所」という区画がありました。

(註:上記画像表示中「ユダヤ絶滅を目指していたにしては、ナチスは随分心優しいところもあるものです」と機械音声が入っています)

すると、選別の基準は何なのでしょう。「就労経験」でも「技能」でもないことになります。アンネは15歳の少女だったのですから。
収容所にはもっと幼い子供も、逆に老人も確実に登録されていました。

(註:これは、https://www.auschwitz.org/muzeum/informacja-o-wiezniach/です)

このページから、 (8)元登録囚人の死亡者68751人分の年齢分布を調べることができるのです。

図表
Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA August 2000 P264, より引用

労働不能と判定され、「殺人ガス室」で殺された場合にはこのような記録には残されない、という正史での「設定」を思い出してください。つまり、この人たちですら「労働不適格者」にはならなかったのです。

しかし、1942年6月12日の、スロヴァキアからの移送を免除されたユダヤ教徒のリストによれば「労働可能」の基準は
「14歳から60歳までの男性」だとなっています。
Yad Vashem(1942.6.12) m-7/18(7)
となれば、奇妙なことにアウシュヴィッツでの「労働可能」の基準は、これとは異なることになります。

(註:以下は80歳以上の死亡者のリストで、右端の「mosaic」とはユダヤ教徒であることを示。動画では、ゲルマー・ルドルフの『ホロコースト講義』p.331にある表をスクロール表示させている。ちなみに、ユダヤ教徒はp.331-332の表の61人中18人である(数え間違えていなければ))

カトリックと並んでユダヤ教が多く並んで いますので、

ユダヤ教徒以外に限って生かされていた」

訳ではない事が判ります。
ならば、不適格者の基準は健康状態でしょうか。

(註:機械音声では、以下の図とともにアウシュヴィッツには病棟区画と医師がいて治療も行われたことが解説されています、すでに批判したアルマ・ロゼについて語られてもいます。)

Plan No.2503 of Birkenau, drawn on June 18, 1943.Excerpt for Construction Sector III. RGVA, 502-2-93, p.2

これに関して、正史の立場ではどのように 説明して来たのでしょう。
どうやら、回復可能な患者は治療を受け、 重病患者は「殺人ガス室」行きとなるということのようです。
しかし前述した通り、 (9)ビルケナウには重病患者用の 「特別療養ブロック」すら存在しました。 

4 Spezialbaracken 6b (Schwere Innere)
4棟の特別バラック 6b (重病人)

1943年6月11日の 「捕虜収容所での特別処置 を実行するのに必要なバラックのリスト
RGVA, 502-1-79, S. 100.
4 Spezialbaracken 6b (Schwere Innere)
4棟の特別バラック6b (重病人)

さらに言えば、第三章で紹介した死亡証明書によれば、この(10)ユダヤ教徒、エミール・カウフマンは78歳で老衰で亡くなっているのです。

その状態でもなお、彼は労働不能とは判定されず、ガス室送りにもならなかったのです。

結局、 (11)正史に於ける「労働不能」の基準とは、一体何なのでしょう。
重病人や老衰で死亡寸前の人間よりも、労働が難しい、生死の境をさまよっているような人間だとでもいうのでしょうか?
だとすれば、そのような状態の人間は、そのまま食料も与えず、治療も止めれば自然に死んでいくのではないでしょうか
わざわざ殺人ガス室まで引きずって、取り扱いが危険なシアンガスで止めを刺す必要がどこにあるのでしょう。
また、この基準に従って殺した人間は、 移送者の大半を占めていた……ということになります。
移送した人間の大半が、 生死の境をさまよっている状態……?
果たして、そんなことがありえるのでしょうか

さらに、(12)アンネ・フランクの運命を検証していきましょう。
アンネはその後、ソ連軍の進行が間近に迫っていたことを受けて1944年10月末にアウシュヴィッツから移送されます。
そして、ベルゲン・ベルゼン収容所に移送された後で、劣悪な環境の下でチフスに感染し、15年の短い生涯を終えたのです。

これまでの動画の内容がきちんと頭に入っている人ならば、ここで大きな疑問が生じるはずです。
ドイツにあるベルゲン ・ベルゼン収容所は、絶滅収容所では無いし、殺人ガス室は無かったということで、決着していたはずです。

ナチスが本当にユダヤ教徒を絶滅するつもりがあったなら、この逆方向の移送しかあり得ないはずです。 選別の時に、アンネをガス室送りにしなかった件といい、このベルゲン・ベルゼンへの移送といい、ナチスはむしろアンネの命を生かそう生かそうとしているようにしか見えないではありませんか。

これに対する反論として、いや、一時的に ベルゲン・ベルゼンに移送したとしても、その後で再びどこかの絶滅収容所に移送して、結局は殺すつもりだったのでは? ……などと いう考えをふと思いつくかもしれません。
そこで、各収容所の基本情報をwikiなどで調べたならば、きっとある重大な事実に気が 付き、愕然とすることでしょう。

42年12月ベウゼッツ閉鎖。

43年4月ヘウムノ閉鎖。

 43年10月トレブリンカ閉鎖。

 43年秋でマイダネクのガス処刑停止。

(収容所自体は44年秋まで存続)

ソ連の進行に従って、絶滅収容所は次々と閉鎖されて行きました。

そして、1944年の段階では、絶滅収容所アウシュヴィッツ一箇所だけになってしまいました。 

アンネが移送されるべき絶滅収容所などどこにも存在していなかったのです。冗談のような話ですが、「絶滅収容所が絶滅してしまったのです(註:括弧閉じ"」"がないのは原文ママ

何故に、ナチス絶滅収容所がどんどん減って行ったのに、新しく増やそうとはしなかったのでしょうか。絶滅計画は縮小する一方だったということになります。
他にある多くの収容所では無条件で囚人を生 かし続け、アウシュヴィッツたった一か所でそれも労働不能者に限って殺すだけで、ユダヤ教徒を絶滅できるのでしょうか。

これは、ラウル・ヒルバーグが採用した人数を使って、各収容所の一ヶ月あたりの「虐殺数」を試算したものです。

見ての通り、アウシュヴィッツだけだと、「虐殺能力」が激減してしまいます。他の絶滅収容所が必要ないなどということはないはずです。

 当時、ハンガリーは80万人とも言われる膨大なユダヤ教徒を抱えていた国でしたが、彼らの収容所への移送は、政治的な理由で非常に遅れました。
ナチスハンガリー政府にユダヤ教徒の引き渡しを要求したのは1942年9月24日で、
PS-3688
最初の移送が実現したのは、実に1944年4月16日になってからでした。
「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」 下p.124
膨大なハンガリーユダヤ教徒の虐殺を近い将来に控えていた、正にこの交渉中に、 絶滅収容所は次々に減ってしまったことになります。 

何故に、ナチスは既存の収容所に間に合わせのガス室を増設する、といった対策すら取らなかったのでしょう。

正史の設定では、1944年11月にアウシュヴィッツでも虐殺を停止したことになっているので、この段階でユダヤ絶滅計画はドイツ 支配圏全土で完全停止したことになります。しかし、その時点でも各収容所でユダヤ教徒は大量に収容されていました。 各地のゲットーにもユダヤ教徒は残っていました。 終戦時に生存していた欧州のユダヤ教徒は、ポーランド系だけでも、正史派は38万人、修正派は140万人※はいたと主張しています。
Carl O. Nordling, What happened to the Jews in Poland?, The Revisionist, 2004, No.2
試訳: ポーランドユダヤ人に何が起ったのか?
C.O. ノルドリンク 歴史的修正主義研究会試訳

また、ヨーロッパにおけるユダヤ教徒の境遇問題を調査したイギリス・アメリカ委員会は、1946年2月に記者会見しています。
「戦後のポーランドでは80万人のユダヤ教徒 が依然として移住を希望している」というのです。
それに従えば、欧州に生存していたユダヤ 教徒の総計はそれを遥かに上回ることになります。

Keesings Archiv der Gegenwart, vol. 16/17, Rheinisch-westfalisches Verlagskontor, Essen 1948, p. 651, Item B of Feb. 15, 1946. The Allied occupation forces in postwar years officially registered the weekly (!) arrival of up to 5,000 Polish-Jewish emigrants in the western zones of occupation alone, W. Jacobmeyer, Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte 25(1977) p. 120-135, esp. p. 125.

すなわち、ヨーロッパのユダヤ絶滅は全く完了していなかったのです。ならば、何故にユダヤ絶滅計画はどんどん縮小され、途中で終了してしまったのでしょうか。その理由を、正史では一切説明していません。

ナチスは、ユダヤ絶滅などするつもりが無かったとしか解釈できないではないですか?

また、絶滅収容所がドイツには存在しない、という話も非常に奇妙です。
ヨーロッパのユダヤ教徒は、何もポーランド周辺からのみ移送されたわけではありません。 例えば、フランスからはユダヤ教徒が 75721人移送されていますが、
Deportation des Juifs de France, Beate Klarsfeld Foundation, Brussels/New York 1982
その大半の69000人がアウシュヴィッツに 向かいました。
「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」 上p.499
彼らを殺すことだけがこの移送の目的なら、何故にドイツを横断して、はるばるポーランドまで多額の移送費を使って移送しなければならないのでしょう。

近くの収容所、 ダッハウ、ブッフェンバルトなどに小規模の殺人機能を持たせて、そこで殺せば良かったのではないでしょうか。

それ以前に、囚人の扱いが異なる三種類の収容所がある、という基本設定自体がそもそも不可解なのです。

純粋絶滅収容所     無条件で全員殺害
労働兼絶滅収容所    労働不適格な者のみ殺害
通常の強制収容所    無条件で全員生かす

ナチスは、収容所の労働力を必要としていました。ビルケナウの収容者を拡張しようとしたものの、全く目標に達しなかったのです。その状況において、ある収容所では無条件に囚人を生かし、別の収容所では無条件に殺すという方針に、一体どういう論理的整合性があるのでしょう。
それはまるで、アクセルとブレーキを同時に全力で踏んでいるようなものです。

思い出して欲しいのですが、終戦直後では全ての収容所で無差別虐殺が行われたという定説になっていました。

それならば、このような矛盾は発生しなかったのです。

しかし、1960年代以降、ユダヤ絶滅はポーランドでのみ行われていた、と定説が変わりました。

ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンバルトでもユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった)
Die Zeit, Aug. 19, 1960,

このような場合、 普通ならば研究が進んだ ため、より正しい形に学説が修正された……となるのでしょうが、 全くそうではないのです。 

先ほど、ホロコースト正史は無数のパラドックスで作られていると表現しましたが、 絶滅収容所を6つに限定したために、この怪物は、個別の細胞だけではなく、基本となる骨格からしてねじ曲がり、矛盾をはらんでしまったのです。
それに気が付くためには、何も、難解な研究論文を読み解く必要など有りません。

何という逆説でしょうか。 実は、アンネ・フランクの運命こそが、ホロコースト正史に対する最も端的な反論ソースだということです。

アンネの日記の巻末の解説を読み、wikiに書いてある収容所の基本情報を調べるだけで、かくも巨大な矛盾に辿り着くのです。

終戦後70年間、このパンドラの箱のふたは開きっぱなしでした。
奪われた事実は、すぐ目の前にあったのです。

さて……このように不可解だらけのホロコースト正史ですが、一体どのような根拠に よって成り立っているのでしょうか。
かつて、私がネット上で論争をしていた時、よく正史を支持する人が書いた言葉があります。

ホロコーストは、数多くの証拠によって、 疑いようもなく証明されている!」

……と。
これは、本当なのでしょうか。

次の動画からは、この「数多くの証拠」なるものがどんなものか解説していきましょう。
物証、 写真、文書、 証言……その正体を洗 いざらい明らかにしていきます。

 

(1)「ドイツの有名なナンセンス子守唄」

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これは単純に、知識として知りたくなったからでして、反論の目的はありません。ただし、加藤のちゃんと引用元を示さない悪い癖だけは指摘しておきます。これは、ユルゲン・グラーフの著書を歴史修正主義研究会が翻訳したものの中(p.25)にあります。グラーフ著書の原文(英語版)ではこうあります。

It was dark and the moon shone brightly as a speeding motor car slowly turned around the straight corner. Within were seated standing people, silently sunk in conversation...

これをドイツ語訳して検索にかけると、以下のページが見つかりました。

Dunkel war’s, der Mond schien helle – Wikipedia

Dunkel war's, der Mond schien helleは作者不詳のジョーク詩である。

この詩の特徴は矛盾した表現、パラドックスにある。これはすでにタイトルから始まっており、本文中にも多くの矛盾がある。

これがドイツでは有名なのは事実のようですが、グラーフはヒルバーグの主張のナンセンスさをこの童謡のようなものだ、として示しています。当該箇所ではアインザッツグルッペの所属人数の少なさに比べて殺害人数が多すぎることを、グラーフはナンセンスだと言っているのですが、アインザッツグルッペは、部隊単独でユダヤ人虐殺を行ったわけではないので、グラーフ自身がナンセンスだったりします。

note.com

またこの翻訳シリーズの3回目で、ヒルバーグが論述したアインザッツグルッペンに関する記述に対する当該箇所のグラーフによる極めて不誠実な反論については、以下で徹底的に批判されています。

note.com

加藤が、Dunkel war’s, der Mond schien helle(暗い夜だったけど、月が明るく輝いていたんだ)を引用するのを見て、グラーフのように実際には加藤自身がナンセンスな主張をしていることを示している、ようにしか思えないのは皮肉なものです。ただし、グラーフの名誉のために(グラーフの名誉など守る気はありませんが)言っておきますが、流石に加藤よりはグラーフの方が遥かにマシではあります。

▶️引用に戻る

 

(2)絶滅収容所の犠牲者数の数字がバラバラすぎる?

▶️引用に戻る

ここでは、加藤は各絶滅収容所についての犠牲者数の値があまりにもばらつきが大きすぎることに文句を言って、原爆投下の被害者数でもそんなにばらつきは大きくはないのに、などと言っています。要は、正史派はこんなにいい加減なのだ、とでも言いたいのでしょう。

ですが、どのような事件の犠牲者数であろうとも、それぞれの数字はその由来、つまりどうやってその数字が算出されたのかが重要なのであって、その由来が全然違うものを並べて比較しても無意味です。例えば加藤は、アウシュヴィッツの犠牲者数について最大で900万なる数字を含めていますが(それを出してきたのは元々はフォーリソンですが)、900万なる数字の由来が全然わかりません。フランスで作成された古いモノクロ映画『夜と霧』に登場する数字らしいですが、他では全く見られない数字であり、確認のしようもなく、そのようなわけのわからない数字と、例えば現在の広く認められているフランチシェク・ピーパーによる110万人説を比較するのはナンセンスでしょう。

またフォーリソンは同記事で「修正主義者の圧力に押されてアウシュヴィッツの死亡者数を下方修正せざるをえなくなった」などと述べていますが、アウシュヴィッツの死亡者数についてソ連400万人説をアウシュヴィッツ博物館の公式数字として1990年頃まで変更できなかったのは、東西冷戦の影響であることは明らかです。フランチシェク・ピーパーの研究自体は1986年頃には終わっていましたが、ポーランド民主化されるまでその発表を待たなければならなかったのです。

しかし、加藤によると、ホロコースト犠牲者総数は600万人と戦前よりはるか前から決まっていたのでは無かったのでしょうか? それなのにアウシュヴィッツだけでそれを大幅に超える900万人? 加藤の言っていること自体があまりにも支離滅裂で矛盾だらけに思われるのは私だけでしょうか?

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(3)トレブリンカの「蒸気説」はニュルンベルク裁判で認定されたか?

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いいえ。ポーランドが提出した報告書には蒸気説の記載があったそうですが、ニュルンベルク裁判で認定された殺害方法は「ガス室」でした。詳細は以下をご覧ください。

note.com

働ける人は全員、強制収容所の奴隷労働者として使われた。働けない人は、ガス室で破壊され、体は焼かれた。トレブリンカやアウシュビッツなどの強制収容所は、この主目的のために用意されていた

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(4)アウシュヴィッツ収容所司令官のルドルフ・ヘスの自白の時系列的矛盾

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まず、加藤はそこでヘスの自白が「最も重要な証拠」とされていると述べていますが、重要ではありますが「最も」とは一体誰がそんなことを言っているのでしょうか? 例えば、修正主義者もよく知るジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツガス室の技術と操作』を読めばわかりますが、ヘスの証言はそれほどは出てきません。

holocaust.hatenadiary.com

プレサックがそこで重要視しているのは明らかに、自身がアウシュヴィッツ博物館やソ連アーカイブから見つけた文書資料の方です。修正主義者が目の敵にするほどよく知っているはずのプレサック本がそうなのですから、加藤はいったい何を読んでそんなことを言っているのでしょうか?

さてしかし、加藤がそこで書くように、ヘスの自白というか、回想録などに見られる時系列的矛盾があるのは事実でよく知られています。この矛盾を修正主義者たちは、「矛盾しているから嘘である」と否定論に利用しますが、修正主義者でない歴史家たちは、記憶の誤りだとしています。加藤は「記憶違いや細かいミスなどといったことが有りえない、「最重要事項」のはず」と述べていますが、過去のことを思い出して証言、あるいは記述する以上は、思い出し間違いや、勘違い、失念、誤解などが含まれることは大いにあり得ます

ヘスは、1946年3月11日の深夜、あるいは12日の未明にかけてイギリス軍当局によって逮捕されていますが、アウシュヴィッツ時代の話は概ね逮捕時から2〜5年前の話になります。ヘスは、当然ですが逮捕されて以降、日記やメモなどの私物を一切持っていなかったでしょう。その上で、自身の記憶だけを頼りにその詳細を思い出さなければならないのですから、むしろ、年月等を正確に思い出すのは多少なりとも難しかったと思います。自身の周りにいるのは、当時のこととは無関係の連合国の人ばかりであり、自身の記憶が正しいかどうかを確認することさえできません。

それに、より重要なことは、ヘスには、自身の名誉を守りたいという人間個々人が当然持っている本能的な思考と、残された家族への配慮以外の部分で、意図的な嘘をつく理由はなかったと考えられます(修正主義者たちがヘスへの拷問を主張しているのはまた別の話です)。さらに、他の証言者の証言内容と非常によく一致していることも無視できません。その他の当時の証拠から類推されるさまざまな事実とも、ヘスの証言は基本的には矛盾がないのです。例えばヘスは、自伝に下記のように記述しています。

 私は、ヘスラーと共に、クルムホーフへ視察にいった。ブローベルは、命令に応じてさまざまの焼却炉を作らせ、材木とベンジン廃油で焼却を行なっていた。彼はまた屍体を爆砕することも試みていたが、これは全然不完全だった。
 灰は、まず骨粉製造機で粉末にされた上で広汎な森林原野にまき散らされた。連隊長ブローベルは、東部地区全域の大量墓地をすべて発掘して、始末する任務をうけていた。
 彼の作業司令部は、「一〇〇五」という秘密番号でよばれた。作業そのものは、ユダヤ人部隊の手で行なわれ、彼らは、一つの分区が終るごとに射殺された。アウシュヴィッツ強制収容所は、「一〇〇五」司令部のため、たえずユダヤ人を供給した。
 クルムホーフ訪問の際、私は、トラックの排気ガスを用いる、そこの虐殺施設も見た。ただし、そこの部隊指揮官は、この方法はきわめて不確実と説明した。理由は、
ガスの出来がきわめて不規則でしばしば完全殺害にまで至らないからである。
 クルムホーフの大量埋葬壕に、どれだけの屍体が埋められ、また、どれだけがすでに焼却されたか、私は知らない。連隊長ブローベルは、東部地区の大量埋葬壕内の人数をかなり正確に知っていたようだが、厳重に沈黙を申しわたされていた。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社、pp.389-390

クルムホーフとは、ヘウムノ絶滅収容所のことです。この証言だけならばこれを嘘と見なすことが可能ではありますが、実はこの視察旅行には当時の文書資料が残っているのです。

<内容の一部を翻訳>

受信日:1942年9月14日   1744
送付先
親衛隊経済管理本部  強制収容所アウシュヴィッツ

件名;運転許可証
参考:1942年9月14日

野外炉の実験場ラインハルト作戦を視察するため、アウシュヴィッツからリッツマンシュタットへ、そしてリッツマンシュタットから戻ってくるための車の運転許可が、ここに1942年9月16日に許可される。

運転許可証は運転者が携帯することになっている。

<内容の一部を翻訳>

アウシュビッツ、1942年9月17日

旅行報告
リッツマンシュタットへの出張について

旅行の目的 特別な施設の視察

アウシュビッツからの出発は、1942年9月16日午前5時、アウシュビッツ強制収容所の司令官室の車で出発した。

参加者:親衛隊中佐ヘス、親衛隊少尉ホスラー、親衛隊少尉デジャコ

朝9時にリッツマンシュタットに到着。ゲットー内の見学が行われ、その後、特別施設に移動した。特別施設の視察と、そのような施設の実行についてブローベル親衛隊大佐との打ち合わせ。ブローベル親衛隊大佐がポーゼンの東ドイツの建築資材工場社(ヴィルヘルム・グストロフ通り)に特別注文した建設資材は、アウシュヴィッツ強制収容所のためにすぐに届けられることになっています。注文は同封の文書に示されており、問題の資材は我々の中央建設局C V/3事務所のウェーバー親衛隊中尉と合意の上、注文して方向転換することになっています。該当する数の委託書を上記の会社に送付してください。ハノーバーのビュルガーマイスター・フィンク通りにあるシュリーバー社と親衛隊大佐ブローベルが話し合ったことを参考にして、アウシュビッツ強制収容所用の物質を粉砕するためにそこにすでに予約されているボールミルを引き渡してください。

帰路は1942年9月17日、午前12時にアウシュビッツに到着した。

リッツマンシュタットとはウッチ(ゲットー)のドイツ語名であり、ヘウムノはウッチを含むヴァルテ大管区(ヴァルテガウ)にありました。

上記の二つの文書はHolocoust Controversiesのこちらの記事で紹介されています。

他のさまざまな証言や証拠などともヘスの証言はよく一致しており、それら証拠と「裏付け」あっているのです。従ってこうしたことからも、ヘスの証言に時系列的な矛盾が多少あったとしても、その証拠性の高さはいささかも失われないのです。

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(5)ヒルバーグの「予算も計画もなかった」と、ヘスの述べた「計画」。

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ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の大著で有名なホロコースト史家のラウル・ヒルバーグは「正史」の歴史家の中で最も修正主義者たちの攻撃を受けた歴史家かもしれません。ユルゲン・グラーフはヒルバーグへの批判だけで『粘土の足を持つ巨人』なる長大な著作を書きました。

 ヒルバーグは、ナチスドイツによるユダヤ人絶滅には予算も計画もなかった(大意)と述べたので、修正主義者側から猛批判を受けました。その内容についてはフォーリソンの反応を含めて以下にまとめています。

note.com

これは、ホロコースト研究でも重要な観点の一つのようであり、ユダヤ人の物理的直接的な絶滅はどのようにして引き起こされたのかについて、その研究の歴史的には、初期の頃にはヒトラーが最初(この「最初」がどの時点なのかははっきりしませんが)から計画していたものだとするいわゆる「意図説」が主流だった時には、予算措置はともかく、その大枠が計画されて実行されたものであろう、と考えられていたようです。

しかし研究が進むうちに、ナチスドイツはユダヤ人絶滅を最初から計画していたのではなく、出国政策から強制移送計画、ゲットー化などを経て、戦局の悪化と共に強制移送計画が頓挫したのと、ゲットーの大量のユダヤ人についての管理が困難になった、などの理由でユダヤ人の直接的殺戮をするしかなくなった、のように考えられています。例えば田野大輔氏は次のように述べています。

アウシュヴィッツでのユダヤ人の組織的・機械的な殺戮はそれがあたかも明確で綿密な計画の産物だったか、のような印象を呼び起こしがちである。だが以上に見てきたように、ナチスの反ユダヤ政策は当初から一貫して、大量殺戮をめざしていたわけではなく、むしろ状況の変化に応じて軌道修正をくり返しながら、多様な要因の絡み合いのなかで徐々に急進化の度を強め、最終的に絶滅収容所での工業的殺戮へと行き着いたのだった。こうした「累積的急進化」は、アウシュヴィッツ強制収容所が、開設後に大きく役割を変化させていったプロセスにも部分的に見出すことができるだろう。

田野大輔、「15分で読む:ホロコーストはなぜ起こったか」、『人文会ニュース』、2020年12月、No.136、p.11(pdfはこちら

この「累積的な急進化」という考え方は、ドイツの歴史学者であるハンス・モムゼンが最初に提唱したようで、決して真新しいものではなく、1976年にはすでに発表されていました。

モムゼンは、ナチス・ドイツホロコーストの第一人者であった[2]。彼は、ホロコーストの起源に関しては機能主義者であり、最終的解決はアドルフ・ヒトラー側の長期的な計画とは対照的に、ドイツ国家の「累積的な急進化」の結果であるとみなしていた[2]。

モムゼンは、ヒトラーは「弱い独裁者」であり、断固とした行動をとるのではなく、さまざまな社会的圧力に反応したのだと主張したことで有名である。モムゼンは、ナチス・ドイツ全体主義国家ではなかったと考えていた[2]。 モムゼンは友人のマルティン・ブローシャートともに、ナチス国家を、果てしない権力闘争を繰り広げるライバル官僚の混沌とした集合体であるとする第三帝国構造主義的解釈を展開した[2]。

英語版Wikipediaより

つまり、ユダヤ人絶滅は計画的に引き起こされたものであるのではなく、累積的急進化の結果として生じたものだ、と歴史学の主流では考えられているのです。このような意味で、ヒルバーグも「基本的な計画があって、その結果として生じたものではない」と述べているのです。

さて、加藤は、「も説明しましたが、絶滅の決定時期です。ヘスの自白では、「1941年夏」に国家指導者ヒムラーのところに召喚され、ユダヤ絶滅命令を受け、それには「計画書もあった」ことになっています」と述べて、これでは計画がなかったと言っているヒルバーグ説に矛盾してるじゃないか! と文句を言っています。ではヘスは実際どのように述べたのか、以下に引用します。

 一九四一年夏、正確な日付はもう覚えていないが、私は突然、ベルリンのヒムラーの元へ来るようにという命令を、それも彼の副官を通じて直接受けた。この時、ヒムラーは、それまでの彼の習慣と違って、副官も遠ざけた上で、およそ次のような意味のことをいった。

 総統は、ユダヤ人問題の最終的解決を命じた。われわれSSはこの命令を実行しなければならない。東部にある既存の虐殺施設は、この大がかりな作戦を実行できる状態にはない。従って、自分は、アウシュヴィッツをそれに当てることにした。理由の第一は、交通の弁が良いこと。第二に、そこなら一定区域を遮断、偽装するにも容易であること。

 自分は、最初、SS高級幹部をこの任務に当てようとした。しかし、事前に職務権限上の難点にぶつかったので、これは中止。今は、君がこれの任務に当たらなければならぬことになった。これは、厳しく重大な仕事で、その任に当たる者は全員、いかなる困難にもひるまぬことが要求される。これ以上の詳細については、いずれ国家保安本部から大隊長アイヒマンが行って君に説明する。関係部署は追って私から君にしらせる。この命令については君は絶対に沈黙を守り、上長にも絶対洩らしてはならない。アイヒマンと打ち合わせたあと、自分は予定の計画書を君に送る

 ユダヤ人は、ドイツ国民の永遠の敵であり、殲滅しつくされねばならない。われわれに手の届く限りのユダヤ人はすべて、現在この戦争中に、一人の例外もなしに抹殺されねばならない。今、われわれが、ユダヤ民族の生物学的基礎を破壊するのに成功しなければ、いつかユダヤ人が我がドイツを抹殺するであろう、と。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社、2019、pp.379f

ヘスのこの証言の時期的矛盾についてはすでに述べた通りですのでここでは触れません。しかし、ここで述べている計画書とは、内容不明の計画書であって、ユダヤ人絶滅全体の計画書などとは一切書いてありません。単に、アウシュヴィッツへのユダヤ人の移送計画かもしれないし、当初のアウシュヴィッツが担当するユダヤ人の地理的範囲なのかもしれないし、単なる初期的な工程表なのかもしれません。一言で計画書といってもその内容にはいろいろあるのです(当たり前の話です)。ただ、自伝を読む限り、どうやらそのような「予定の計画書」はヘスの元には送られなかったようです。

たとえそのような「内容不明の計画書」があったとしたところで、「「ヘスの自白は完全に虚偽だった」と言っているに等しい」なる加藤のクレームは全くの的外れと言っていいでしょう。ヒルバーグら、歴史家が述べているユダヤ人絶滅計画とは、累積的急進化と対照的に考慮されるトータルプランのことであって、どこかに書き記された計画書のような書類のこと(しかもヘスの証言から類推されるような瑣末な計画についての)を言っているわけではないからです。

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(6)アンネ・フランクアウシュヴィッツ到着時にガス室行きにならなかったのは不自然なのか?

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加藤は前回の動画のラストで「アンネ・フランクが辿った運命を紐解けば、ホロコースト正史の正体が見えてくるのです」と述べて、この動画に繋げているのですが、まず加藤が疑問視するのは、アンネ・フランク(一家)がアウシュヴィッツに移送された時点でガス室送りにならず殺されていないことです。

しかし、加藤の疑問は一撃で崩壊するのです。アウシュヴィッツ・ビルケナウに到着したユダヤ人は、原則としてその場で「選別」されました。一方はそのままガス室へ、もう一方は囚人登録して収容されます。その基準は、労働に適しているか適していないか、でした。そこまでは加藤も書いています。ところが、なぜか加藤は、労働に適しているか適していないかの基準があったことについては一言も触れずアンネ・フランク(一家)は偶然で殺されなかったのように述べているのです。一家全員がついた時点で殺されなかったのは偶然にしては出来過ぎだ!と。

では、実際には到着した時点でどのように選別を受けたのでしょうか? アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のサイトから説明を以下に翻訳します。

輸送列車のランプで行われた選別手順は次の通りである。 列車を降りると、家族は分断され、全員が2列に並んだ。男性と年長の男子は一方の列に、女性と男女の子供はもう一方の列に並んだ。次に、収容所の医師や他の収容所職員が選別を行っているところに人々が案内された。彼らは目の前に立っている人々を一目で判断し、時には年齢や職業を簡単に申告させ、生死を決定した。

年齢は選別の主な基準の一つであった。原則として、16歳以下(1944年以降は14歳以下)の子供と老人はすべて死に追いやられた。統計的な平均値として、移送された人々の約20%が労働力として選ばれた。収容所に連行され、囚人として登録され、様々な番号の中から次の番号が割り当てられた。アウシュビッツに強制送還された約110万人のユダヤ人のうち、約20万人がこのようにして選ばれた。残りの約90万人はガス室で殺された。

https://www.auschwitz.org/en/history/auschwitz-and-shoah/the-unloading-ramps-and-selections/

アンネ・フランクは1929年6月12日生まれでしたから、アウシュヴィッツに到着した日は1944年9月6日なので、その時点で15歳でした。フランク一家は、全員がアンネ以上の年齢だったので、一家全員が労働適格者だと見なされたと考えて何も不思議はありません。加藤の言うような偶然ではなく、単純に労働適格者として選別される基準を満たしていただけだったからなのです。加藤は、アウシュヴィッツでは何の基準もなしに、労働適格者をランダムに選んでいただけだとでも言いたいのでしょうか? それこそ労働適格者の文字通り、あり得ません。

さらに考察を付け加えると、加藤が書いているように、アンネが輸送されてきた列車には1019人のユダヤ人が乗っていましたが、そのうち549人がガス室送りになったとされています。この割合は、ガス室送りになったのは概ね75%程度だとされていることに比べると、54%程度と低いので、アンネの送られてきた時期はもしかすると労働者不足だった可能性があります。労働適格者を選び出す目的は、あくまで労働力を供給・補充するためですから、その時期の労働人数の需要を踏まえて、選別時の人数調整が行われていてもおかしくはありません。後述するように、ユダヤ人でも高齢者が囚人登録されていたのは、労働力不足の時にアウシュヴィッツに来たからだと推測することも可能です。もちろん、実際にそこで判定していた親衛隊にしかわからないことであって、これは推測の一つであるにとどまりますが、そのように推測することを否定する理由はありません。

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(7)アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所にあった「家族収容所」区画とは何か?

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これも、前項同様、一撃で崩壊する愚論ですが、加藤はビルケナウの敷地には家族収容所なる区画があったことについて、その「家族」という名称から「(アンネ・フランク一家のようなユダヤ人を考慮して)収容する場合には、家族がバラバラにならないような配慮があったという推測が成り立ちます」などと述べています。しかし、その区画が家族収容所と呼ばれていた理由は、単純に「Auschwitz family camp」でググるだけでたちどころにわかります。

この家族収容所には、二種類ありました。一つは、テレージエンシュタット・ゲットーから移送されてきたユダヤ人の区画と、シンティ・ロマ人(ジプシー)の収容区画です。「Auschwitz family camp」でググるだけですぐに出てくる、二つの英語版Wikipediaからその内容を以下に紹介します。

テレージエンシュタット家族収容所チェコ語: Terezínský rodinný tábor、ドイツ語: Theresienstädter Familienlager)は、チェコ家族収容所としても知られ、チェコスロバキアのテレージエンシュタット・ゲットーのユダヤ人収容者で構成され、1943年9月8日から1944年7月12日まで、アウシュビッツ第二ビルケナウ強制収容所のBIIb区画に収容された。ドイツ人は、最終的解決について外の世界を欺くために収容所を作った。

1943年9月と12月、そして1944年5月に7回の移送でゲットーから追放された囚人たちは、アウシュヴィッツでは珍しい到着時の選別の対象とはならず、アウシュヴィッツで唯一組織的な教育の試みとなった子供区画の創設など、多くの「特権」が与えられた。それでも生活環境は劣悪で、死亡率も高かった。餓死や病死しなかった住民のほとんどは、1944年3月8-9日と7月10-12日の収容所整理の際に殺害された。最初の清算は、チェコスロバキア市民の歴史上最大の虐殺であった。家族収容所に強制送還された17,517人のユダヤ人のうち、戦争で生き残ったのは1,294人だけだった。

英語版Wikipediaより

 

ジプシー家族収容所(ドイツ語:Zigeunerfamilienlager)は、アウシュヴィッツ第二ビルケナウ強制収容所のセクションB-IIeであり、収容所に強制送還されたロマ人家族は、アウシュヴィッツで一般的であった分離ではなく、一緒に収容された[1]。

歴史
1942年12月10日、ハインリヒ・ヒムラーは、すべてのロマ人(ドイツ語:ツィゲウナー、「ジプシー」)をアウシュヴィッツを含む強制収容所に送る命令を出した[2]。アウシュヴィッツⅡ-ビルケナウには、セクションB-Ⅱeとして分類され、ツィゲウナー家族収容所(「ジプシー家族収容所」)として知られる別の収容所が設置された。ドイツ人ロマの最初の移送は1943年2月26日に到着し、セクションB-IIeに収容された。1944年までにおよそ23,000人のロマがアウシュヴィッツに連れてこられ、そのうちの20,000人がそこで死亡した[3]。1,700人のポーランド人シンティとロマの輸送は、到着と同時に、斑点熱の病気の疑いがあったため、ガス室で殺された[4]。

ロマ人とシンティ人の囚人は主に建設作業に使用された[4]。 過密状態、劣悪な衛生状態、栄養失調のために、数千人がチフスとノーマで死亡した[3]。 1,400人から3,000人の囚人が、残りの人口が殺害される前に他の強制収容所に移送された[a]。

1944年8月2日、SSはジプシー収容所を撤収した。収容所の別の場所にいた目撃者は、収容者たちがトラックに積み込まれる前に、即席の武器でSSと戦って失敗したと語った。その後、生き残った人々(2,897人から5,600人と推定される)はガス室で大量に殺された[6][7]。第二次世界大戦中のナチスによるロマ人の殺害は、ロマ語でポラジュモス(貪食)として知られている[8]。

数少ない生存者の一人がマルガレーテ・クラウスで、彼女は医学実験の対象となり、両親は殺害された。彼女はその後、ラーフェンスブリュックに移された[9]。

英語版Wikipediaより

テレージエンシュタット家族収容所と、ジプシー家族収容所区画はビルケナウの隣り合う区画にありましたが、扱い・目的は別です。ジプシー区画についてはWikipediaの記事が短いので全文翻訳して示しましたが、テレージエンシュタット区画については長いので、冒頭しか翻訳していませんので詳細はご自身でお読みください。

テレージエンシュタット家族収容所のユダヤ人たちになぜ「特権」が与えられたのかについては、その理由を明確に示す根拠は見つかっていないようです。しかし、テレージエンシュタット・ゲットーの目的が「ユダヤ人たちはナチスドイツが丁寧に扱っていた」ように見せかけるための偽装であったことはよく知られており、おそらく、ビルケナウのテレージエンシュタット区画のユダヤ人に特権を与えたのは、同様の目的があったのではないかと言われています。テレージエンシュタット・ゲットーには国際赤十字の視察がありましたが、アウシュヴィッツ・ビルケナウについては赤十字の立入自体を認めておらず、結果的には「詐欺」は実施されませんでした。

このように、ものの数分でわかることでさえも加藤は調べておらず、アルマ・ロゼ同様、加藤は史実を知る気がまるでないことがわかるだけなのです。

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 (8)「元登録囚人の死亡者68751人分の年齢分布」を博物館サイトで調べることができる?

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ゲルマー・ルドルフの『ホロコースト講義』にあるそのグラフと表ですが、いったいどうやってそれを作成したのか、全然わかりません。

加藤は、アウシュヴィッツ博物館サイトのあるページを示して「このページから、元登録囚人の死亡者68751人分の年齢分布を調べることができるのです」と述べていますが、そんなわけありません。だって、囚人の名前を知っていなければ、入力できないからです。そして、ゲルマー・ルドルフだって、その名前をどうやって知ったかについてはどこにも書いてません。以下当該部分を翻訳してみましょう(翻訳文自体は歴史修正主義研究会にありますが、微妙に間違っているので)。

L: アウシュビッツに登録された囚人だけが働くことができたというのは本当ですか?
R: 本当です。なぜなら、もしその伝説が真実であったなら、アウシュビッツの死亡帳に登録された犠牲者で、そこに登録された時点で14歳以下であったり、60歳以上であったりした者は存在しないはずだからです。
L: ただ、子供や老人がアウシュビッツに到着したときに、日常的に登録されていたとは今さら言わないでください!
R: まさにその通りでした。1991年、ドイツ人ジャーナリストのヴォルフガング・ケンプケンスは、高いコネクションのおかげで、アウシュビッツの死の帳簿が保管されていたロシアの公文書館で、約800通の死亡証明書のコピーを取ることを実際に許されました。 そのうちの127通を小さな本にまとめ、しばらくの間、売りに出していたのです。修正主義者たちは大喜びでしたが、それは、なんと、彼が選んだ文書には、死亡時に60歳以上、70歳以上、80歳以上であった人物や、10歳未満の子供の名前がいくつもあったからなのです[591]。
しかし、これはそれほど驚くべきことではありません。アウシュビッツの囚人の多くは働くことができませんでしたが、殺害されなかったことを示す文書がかなり前から手元にあったのです。[592]
現在では、氏名、生没年、出生地、居住地から死亡帳をオンラインで検索することが可能です。ただし、データベースを検索するには、有効な氏名が必要です[593]。
表11は、死亡帳の統計的評価で、年齢層別に記載されています[594]。 このことをよりよく説明するために、付録(p.331)の表24に、登録された80歳以上の死亡者すべての詳細を列挙しました[595]。
L: 彼らの中にはユダヤ人でない人も大勢います。
R:  確かにそうです。ユダヤ人はアウシュビッツの囚人の一グループに過ぎません。 「 告白」というカテゴリーは、これらの囚人が国家社会主義者によってどのように分類されたかを必ずしも教えてくれるものではないことに注意してほしいのですが、 というのも、洗礼を受けたユダヤ人(註:つまりキリスト教に改修したユダヤ人)は、当時まだドイツ当局によってユダヤ人に分類されていたからなのです。 ユダヤ人は民族として迫害されたのであって、宗教の一員として迫害されたのではありません。いずれにせよ、80歳以上の高齢者にレジスタンスや犯罪者、政治犯が多かったとは思えません。ということは、彼らはおそらく、国家社会主義者が定義したユダヤ人がほとんどだったのでしょう。

[591] マーク・ウェーバー、「アウシュヴィッツ死亡登録簿のページ」JHR 12(3) (1992)、pp. 265-298、老人受刑者の死亡診断書30枚のコピーがある;E. Gauss(註:これはルドルフ自身の別名義)、『現代史講義』(脚注536)、pp. 214-219.[592] たとえば、1943年9月4日付の、SS経済管理本局(WVHA)労働配分部長からのドイツ内部テレックス・メッセージは、アウシュヴィッツの25000名のユダヤ人収容者のうち、働けるのは3581名だけであったと報告している、あるいは、1944年4月5日付の、オスヴァルト・ポールからヒムラーへの秘密報告書は、アウシュヴィッツ収容所複合体には合計67000名の収容者がおり、そのうち18000名は入院しているか身体障害者であったと報告している。M.ウェーバー、同書参照。
[593] www.auschwitz.org.pl/szukaj/index.php?language=DE
[594] アウシュヴィッツ博物館(op.c.)(脚注51)の1巻248頁と我々の分布は少し異なっているが、これはおそらく年齢の定義の違いによるものであろう。

ゲルマー・ルドルフ、『ホロコースト講義』、pp.245-246f(pdfはこちら

関連する脚注まで翻訳してみましたが、ご覧の通り、ルドルフ自身が「ただし、データベースを検索するには、有効な氏名が必要」と語っているのに、その有効な氏名をどこで確認すればいいのか何も書かれていません。しかも、ちょっと考えればわかる話ですが、アウシュヴィッツの死亡者囚人の名前がわかるのなら、死亡年齢だってわかるはずです。だって、「死亡者」をわざわざデータベースで検索するのですから。

つまり、ここでも加藤は、自分が参照したはずのルドルフの論述をちゃんと読んでいないのです。ルドルフは、それら表とグラフのデータをアウシュヴィッツ博物館サイトのデータベースで検索したものだ、などとは一言も言っていないのです。ルドルフは単に「氏名、生没年、出生地、居住地から死亡帳をオンラインで検索することが可能」と言っているだけです。確かに以下のように検索することはできます。

しかしこれは、死亡者の名前を私が探し出してきて、それを入力して検索したからです。当然、探し出してきたその場所には生年月日と死亡日も書いてあり、年齢もそこでわかるので、それを知るためにわざわざ再度検索する意味はありません。加藤は本当に何も考えていないのです。

私は別に、ルドルフの表とグラフは信用できないものだと言いたいのではありません。しかし、ルドルフ自身ですら脚注でアウシュヴィッツ博物館作成の囚人の年齢分布表とは異なっている、と述べているのです。それがどのように異なっているのかは書かれておらず、それを確認しない限り、評価できません。もちろん、どうやってデータを得たのかについての情報も必要ですが、それも一切書いてありません。これでは評価の土俵にさえ乗せることができません。さらに、ルドルフは(高齢者)囚人のほとんど全部がユダヤ人とみなされていた、のような無茶苦茶なことまで言っています。ユダヤ人は殺されずに生かされていたとでも言いたいからなのでしょう。

ところで別の話になりますが、加藤はユダヤ人をユダヤ教徒だったと最初の動画で定義しています。しかし、ルドルフは上の引用で傍線で引いたようにはっきり、「ユダヤ人は民族として迫害されたのであって、宗教の一員として迫害されたのではありません」と述べています。このように、代表的な修正主義者でさえも加藤のような珍説は採用していないのです。

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(9)アウシュヴィッツの病棟区画について   

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アウシュヴィッツ収容所に病院(病棟区画)があったことについては、以前にすでに述べていると思いますが、加藤は囚人を治療して生かす場所があったとして、それがユダヤ人絶滅に反している、のように主張していますが、アウシュヴィッツ収容所(ビルケナウ収容所)は強制収容所であり、かつ、絶滅収容所であったという特殊な事情を無視しています。もう一箇所、マイダネク収容所がありますが、マイダネク収容所の犠牲者数が現在7.8万人(ヘフレ電報では24,733人(1942年末)となっている)となっていて、強制収容所ではあっても絶滅収容所とは言い難いと個人的には思っています。従って、実質的にはアウシュヴィッツは唯一と言っていい強制収容所でありかつ絶滅収容所であったのです。

その他の強制収容所については、今のところ私はほとんど学んでいないのですが、当然、囚人用の病院や病棟ブロックも存在したでしょう。従って、アウシュヴィッツ強制収容所でもあることを考慮すれば、病棟ブロックが存在することは当たり前の話でしかありません。

それでも加藤は、ユダヤ人囚人を殺さずに治療してまで生かしている場所があったこと、に文句を言うでしょう。ところが、実態はそんな生やさしい場所ではありませんでした。これについては、アウシュヴィッツの医師について詳細に研究した名著が手元にありますので、まずはそちらから少しだけ引用しましょう。

アウシュヴィッツ強制収容所の囚人に対する医療

強制収容所で病気になるということは、ただちに破局を意味した。そして、それまでの通常な生活条件から引き離されて、突然この惨めな環境に置かれた数千人の囚人が、悲惨な生活条件に伴う全ての現象の結果として、病気になったのである。病気になるに際しては、苛酷な外的状態だけではなく、もはや完全に無用かつ無価値な存在になってしまったという精神的崩壊も重要な役割をはたした。われわれは全ての収容所で、再三再四目撃した実態から、病んだ囚人がいかなる運命に直面したかを知ることが出来たし、少なくともいかなる運命に出会ったかを推測できた。病むということは、いまにも彼らに死刑判決が下されることであった。病んだ囚人は病床にあって、別の世界から治療のためにやって来た人物の姿を見たときにこそ、死刑判決を受けたという気持ちになったであろう。その人物こそ支配者の世界からやってきた医者であった。コッホは何時も、「私の収容所には病人は一人もいない。ここにいるのは健康な者か死者だけである!」と語っていた。そして、大半の親衛隊収容所医師はコッホが語った原理に従って行動した。』 

 ここに引用したのは、強制収容所の囚人に対してなされた医療を記述した、コゴンの文章の最初の部分である。収容所の医療に対する彼の評価は、主に自分で調べたブッヘンヴァルト強制収容所の事態に基づいている。しかし、ブッヘンヴァルトの状態は、アウシュヴィッツ強制収容所にも、その他の全ての強制収容所にも当てはまるものであった。なぜならば、ブッヘンヴァルトでの治療や看護の特徴は、全ての収容所にも当てはまるからである。このことは以下に引用する資料によって証明されるはずである。

F・K・カウル、『アウシュヴィッツの医師たち ナチズムと医学』、三省堂、1993、p.155

第一に、アウシュヴィッツ主収容所には有名な「Arbeit macht frei」が入り口に掲げられているように、強制収容所は囚人に労働させる場所でもあったのです。そして、アウシュヴィッツ収容所が存在した期間は、まさに第二次世界大戦の期間でしたから、貴重な労働資源を有する場所でした。ユダヤ人にはどうせ死んでもらうのですから、働けるだけ働いて死んでもらうのが方針だったことは、あのヴァンゼー会議の議事録にさえ書いてあります。

しかし、アウシュヴィッツ収容所が劣悪な環境であったことは、修正主義者がいくら認めたくなくとも、ビルケナウのバラックを見学してきたら誰でもわかる話です。

この3段ベッドに一区画あたり3〜4人も寝かせられたのです。しかも床は土を固めただけの場所です。こんなところで寝かされたら病気になって当たり前です。もちろん、強制労働も酷かったでしょうし、食糧だって最低摂取カロリー未満でした。ユダヤ人囚人の場合は、家族からの食料小包の配送さえ許されませんでした(当然ですが、ユダヤ人は家族ごと強制移送されているので食糧小包配送などそもそもがあり得ません)。非ユダヤ系のドイツ人やポーランド人は、週2回ほどの家族からの食料小包を受け取ることが出来たのです。

確かに、病棟ブロックがあり、病気や怪我で働けなくなると、囚人たちはそこへ入れられましたが、実際には驚くべき死亡率でした。ですから、ユダヤ人囚人たちは特に丁寧な治療を受けられるわけでもないことを知っていたので、病気などで働くのが困難なのを隠すようにしたのです。入れられたらどうせ死んでしまうからですし、選別されてガス室送りになるかもしれないからです。それなら、放っておいて自然治癒する可能性に掛けたほうがマシだと考えても不思議ではありません。

なぜナチス親衛隊は、絶滅させる囚人のために病棟ブロックまで用意したんだ?と考えるのが加藤ですが、それは前にも述べた通り、親衛隊自身の方針が矛盾していたからでしょう。国家保安本部はどんどん殺せとばかりにユダヤ人を移送してくるのに、囚人に対しては今度は経済管理本部の方から死亡率を下げよとまで命令が出されていたのは、これまた修正主義者がよく知っているはずです。その理由は、戦時体制で、ナチスドイツにとっては労働力は貴重だったが故の話に過ぎません。しかし実態が劣悪だったのは、それこそが親衛隊の方針の矛盾の象徴のようなものだと私は考えます。

アウシュヴィッツの病棟ブロックがどれだけ酷い場所だったかについては、是非、『アウシュヴィッツの医師たち』を読まれるべきでしょう。

これらの恐るべき統計にもかかわらず、囚人に対するドイツの管理がいかなる意志を持っていたか、つまり意識的に囚人を殺したのか否かという疑問は有り得る。そこで最後に収容所主任シュヴァルツフーバーの名言を思い起こすことにしよう。彼は収容所に入ってもう七ヵ月たった囚人に対して、「収容所の経費では君は三ヶ月しか生きられないから、君は強制的に消されるよ」と答えた。
医師オットー・ヴォルケン、ウィーン、囚人番号一二八八二八。」

前掲書、p.173

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(10)エミール・カウフマンは「ユダヤ教徒」なのか?

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加藤はここで「ユダヤ教徒、エミール・カウフマンは78歳で老衰で亡くなっている」と書いていますが、そこで示されている死亡証明書にはなんと書いてあるか、少し読み取ってみました。

Nr. 7607/1943
アウシュビッツ、1943年2月24日
弁護士エミール・イスラエル・カウフマン。 プロテスタント(以前はユダヤ教
居住地:ハルバースタット、ヴェステンドルフ通りAr.15.アム・ハルツ
死亡日時:1943年2月15日、14:55
死亡場所:アウシュヴィッツ―カザーネン通り(註:第一収容所のこと)
故人は1864年1月29日生まれ。
<中略>
死因:老衰

いわゆる、改宗ユダヤ人に分類されるユダヤ人ですが、信仰はキリスト教です。したがってエミール・カウフマンはキリスト教です。つまり、加藤はここで二重に間違っているのです。一つは、ナチスドイツが迫害したのが加藤が定義したように「ユダヤ教徒」であるならば、エミール・カウフマンの事例は関係ありません。しかしこの死亡簿を紹介したのは、修正主義者であり、ユダヤ人が78歳まで生かされていた!として紹介したものですから、修正主義者でさえもナチスドイツが迫害対象としたのは「ユダヤ教徒」とは考えていない、つまり加藤のユダヤ教徒説は修正主義的にでさえ誤りであることがわかるのです。

ところで、死因が老衰とありますが、既に述べた通り死亡証明書は改竄されている可能性があることがわかっているので、本当の死亡原因が老衰かどうかはわかりません。

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(11)労働可能と不能の基準はいったい何か

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アウシュヴィッツにおける労働適格者と不適格者の選別基準については、既に述べています。

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(3)-2 - ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証


holocaust-denial.hateblo.jp

この労働可能かどうかで選別する基準については、それは別に法律のようなものではありません。親衛隊が恣意的に運用していただけの話です。加藤が「正史」と呼ぶ研究者たちは、具体的にアウシュヴィッツでの選別の基準はどのようなものであったかについてを、調査研究によって「労働不適格とされたのは子どもや老人、病人、子供のいる女性などであった」と結論づけただけなのです。しかし、別に例外がいなかったなどとは誰も述べていません。「全体として」そうだったと述べているだけなのです。それは、ハンガリーユダヤ人について戦後の帰還者にアンケート調査を行なって調べた結果からもある程度はっきりわかります。

DEGOB(ハンガリー全国被強制追放者救済委員会)調べによるグラフの一例

 

アウシュヴィッツに強制移送されたユダヤ人の年齢比率構成が不明なのでこれだけではわかりにくいと思いますが、16歳以下については非常に特徴的であることははっきりわかります。これは、アウシュヴィッツ・アルバムにあるハンガリーユダヤ人の到着時の写真を見れば一目瞭然です。

子供が多く写っている写真を意識的に選んで貼り付けていますが、他の写真を見てもそれは明らかです。これほど子供が多いのに、上のグラフでは帰還者は2.9%しかいないのです。高齢者についてはグラフが右肩下がりなので、このグラフからはなんとも言い難いものもありますが、66歳以上は0.1%となっていて非常に生存者が少ないことはわかります。子供ほどはグラフからは特徴的には読み取りにくいものの、老人も労働不適格者として殺されていたという説に矛盾はしていません。

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(12)アンネ・フランクが殺されなかったのは正史が矛盾してる証拠?

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さて今回は、一記事で一動画を全てやっつけようとしたので、ちょっと長くなり過ぎていますので、最後の方をまとめて片付けてしまおうと思います。

加藤は、アンネ・フランクアウシュヴィッツガス室送りにならず、ベルゲン・ベルゼンに移送されてチフスで死んだことが大変ご不満なようです。1943年ごろから続々と絶滅収容所が閉鎖され、アウシュヴィッツも1944年11月で絶滅作戦を終えてしまっているとする正史の主張はおかしいではないか、と長々と文句を言っています。

しかし加藤は、大事なことを忘れています。ナチスドイツは、戦争が敗戦で1945年5月に終わることを予想していたのでしょうか? 歴史のIF話をするのはあまり好きではないのですが、もし仮にもっと敗戦が先にあったとしたらどうでしょう? 例えば後5年続いていたとしたら? スターリンが戦時中に死んだりして、ソ連が思いの外、ドイツへの侵攻が遅くなってしまったり、チャーチルが急死したり……。

もし仮に戦争が長引いていたとしたら、ナチスドイツはゆっくりじっくり、本当に支配下ユダヤ人を全滅させていたかもしれないのです

ラインハルト作戦の、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの三つの絶滅収容所が閉鎖れた大きな理由は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所でのユダヤ人絶滅が本格化したからだ、と考えられています。うち、ソビボルとトレブリンカは囚人の反乱があったため、それを契機にして閉鎖されていますが、その時点で総督府ユダヤ人はほぼ壊滅していたので、自動的にその残りをアウシュヴィッツ・ビルケナウに送るだけでした。

ではなぜ、残った絶滅収容所アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅を1944年11月にやめてしまったのでしょう? これは、ソ連が間近に迫っていたからで、さっさと火葬場・ガス室を解体して証拠隠滅したかったからだと考えられます。マイダネクのガス室が解体されずに残ってしまい、ソ連の急襲にあって見つけられてしまったのも痛手だったでしょう。修正主義者がマイダネクのガス室が殺人ガス室ではなかったなどと言おうとも、実際にはソ連はマイダネクの殺人ガス室をさっさと喧伝してしまっていたのです。

なぜ証拠隠滅しようとしたのかについては、単純な話が、戦後の裁判でヒムラーが死刑になりたくなかったからでしょう。ユダヤ人絶滅なんてやってません!と言い逃れたかったからに違いありません。ところが小心者のヒムラーは、連合国に逮捕されると、さっさと青酸カプセルで自殺してしまうわけですが、言い逃れなんて無理だと自覚して諦めたからかもしれませんね。

もちろん、ヒムラーは死んでしまっているので、本人の証言もなく、真相はわかりませんし、以上は推測でしかありませんが、別に不可解な点もないと思います。ナチスドイツがユダヤ人絶滅を徹底的に秘匿しようとしたことは、絶対に修正主義者が認めない「コードワード」に象徴されています

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しかし、加藤や修正主義者がなんと言おうとも、アンネ・フランクナチスドイツによって殺された、ホロコースト被害者の一人であることは疑いの余地はありません。ベルゲン・ベルゼン収容所の衛生環境が最悪な事態になったのは、ナチスドイツが囚人を各所から移送してきて、許容量の何倍も詰め込んだからに他なりません。それは、決して連合国の爆撃による交通網の寸断などとは無関係(『600万人は本当に死んだのか?』を書いたハーウッドの嘘)です。アンネ・フランクはただ単にユダヤ人であっただけなのであって、何の罪があろうはずもありません。その何の罪もない若者の命を奪ったのは、ナチスドイツ以外ではあり得ないのです。

ホロコーストの象徴のようになっているアンネ・フランクの日記を、加藤を含めた修正主義者たちは捏造呼ばわりし、アンネ・フランクの運命を利用してユダヤ人絶滅を否定しようとするその品性は、あまりにも下劣としか言いようがありません

 

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説5/20 ホロコースト正史の公式設定について。」と題された動画を論破する。-2

youtu.be

 

では、前回1/3ほど論駁した動画の続きです。今回でこの動画への論破は終わらせたいので、ちょっと長くなるのをご勘弁ください。加藤は無駄に孫引きばかりしているので、それを全面引用しているため(晒すため)、長くなるのはやむを得ません。読まれる場合は引用文内の指摘箇所のクリックやタップ、そしてブラウザの「戻る」操作か、または文中にある「引用文に戻る」で読まれることをお勧めします。

当然、 収容所に集められた人々に対する扱いも、それぞれに異なります。

(1)絶滅専用収容所では、健康な人間も含めて、よって、これらの収容所には「囚人」はいませんでした。無条件で全員殺害しました

アウシュヴィッツとマイダネクは労働兼絶滅収容所でしたが、ここでは移送された 人々のうち、(2)労働可能な人は、囚人となり工場で働くことになります。

重要なポイントですが、(3)移送者も囚人も、ガスで殺された場合は記録に残されませんでした。
その他の要因で死亡した場合には、死亡証明書が残されるのです。

前の動画で、ホロコーストの犠牲者は記録に残っておらず、大半は囚人では無かったと説明しましたが、その理由はこの正史の(4)仮説に基づいています。

そして、(5)通常の収容所では、労働不能な人間も含めて、無条件で生かします
「囚人になった後で疫病にかかっても、死ぬまで治療し続ける」
ということです。

ここまでが、 (6)1960年以降に固まった正史の枠組みです。
しかし、正史の中で確定しているのはここまでです。
これ以外の個別の内容については、全くと言っていいほど定説が得られていないのです。

例えば、(7)ホロコーストが始まった時期、つまりヒトラーによる絶滅命令が下された日付です。
これからして、正史派の研究者の間で意見の統一が成されていないのです。

後の動画で詳しく解説しますが、 永らくそれは、1942年1月だと言われていました。 しかし、それを支持する人は今では少数であるようです。
ざっと列挙しますと。

エーバレオン・ポリャーコフ 1941年初め
ロベルト・ケンプナーとヘルムート・クラウスニック 1941年春。
ラウル・ヒルバーグ 恐らく1941年夏。
ルドルフ・ヘスの自白によれば、 1941年夏。
エバルハルト・イェッケル 1941年9月24日
ディードリヒ・アダム 1941年秋
セバスティアン・ハフナー 1941年12月初め

つまり、いつ出されたのかは判らないが、とにかく命令はあった……ということです。このように、 絶滅命令が出されたとする時期が最大で一年間も違いがあるということは、 それに従った無差別虐殺が始まった時期も同じだけ幅があるということに注意して下さい。

さらに、ヒトラーは命令を出さなかった、とする説もあります。
先に挙げた(8)ドイツ連邦現代史研究所長のマルチン・ブロシャートは、ヒトラーは、ユダヤ絶滅について最終決定を下さなかったし、 全体命令を出さなかったという立場を取りました。

(註:上の画像を動画では「終戦までヒットラー(Hitler)は根本的な決定を下さなかった」の部分だけを画像遷移でハイライト表示させている)

さらに、驚くべきことに、「ホロコーストヒトラーが知らない所で行われていた」、という説まで現れたのです。これを唱えて世界に衝撃を与えた歴史著述家デビット・アーヴィングは、その後修正派の説を大筋で受け入れるようになり、裁判沙汰になったのです。

また、(9)アウシュヴィッツで行われたとされる、最初の「ガス処刑」がいつ行われたのか、という日時も全く定説がありません。

アウシュヴィッツ・カレンダー』によると1941年9月3日と5日の間です。

D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945, pp. 117-119.

ポーランドの歴史家クロジンスキは、この日付を9月5日と9日の間に変えています。

S. Klodziński, "Pierwsza zagazowanie więzniowi jencow w obozie oświęcimskim", Przegląd Lekarski, I, 1972.

歴史家フィリップ・フリードマンは9月15日としています。

Carlo Mattogno, Auschwitz: La prima gasazione [Auschwitz: The First Gassing]
(Edizioni di AR, Padua 1992). p. 85.
「最初の犠牲者がガス処刑されたのは、ブロックII (ママ) の以前の弾薬貯蔵庫の中で、 1941年9月15日 のことであった [Filip Friedman, This Was Oswiecim:
The Story of a Murder Camp, London, 1946, p. 18.]

ミチャル・クラの1945年6月11日の供述においては、1941年8月のこととなっ
ています。

Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas. Hermann Langbein, Adalbert Ruckerl et al. S. Fischer Eine Dokumentation. Edited by Eugen Kogon,
Verlag, Frankfurt am Main, 1983, p.205

ヤン・ゼーン判事の言葉に従えば、これは 1941年12月以降となります。

Carlo Mattogno, Auschwitz: La prima gasazione [Auschwitz: The First Gassing] (Edizioni di AR, Padua 1992)., p. 159:

我々は、これを一体どう受け止めればよい のでしょうか。
(10)よく、「ホロコーストが無かったというのなら、原爆投下も太平洋戦争も無かったのか?」という反論が聞かれます。
実は、これは全く同じように 「南京虐殺否定論」「慰安婦強制連行否定論」 についてもなされてきた反論であります。
しかし、日本が対米開戦を決定したのは 1941年11月5日と明確に判明しています。 原爆投下も広島市については5月10日、長崎市については7月24日と、決定された日時が判っています。
(11)命令した日時が判らないばかりではなく、説によって一年間も幅があるとか、日米の指導者たちがはっきり決定を下さなかったとか、ましてや知らなかったなどという異説は聞いたことがありません

これだけではありません。(12)各収容所での犠牲者数はさらに問題なのです。
次に、様々な犠牲者数のソースを、収容所ごとにまとめてみましょう。

まず、最初に作られたとされる絶滅収容所ヘウムノですが、驚くべきことに、この収容所での殺人方法は、殺人ガストラックです。
耳を疑った方も多いかもしれませんが、「正史ではそのようになっている」という意 味で、これは全くの事実なのです。
つまり、この収容所のみ、ガス室は「建設」されたものでは無く、荷台の部分にガス室を装備した特殊な殺人トラックが「駐車」しているのです。部屋に閉じ込められた人々は、ディーゼルエンジン排気ガスによって殺されるというのです。

Pravda, July 15-19, 1943; cf. The Trial in the Case of the Atrocities Committed by the German Fascist Invaders and their Accomplices in Krasnodar and Krasnodar Territory, Foreign Languages Publishing House, Moskau 1943; cf. also the indictment of the Soviets at the IMT, vol. VII, pp. 571-576

(註:ヘウムノの犠牲者数は)

36万人 Martin Gilbert
Martin Gilbert, Auschwitz and the Allies, Holt, Rinehart and Winston, New York 1981 p. 329, fn. 2.
34万人
①L. Dawidowicz, ②B. Nellessen, ③IMT
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149 for the individual camps, also including non-Jews. 2 B. Nellessen, Der Prozess von Jerusalem, Econ, Dusseldorf/Vienna 1964, p. 57.
3IMT, vol. VIII, p. 331.
30万人 ①Polish Historians, ②Heinz Hohne
①E. Kogon, H. Langbein, A. Ruckerl et al. (ed.), Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas, S. Fischer Verlag, Frankfurt 1983 E. Kogon et al., op. cit., p. 101.
②H. Hohne, Der Orden unter dem Totenkopf. Die Geschichte der SS, Bertelsmann, Munich 1976, p. 431
14万5,500人以上 Jury Court Bonn
E. Kogon, H. Langbein, A. Ruckerl et al. (ed.), Nationalsozialistische Massentotungen durch Giftgas, S. Fischer Verlag, Frankfurt 1983 p. 101.
15万人 Raul Hilberg
Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.
>10万人 ①Raul Hilberg, ②Ernst Klee
①R. Hilberg, The Destruction of the European Jews, Harper & Row, New York
1983, p. 572.
②Ernst Klee, Willi Dresen, Volker Ries, Schone Zeiten. Der Judenmord aus der Sicht der Tater und p. 371.
5万4990人
Faschismus - Getto - Massenmord
Judisches Historisches Institut Warschau (ed.), Faschismus - Getto - Massenmord, Roderberg, Frankfurt/M. 1962, p. 285.
3万4000人 Jacques Delarue
J. Delarue, Geschichte der Gestapo, Athenaum, Konigstein/Ts. 1979, p. 257.

次に、ソビボルです。
殺害の方法は、
「シャワー室に偽装された死の部屋の天井にある穴から落ちてくるらせん状の黒い物体」
A. Pechersky, "La rivolta di Sobibor", in: Yuri Suhl, Ed essi si ribellarono. Storia della resistanza ebrea contro il nazismo, Milan 1969, p. 31.
ディーゼル・エンジンの排気ガス
L. Poliakov, Harvest of Hate, Holocaust Library, New York 1979, p. 196.
Die Enzyklopadie des Holocaust v. III, p. 1496.
「ガソリン・エンジンの排気ガス
ラウル・ヒルバーグが 「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」邦訳下158頁で引用している戦後の裁判でのSS隊員エーリヒ・フックスの自白 )
というバリエーションがありましたが、現在では二番目のディーゼルエンジンガス室だとされているようです。

(註:ソビボルでの殺害人数は)

200万人 ゼルダ・メッツ
Testimony by Zelda Metz, in N. Blumental (ed.), Dokumenty i materialy, vol. I, Lodz 1946, p. 210
25万人 ルーシー・ダヴィドヴィチ
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149
20万人 ヴォルフガング・シュフラー
ラウル・ヒルバーグ
Ino Arndt, Wolfgang Scheffler, Organisierter
Massenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern, in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,24
(1976), pp. 127f
3-3.5万人 ジャン・クロード・プレサック
Entretien avec Jean-Claude Pressac realise par Valerie Igounet, in: Valerie Igounet, Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, pp. 640f.

続いて、 ベウゼッツです。
殺害方法は
地下貯水槽での電気による殺戮
Stefan Szende, Der letzte Jude aus Poland, Europa Verlag, Zurich 1945, pp. 290-292; Engl. Stefan Szende, Adolf Folkmann, The Promise Hitler Kept, V. Gollancz, Landon 1945/ Rov. New York 1945. pp. 159-161.
金属板の上での電気による殺戮、続いて、死体で石鹸を製造
S. Wiesenthal, "RIF," in Der neue Weg, No. 17/18, Vienna 1945.
貨車の中での石灰による殺害
Foreign Office papers, 371/30923, xp 009642, pp. 78f., and 371/30917, xp5365, pp. 78f.
びん詰めの一酸化炭素
ラウル・ヒルバーグがヨーロッパユダヤ人の絶滅p. 941: 邦訳下158頁で引用している不詳の目撃者
びん詰めのシアンガス
西ドイツ裁判所の判決
ガソリンエンジンから出る排気ガスではない何らかのガスによる殺戮
ZStL, 252/59, vol. I, p. 1226
(translation from Polish into German).
ディーゼル・エンジンの排気ガス
参考資料試訳 : ディーゼルガス室: 拷問には理想的な代物、殺人には馬鹿げた代物
フリードリヒ・パウル・ベルク
歴史的修正主義研究会試訳

と、何と7通りも説がありました。
一応、正史派の権威、ラウル・ヒルバーグ氏は4番目と7番目を採用しています。

(註:ベウジェツでの殺害人数は)

300万人 ルドルフ・レーダー
GARF, 7021-149-99, p. 18.
200万人
ツォイゲ ユージーナスG.
ZStL, 252/59, vol. I, p. 1136
180万人 ユースタキー ウクライスキ and T. Chrosciewicz
ZStL, 252/59, vol. I, p. 1118. p. 1225.
100万人 ミハエル・トレゲンザ
M. Tregenza, Das vergessene Lager des Holocaust, in I. Wojak, P. Hayes (ed.), Arisierung im Nationalsozialismus, Volksgemeinschaft, Raub und Gedachtnis, Campus Verlag, Frankfurt/Main, New York 2000, p. 242.
80万555人 ロビン・オニール
R. O'Nei," Belzec: A Reassessment of the Number of Victims", in East European
60万人
ポーランド中央委員会
②イツハfN・アラド,
③ヴォルフガング・シュフラー
Central Commission for the Investigation of German Crimes in Poland, cf. E. Szrojt,
Oboz zaglady w Belzcu, in Biuletyn Glownej Komisji Badania Zbrodni Niemieckich w
Polsce, Poznan 1947, III, pp. 43f.
②Yitzhak Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka.
The Operation Reinhard Death Camps, Indiana University Press, Bloomington/ Indianapolis 1987 p. 177.
③Ino Arndt, Wolfgang Scheffler,
OrganisierterMassenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern, in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,
55万人
① タチアナ・ベレンスタイン
② ラウル・ヒルバーグ
①T. Berenstein, Eksterminacja ludnosci zydowskiej w dystrikcie Galicja (1941-1943) , in Biuletyn zydowskiego Instytutu
Historicznego w Polsce, 61, 1967, p. 29.
②Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.
最低30万人
ミュンヘン裁判
A. Ruckerl, NS-Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse, dtv, Frankfurt 1977, p. 136.
10~15万人 ジャン・クロード・プレサック
Entretien avec Jean-Claude Pressac realise par Valerie Igounet, in: Valerie Igounet, Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, p

トレブリンカでの殺害方法は非常にバリエーションがあります。
部屋から空気を排出し、 真空状態を作ることによる窒息死。
Wassili Grossman "Die Holle von Treblinka", Foreign Language Publication House, Moscow 1947, partially quoted by Udo Walendy in Der Fall Treblinka, Historische Tatsachen, no. 44, Verlaga fuer Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1990.
ベルトコンベアの上で、 首筋を撃つことによる殺戮
ユダヤ世界会議のThe Black Book---The Nazi Crime against the Jewish People, Reprint Nexus Press, New Press, New York 1981, p. 398. The Black Book は、蒸気、ガス処刑窒息について報告している。
熱い蒸気スチームによる熱死。 これが、最も多いパターンで、ニュルンベルク裁判でも、これが事実として採用されました。
ポーランド委員会報告 PS-3311
しかし、現在ではディーゼル・エンジンの排気ガスが正史では採用されているようです。
Y. Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka. The Operation Reinhard Death Camps, Indiana University Press, Bloomingtan/ Indianapolis 1987, pp.392-397
その他、 可動式ガス室
Krystyna Marczewska, Władyslaw Waźniewski, "Treblinka w świetle Akt Delegatury Rządu na Kraj", in: Biuletyn Głownej Komisji Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polsce, vol XIX, Warsaw 1968, p.136.
固定ガス室、 即効性と遅効性の毒ガス、
同上pp.137ff.
石灰、同上pp.153ff.
機関銃、同上pp. 153ff.
電気処刑、Emmanuel Ringelblum, Kronika getta warszawskiego, Artur Eisenbach, Czytelnik, Warsaw 1983, p.416.
塩素ガス、チクロンB
URSS-337, p. 9 of the German version.
などの説が存在しました。

(註:トレブリンカでの殺害人数は)

350万人 ソ連ユタヤ委員会報告1944年 300万人 ヴァシリー・グロスマン
Wassili Grossmann, Treblinski Ad (Die Holle von Treblinka), Verlag fur fremdsprachige Literatur, Moskau 1946.
277万5千人 サミュエル・ライズマン
USSR-337. GARF, 7445-2-126, p. 240.
158万2千人 リシャルト・シャーカフスキー
Ryszard Czarkowski, Cieniom Treblinki, Wydawnictwo Ministerstwa Oborony Narodowey, Warsaw 1989, pp. 189-202.
120万人 フランチシェク・ザベック
Head of railway station in Treblinka, acc. to Gitta Sereny, in: Eberhard Jackel, Jurgen Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, Deutsche Verlags-Anstalt,
Stuttgart 1985.
107万4千人 ラヘル・アウエルバフ
Rachel Auerbach, "In the fields of Treblinka" in: A. Donat, The Death Camp Treblinka, Holocaust Library, New York 1979
97万4千人 フランク・ゴルチェウスキ
W. Benz, Dimension des Volkermords, Oldenbourg, Munich 1991. p. 495.
91万2千人 マンフレッド・バーバ
Manfred Burba, Treblinka. Ein NS-Vernichtungslager im Rahmen der "Aktion Reinhard", Gottingen 1995, p. 18.
90万人 ヴォルフガング・シェッフラー
Expert report for the Dusseldorf Schwurgericht, A. Ruckerl,
NS-Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse, dtv, Frankfurt 1977, p. 199; Ino Arndt, Wolfgang Scheffler, "Organisierter Massenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern," in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,24 (1976), pp. 127f.
88万1390人 イツハクアラド
Y. Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka.
The Operation Reinhard Death Camps, Indiana University
Press, Bloomington/Indianapolis 1987, pp. 392-397
87万人 ホロコースト百科
Israel Gutman (ed.), Encyclopedia of the Holocaust, MacMillan, New York 1990 vol. 4, p. 1486.
80万人 ルーシー・ダヴィドヴィチ
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149 for the individual camps, also including non-Jews
73万1600人ズジスワフ・ウカシェヴィチュ
URSS-344. GARF, 7445-2-126, pp. 323-323a(p. 9f. of the report); Zdzislaw Lukaszkiewicz, "Obozzaglady Treblinka," in: Biuletyn Glownej Komisji Badania
Zbrodni Niemieckich w Polsce, no. 1,
Poznan 1946, pp. 133-144, here p. 142.
75万人 ラウル・ヒルバーグ
Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.
70万人以上 ヘルムート・クラウスニック
Expert report for the Dusseldorf
Schwurgericht, A. Ruckerl, NS-Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse, dtv, Frankfurt 1977 , p. 199; Ino Arndt, Wolfgang Scheffler, "Organisierter Massenmord an Juden in nationalsozialistischen Vernichtungslagern," in: Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte,24
20~25万人 ジャン・クロード・プレサック
Valerie Igounet, Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, pp. 640f.

 

マイダネクの殺害方法は、 ガスボンベに詰められた一酸化炭素チクロンBから発生し たシアンガスとなっています。
Communique of the Polish-Soviet Extraordinary Commission for investigating the crimes committed by the Germans in the Majdanek extermination camp in Lublin, Foreign Languages Publishing House, Moscow 1944; USSR-29, cf. IMT, vol. VII, pp. 379f., 451f., 565.

(註:マイダネクの犠牲者数は)

170万人 ルブリン裁判
Verdict Lublin, Dec. 2, 1944, APMM, sygn. XX-1, p. 100.
150万人 ニュルンベルク裁判
Dokument USSR-29, IMT, vol. VII, p. 590.
138万人 ルーシー・ダディドヴィチ
Lucy Dawidowicz, The War Against the Jews, Holt, New York 1975, p. 149 for the individual camps, also including non-Jews.
36万人 ①ズジスワフ・ルカーシェビチ
イスラエル ガッドマン
①Zdzislaw Lukaszkiewicz,
"Oboz koncentracyjni i zaglady Majdanek," in: Biuletyn Glownej Komisji Badania Zbrodni Niemieckich w Polsce, vol. 4
(1948), pp. 63-105.
②Encyclopedia of the Holocaust, vol. III, p. 939.
25万人 ヴォルフガング・シュフラー
ホロコースト大百科
23万5千人 Czeslaw Rajca
C. Rajca, "Problem liczby ofiar w obozie na Majdanku" (The problem of the number of victims in the camp at Majdanek), Zeszyty Majdanka, Vol. XIV (1992), p. 127.
16万人 Jozef Marszalek
J. Marszalek, Majdanek. The Concentration Camp in Lublin. Interpress, Warsaw 1986. p. 125.
12万5千人 Martin Gilbert (Jews only)
Martin Gilbert, Auschwitz and the Allies, Holt, Rinehart and Winston, New York 1981 p. 329, fn. 2.
10万人 Jean-Claude Pressac
"Entretien avec Jean-Claude Pressac realise par Valerie Igounet, in: Valerie Igounet," Histoire du negationnisme en France, Editions du Seuil, Paris 2000, pp. 651f. (www.vho.org/aaargh/fran/tiroirs/tiroirJCP/jcpvi0003xx.html).
5万人 Raul Hilberg (Jews only)
Raul Hilberg, The Destruction of the European Jews, Holmes & Meyer, New York 1985, p. 1219.

最後に、 問題のアウシュヴィッツです。 殆ど知られていないことですが、 実はアウ シュヴィッツでの殺害方法は、戦時中には色々な説が唱えられていたのです。
戦時中のポーランド抵抗運動報告では、
電気風呂 ? ?、
空気ハンマー??、
戦争ガス??、
という随分と幻想的な方法が登場しています。

この報告全文は、 Enrique Aynatによって、 Estudios sobre el “Holocausto, locausto "Graficas Hurtado Valencia 1994に公表されている。

そして、アウシュヴィッツが占領された直後、 1945年2月2日発行の「プラヴダ」 には、ユダヤ系従軍記者ソ連人ボリス・ポレヴォイによるレポートが掲載されました。
そこで描かれたのは、なんと「殺人電気ベ ルト・コンベア」 でした。これが中々に面白い文章なので、全文を読み上げます。

「昨年、赤軍がマイダネクの恐るべき、おどろおどろしい秘密を全世界に暴いたとき、アウシュヴィッツのドイツ人は犯罪の痕跡を消し始めた。彼らは、収容所の東側にあったいわゆる『古い埋葬地』の土をならし、電気ベルトコンベアを壊し、その痕跡を消した。そこでは、数百の人々が同時に電気処刑され、その死体はゆっくりと動くベルトコンベアの 上に投げ捨てられ、溶鉱炉のてっぺんにまで運ばれて、そこに捨てられ、完全に焼却された。残った骨は、粉引きミルに運ばれて粉々となり、周辺の農場に送られたというのである。
子供を殺すための特別な可動装置もあった。 収容所東地区の固定ガス室はうまく作りかえられており、ちょっとした出窓や飾りもつけられていたので、なんでもないガレージのように見えた」

それ以外に、炉の中で、生きたままで焼却する①壕の中で生きたままで焼却する②、といった方法も証言があります。
①Eugene Aroneanu, Camps de Concentration, Office Francais d'Edition, Paris 1945, p. 182. ②Elie Wiesel, Night, New York, Hill andWang, 1960, p. 42.

そして、終戦以降はご存知の通りチクロンBを使ったガス室による処刑が定着したのです。
アウシュヴィッツでの「殺人ガス室」についての証言自体は、戦時中ハリコフで行 われた虐殺裁判で、すでに登場していました。
次に表示するのは、1943年12月16日、SS 将校ハイニシュによる証言です。

検事:ゾーマンとの会話について話してください。
ハイニシ:ゾーマンは、 毒ガスによる死が苦痛もなく、人間的であると話しました。ガス・トラックでは、死は非常に急速だが、 実際には、12秒以内ではなく、もっと遅いこともあり、その場合には、苦痛を伴うと話しました。ゾーマンは、囚人のガス処刑が実施されているドイツのアウシュヴィッツ収容所のことを話してくれました。人々に対しては、どこかに移送されると話され、外国人労働者に対しては、本国に送還されると話され、 浴室に入るとの口実でそこに送られた。処刑される人々は最初、「殺菌駆除」との標識のついた場所に入り、そこで服を脱いだ。男性は女性と子供から分けられた。そして、「浴室」との標識のついた場所に進むように命令された。人々が自分の身体を洗っているときに、特別なバルブが開かれ、ガスを送り込んで、彼らを殺した。死者は200体を一度に焼却できる特別な炉で焼かれた。
The People's Verdict, p. 90.

興味深いことにガスは特別なバルブが開かれて送り込まれることになっています。

この方法は、チクロンBを天井の穴から落とすという現在言われているバージョンと は全く異なります。

ともあれ、アウシュヴィッツでの犠牲者数を多い順から列挙していきましょう。
900万人ドキュメンタリー映画 『夜と霧』
32分のモノクロ映画 『夜と霧』 は、フランスの大学、高校・中学、テレビで繰り返し上映されている。
800万人
フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービス。
700万人
Raphael Feigelson (1945)。
600万人
ミクロスニーシェリ (1951)の序文の筆者Tibere Kremerによる。
500万から550万人
Bernard Czardybon (1945) による、何名かのSS隊員の自白
450万人
Henryk Mandelbaum (1945).

そして、最も重要な人数は、ニュルンベルク裁判で認められた、400万人です。
この数字の起源は、1945年5月6日のソ連側資料です。多くの重要な証言が、この数字と合致しています。ルドルフ・ヘスの自白では彼が収容所長をしていた任期中に250万人殺された、となっています。この数字も比例計算をすると、総計で約400万人となります。

続いて……

350万人
Dictionnaire de la langue francaise
『フランス語辞典』 published by Hachette(1991) による。
300万人のユダヤ教徒
David Susskind (1986)
250万人
アイヒマン裁判 (1961) でのルドルフ・ウルバによる。
200万人
レオン・ポリョーコフ
ルーシー・ダヴィドヴィチGeorges Wellers(1973).
160万人
Yehuda Bauer (1989)。
150万人
Lech Walesaが選択した1995年に修正されたビルケナウの記念碑
1471595人
歴史家Georges Wellers (1983) 200万人から修正 ※1352980人がユダヤ
125万人
100万人のユダヤ人が「殺され」、25万以上の非ユダヤ人が「死亡」。
ラウル・ヒルバーク
110万人から150万人
Yisrael Gutman, Michael Berenbaum, Franciszek Piper (1994)
100万人
ジャン・クロード・プレサック (1989)
80~90万人
Gerald Reitlinger (1953) による。
77.5~90万人
ジャン・クロード・プレサック (1993)
63~71万人
ジャン・クロード・プレサック (1994)
36万人
フリツォフメイヤー (2002)
(ガス処刑された人数)

長々と、犠牲者数を読み上げましたが、ようやく終わりました。 全てをまとめると、この表の通りです。

さて、これほど幅のある数字から、ホロコースト全体の犠牲者数をどのように算出すればよいのでしょうか。
研究者によってどの数字を支持しているのかは、非常に異なります。

終戦直後ではこのようになっていました。

研究者の例を挙げますと、ラウル・ヒルバーグはこのように採用しています。

ルーシー・ダヴィドヴィッチは、このように採用しています。

(13)屋外での殺害数なども合わせた虐殺合計数はこのようになります。

どうでしょうか。

各数字は、まるでバラバラなのに、合計数では500〜600万人の間に収まっていることが判ると思います。

この数字(註:上表の※で記される600万人のこと)については、単独のソースです。 だから上の数字の合計と全く合わないのです。

(14)この600万人という有名な犠牲者数は、二人のドイツSS官僚の伝聞証言にもとづいています。そのうちの一人、ヴィルヘルム・ヘットルによる証言は、ニュルンベルク裁判では文書証言としてだけ提出されました。
もう一人のディター・ヴィスリセニイは法廷で証言をしました。

IMT, Nuremberg 1947, Vol. III, p. 569, Vol. XI, p. 228-230, 255-260, 611, Vol. XXII, p. 346, Vol. XXXI, p. 85f. vol. IV, pp. 371.

二人の証人とも、アイヒマンから600万人という数字を聞いたと証言しました。ただし、アイヒマン自身は1961年のエルサレムでの裁判でこれを否定しています。

R. Aschenauer, ed., Ich, Adolf Eichmann (Leoni [Bavaria]:
Druffel, 1980), pp. 460-461, 474; Jochen von Lang, ed., Eichmann Interrogated (New York: Farrar, Straus and Giroux, 1983), pp. 117-118. Dieter Wisliceny, another former SS officer, made a statement similar to Hottl's at Nuremberg on Jan. 3, 1946, but spoke of "only" four or five million Jews killed. IMT, vol. 4, p. 371. Eichmann later called Wisliceny's comments "theater," and said that he never had any figures of "exterminated" Jews. See von Lang, ed., Eichmann, pp. 164-165, 94-95, 110-117.

所が驚くべきことに、この(15)600万人という犠牲者数は、終戦後に判明したのかと思いきや、戦時中から存在しているのです。

First quoted by Arthur R. Butz, The Hoax of the Twentieth Century, Historical Review Press, Brighton 1976. All quotes from the 3rd edition, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, p. 100-104

ニューヨーク・タイムズ』 1943年3月10日の記 事12頁: 「・・・ 200万人のユダヤ教徒がヨーロッパで .. 殺された。 ・・・計画によると、 残りの400万人が殺されようとしている」 (2+4=6百万人)
ニューヨーク・タイムズ』 1943年3月2日の記事 1、 4頁:「ナチの拷問と虐殺から逃れることをできる人々を救うことで、 同胞ユダヤ教徒600万人の生きる自由を保障するように [とラビのヘルツは述べた]」
ニューヨーク・タイムズ』 1942年12月13日の記事 21 頁: 「・・・信頼すべき情報によると、 すでに 200万のユダヤ教徒が悪魔的な野蛮な方法で虐殺されており、ナチ支配下ユダヤ教徒すべてを絶滅する計画が発動されている。 ヒトラー支配下ユダヤ住民3分の1がすでに殺戮されており [3×200万= 600万] 全員を殺戮することは比類のないホロコーストである」

さらにさらに驚くべきことに。この(16)数字の起源は、第二次大戦勃発前、1920年までさかのぼることができるのです。

ニューヨーク・タイムズ1920年5月7日:「... 中央ヨーロッパと東ヨーロッパのユダヤ戦争難民、ここでは600万人が、飢餓、疫病、死という恐ろしい状況に直面している・・・」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月5日 9 頁:「東ヨーロッパの600万人の男女を飢餓と疫病による絶滅から救うために・・・」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月5日19頁:
「戦争に引き裂かれたヨーロッパの、 飢えと熱病に苦しむ 600万人が、われわれに訴えている・・・」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月3日11頁:「東ヨーロッパと中央ヨーロッパ600万人の命を救うためにあなた方の援助が必要です」
ニューヨーク・タイムズ1920年5月2日1頁:「600万の人間が、食料、宿舎、衣服、 衣料のないまま放置されている」
ニューヨーク・タイムズ』 1919年11月12日 7 頁:「600万人、世界のユダヤ人口の半分、100万の子供と…500 万の両親と老人が、悲劇的なほど窮乏化し、飢え、疫病にかかっている」

(註:以下は当時の記事のまとめを紹介するサイトの画像)

http://balder.org/judea/Six-Million-140-Occurrences-Of-The-Word-Holocaust-And-The-Number-6,000,000-Before-The-Nuremberg-Trials-Began.php(註:このアドレスにあるサイトは閉鎖れておりアクセスできないので、閲覧する場合はWebアーカイブを参照してください)

(註:以下、いくつかの画像(上記サイト内にあるものばかりです)を紹介しながら画像を変えるたびに「600万人」とだけアナウンスが入っています)

何と、1869年まで遡る事が出来るのです。
一説には、「600万人の同胞を失ったのちに約束の土地に帰ることをユダヤ教徒に約束する古代ユダヤの予言」があるとされますが、信憑性は不明です。

Benjamin Blech, The Secret of Hebrew Words, Jason Aronson, Northvale, NJ, 1991, p. 214.

このような事実を踏まえて、この表を改めてご覧ください。

まるで、 600万人という結論が初めにあったが、終戦直後に認定した個別の人数だと合計 が多すぎてしまう そこで次第に合計数が 600万に近づくように個別の人数が調整されていった……そんなように見えませんか? これでは、ホロコースト正史に対して不信感を覚えるのも無理からぬことではないでしょうか。

次回の動画では、 さらに正史の内容を突っ 込んで分析していきます。
その為に、世界で最も有名な収容所の死者 に登場してもらいましょう。
そうです。 あの少女です。
アンネ・フランクが辿った運命を紐解けば、ホロコースト正史の正体が見えてくるのです。

 

 

(1)絶滅収容所には囚人は一人もいなかったの?

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ではいったいどうやって、殺したユダヤ人の遺体処理を行っていたのでしょうか? これは一例に過ぎませんが親衛隊が、囚人であれ非囚人であれそれらの遺体処理をユダヤ人ゾンダーコマンドにやらせていたことは、ホロコーストではイロハのイのレベルの常識です。絶滅収容所でも、他にも様々な雑用的労務があり、それらは選別して生かしておいたユダヤ人囚人にやらせていたのです。だからこそ、トレブリンカやソビボルでは囚人による暴動が起きたのです。

絶滅収容所の反乱 | ホロコースト百科事典

加藤の基本的知識のなさには呆れるばかりです。

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(2)強制収容所では囚人たちは「工場」でしか働かなかったの?

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いいえ。収容所内などの建設工事、鉱山労働や土木工事、収容所内のあらゆる雑務、親衛隊業務の補助、もちろん火葬場の遺体処理等、可能な仕事はなんでも囚人にやらせていました。医師資格があるなら囚人医師として働かされたし、音楽家ならアウシュヴィッツオーケストラのような収容所内楽団にも配属されたし、写真家なら囚人の登録写真なども撮っていたし、・・・とにかく可能な限りのありとあらゆる仕事をさせられたのです。加藤は本当に雑な認識で困ります

ジャン・クロード・プレサック『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』p.339より

 

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(3)「ガス処刑」自体は記録に残ってはいませんが……。

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ナチスドイツ自身による当時の収容所での死亡者に関して、毒ガスで殺されたと明記された記録文書は一切残されていないのは確かです。加藤が図で示した「移送集団」の図はかなり杜撰ですが、それはともかく、その図の右下にある「死亡証明書」がなぜ存在するのかというと、ドイツの法律によるものだったからです。アーロルゼン・アーカイブ(ナチス迫害国際センター、旧国際追跡サービス(ITS))の説明によると、

この書類は、正式には死亡台帳記載事項または死亡帳記載事項として知られている。強制収容所の囚人だけでなく、他の囚人にも公式に記入された用紙である。現在でも適用される正式な法律として、死亡者はドイツの登記所に登録しなければならない。強制収容所で死亡した囚人もまた、死亡登録簿に記載されることになっていたが、この登録簿は囚人の国籍やユダヤ人とみなされるかどうかによって大きな違いがあった。この書式は、すべての収容所と市民登録所で基本的に同じであった。このため、異なる強制収容所のスペイン人、ドイツ人、ポーランド人死亡囚人の記載は類似している。書体とそれぞれの登録官の筆跡が異なるだけである。

「(ガス)処刑」は、法的な処刑でない限り、純粋に不法な殺人ですから、こうした正式な記録に残せないことは当然ですが、囚人として登録されている場合は登録されている以上、囚人が収容所内(ナチス管理下)で死亡した場合には、原則としてこの死亡台帳記載事項を発行しなければならなかったと考えられます。しかし、死因を書かねばなりませんから、「(ガス)処刑」とは書けず、死因を改竄したと考えられます。それがこちらにある記録の改竄です。このように、死因の改竄があったので、ガス処刑されて死亡した囚人の死亡記録が存在したとしても、死因が書き換えられているため、死亡記録上はガス処刑が存在しないことになっているだけだと考えられます。

加藤は、死亡記録の改竄があった事実を知らないので仕方ないとは思いますが、「その他の要因で死亡した場合には、死亡証明書が残される」ではなく、死亡記録には(ガス)処刑以外のその他の要因しか書かれていない、だけなのです。

もちろん、アウシュヴィッツやその他の絶滅収容所で囚人登録されずに殺された、あるいは現地で大量虐殺にあったようなユダヤ人の死亡者のような場合、そもそもが囚人として登録されていないのですから、死亡記録を発行する必要もなかったでしょう。それらの人たちは、書類記録上は死んでおらず単に行方不明になっただけ、とでも考える他はありません。もちろん、その本当の行き先を修正主義者に尋ねてもわかるわけありません。

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(4)ホロコーストの犠牲者は「仮説」なのか?

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「仮説」とは、単純に言えば、証明されていない真偽未定の説、とでもいうことになるでしょう。しかし、加藤の説ではない一般世間の説では、死亡記録に残っている囚人の死亡者もホロコースト犠牲者に含まれると考えていいでしょう。あるいは、例えば、ホロコーストの写真としてよく使われてきたベルゲン・ベルゼンなどの強制収容所の大量死体について、その死亡記録が全て発行されてきたとは思えません(例えば、あのアンネ・フランクの死亡記録は見つかっていません)が、死亡記録がないからと言って、死体があったのが確実なのに、実際には死んでいなかった、とは少しも考えは及ばず、また一般的にそれらもホロコーストの犠牲者に含まれます。これらは決して仮説ではありません。

ガス処刑、あるいは銃殺(他の暴行などもあったでしょう。細かく言えば人体実験なども含まれます)による、ナチスドイツが隠したはずの犠牲者についてはどうでしょうか? もしかしたらそれらのケースは実は死んでないのでしょうか? ガスで殺されておらず、銃殺もされていない? むしろそちらの実際には死んでないという方が仮説なのではないのでしょうか? しかも証明不能の。

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(5)絶滅収容所以外の収容所ではナチスは囚人を生かし続けるだけだった?

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批判の対象としてホロコースト否定論にばかり集中していると、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所以外の強制収容所については、なかなか関心が向かないのですが、さすがに強制収容所で囚人を一人も殺さなかった、なんて説は聞いたことがありません。例えば以下のページを読んでみましょう。

ブーヘンバルト (簡約記事) | ホロコースト百科事典

「親衛隊員は囚人を馬屋で射殺したり、焼却炉の周辺で絞首刑にしたりしました」

「1941年からは、多数の医師や科学者がブーヘンバルトの囚人に人体実験を行いました。これらの実験は主に伝染病を対象としていたため、何百人もが死に至りました

「親衛隊員はブーヘンバルト収容所システム全体で定期的に「選別」を行い、虚弱で働けない者を安楽死施設」に送って毒ガスで殺害しました。また、ブーヘンバルトでは、親衛隊医師が働けない囚人にフェノール注射を打って殺害しました」

「1945年4月初旬に米国軍が侵攻してくると、ドイツ軍はブーヘンバルトとその補助収容所から約3万人の囚人を避難させました。その3分の1が極度の疲労で死亡するか、親衛隊によって射殺されました」

「親衛隊は少なくとも5万6,000人の男性囚人をブーヘンバルト収容所システムで殺害し、そのうち1万1,000人がユダヤでした」

私は述べた通り、強制収容所についてはこれらの既存の記述からしか知識を得ていないので、これらの殺害がどのような根拠によっているかなどについては知りません。しかし、加藤がそこで述べているのは「正史の枠組み」だと言ってます。でも、上の引用は、米国ホロコースト記念博物館のサイトであるホロコースト百科事典にある説明であり、正史の代表的な説明としか言いようのないものです。そこには、加藤の言っているのとは全然違うことが書いてあるのです。一体この違いはなんなのでしょうか? 

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(6)以上が「1960年以降に固まった定説」?

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(1)〜(5)で述べた通り、加藤の認識は間違っているので、そもそもが話にならないのですが、「1960年以降に固まった定説」自身の根拠が何も書かれていません。しかし、「1960年以降に固まった定説」と述べて、加藤が何を言いたいのか、よくわかりません。おそらく、前回述べたブローシャートのディーツァイト誌への寄稿を意識して「1960年」と述べたのでしょうが、ブローシャートの寄稿が「正史派」の世界に影響して定説が作られていったとする説の証明は何もありませんし、加藤がそれ以外の当時の説を検討した気配も全くなく、何故そんなことが言えるのかさっぱりわかりません。ともあれ、認識が間違っているので無駄な説明ではあります。

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(7)ヒトラーによるユダヤ人絶滅命令のあった日がバラバラと言いますが……。

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さて、ヒトラーによるユダヤ人絶滅の命令についてですが、明確な命令書が存在しないことは、ホロコースト否定に興味があったら誰でも知っていることかと思います。ほとんどの歴史家はヒトラーによるユダヤ人絶滅命令は口頭でなされたと考えているようです。例えば、日本の代表的なホロコースト研究者の一人である横浜市立大学客員教授(2023年現在)である永岑三千輝氏は以下のように述べています。(加藤の中身のない話を読むよりこちらを読む方がはるかに為になると思うのですが)

ヒトラーユダヤ人「絶滅命令」も、80年代以来、ひとつの大きな論争の的である。右翼作家アーヴィングを代表とする一部の極右勢力とそのエピゴーネンは「絶滅命令」書が存在しないことを理由にヒトラーの絶滅命令、彼の直接的関与を否定する。しかし、仮にヒトラーの絶滅命令がなかったとしても、ユダヤ人大量虐殺の厳然たる事実を否定できない。その証拠はホロコーストの主体的担い手である帝国保安本部の文書類をはじめとして無数にある。したがって、ヒトラー命令が存在しないと主張することは、ヒトラーの免罪と英雄化、さらに深くはヒトラーの思想と行動の基本にある民族主義的世界観、人種主義的民族主義への共感・賛美を意味するに過ぎない。この潮流は、歴史の風化に掉さして、さまざまの次元でホロコーストを否定しようとする。第二次世界大戦後、現在まで、世界の民族主義、人種主義、反民主主義、反ユダヤ主義の潮流は、ナチズム、ファシズムに共鳴し、その汚点をぬぐおうとする。この潮流は、現在のアメリカに見られるように、移民、黒人、ヒスパニック、アジア系アメリカ人、そしてゲイやレスビアンへの攻撃を行っている。その潮流の思想と運動の一環として、ホロコースト否定論がある。
歴史修正主義」を標榜するこの潮流の妄言を別とすれば、十数年来の論争を通じて、ヒトラーの「絶滅命令」が口頭で発されたことに関して歴史研究者の認識は一致している。逆にいえば、ヒトラーが何らかの命令を下すことなくしてあのような歴史的悲劇ユダヤ人の大量虐殺はありえない、ということである。すなわちホロコースト政策の展開においてヒトラーは直接、ヒムラー、ハイドリヒなどに口頭命令を発し、あるいはヒムラーやハイドリヒが提案する具体策に承認を与え、鼓舞しながら関与したとみる点で歴史研究者は共通している。歴史家の間で論争になっているのは、「絶滅命令」の具体的な発令時点であり、その発令内容の具体的中身である。歴史家は公刊・未公刊の既知史料群の再検討を行いながら、ソ連東欧崩壊によって新たに接近が可能となった文書館で発掘した史料を加味し、今日的視野から過去の歴史叙述を修正し、ホロコーストの事実経過と結果をより精密に描く努力を続けている。ヒトラーがいつ、どのような理由で、誰に、どこで、いかなる意味合いで、どのような「絶滅命令」を発したのか、こうしたことの精密な確定が問題となる。論争の厚みからして、議論は細部に及ぶことになる。

永岑 三千輝、「ヒトラー「絶滅命令」とホロコースト(論点をめぐって)」、『土地制度史学』、土地制度史学会、2000年42巻2号、pp.37-38(pdfファイルダウンロードリンクはこちら:強調は私)

私は学者でも研究者でもない、ホロコースト否定論だけに特化したまだまだ未熟なアマチュアでしかないので、2023年現在のホロコースト研究成果までは存じておりません。ですから、永岑氏のこの解説以降、もしかしたら説が色々と改定されている可能性もありますが、とりあえずここでは永岑氏のこの解説を参考とします。

加藤はそこで、その命令の発令時期について、諸説があることを述べています。それ自体は永岑氏も加藤が述べているのとは別の研究者の名前を挙げて、同論文で解説されておられるように、諸説があります。加藤は、これら諸説があることを、後述で「未だ命令の発令日も不確かな状況で、ヒトラーの命令があっただなんてよく言えるな!」の趣旨のことを述べていますが、修正主義者でない歴史研究者たちは、そもそもがホロコーストがあったこと自体を否定などしていないのですから、ヒトラーの命令がなかったこと自体が考えられない、としているのです。

しかし、その発令時期については、明確な証拠がないので、様々な歴史的事実を示す根拠から、その発令時期を推測するしかないのです。これは例えば、邪馬台国畿内説と九州説の関係のようなものかもしれません。未だ二つの説があるからと言って、邪馬台国がなかった、あるいは卑弥呼はいなかったという人はいないのではないでしょうか? さらには、こうした諸説が存在する状況について、それ自体がおかしいとする加藤の言い分は、全く理解できないものでもあります。未確定の事柄について諸説が存在することはよくある話でしかないからです。例えば、ケネディ大統領暗殺事件について、米国政府はオズワルド単独犯行説で決着させてはいますが、未だに他にもいくつもの説があることはよく知られています。もちろん諸説があるからと言って、ケネディが実際には暗殺されなかったと主張する人はいません。

ところで、ここでは加藤は少々手を抜いており、ネタ元を表示し忘れているようです。そこでリストされている「エーバレオン・ポリャーコフ」から「セバスティアン・ハフナー」までのネタ元は、他にもいくつかのネタを使ってはいるようですが、当然ですが加藤自身はそれらの研究者等の記述を直接調べてはいません。例えば、ユルゲン・グラーフによる「粘土足の巨人」の中からネタを引っ張っていることはわかっています。グラーフはそこで、クリストファー・ブラウニングの論説を引用しているので、形式上は孫引きに近いものではありますが、加藤はそもそも出典を明示していないので、単なる出所不明の情報にすぎず、孫引きですらもありません。

しかし余談ではありますが、私は「エーバレオン・ポリャーコフ」なる人物の名前を聞いたことがありません。ミスタイプだと思いますが、正しくは「レオン・ポリャーコフ(レオン・ポリアコフ:Léon Poliakov)」です。ちなみに、「ポリャーコフ」の表記は、歴史修正主義研究会で紹介されている翻訳文中にしかありません(ネットのどこにもそこ以外はないようです)。また、リストの中に入れられているルドルフ・ヘスの証言による発令時期は、研究者が発令時期推定の一つの根拠として用いるものなので、研究者の推定と一緒に並べるのは不適切です。

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(8)そのブローシャートの資料らしきものは何でしょう?

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そこにある画像のことですが、その画像内の文字列でググっても、如何なる資料もヒットしません。加藤はその出典を明示しておらず、どこからそんな文章を出してきたのかもわかりません。ただし、加藤の述べる「ブロシャートは、ヒトラーは、ユダヤ絶滅について最終決定を下さなかった」については、こちらのイタリア人修正主義者であるカルロ・マットーニョの論文の翻訳記事からのネタであることはわかっています。

ミュンヘンの現代史研究所前所長マルティン・ブロシャートは、ブローニングが指摘しているように、「ヒトラーは決定的な決定を下しておらず、最終解決の全体命令を出してもいなかった」という論理的な結論に達しています。

ともかく、加藤が孫引きの常習犯であるのはもう十分過ぎるほどわかっているのでそれはいいとして、せっかく自分でどこからから引っ張ってきた資料の出典名を示さないのは意味がわかりません。出典名を出してしまうと何か不都合でもあるのでしょうか?

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(9)アウシュヴィッツでの最初のガス処刑について

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ここでは、アウシュヴィッツ主収容所(第一収容所)で行われたブロック11での最初の毒ガスによる殺害実験がいつであるかについて述べられていますが、ここでもいつものとおり、あたかも加藤自身が赤で示した文献を調査したかのように「孫引き」を使っていますが、元ネタはばれています。元ネタは、

アウシュヴィッツ 伝説の終焉(マットーニョ)

です。しかし、そのマットーニョの議論には問題があることは以下で述べられています。

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(10)「ホロコーストが無かったというのなら、原爆投下も太平洋戦争も無かったのか?」という反論についての加藤の反論自体がおかしい。

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憶測にすぎませんが、加藤はネットでのホロコーストについての大論争をしていた時期に、論敵からそんなことを言われたのでしょう。私自身は何人もの修正主義者とネットで議論を重ねていますが、そんな反論をした記憶はありません。ただ、西岡昌紀と旧Twitterでやり合っていた時に、広島の原爆の話をした記憶はあり、加藤とそっくり同じ反応が返ってきた記憶があります。「アウシュヴィッツの再建された第一ガス室が捏造だというのであれば、広島の原爆ドームは何度も修復工事を受けているがあれも捏造だというのか?」みたいなことを言ったかと思いますが、西岡は加藤同様に原爆ドームは修復の記録もちゃんと残ってるとかなんとか言ってましたっけ。

私自身は、旧Twitter上で外国人の修正主義者から、原爆投下捏造論みたいなことを言われたことがあるのですが、理論的には何でもかんでも捏造であると疑惑視することは可能です。証拠があってもそれを証拠の偽造とすればいいだけだからです。ですから、西岡や加藤のような再反論は、そもそもの反論の趣旨をわかってないわけです。私がたまに例示する論理に、バートランド・ラッセルによる「世界5分前仮説」と呼ばれるものがあります。

世界五分前仮説 - Wikipedia

この仮説は否定することは不可能です。論理形式的にはこれと同じで「陰謀論」はどんなことであろうとも、その陰謀論で説明可能だ(が証明はされない)、という事実はよく知られていると思います。ホロコースト否定論は、どうやったって陰謀論に頼らざるを得ないので、実はホロコースト否定論の根本的問題はその「陰謀論=未証明の仮説」に頼らざるを得ないことにあるのです。ユダヤ人や連合国の陰謀って奴ですね。例えば、否定派はユダヤ人虐殺を証明するような文書などの証拠が出てくると、それを解釈で否定できない場合、捏造を主張し始めるのがそれです。だったら、その捏造それ自体について5W1Hを証明しなければならないはずです。しかし否定派からそれが示されることはありません。あるいは後述するような「600万人説の起源」については、それ自体が陰謀の証拠であると否定派は主張しますが、陰謀疑惑のみを前面に押し出している時点でそれらの主張が無意味であることをわかっていません。

さて、加藤は、そうした否定論への反論に対して、「日本が対米開戦を決定したのは 1941年11月5日と明確に判明」と述べていますが、開戦決定日については諸説があるのではないでしょうか? その日の御前会議で決定されたのは、米国との交渉に決裂した場合に武力を発動する方針(帝国国策遂行要領(11月5日付))であって、文面上は、開戦それ自体を決定したわけではないようにも読めます(明確に「対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す」と書いてあります)。「対米英蘭戦争決意し」とは書いてありますが、「決定」とは書かれていないですし。流れとしては11月26日のハル・ノートで交渉を絶望的だと判断したからこそ、11月5日の要領に基づいて12月1日の御前会議で対米戦争を決定したのではないのでしょうか?

もちろんこれは形式上というか、手続的な流れの話であって、意思決定は11月5日とする考え方もありますが、たとえそうだからと言ってもそれと同様に、ホロコーストにおけるユダヤ人絶滅決定日が説として確定してなければおかしい、ということにはならないと思います。少なくとも、ヒトラーユダヤ人絶滅を承認していたことは、いくつかの証拠があり、その一つがいわゆる第51号報告書だったりするわけです。歴史家たちはなんの根拠もなしに命令があったと言っているのではないのです。

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(11)命令日が未確定だからホロコーストはなかった?

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前項と同じ趣旨ですが、加藤は、原爆の投下日決定が判明しているのに、ユダヤ人の絶滅決定日が不確かなのはおかしいではないか、のようなことを述べていますが、原爆の投下日決定が判明したのは戦後のことでしょう(いつ判明したのかなんて知りませんが、当たり前のことです)。しかし、もし仮に、投下日決定を示す決定的資料(資料で判明したのかどうかも知りませんが)が米国で行方不明になっていたとしたら、判明していなかった可能性があります。もしそうだったとしても、原爆投下の意思決定はなかった、なんてことにはならないでしょう。その場合には、ホロコースト同様に、原爆の投下日決定について諸説が入り乱れていた可能性も十分あり得ます。これは論理的には前述の対米開戦決定日にも言えます。

あるいは、逆に加藤のような意見を持つ修正主義者に聞きたいのは、ではホロコーストユダヤ人なり連合国なりが捏造しようと決定したのは何年何月何日の話なのでしょうか? それこそ修正主義者たちがそれを諸説として説明したことすらありません。

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(12)各収容所の殺害方法や犠牲者数がバラバラだとおっしゃいますが。

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ここでは加藤の議論そのものが無茶苦茶です。今回引用が長くなったのは、加藤自身の説明をもっともらしく見せかけるために装飾の意味だけで入れている孫引きの文献名がやたらとたくさんコピペされているからですが、加藤はそもそも「定説が定まっていない」ことを示すためにそれらを列挙していたはずです。ヒトラーによるユダヤ人絶滅決定の発令日の話がそうでしょう。確かに発令日については近年でも諸説があって確定しているとは言えないようです。

しかし、犠牲者規模や殺害方法について挙げられているものは、とっくの昔に否定されているようなものまで含まれています。例えば、トレブリンカの蒸気説は、ニュルンベルク裁判ですら採用されていません。これらについて以下、加藤の並べた順で収容所別に手短に解説したいと思います。但し、装飾目的の文献名について、それが本当はどこにあるのかについては、流石に量が多過ぎるので、今回はいずれもどこにあるのかは、すぐわかったもの以外は、探しません。

一応言っておくと、加藤はその文献名をコピペするだけのために手間がかかることをやっていることもしばしばあります。例えば歴史修正主義研究会で翻訳されている記事の元の原典をあたって、そこからコピペしたり、さらにそこから別の文献名をどうにかこうにか探していたりすることなどもあるので、また、それらがpdf文書であったりする場合も多く、単純にググるだけでは検索に引っかかってこない場合があります。どうしてそこまでして、自分が読んでもいない文献名だけをコピペするのに手間をかけるのか意味がわかりませんが。

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ヘウムノ(クルムホフ)

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ヘウムノ絶滅収容所は、世間的な認知はあまりない収容所のようで、知らない人がいても無理はないと思います。しかし、私が教科書のようにして使っている反修正主義者の代表的なサイトであるHolocaust Controversiesブログサイトでは、極めて詳細なヘウムノ収容所に関する記事シリーズが掲載されています。これを全部翻訳しようと一時期頑張っていたのですが、2023年9月現在、中途で挫折中です。

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以上の記事に記されている通り、これほど大量の文書、あるいは証言などによって裏付けられているヘウムノ収容所での絶滅について、それが否定できるとは到底思えません。さて加藤は、「驚くべきこと」としてヘウムノ収容所での殺害方法が「ガス車」であったことを述べていますが、何が驚くべきことなのかについての理由の説明がないようで、単に視聴者に同意を求めているだけなのでしょう。

ヘウムノで3台のガス車が使われることになったのは、ヘウムノ収容所の起源が他の絶滅収容所とは異なるからだと考えられます。元々は、ポーランドを占領後、ヘルベルト・ランゲの特別行動部隊が各地の精神障害者を殺害するのに、一酸化炭素ボトルを使ったガス車を使用していたことに始まります。このゾンダーコマンド・ランゲが当初はヘウムノ絶滅収容所でのユダヤ人絶滅を行ったからなのです。

ヘウムノ絶滅収容所の目的は、ヴァルテ管区(ヴァルテガウ)やウッチ(リッツマンシュタット)・ゲットーのユダヤ人の絶滅にありました。このような経緯を学んでいたら、他の絶滅収容所ガス室のように定置式でないことについて、特に驚く必要はないでしょう。加藤は歴史をきちんと学ぶ気がないことがここでもはっきりわかります。

犠牲者数に諸説があることについては、加藤があげた資料を全て直接調べるのは困難なため、事情はよくわかりませんが、一言で言えば「ナチスドイツが公式データを残していない」ので、推計に頼るしかないから、です。こちらによると、「少なくとも15万2,000人」だそうです。

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ソビボル

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ソビボル絶滅収容所については、私自身は未だ詳しいことはほとんど知りません。解説は色々と読んでますし、勉強用に自分で英語版Wikipediaを翻訳したりしてはいますが、あまりホロコースト否定論にも出てこないので頭に入ってきません。

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ですが、加藤が引用している「シャワー室に偽装された死の部屋の天井にある穴から落ちてくるらせん状の黒い物体」は、つい最近読んだことがあるのですが、どこに書いてあったか忘れました。多分、加藤の動画への反論のために色々と読んでいる最中だったので、加藤の元ネタを反論している反修正主義者のサイトにあったのでしょう。

当然ですが、そのような証言は、歴史家たちのいわゆる「定説」には採用されていません。無数の証言の中には「見てきたような嘘」もあるので、当然精査されて嘘や間違いは省かれなければなりません。

ガス室で使用された毒ガスである一酸化炭素排出用のエンジンの種類については、そのエンジンを持ってきて設置した親衛隊軍曹のエーリッヒ・フックスが1963年の裁判で証言しているので、ガソリンエンジンで間違いないでしょう。

.....We unloaded the motor. It was a heavy Russian benzine engine, at least 200 horsepower. we installed the engine on a concrete foundation and set up the connection between the exhaust and the tube.

I then tested the motor. It did not work. I was able to repair the ignition and the valves, and the motor finally started  running. The chemist, who I knew from Belzec, entered the gas chamber with measuring instruments to test the concentration of the gas. 

Following this, as gassing experiment was carried out. If my memory serves me right, about thirty to forty women were  gassed in one gas chamber. The Jewish women were forced to undress  in an open place close to the gas chamber, and were driven into  the gas chamber by the above mentioned SS members and the Ukrainian auxiliaries. when the women were shut up in the gas chamber I and  Bolender set the motor in motion. The motor functioned first in neutral. Both of us stood by the motor and switched from "Neutral" (Freiauspuff)  to "Cell" (Zelle), so that the gas was conveyed to the chamber. At the  suggestion of the chemist, I fixed the motor on a definite speed so  that it was unnecessary henceforth to press on the gas. About ten minutes later the thirty to forty women were dead.

"BELZEC, SOBIBOR, TREBLINKA - the Operation Reinhard 
Death Camps", Indiana University Press - Yitzhak Arad, 1987, p. 31-32

当然ですがこれは私の孫引きで(笑)、自分で翻訳していた記事を経由して、こちらからコピペしたものです。翻訳すると、

モーターを降ろした。少なくとも200馬力はある、ロシア製の重いベンジンエンジンだった。私たちはエンジンをコンクリートの土台の上に設置し、排気とチューブの接続をセットした。

それからモーターをテストした。動かなかった。点火装置とバルブを修理して、ようやくエンジンは動き出した。ベウジェツで知り合った化学者が測定器を持ってガス室に入って、ガスの濃度をテストした。

これに続いて、ガス処刑実験が行なわれた。私の記憶が正しければ、一つのガス室で30人から40人ほどの女性がガス処刑された。ユダヤ人女性たちはガス室の近くの開けた場所で服を脱がされ、上記のSS隊員とウクライナ人補助員によってガス室に追い込まれた。女性たちがガス室に閉じこめられたとき、私とボレンダーはモーターを作動させた。モーターはまずニュートラルで機能した。私たち二人はモーターのそばに立ち、「ニュートラル」(Freiauspuff)から「セル」(Zelle)に切り替えて、ガスがガス室に運ばれるようにした。化学者の提案で、私はモーターを一定の速度に固定し、以後ガスを押す必要がないようにした。約10分後、30~40人の女性が死んだ。

となり、ベンジンエンジンとは、ドイツなど欧州の何カ国かではガソリンエンジンを意味します。エーリッヒ・フックスはドイツ人なのでガソリンエンジンで間違いありません。

また、加藤は「現在では二番目のディーゼルエンジンガス室だとされている」と書いているので、英語版ウィキペディアで確認してみましょう。

The first gas chambers at Sobibor were built following the model of those at Belzec, but without any furnaces.[23] To provide the carbon monoxide gas, SS-Scharführer Erich Fuchs acquired a heavy gasoline engine in Lemberg, disassembled from an armoured vehicle or a tractor.

<日本語訳>
ソビボルの最初のガス室は、ベウジェツのガス室をモデルとして建設されたが、炉はなかった[23]。一酸化炭素ガスを供給するために、親衛隊軍曹エーリッヒ・フックスはレンベルクで装甲車やトラクターから分解した重いガソリンエンジンを手に入れた。

英語版Wikipediaより

あら? 加藤の言っていることと違いますね。この英語版ウィキペディアの記述箇所に用いられている文献は、

Schelvis, Jules (2014) [2007]. Sobibor: A History of a Nazi Death Camp. Translated by Dixon, Karin. Bloomsbury Publishing. ISBN 978-1-4725-8906-4.

だそうですので、2023年現在、あるいは加藤の動画の公開時点である2018年から言えばこの文献が最近のものであることに間違いありません。実は、ソビボルのガス室ガソリンエンジンを使っていたことはずっと以前から定説らしかったことも知っています。1999年に書かれたこちらでも、

少なくともソビボルで、ガソリンエンジンが使われたことは、フクスの証言から明らかになっています

のように、同様にエーリッヒ・フックスの証言からそのように述べられています。加藤はディーゼルエンジン説の根拠に1969年の古い文献名しか示していないし、加藤の言う「現在」がディーゼルであることの根拠は何も示されていないので、「それって嘘じゃないの?」と言いたくなりますね。

実は、歴史修正主義研究会の翻訳論文を読むと、ソビボルがディーゼルエンジンを用いたガス室だったとの記述が何度も登場するのです。例えば修正主義者でディーゼル・マイスターと呼ばれるフリードリッヒ・ポール・ベルクはこちらの記事で、「トレブリンカ、ベルゼク、ソビボルで行なわれたとされる行為をディーゼル・エンジンを使って行なうことは…」のようなことを述べています。ベルクは同記事で、ガソリンエンジンを使っていた説があることを否定までしてディーゼルに拘る姿勢を見せています。ベルクは、毒ガスとしてディーゼルエンジンの排ガスを使うのは不自然として、ガス処刑を否定する論者ですから、ディーゼル説でないと困るのでしょう。

確かに、ラインハルト作戦の三つの絶滅収容所(ソビボルが除かれる場合が多いが)のガス室やガス車では、毒ガス生成用に使われたのはディーゼルエンジンだったと言われていたようです。前述に示した1999年の日本の論述(その元サイトである対抗言論でも)でもガス車やトレブリンカ、ベウジェツについてはディーゼルエンジン説を主張していたようです。

しかし、実際にはガソリンエンジンの可能性の方が高かったようなのです。これは、以下にある一連の記事で説明されていますが、戦後の証言や様々な情報を精査することにより判明しています。

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詳細についてはこれらの記事をじっくり読んでいただくとして、加藤がソビボルもディーゼルとされていると述べるのは、歴史修正主義研究会の資料にそう書いてあるから、以上のものではないと考えられます。

ソビボルの犠牲者数については、ヘウムノ同様「諸説があるのは、「ナチスドイツが公式データを残していない」ので、推計に頼るしかないから」ってだけの話だよね」ですね。ホロコースト百科事典によると「少なくとも16万7,000人」だそうです。

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ベウジェツ

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ベウジェツの殺害方法について加藤がリストアップした(実際にはユルゲン・グラーフの論文の54ページからコピペされているだけであるが)「7通り」の説は、これもまたディーゼル・エンジン説以外は歴史家が採用していない説(ヒルバーグの説として挙げられている「びん詰めの一酸化炭素」は引用された証言内に書かれているだけである)であり、そもそもベウジェツの殺害方法については、修正主義者が「嘘ばかり書いてある」として切り捨ててしまうクルト・ゲルシュタインが書いたレポートの中に書かれているディーゼルエンジンを用いた排ガスによるガス室による処刑のみが事実上、ニュルンベルク裁判以降ずっと採用されてきたことを、修正主義者が一番よく知っている筈ではないのでしょうか。

犠牲者の人数については、戦後の証言と研究者の推定数字が混ぜて並べられている雑さであり、これまた推計で複数の値が出るのは当たり前の話に過ぎません。ホロコースト百科事典によれば、「ドイツは約43万4,500人ユダヤ人と、不特定多数のキリスト教徒のポーランド人とロマ族(ジプシー)をベウジェーツに移送して殺害しました」とあります。

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トレブリンカ

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「殺害方法は非常にバリエーションがあります」と加藤は述べていますが、もちろんそれを一つ一つ私が調べることはできません。しかし、それら個々の殺害方法の出所は様々であるようなので、「こんなバラバラなんだからデタラメに決まってる」と述べるだけでは議論が雑すぎるでしょう。例えば、単なる噂話の伝聞に過ぎないものを、直接の目撃談とただ単純に同じレベルに並べるのは、情報の確からしさとして平等ではありません。従って、それら一つ一つの殺害方法の出所を可能な範囲で精査する必要があります。

実は、私が過去にHolocaust Controversiesブログサイトの記事を訳していて、その中の表も日本語訳してあります。

これらは、トレブリンカ収容所から脱走して、ワルシャワ・ゲットーの地下組織などの人たちに証言し、その記録が残っているものを示しています。こうして一覧を眺めると、多くは殺害方法は述べておらず、殺害方法を述べているものでは「ガス」が最も多いことがわかります。またこの一覧では、「電流(電気)」は一つしかなく、「蒸気」は3つしかありません。「電流」については、元記事の脚注によると、

[93] ある同僚が、キェルツェのトレブリンカ逃亡者とされる人物との面会について、電気について言及した「又聞き」の報告書を私のところに持ってきたのだが、その誤報はおそらく「収容所内部」からもたらされたものだろう。この同僚は、他の電気に関する報告も、周辺の田舎に渦巻く伝聞であった可能性があると指摘する。ベウジェツに関する誤った報告に基づく事前の伝聞の影響は確かである。

とあります。つまり、ベウジェツの殺害方法として挙げられている電気説と関連がある可能性があるのです。

また加藤は蒸気説についてニュルンベルク裁判でも、これが事実として採用されました」と述べていますが、そう書いた報告は裁判に提出されましたが、判決には採用されていません。詳しくはこちらにあります。

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ここにあるとおり判決では、

働ける人は全員、強制収容所の奴隷労働者として使われた。働けない人は、ガス室で破壊され、体は焼かれた。トレブリンカやアウシュビッツなどの強制収容所は、この主目的のために用意されていた。

と述べられているだけなのです。何度も何度もですが、修正主義者は息を吐くように嘘をつくので、サラッと根拠もなしに書いてあることには本当に気を付けて読まなければなりません。

ちなみに、修正主義者はトレブリンカの殺害方法としてしつこくしつこく蒸気説に拘りますが、親衛隊が丁寧に殺害方法を囚人に教えるわけもないので、ガス室を外から直接見ていたとしたところで、ガスは見えないのですから、殺害方法を蒸気と勘違いしたところで何も不思議はありません。大量に犠牲者が裸で詰め込まれて、毒ガスで殺された後にドアを開けたら中から白い煙のようなものが見えたので、死体表面が汗まみれだったのと合わせて、その白い煙を蒸気と誤解した、のような可能性は大きいわけです。

いずれにしても、上の表にあるとおり、種々の殺害方法についての出所のほとんどがトレブリンカ収容所の脱走者によるものであり、彼らは当然ユダヤ人大量虐殺について証言しているので、もし「蒸気説」がワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちによる捏造だと言いたいのであれば、それら証言が本当は脱走者の証言でないことや、本当の捏造した人物を突き止めてから言ってもらいたいものです。

トレブリンカの犠牲者数については、他の収容所について述べたことと同じです。何でもかんでも混ぜてリストにすればばいいとは思わないですが、一応、現代の定説としてはホロコースト百科事典では「ドイツ軍とその協力者たちはトレブリンカで87万~92万5,000人ユダヤ人を殺害しました」とあります。

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マイダネク

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マイダネクの殺害方法をガス室に限定するのは違和感があるのですが(収穫祭作戦があるから)、それはまぁいいとして、マイダネクのガス室では一酸化炭素ボンベとチクロンんBの両方が用いられたとされているのは確かです。

犠牲者数について述べる前に、一覧に挙げられている「ルーシー・ダディドヴィチ」は「ルーシー・ダヴィドヴィッチ(Lucy Dawidowicz)」の誤りです。ついでに、このダヴィドヴィッチのあげているマイダネクの犠牲者数の数字である「138万人」は、明らかにマイダネクの報告書にある数字を足したものであることがわかっています。1944年に作成されたソ連の委員会によるマイダネク収容所の報告が、以下にあります。

Majdanek Report

これには、次のような記載があります。

The Committee established the fact that in the crematorium alone over six hundred thousand bodies were burnt; on gigantic bonfires in the Krembecki Woods over three hundred thousand corpses were burnt; in the two old furnaces over eighty thousand corpses were burnt; on bonfires in the camp near the crematorium no less than four hundred thousand corpses were burnt.

委員会は、火葬場だけで60万人以上の死体が焼かれたという事実を立証した;クレムベッキの森の巨大な焚き火で、30万体以上の死体が燃やされた;二つの古い炉で8万人以上の死体が焼かれた; 火葬場近くの収容所の焚き火で、40万体以上の死体が焼かれた。

ここの数字を足すとちょうど138万人になります。ダヴィドヴィッチはマイダネクの犠牲者数を推計するための数的根拠を、これしか知らなかったのでしょう。

ソ連ニュルンベルク裁判に150万人の犠牲者数を報告しているようですが、判決では触れられていません。また、ズジスワフ・ルカーシェビチ(ズジスワフ・ウカシュキェヴィチ:Zdzisław Łukaszkiewicz)の値として挙げられている36万人は、ウカシュキェヴィチはポーランドの犯罪調査委員会の判事であり、つまりはポーランドは1948年にソ連の値をとっとと否定していたと言うことになります。

そして、流れとして犠牲者数推計値が減っていくのですが、ラウル・ヒルバーグは『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の初版を出した1961年の時点ですでにマイダネクの犠牲者数を5万人としていました。このようなかなり少ない犠牲者数規模については、イギリスの当時の暗号解読文書の機密公開に伴って。2000年に発見されたヘフレ電報で裏付けられることになります。そこには、1942年末の値として24,733人の数字が記載されていたのです。

加藤は、現在のマイダネク博物館による公式数字を挙げていませんが、公式の犠牲者推計値は78,000人(うちユダヤ人59,000人)とされており、これはマイダネク国立博物館研究部のトマシュ・クランツ部長が、2000年にヘフレ電報が発見されたことを受けて、2005年に決定したものです(英語版Wikipediaより)。アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のサイトにあるニュース記事によると、

クランツは、現存する収容所死亡帳の断片、死亡登録簿、ナチスがルブリンの小教区に送った囚人死亡通知、1970年代末から1980年代初頭にかけてデュッセルドルフで行われた裁判でのマイダネクに駐屯していたSS隊員の証言、生き残った囚人の証言など、入手可能なすべての資料を調査したと主張している。

だそうです。

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アウシュヴィッツ

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アウシュヴィッツについて、まず加藤が述べている電気風呂、空気ハンマー、戦争ガスは、もちろん加藤がそこで示している資料を読んでいるはずもなく、ユルゲン・グラーフの『民族社会主義ドイツの収容所の実像とガス室神話の起源』に書いてあるものです。

アウシュヴィッツ強制収容所では、レジスタンス運動は、1941年から、際限のないホラー物語と囚人の大量殺戮という情報を捏造していた。しかし、このときには、チクロンBという殺虫剤はまったく登場していない。その代りに、絶えず話が変化しているのではあるが、殺戮は、「電気風呂」、戦闘用毒ガス、「空気ハンマー」で行われたという話になっていた[110]。

で、加藤がいい加減すぎるなぁと思うのは、ここでのグラーフの文脈はこれらの話は、加藤が書いている「戦時中のポーランド抵抗運動報告」ではなく、「アウシュヴィッツ収容所内のレジスタンス」の活動によるものだ、としていることです。アウシュヴィッツ収容所内にはいくつかのレジスタンスグループがあり、有名な組織としては「アウシュヴィッツ戦闘集団(Kampfgruppe Auschwitz)」と呼ばれるものがあります。グラーフとしてはおそらくは、明言はしていないものの、このレジスタンス・グループを意識しているのではないかと考えられますが、ここではそれ以上は追及しません。もし気になる方がいらっしゃるのであれば、上の引用中にある脚注番号110に記されているEnrique Aynatの論文をご自身で確かめていただけるようお願いします。ちなみに、Enrique Aynatは修正主義者の一人です。

https://aaargh.vho.org/fran/livres6/EAestu.pdf

次に書いてある「ボリス・ポレヴォ」の記事の話についてですが、リップシュタットvsアーヴィングの裁判でリップシュタット側の専門家証人として出廷した、ヴァン・ペルトの報告書の中にそこそこ詳しく書いてあります。ヴァン・ペルトはなぜポレヴォイがそのような話を書いたのかについて、次のように推測しています。

絶滅の設備として、ガス室といわゆる「溶鉱炉」との間に電気ベルトコンベアが含まれていたというポレヴォイの主張の出所については、推測するしかない。 火葬場2と3では、電気エレベーターが地下ガス室と焼却室をつないでいた。解放時のアウシュヴィッツの混乱の中で、ポレヴォイは、電気エレベーターについての言及を誤解したのかもしれない。溶鉱炉に関しては、焼却炉メーカーであるエルフルトのJ.A.Topf & Söhneが1942年11月5日に提出した「集中使用のための連続運転死体焼却炉」の特許出願T 58240が最も有力な出典である。そのデザインは、ポレヴォイの説明をおおむね反映している。アウシュヴィッツ中央建設事務所がこの特許出願のコピーを持っており、ポレヴォイがこの書類を見せられて結論を出した可能性がある。特許T58240の詳細については「J.A. Topf & Söhne, Erfurt, Patent Application, "Kontinuierliche arbeitenderLeichen-Verbrennungsofen für Massenbetrieb", Archive Auschwitz-Birkenau State Museum in Oswiecim, BW 30/44.」の第IX章を参照のこと。 

(上記図面はプレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』p.101から引用)

レヴォイがアウシュヴィッツに来たのは、当然ですがソ連による解放後のことです。当時、アウシュヴィッツ主収容所の火葬場1は1944年に改築された防空壕の状態のままであり、ビルケナウの四つの火葬場はすべてダイナマイトで破壊されていたので、火葬場やガス室の詳細を、現物の目視により確認することは不可能でした。ヴァンペルトの推測通りかどうかは分かりませんが、可能性はゼロとは言えません。

「炉の中で、生きたままで焼却する①壕の中で生きたままで焼却する②」については、確かにそうした証言はあります。今回は探して紹介することまではしませんが、以下の証言集の中にもどこかにありますので気になる方は探してみてください。

note.com

確かに、非常に残虐な殺し方であり、大人の囚人の処刑ならば抵抗もあって難しいかもしれませんが、絶対になかった、とまでは言えません。

続いて、ソ連のハリコフ裁判での親衛隊員による証言があるとのことで挙げられている事例ですが、これも当然孫引き参照文献しか上げられていませんが、実際にはサミュエル・クロウェルの『シャーロック・ホームズのガス室』の中に書いてあるものです。これを、原著のテキストの12ページから独自に翻訳して以下に示します。単にいまいち、歴史修正主義研究会の翻訳は信用ならないからですが。

検察官:ソマンと話したことを話してください。
ハイニッシュ:ソマンは、ガス中毒による死は苦痛がなく、より人道的だと私に言いました。彼は、ガス車の中では死はとても早かったが、実際には12秒ではなく、もっとゆっくりと死が訪れ、大きな痛みを伴った、と言いました。ソマンはドイツのアウシュビッツの収容所について話してくれました。その人たちは別の場所に移されることを告げられ、外国人労働者は送還されると告げられ、それを口実に浴室に送られました。処刑される者はまず、『消毒』と書かれた看板のある場所に入り、そこで服を脱がされました -- 男たちは女や子供たちとは別にされました。そして、「浴室」という看板のある別の場所に進むよう命じられました。人々が体を洗っている間に、特別なバルブが開けられ、死因となったガスが注入されました。その後、死者は特殊な炉で焼かれ、約200体を同時に焼くことができました。

加藤はこの強調してある部分が、定説の方法とは違うとの趣旨で指摘していますが、これ、誰がどう読もうとも「伝聞」です。伝聞の情報は、たとえそれが嘘の情報でなくとも、本人が直接知ったわけではないので、聞いている時の聞き間違いや誤解等により、正確性が問題になることは誰でも知っていると思います。しかしこの証言のその前に書いてある、消毒と書かれた看板や、脱衣して浴室と書かれた場所に進むように命じられた、についてはこれは他の多くの証言に一致します。従って、それら証言とともにこの部分については裏付け情報になります。

 

続いてアウシュヴィッツの犠牲者数についてですが、これはいちいち確認しませんが、元ネタはロベール・フォーリソンの記事からです。

アウシュヴィッツでの死亡者は何名か?(フォーリソン)

修正主義者なら絶対に奉らねばならないフォーリソンの論文なのに、ちゃんとそれを書かない加藤の失礼さには空いた口が塞がりません(笑)。しかもそれを勝手にあちこち書き換えています。

ともかく、アウシュヴィッツの犠牲者数も例に漏れず、ナチスドイツはデータを残さなかったため、基本的には推測の数字がいくつか存在しているだけです。フォーリソンも当然、言うまでもなく修正主義者ですから、修正主義者にとっては信頼できる存在ではあっても、実際には信用できないことはわかっているので、ここでは簡単に、400万人説と収容所長のルドルフ・ヘスの証言である250万人説について、説明します。フォーリソンの言い分を事細かに批判していたら、ただでさえとんでもなく長くなっているこの記事が延々と終わらなくなってしまうからです(笑)

さて、ソ連の報告書にある400万人説の起源は、基本的には不明です。報告書には火葬能力から推計したと書いてありますが、その火葬能力をどのように推計したかについては一切書かれておらず、また肝心の収容所への移送人数を全く推計していません。入ってくる人数がわからないのに、どうやって犠牲者数を推計できるのでしょうか? このようにあっさりと、ソ連の報告は信用できるものではないと捨て去ることができます。

次に、400万人と証言した囚人についてですが、これも全員かどうかまでは知りませんが、私の知る限りの全員は自身の推計であると明言しています。しばしば登場する、ゾンダーコマンドだったヘンリク・タウバーの証言では以下のとおりです。

今日、火葬場やピットでガスをかけられて焼かれた人たちの正確な数を私は知ることができません。火葬場で働いていた人たちは密かに番号を書き留め、ガスを浴びた人たちに関する最も暴力的な事件を記録していました。彼らのノートは火葬場の近くの様々な場所に埋められていました。いくつかのノートは、ソビエト委員会がそこにいたときに回収され、持ち去られました。大多数はまだ土の中に隠されているはずで、探してみるのもいいかもしれません。埋まっていたものの中には、ガス室でガスを浴びた人の写真や、火葬場に運ばれてガスを浴びるために運ばれてきた輸送の写真などがあります。ゾンダーコマンドの一員としてアウシュビッツの火葬場で働いていた期間中、ガスを浴びた人の総数は約200万人と推測しています。アウシュビッツ滞在中、私は連れてこられる前にアウシュビッツの火葬場やバンカーで働いていた様々な囚人と話をする機会がありました。私が火葬場で働き始める前に、第1、第2バンカーと第1火葬場ではすでに約200万人がガス処理されていたと言われました。そのため、アウシュビッツでガスを浴びた人の総数は約400万人と推定しています。この数には、ユダヤ人とアーリア人の両方のヨーロッパの様々な国からの様々な輸送や、選抜の結果、ガス室に送られた収容所の囚人が含まれています。

囚人に、正確な犠牲者数がわかるわけがありません。タウバーなどは常に一箇所の火葬場にしかおらず、自分が働いていない火葬場については伝聞でしか犠牲者数を知り得ないはずですし、自分の働いている火葬場ですら、その処理遺体数をずっと数えていたわけもありません。可能性としては、ソ連のでっち上げた400万人に合わせるような証言を強要された可能性もないとは言えませんが、たとえそうだとしてもタウバーは「正確な数を私は知ることができません」とはっきり述べています。従って、囚人の述べた犠牲者数は、一つの参考値以上のものではありませんし、正確性を担保するような根拠は何もありません。

では、ヘスの250万人説はどうでしょうか。加藤は「ルドルフ・ヘスの自白では彼が収容所長をしていた任期中に250万人殺された、となっています。この数字も比例計算をすると、総計で約400万人となります」と述べていますが、これははっきり間違いです。すでに以前述べていますが、引用はしていなかったので、今回はこちらから引用します。ヘス自身の裁判での証言です。

アイヒマンという一人の男が、私が説明した行動で破壊されたユダヤ人の数に関するすべてのメモを持っていました。アウシュヴィッツの数字は記録していなかったので言えません。私はヒムラーの命令にしたがって行動していました。1945年4月に帝国が崩壊する直前に、アイヒマンがグリュックスにユダヤ人の破壊・殺害数を報告したとき、私はその場にいました。私は、アイヒマンアウシュヴィッツで250万人という数字を出したことを正確に覚えています

前は「ヒムラーに報告」と書いていたような気がしますが、リヒャルト・グリュックスの間違いでしたね。

つまり、ヘスがニュルンベルク裁判で述べた250万人は、ソ連の400万人説を否定しているのです。このことは、ヘスが連合国に拷問で偽証を強要されたとする修正主義者の説明に矛盾しています。ヘス自身は犠牲者数のメモを許されていなかったので正確な犠牲者数を知らなかったのですが、彼自身の推計はせいぜい150万人であったことはすでに述べています。

しかし、私の知る限りでは、この数字(註:アイヒマンの述べた250万人)はあまりにも高すぎると思われる。私が今でも覚えている大規模な作戦の合計を計算し、なおかつある程度の誤差を考慮すると、私の計算では、1941年の初めから1944年の終わりまでの期間に、最大で150万人の作戦が行われたことになる。しかし、これは私が計算したものであり、検証することはできない。
1946年4月24日ニュルンベルク(署名)ルドルフ・ヘス

これも、修正主義者の説に矛盾しており、さらに現在のアウシュヴィッツ犠牲者数の推定値の最大値(アウシュヴィッツ博物館の記念碑)と同じです。

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(13)ヒルバーグやダヴィドヴィッチのホロコースト犠牲者数は不自然?

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これについては、元ネタがあることも知ってますが、反論はすでにありますので以下をお読みください。

note.com

ちなみに、ダヴィドヴィッチの個々の犠牲者数の推計値は、マイダネクの事例を挙げて当てにならないことはすでに述べたとおりです。

あと、加藤は前回の動画で、戦後のホロコースト犠牲者数の総数は1000万人だったはずだ、のような捏造を行なっていましたが、個々の収容所等の犠牲者数の推計値は、精査されない限り、そのままでは合計しても意味はありません。その個々の値についてその出所を検証するだけで、例えば上で述べたようにアウシュヴィッツの400万人の具体的内容がそれをそのまま犠牲者数の確定値としては使用できないことがわかります。

600万人は基本的にはあくまでも人口統計から判明する数字です。ユダヤ人の人口統計が、戦前から詳しくわかっていたことは、アルマナック・デマを使う修正主義者なら当然知っているはずです。ユダヤ人の関係機関(アメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)など)なら、戦時中は正確性に欠けるとは言え、ある程度の精度でユダヤ人の人口減少値はすぐに把握できたでしょう。

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(14)600万人説はニュルンベルク裁判での親衛隊将校によるアイヒマンからの伝聞証言に基づいているのか?

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いいえ。ヘットルらが述べたと言われる「アイヒマンが600万と言っていた」なる証言は、単に裏付け的な意味しかありません。ユダヤ人絶滅の中心にいたとされる、ユダヤ人問題担当のアイヒマンが述べていたとされたのですから、その数字はそれなりに重みはあると考えて当然ですが、犠牲者数の出来るだけ正確な数字は当然ながら、他の方法で調査されなければなりません。

実は、ヘットルの証言をするよりも前に、すでにニュルンベルク裁判の起訴状ではこう述べられているのです。

(d) 彼らの「支配者民族」政策を実行するため、陰謀家たちはユダヤ人絶滅を目的とした執拗な迫害計画に加わった。ユダヤ人殲滅は国家の公式政策となり、公式行動と暴徒や個人の暴力への扇動によって実行された。共謀者たちは公然とその目的を公言していた。例えば、ローゼンバーグ被告はこう述べている: 「反ユダヤ主義はドイツ再建の統一要素である。」また、別の機会に彼はこうも言った: 「ドイツがユダヤ人問題を解決したと見なすのは、最後のユダヤ人がドイツの生活圏から去ってからである。ヨーロッパは、最後のユダヤ人が大陸を去って初めて、ユダヤ人問題を解決したと見なすだろう。」被告LEYはこ述べた: 「我々は、ヨーロッパの最後のユダヤ人が絶滅し、実際に死ぬまで闘争を放棄しないと誓う。人類の敵であるユダヤ人を孤立させるだけでは十分ではない。」別の機会にも彼はこう述べた: 「ドイツの第二の秘密兵器は反ユダヤ主義である。なぜなら、ドイツが一貫して反ユダヤ主義を追求すれば、それはすべての国が考慮せざるを得ない普遍的な問題となるからである。」シュトライヒャー被告はこう述べた: 「最後のユダヤ人が死ぬまで、地上の国々を太陽が照らすことはない。」このような宣言や扇動は、ナチス共謀者の陰謀の過程における典型的な供述であった。 ユダヤ人に対する行動計画には、選挙権の剥奪、汚名の着せ替え、公民権の否定、身辺や財産を暴力にさらすこと、国外追放、奴隷化、強制労働、飢餓、殺人、集団絶滅などが含まれていた。陰謀家たちがどの程度その目的に成功したかは推し量ることしかできないが、ヨーロッパの多くの地方で消滅は実質的に完了した。ナチス支配下にあったヨーロッパの地域に住んでいた960万人のユダヤ人のうち、控えめに見積もっても570万人が行方不明になっており、そのほとんどは、ナチスの陰謀家たちによって意図的に殺された。ヨーロッパに残ったユダヤ人は少ない。

The Avalon Project : Indictment : Count One

この570万人と言う数字は、ドイツの歴史学者であるヴォルフガング・ベンツが編纂した『ジェノサイドの規模』によると、「ヨーロッパ・ユダヤ問題とパレスチナに関する英米調査委員会報告書」にある「5,721,800人」の数字のことのようです(詳細はこちら)。当該報告書自体は知らないので、それ以上のことは分かりません。が、ニュルンベルク裁判ではこうした別の数字も出ていたということであって、その他の様々な調査研究から総合的に考えて概ね600万人程度だろうと判断されているのです。

加藤は「アイヒマン自身は1961年のエルサレムでの裁判でこれ(ヘットルらの証言)を否定」と述べていますが、『ジェノサイドの規模』によると、「アイヒマンは、1961年のエルサレムでの裁判でこれらの発言(註:ヘットルらの証言)に直面したとき、それについて多くを語り、書き、トーンダウンし、議論したが、基本的にこれらの会話と虐殺の引用規模は否定しなかった」とあるので、アイヒマンのその時の証言を直接確認しない限り、どっちが正しいのかよく分かりません。

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(15)「600万人」は戦時中から判明していた、のは不可解?

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既に述べたとおり、戦時中であっても、ある程度の精度ならユダヤ人関係機関は虐殺規模を推定し得たはずですから、別に不思議なことはありません。ユダヤ人が欧州で大変危機的なことになっていることくらいわからなかった筈もないので、それなりに推定で規模を把握しようとしたでしょう。

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(16)戦前から「600万人」が殺されたことにする、と決まってた?

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この件については、こちらをどうぞ。

note.com

修正主義者のストーリーはこうです。19世紀末、ユダヤ人のテオドール・ヘルツルがユダヤ人国家を建設することを訴え、第一回シオニスト会議が開かれます。こうして、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設することが目標となりますが、国を作るためには巨額の資金が必要で、ユダヤ人だけでは資金を準備できません(あるいはユダヤ人はお金はあったがもっと強欲だった)。また、ユダヤ人が勝手にパレスチナに新たに国家を作るだなんて国際的に許されるわけもなく、不可能です。そこで、資金のゲットと国際的な承認を得る目的で、絶大な同情を集められるに違いないと、反ユダヤ主義的な風潮を利用して、ユダヤ人が大量虐殺されたことをどうにかしてでっち上げようと企てたのです。どのくらいの大量?……そうだ! 600万人てことにしよう! と。計画が決まったので、ユダヤ人社主の新聞社であったニューヨーク・タイムズ紙を使って、ユダヤ人全員に伝えるべく、ユダヤ人を報ずる様々な機会に乗じて「600万人」の数字を記事内に書くようにしたのです。そして、ユダヤシオニストたちは機会を待ち、どっかの国が強力な反ユダヤ主義政策を遂行するようヨーロッパの各国で密かに工作活動を始めます。うまい具合にドイツで扇動者として極めて有望なアドルフ・ヒトラーが現れ、「よし!加害者をドイツにしよう!」と――みたいな、知らんけど(笑)

まぁ、修正主義者ならもっと丁寧な巨大陰謀論を構築できるのでしょうが、私には無理です(笑)。しかし、これらの陰謀論を設定しない限り、戦前に600万人にすることが決まってた!なる与太話を成立させることはできないと思います。

ところが不思議なことに、この「600万人戦前決定陰謀説」を世界が信じてくれる気配は全くありません。修正主義者たちは「こんなに幾つも600万人と書いた記事が戦前にあるではないか!明らかに陰謀じゃないか!」と叫んでいるのに、修正主義者仲間以外誰も信じようとしません。何故なのでしょう? ホロコースト否定を何カ国も法律で禁止するようにして、ホロコースト禁止が「悪だ」と世の人々を洗脳しているから?

しかし、ちょっと頭を使って欲しいのですが、巧妙な陰謀を実行する時、それがバレるような情報を世間に知らしめるようにするでしょうか? 修正主義者たちのほとんどはおそらく、自分たちが「目覚めた賢者」だとでも思っているに違いありませんし、だから修正主義者だけが陰謀に気付けるのだ、とでも思っているのでしょう。

▶引用文に戻る

でも今回、引用含めて全部で4万6000字以上、それ以前を含めれば何十万字を費やしてまで、加藤がどれほどアホなことを言っているかを私は晒しました。これほどド恥ずかしいことを述べられる人が、「目覚めた賢者」なのでしょうか?

ほんのちょっど頭を使うだけで、「目覚めた賢者」でなくとも、誰にでもわかるように思います。

シリーズ終わろうかな(^^;;

 

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ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説5/20 ホロコースト正史の公式設定について。」と題された動画を論破する。-1

youtu.be

今回もまた前回同様、全文引用します。全文を引用するのは著作権法に違反するのでは?と思い調べましたが、この記事は対象動画の主張を反論・批判する目的であるので、こちらの方で適当にカットして引用するよりは、相手の主張を可能な範囲で全部を引用した方が公正だと考えますので、主従関係を満たす限り、法的な問題はないと判断しています。但し、加藤の直接引用先が明らかに判明している場合には、動画からではなく、そちらの直接引用先から文章をコピーペーストしている場合もあり、その場合には文章が微妙に異なる可能性(チェックはしていますが)もあります。

なお、細かいことですが、引用文を改変することは基本的にはダメなのですが、加藤はユダヤ人は実は「ユダヤ教徒」が正しい」なる加藤独自の主張をしていて、その自分自身の考えに合わせるために元引用文のユダヤ人」を「ユダヤ教徒」に書き換えていたりします。元文章をコピペして使っていることは確実なので、加藤は確信犯的に書き換えているのです。その良し悪しは別として、私には改竄行為そのものだとしか思えません。その改竄がどこにあるのかはいちいち指摘しませんが、元引用文と比較すればすぐわかります。

それでは、ホロコースト正史の内容を、さらに詳しく解説していきましょう。 まずは、前回の復習です。
(1)正史派は、戦争前半期のいずれかの時期に、「ユダヤ問題の最終解決」 すなわちユダヤ教徒をヨーロッパから「一掃」する手段が「強制移住」から「無差別殺害」 に変更されたと主張しています。

殺害の主な手段は、 強制収容所に作られた 「殺人ガス室」による大量処刑です。存在自体は有名なガス室ですが、それらがどこにあるのかは、意外と知られていません。ホロコースト論争に於いて、(2)殺人ガス室があると主張されたことがある収容所の場所を地図上で確認しておきます。

ただし、これらの中で(3)「殺人ガス室」が物理的に残っており、科学的な検証が可能な場所は一部に限られます。

(4)1947年に始まったニュルンベルク裁判で、 イギリス首席検事ショークロス卿は、次のように述べました。
IMT, vol. 19, p. 434.

アウシュヴィッツダッハウ、トレブリンカ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、 マイダネク、オラニエンブルク [=ザクセンハウゼン]のガス室と炉の中で大量生産様式で行なわれた殺戮」

この時点では、世界での認識はこのようであった、ということを踏まえたうえで、「殺人ガス室」についての証言をお聞きください。

まずは、ブッヘンヴァルト収容所の囚人であった(5)チャールズ・ハウターの証言です。

機械的な装置にまつわる強迫観念は、絶滅に関係すると、文字通り豊かなものになっていった。 絶滅は急速に行なわなくてはならなかったので、 特別な産業様式が必要とされた。ガス室はこの必要にさまざまなやり方でこたえた。比較的洗練されたガス室は、多穴性の資材からできた支柱で支えられていた。ガスはそこから放出され、壁を通ってしみでてきた。きわめて単純な構造のガス室もあった。しかし、すべてのガス室の外観は豪勢であった。建築家たちが、喜んでガス室を設計し、それに関心を集中し、審美的な感覚のすべてをそれに与えたことは容易に見て取ることができた。ガス室は、収容所の中で愛情をもって建設された唯一の建物であった。」

Charles Hauter, “Reflexion d'un rescape" in: De l' Universite aux camps de concentration. Temoignages strasbourgeois, 2nd. ed., Belles-Lettres, Paris 1954 (c1947), pp. 525f.

次に、(5)ジョルジュ・ヘノククというフランス人による、1947年の、ブッヘンヴァルトの 「殺人ガス室」についての証言です。

「部屋はおそらく5平方フィートほどで、高さは3-3.5mほどだった。天井には、不規則間隔で、17個の気密シャワーヘッドが付いていた。それは普通のシャワーヘッドのように見えた。焼却棟の仕事を割り当てられていた囚人たちは、欺くために、シャワー室に入る前に、犠牲者にはタオルと小さな石鹸が渡されると私に警告した。不運な犠牲者たちは、シャワー室に入ると信じ込まされたのである。
重い鉄のドアが犠牲者の背後でとじられた。
ドアは厚さ50mmのゴムで気密にされていたので、室内には空気はまったく入らなかった。内壁は滑らかで、ひびもなく、上塗りされているように見えた……」

G. Henocque, Les Antres de la bete, G. Duraissie, Paris 1947, quoted according to Robert Faurisson, Memoire en defense, La Vieille Taupe, Paris 1980, p. 192ff.

また、(5)エリサ・スプリンガーは、回想録の中で、「ベルゲン・ベルゼンではガス室と炉が、ヨーゼフ・クラマーが所長となってから稼働し始めた」と述べています

Elisa Springer, Il silenzio dei vivi. All'ombra di Auschwitz, un racconto di morte e di risurrezione, Marsilio Editore, Venedig 1997, p. 88.

さて、このような証言を聞いて、どのように感じられましたか? 有名なナチスの「殺人ガス室」はそのような物だったのか……... と 納得した人もいるかもしれません。

しかし、実はこれらの証言は全て虚偽なのです。

しかもこれは、修正派が虚偽だと主張している、という意味ではありません。虚偽であると、完全決着している証言なのです。

これらの収容所でも、少なくとも大量殺人は行われていなかったということについて言えば、修正派と正史派で意見は一致しているのです。

一般論としては、学説が変更されること自体に何ら問題はありません。 研究が進めば、
定説も変わるのはむしろ当然です。 しかし、このケースにおいては、変更された経緯が問題なのです。

次に表示する記事をご覧ください。

1960年8月19日付けの西ドイツの週刊紙ディー・ツァイト』 に掲載された投稿です。

(6)マルチン・ブロシャートは、当時はドイツ連邦現代史研究所の研究員で、のちに同研究 所所長となりました。彼はこの記事の中で、 こう述べています。 

ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでもユダヤ教徒その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウガス室はまったく『完成して』おらず、稼働していなかった。数十万の囚人が旧ドイツ帝国領内のダッハウその他の強制収容所で死亡しているが、彼らは、とくに破局的な衛生・物資補給状態の犠牲者であった…。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941年42年にはじまり、もっぱら占領されたポーランド領内のいくつかの地点で(旧ドイツ帝国領内ではない)、すなわち、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ブク河畔のソビボル、トレブリンカ、チェウムノ、ベウゼッツで行なわれた。ここでは――ベルゲン・ベルゼンダッハウ、ブッヘンヴァルトではない――、シャワー室や害虫駆除室に偽装された大量絶滅施設が設置されていた…。

マルチン・ブロシャート、現代史研究所、ミュンヘン

Die Zeit, Aug. 19, 1960, see Ill. 24 in the appendix, p. 185. 画像
Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA August 2000,p185

単なる著述家が投稿した記事ならばともかく、ドイツで最も権威がある歴史学の研究所 から発表された文章としては、極めて不可解だと思わざるを得ません。
前述したとおり、終戦直後では、ナチス支配下にある全ての収容所で、例外なく大量虐殺が行われた、というのが世界での認識でした。

それを、大量虐殺はポーランドでのみ行われた、とするのであれば、極めて重大な転換であるはずです。
ところが、私が知る限りこの「新説」の起源は、雑誌に掲載された、このたった一ページの記事なのです。
一つの典拠も無く、根拠を一切示さずに結論だけがいきなり書かれた、およそ学術論文とは言えないこの文章によって、ドイツ国内での大量虐殺は否定されたのです。

「ナチ・ハンター」 サイモン・ヴィーゼンタールも、この見解を支持しました。
合衆国の雑誌1993年1月24日
星条旗」 (185ページ)

ドイツ国内には絶滅収容所がなかった、したがって、アウシュヴィッツ、トレブリンカその他の収容所で行なわれたような大量ガス処刑は行なわれなかったことは事実です。ダッハウではガス室が建設中でしたが、完成しなかったのです」

この問題については、後に再び取り上げますが、ともあれ、(7)これ以降ホロコースト正史のひな形が定着したのです。
以下、ホロコースト正史による、あくまでも 「仮説」を説明していきます。

 

まず、ナチスの収容所は三つに分類されます。
 1 絶滅専用収容所
 2 労働兼絶滅収容所
 3 通常の強制収容所

(8)「1」の純粋絶滅収容所は、ユダヤ教徒を殺戮するためだけに作られた施設です。他の機能は一切ありません。これは、ヘウムノ、 ソビボル、ベウゼッツ、トレブリンカの4箇所があります

次に、「2」 の労働兼絶滅収容所は、労働力としての囚人の収容と、殺戮という二つの目的を持っていました。これが、アウシュヴィッツとマイダネクです。

そして、それ以外の全ての収容所は「3」 の通常の収容所に属します。
ただし、この分類はあくまでもホロコースト正史の立場からのものだということを留意してください。
当時の文書資料の中では、全ての場所が単 に「強制収容所」 とのみ記載されていることを強調しておきます。

<次回へと続く>

 

(1)ナチスドイツは「ユダヤ人問題の最終解決」について、当初は「強制移送」としていたものを「無差別殺害」に変更した、と正史派は主張しているのか?

これは前回の動画にもあったのですが、細かい話だからいいかと思ったのと、自分自身はホロコーストそのものの歴史については素人の域を出ず、詳細な話は歴史学者でないと正確な話はできないだろうと思って、反論しなくてもいいかと放置しました。

が、私にできる範囲で少々簡単にでも説明しておきたいとは思います。以下はくれぐれもまだまだ素人である私が若干学んだ程度の知識でしか語っていないとご理解ください。

さて、ヒトラーは遠大な目的として、東方生存圏構想を持っていました。これを実現するのが大きな目的でポーランドに侵攻し、独ソ戦に至ったのです。これは、極端に簡単にいうと、ドイツ人の住む地域を東方の広い地域に拡大するということです。しかし、ヒトラーの考えるドイツ人の中に「ユダヤ人」が含まれるはずはありません。だからこそユダヤ人をドイツ人の生存権から排除する、それこそが「ユダヤ人問題の最終解決」だったと考えられます。ヒトラーは、ユダヤ人以上に共産主義者を蔑んでいたので、独ソ戦開始とともに、ソ連地域の共産勢力の一掃、つまり殺戮に取り掛かります。この時に、ユダヤ人も一緒にまとめて殺していったのです。こうした過激な絶滅方針を進めたのは、先に述べた通りこの戦争は東方生存圏を獲得するための戦争であって、生存圏はドイツ民族のためのものでしかないのですから、不要な敵性分子を排除するためのものでした。また、特にスラブ系民族を劣等民族と位置付けていましたから、独ソ戦がその地域に住む一般市民をも巻き込む形となった、いわゆる「絶滅戦争」となったのも当然の成り行きだったと言えるでしょう。

では独ソ戦前のポーランドではどうだったのか。ポーランドには300万人とも350万人とも言われるユダヤ人が暮らしていましたが、第二次世界大戦の勃発とともにポーランドの半分を占領したナチスドイツはおおよそ200万人のユダヤ人を一気に抱え込むこととなりました。当初はまだ、これらのユダヤ人をどうするか明確には決まっていませんでしたが、どっちにしろユダヤ人を排除する方針ではあったので、とりあえずは各地にゲットーを作ってユダヤ人をその狭いゲットーに押し込めていったのです(ゲットー化)。そして、非常に曖昧な政策として、ポーランド占領地域の東部に設定した総督府(ルブリン地区)にユダヤ人を強制移住させるプランを考えます。これが最初の東方移送計画です。ところがこの最初のプランは遅々として進まず、ゲットー化だけが推し進められていくこととなってしまったのです。1940年になってフランスを支配下に収めると、フランスが植民地としていたマダガスカル島ユダヤ人を移送するマダガスカル計画が浮上しますが、こうした計画が半ば場当たり的に浮上したことは、ユダヤ人問題の最終解決の具体策が迷走してたことを示しているのです。そして、ゲットーだけがユダヤ人で溢れかえっていく――。

結果、独ソ戦でより広い地域を確保できると考えて計画していた、ソ連方面の広い地域への東方移送計画も独ソ戦の戦局悪化で頓挫、マダガスカル計画も制海権をイギリスから奪えず棚上げするしかなくなり、独ソ戦開始とともに先行して進んでいた形のユダヤ人の物理的絶滅、つまり大量虐殺を推し進めるしかなくなった、――と、現代の歴史家たちは歴史をそのように見ているようなののです。

私自身は、ヴァンゼー会議が開かれることとなったのは、前述した通り、「ユダヤ人問題の最終解決」の具体策がナチス政権の中ではっきり定まらず半ば迷走状態にあったため、それをはっきりさせるためと、親衛隊のイニシアティブ、すなわち当時はまだ暗殺されていなかったラインハルト・ハイドリヒの主導のもとで実施していくことを明確にするためだったと考えています。

加藤の言うように、強制移送を殺害に変更した、とする言い方が必ずしも間違っているわけではありませんが、その強制移送方針がまだプランの一つとして存在していた間にユダヤ人の大量虐殺は始まっていたので、強制移送計画が中止され、ユダヤ人の大量虐殺だけが続いたと表現する方がより正確でしょう。

ところで、これもどうでもいい話なので無視していますが、加藤はなぜ「無差別殺戮」と表現するのかよくわかりません。一般的には「絶滅」が用いられるのではないかと思うのですが。

(2)殺人ガス室があったと主張されたことがある収容所は?

過去に、殺人ガス室があったと主張された収容所がどこなのかについて、その全てについては私は知りませんが、ナッツヴァイラー(ストリュートフ)収容所が抜けているのはわかります。ストリュートフについては歴史修正主義研究会にある大量の記事の中でも一箇所しか出てこないのですが、そこをきちんと加藤は読んでいなかったとは言えるでしょう。

(3)現在でも殺人ガス室が残っている箇所は?

これも、私は正確には知りません。しかし、シュトゥットホーフが抜けているのはわかります。

www.deathcamps.org

 

(4)「【1947年】に始まったニュルンベルク裁判」?

それは一体何の裁判なのでしょうか? ニュルンベルク裁判(「国際軍事法廷における主要戦犯の裁判」:Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal、略称はIMT)は、1945年11月20日から1946年10月1日にかけて開かれました。

これは実は、そのすぐ後にこそっと書いてある「IMT, vol. 19, p. 434.」なる文献名が味噌で、もちろんこれもまた孫引きで、この文献名は実際にはこちらの脚注番号7にあります。そしてその脚注番号がつけられた、マーク・ウェーバーの本文の直前の文章にはちゃんと「1945-46年のニュルンベルク裁判」と書いてあるのです。では加藤は単にミスタイプをしただけなのでしょうか? いいえ、その可能性はないわけではありませんが、おそらく加藤はこの脚注の説明を誤解したのです。脚注7には以下のようにあります。

Trial of the Major War Criminals before the International Military Tribunal (IMT), vol. 1 (Nuremberg: 1947-1949), pp. 252-253; IMT, vol. 19, p. 434; and IMT, vol. 22, p. 496.

おそらく、と言うかまず間違いなく、加藤はこの表記を誤解したのです。これはニュルンベルク裁判の記録資料の一つとして知られる42巻からなる「Bule series」の出版年のことなのです。全部で42巻もあるので出版年が3年にもまたがっているのです。

だとするならば、加藤は自ら脚注の文献名をパクったその元の文章をちゃんと読んでもいないし、基本的な知識すらないのです。少し考えればわかる話だと思うのですが、ドイツの敗戦よりも後に敗戦を迎えた日本のあの東京裁判は1946年に始まっています。なのに、ドイツを裁いた裁判がそれよりも後なんてことがあり得るわけがありません。些細な間違いのように思う人がいるかもしれませんが、あまりにも基本的なことなので、私にはそんな誤解はあり得ないとしか思えません。単なるミスタイプであったことを祈るばかりです(笑)

なお蛇足ではありますが、不思議なことに、加藤が引用している「アウシュヴィッツダッハウ、トレブリンカ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、 マイダネク、オラニエンブルク [=ザクセンハウゼン]のガス室と炉の中で大量生産様式で行なわれた殺戮」の本当の引用元は、こちらのグラーフの論文のはずであり、なぜそこにつけられている脚注7の文献名を選ばすに、マーク・ウェーバーの論文の方を選んだのか、意味がさっぱりわかりません。

(5)ガス室がなかったことが判明した収容所について「ガス室があった」と虚偽の証言が存在している件について。

加藤は、チャールズ・ハウター、ジョルジュ・ヘノクク、エリサ・スプリンガーの三人の元囚人の証言を例示しつつ、これらの証言が虚偽であると説明し、それらの証言で言及された収容所では「これらの収容所でも、少なくとも大量殺人は行われていなかった」と述べ、そうした説の変更が行われたのが、ミュンヘンの現代史研究所所属のマルティン・ブローシャートの雑誌への投稿文書であると、説明しています。が、ここでは虚偽証言の件と、ブローシャーとの投稿の件を分けます。

まず、いつもの通り「本当の参照先」を示したいと思います。

チャールズ・ハウターについてはしかし、「本当の参照先」をグーグル先生は見つけていただけませんでした。記されている文献自体は知っているのです。「De l' Universite aux camps de concentration. Temoignages strasbourgeois」とは、このブログでも以前に紹介しているこれのことなのです。

しかし私自身は、このネットで公開されている文献がテキスト化されていないフランス語の画像pdfなので、読むのは非常に手間がかかる作業になるため、これを読むのを断念しています。ただし、ネット上にはそのチャールズ・ハウターの証言を引用紹介している、フランスの歴史学者であったピエール・ヴィダル・ナケの論文が全文公開されています。その論文のこちらから証言部分を以下に引用します。

An obsession with machinery literally abounded when it came to extermination. Since it had to occur quite rapidly, a special form of industrialization was required. The gas chambers answered that need in a very different way. Some, rather refined in conception, were supported by pillars of porous material, with which the gas formed and then seeped through the walls. Others were more simple in structure. But all were sumptuous in appearance. It was easy to see that the architects had conceived them with pleasure, devoting great attention to them, gracing them with all the resources of their aesthetic sense. These were the only parts of the camp that had truly been constructed with love.[25]

日本語訳すると、

絶滅に関しては、文字通り機械への執着があふれていた。 そのためには、極めて急速な工業化が必要だった。 ガス室は、まったく異なる方法でそのニーズに応えた。そのなかには、多孔質材料の柱で支えられ、ガスが形成され、壁からしみ出すという、かなり洗練された発想のものもあった。もっとシンプルな構造のものもあった。しかし、見た目はどれも豪華だった。 建築家たちが、美的感覚を総動員して、細心の注意を払いながら、喜びをもって設計したことがよくわかる。この収容所で唯一、愛情をもって建設された部分だった。[25]

ほぼ同じ訳文になる文章なので、おそらくこれがそっくりそのままどこかに引用されているのです。でも加藤がどこから引っ張ってきたかは今の所不明です(おそらくフォーリソンだという気はするのですが)。なお、ヴィダル・ナケはこの神学者の証言を「見たわけもないくせにガス室を絶賛している」として一蹴しています。

ジョルジュ・ヘノククの証言の本当の参照先はこちらのグラーフの論文です。元の歴史修正主義研究会の日本語訳版では「Georges Hénocque」となっているのに、何故かカタカナに変えてあるのが、何となく姑息に検索避けをしている気もしなくもありません(多分手打ちで入力したからめんどくさいので、カタカナにしただけでしょう。)。

エリサ・スプリンガー同じ論文からです。これも同様に「Elisa Springer」をカタカナに変えてあります。

私自身は、主流の歴史家たちがどのようにしてこれらの虚偽証言に対応してきたかを、上のヴィダル・ナケの言及を除いては知らないので、これらの虚偽証言を虚偽であると退ける以外に論評はほとんどできません。ただ、ホロコーストには虚偽証言がそこそこ存在するという程度は知っています。

note.com

ただ、これらの虚偽証言を含めて、あらゆる証言はそのまま鵜呑みにして信用するわけにはいかず、他の証言などの証拠、乃至は判明している事実などとの整合性などから、その他の要因や条件なども含めて、総合的な「裏付け」を取る必要があります。否定派がよくやるように、ホロコーストの証言には明確な虚偽証言がいくつもあるのだから、全ての証言が信用できない、ということにはならないのです。極端な話が、「人は嘘をつくことがあるのだから、人の証言は全て信用できない」わけがないのです。

 

(6)マルティン・ブローシャートは「たった一ペー ジの記事」でドイツ国内の大量虐殺を否定したのか?

まず、加藤がどこからブローシャートの記事が掲載されている『ディーツァイト』氏の画像をコピーしてきたかというと、加藤が赤で示している通りのゲルマー・ルドルフの著書のpdfからです。そして、その日本語版はこちらにあり、以下のように記述されています。

R:そのとおりです。ツィエライスもしくはマルサレクによれば、第二次世界大戦のヨーロッパの戦場でのアメリカ軍の戦死者の3倍から5倍の人々が、この小さな部屋の中で殺されたのです。

 このような噴飯ものの話にやっと疑問が寄せられたのは、ほぼ15年後のことでした。1960年代初頭、ドイツのメディアを嵐が駆けめぐりました。政治的右派の活動家が、ダッハウの殺人ガス室――ガス室として見学者に展示されています――の実在性に公に疑問を呈したのです。ジャーナリストはショックを受け、告発せよとの叫び声があがりました[7]。しかし、それ以上にはなりませんでした。当時のドイツの歴史学者たちが、ダッハウでの殺人ガス処刑の実在性に確信をもっていなかったためでした。例えば、ドイツ連邦現代史研究所のマルチン・ブロシャート――のちに同研究所所長となります――は、ドイツの週刊誌Die Zeit編集長に手紙を送り、その中でこう述べています[8]。

ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンヴァルトでもユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった。ダッハウガス室はまったく『完成して』おらず、稼働していなかった。数十万の囚人が旧ドイツ帝国領内のダッハウその他の強制収容所で死亡しているが、彼らは、とくに破局的な衛生・物資補給状態の犠牲者であった…。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941年42年にはじまり、もっぱら占領されたポーランド領内のいくつかの地点で(旧ドイツ帝国領内ではない)、すなわち、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、ブク河畔のソビボル、トレブリンカ、チェウムノ、ベウゼッツで行なわれた。ここでは――ベルゲン・ベルゼンダッハウ、ブッヘンヴァルトではない――、シャワー室や害虫駆除室に偽装された大量絶滅施設が設置されていた…。

マルチン・ブロシャート、現代史研究所、ミュンヘン

加藤は、「(ドイツ国内のガス室での大量虐殺を否定した)「新説」の起源は、雑誌に掲載された、このたった一ページの記事」と書いていますが、加藤の参照先であると思しき、このルドルフの記事では強調したように異なることが書いてあります。ダッハウ収容所だけとは言え、否定(疑問視)したのはブローシャートではなく、「政治的右派の活動家」だとルドルフは述べているのです。そして、おそらくドイツ国内のジャーナリストからその右派の活動家の見解に「告発しろ」との声が上がったが、ブローシャートもダッハウガス室での殺人を否定してしまった、という流れだったのです。一体どういうことなのでしょうか?

実は、ルドルフが自著で紹介した記事は、冒頭が省かれているのです。ディーツァイト誌の当該記事は現在、ネットで公開されているのでそれがわかります。ただし、このリンク先は無料とは言え登録が必要なのでご注意ください。すでに随分と前に訳したものがあるので、こちらから引用します。

ダッハウでのガス処刑はない
1960年8月19日 7:00am 更新 2012年11月22日 1:18am
R. ストローベル:「彼と共に去る」、TIME No.33

R.ストローベル氏の寄稿に対して、残念ながら必要な批判的コメントをすることをお許しください。ストローベル氏は確かにアンレイン元帥に対しての発言は正しいのです。しかし、ダッハウはあまり適切な例ではありません。ミュンヘン補助司教ノイホイスラーの証言によると、囚人が対応する施設の建設を妨害したために、ガス処刑は行なわれなかったからです。したがって、『キリストと世界』のある著者は、すでに「ダッハウガス室を訪れたとき、そこで行われたガス処刑の伝説的な主張に屈した」ことを認めざるを得なかったのです。

したがって、ストローベル氏は、アンレイン氏のように、現代史に関する我々の研究結果は連合国のプロパガンダに過ぎないと主張する人たちを幇助していることになります。こうした研究成果と現代のポピュラー・ジャーナリズムの歴史的表象との間には、まだ大きな隔たりがあるのですから、なおさら残念なことです。

ヴィルヘルム・ファン・カンペン、キール・モンケベルク

ダッハウでもベルゲン・ベルゼンでもブーヘンヴァルトでも、ユダヤ人や他の捕虜がガス処刑されることはなかったのです。ダッハウガス室が完全に完成して「稼働」することはありませんでした。ダッハウや旧帝国の他の強制収容所で死んだ何十万もの囚人は、何よりも破滅的な衛生状態と供給条件の犠牲者でした。SSの公式統計によると、1942年7月から1943年6月までの12ヶ月間だけでも、帝国のすべての強制収容所で110,812人が病気と飢えで死亡しました。ガス処刑によるユダヤ人の大量絶滅は1941/1942年に始まり、この目的のために選ばれ、適切な技術設備を備えたいくつかの場所で、主に占領下のポーランド領(旧帝国のどこにもない)で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、バグ地方のソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウジェツでのみ実施されたのです。

ベルゲン・ベルゼンダッハウ、ブーヘンヴァルトではありませんが、あなたの記事にあるような、シャワー室や消毒室を装った大量絶滅施設が建設されたのです。この必要な区別は、強制収容所設立の犯罪的性質を少しも変えるものではないことは確かです。しかし、教えられない人たちが、正しいけれども文脈から極論を持ち出したり、全体的な判断は正しいけれども誤った情報に頼って急いで対応したりすることで生じる致命的な混乱を解消することができるかもしれません。

M.ブローシャート博士(ミュンヘン現代史研究所)

「R.ストローベル氏の寄稿」等当時の他の人による議論は把握しておりませんが、このブローシャートの寄稿がそれに先んじていたストローベルの寄稿をきっかけとしたものであることがわかります。これは、ルドルフが述べたような議論が当時あったことに一致しています。

つまり、事実は「「新説」の起源は、雑誌に掲載された、このたった一ページの記事」ではなかったのです。加藤は自分がディーツァイト誌の誌面をコピーしてきたルドルフの論文をちゃんと読んでいないのです。しかも、ブローシャートの寄稿を紹介したルドルフも加藤のような意見は述べておらず、同じ寄稿を引用しているグラーフも述べていません

実は、同様のことを西岡昌紀が述べていたのをうっすら覚えています。記憶なので誤りかもしれないと断った上で述べますが、西岡は「ダッハウガス室で大量虐殺が行われていたと言われていたのに、定説が変わっているではないか!」のようなことははっきり言っていたはずです。だとするならば、加藤は西岡に影響されている可能性が高いと思います。否定論を日本で細かく主張する人たちで西岡昌紀を知らない人はいないわけですから。

しかし、ブローシャートの寄稿は、1960年であり、終戦からまだ15年しか経っておらず、ホロコーストの定説と言えるようなものがあったのかどうかは非常に疑問です。その頃は単に、ダッハウベルゲン・ベルゼン、ブーヘンヴァルトなどのナチス強制収容所にはガス室があって大量虐殺が行われていた、と世間的に思われていただけであり、1960年ごろにはまだ学説上の定説として定まったものはなかったのではないのでしょうか? 一般的にはホロコーストの研究が急速に進むのは東西冷戦が終結する1990年頃以降のことだと言われているのです。もちろんそれまでもホロコースト研究はされてはいましたが、東西冷戦の壁は例えば西側研究者は東側の公文書館等を自由に使えなかった、などの大きな研究上の制約がありましたし、東側は単純に言えば共産圏の親玉であったソ連の意向に逆らい難かったのです。

従って、ブローシャートの寄稿は、ホロコーストの全体像の詳細が、学術的な研究を経て見え始めてきた萌芽のようなものであり、当時はまだ存在したとは言い難い「定説」を変更したわけではない、と言えるように思います。

 

(7)マルティン・ブローシャートの寄稿「以降ホロコースト正史のひな形が定着した」のか?

しかし、そこに挙げられているサイモン・ヴィーゼンタールの見解は1993年1月24日であり、ブローシャートの寄稿から30年以上も経っています。30年以上も経過した時点でのヴィーゼンタールの主張が、ブローシャートの寄稿によって正史の雛形が定着した根拠になり得るのでしょうか? 

ところが恐ろしいことに、またここでも加藤は自分が参照したルドルフの論文をちゃんと読んでいないのです。それはすでに前述で引用しているルドルフの論文の続きに書いてあります。その続きを引用します。

L:旧ドイツ帝国とは何のことですか?

R:1937年12月31日時点の国境でのドイツ、すなわち、オーストリアズデーテン地方、メーメル地方を併合する以前のドイツのことです。

L:ブロシャートは矛盾に陥っていますね。もしダッハウに絶滅施設が設置されていないとすれば、ダッハウの大量絶滅施設が完成されていなかったと述べることがどうしてできるのでしょうか?

R:この矛盾は、この問題についての歴史家たちのあいだでの意見の不一致を象徴するような矛盾なのです。しかし、このような見解を抱いているのはブロシャートだけではありません。1993年1月24日、有名な「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールもブロシャートの見解に組しました。彼は、合衆国の雑誌『星条旗』(185頁)にこう書いています。

ドイツ国内には絶滅収容所がなかった、したがって、アウシュヴィッツ、トレブリンカその他の収容所で行なわれたような大量ガス処刑は行なわれなかったことは事実です。ダッハウではガス室が建設中でしたが、完成しなかったのです。」

しかし、二人とも他の研究者の見解とは食い違っているのです。例えば、

この分野の権威とみなされている研究者たちが1983年に出版した著作の見解です[9]。この著作の編集者代表はオイゲン・コーゴンです。

L:ラッシニエが宣伝家であることを暴露した人物ですね。

R:それに、ルードヴィヒスブルクにある民族社会主義犯罪調査中央局長アダルベルト・リュッケルルです。

L:どのような組織なのですか?

R:ドイツの公式の「ナチ・ハンター」機関です。そして、第三の編集者が、共産主義者であり、アウシュヴィッツ委員会議長のヘルマン・ラングバインです。

L:なんとも「客観的な」グループですね!

R:ここでは、この編集者グループが客観的であるかどうかには立ち入りません。この著作では、旧ドイツ帝国領内のノイエンガムメ、ザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュックには殺人ガス室が実在して、数百ひいては数千の犠牲者がここでガス処刑されたとされていることが問題なのです。公的な著作が、旧ドイツ帝国領内の収容所では大量処刑施設が設置されていたと述べている一方で、公的なドイツ現代史研究所が、このような施設はこれらの収容所には設置されなかったと述べているのです。どちらかが間違っているはずです

 ダッハウに関しては、この著作の編集者たちは、ガス室が実在したと想定していますが、次のような留保条件をつけています[10]。

ダッハウ強制収容所で毒ガスによる殺戮が行なわれたかどうかはまだ確証されていない。」

以上のとおり、ルドルフは、加藤が述べたような「ホロコースト正史のひな形が定着した」どころか、「正史派」の中で説が矛盾していると言っているのですから、定着しているとは言い難いと見ているのです。

何故加藤は自分が参照していて引用までしているルドルフの論文それ自体をちゃんと読まず、全く逆のことを言えるのか意味がわかりません

私は決して、修正主義者のゲルマー・ルドルフが正しいと言っているのではありません。30年以上も離れたヴィーゼンタールの主張を、ブロシャート説がオイゲン・コゴンらの説と併存して対立しているかのような根拠にするルドルフもルドルフです。ヴィーゼンタールについては私自身はあまり信頼を寄せられる存在だとはみなしていません。ヴィーゼンタールは研究者ではなく、ナチハンターとして著名なだけです(ハンターとしても悪い評判さえ見たことがあります)。

しかしここでの私の批判は、加藤が依拠しているはずのルドルフの論文をちゃんと読まずにルドルフとは逆のことを述べている事実にあります。西岡昌紀もかなりいい加減でしたが、加藤は西岡と同レベルかそれ以上に杜撰だと思います。

 

(8)絶滅収容所ユダヤ人を虐殺するためだけの機能しかなかったのか?

はい、純粋な絶滅収容所である、ヘウムノ、ベウジェツ、トレブリンカ、ソビボル、の四つの収容所は、ユダヤ人絶滅を目的としてのみ設定・建設された収容所ですから、基本的な認識としてはそれで間違っているわけではありません。しかし、もう一つ決して無視できない重要な機能がありました。それは、ユダヤ人の財産を収奪することでした(但し、ユダヤ人からの財産の収奪は絶滅収容所に限られたものではありません)。

ヤド・ヴァシェム―アウシュヴィッツ・アルバムより

以下に示す文書は、ラインハルト作戦の総責任者だったオディロ・グロボクニク親衛隊中将による日付のない報告文書です。一枚目の左上にはうっすらと、その筆記が特徴的なヒムラーの受領サインが入っています。

ポーランドにおけるラインハルト行動[ユダヤ人財産の没収]で集められた金品に関する報告書

これは、私がホロコースト否定を調べ始めた最初の頃に翻訳したものなので、その翻訳やり直しをしたいと考えているのですが、一応、未修正の翻訳を以下に示しておきます(一部のみ)。

「ラインハルト作戦」で引き渡された貴重品

「ラインハルト作戦」からの貴重品は、以下のようにライヒ銀行またはライヒ経済省への伝送のために、ベルリンのSS WVHAで手渡されています。

a. RM, 合計額 - RM 53,013,133.51
b. 外貨、注記、地球のすべての主要国(特に50万ドルは注目に値する)、総額-RM 1,452,904.65
c. 外貨建ての金貨、合計 843,802.75 RM
d. 貴金属(約1,800kgの金と約10,000kgの銀のインゴット)、総額RM 5,353,943.00
e. 宝石、時計、眼鏡などのその他の貴重品、特に時計、約16,000個の時計が使用可能な状態で、約51,000個の時計が修理を必要としていることは注目に値し、これらは部隊の自由のために置かれています。
f. 織物の箱車約1,000台、総額RM 13,294,400.00
合計 - RM 100,047,983.91

織物は約1,000両の箱車がまだ在庫されており、その他の貴重品の約50%は、まだ数えて鑑定しなければならない。上記の評価額は、公定為替レートと価格に基づいて設定されていることを強調しておく必要があります。ただし、たとえば海外で貴石や金属を販売する場合は、固定値への移行が我が国よりも大きいため、商業的価値ははるかに高くなります。また、海外での販売は、私たちに外貨をもたらします。

ライヒスマルクの現在の貨幣価値として円に換算すると、1RM=1400円らしい*1ので100,047,983.91=140,067,177,424円、つまり、1400億円になります。これはまだ鑑定し終えたおおよそ半分と書いてありますから、ラインハルト作戦でユダヤ人から奪い取った財産の総額はざっくり3000億円になります。膨大な財産をユダヤ人から奪い取った計算になります。もちろんこれは、ナチスドイツがユダヤ人から奪い取った財産総量のほんのごく一部でしかありません。

ネット上などのホロコースト否定・肯定の議論ではほとんど語られないので、知らない人も多いようですが、ナチス親衛隊は、ユダヤ人を殺戮するとともに、財産をも奪い取っていた事実を決して無視することはできません

また、これほどの財産をユダヤ人たちから奪い去っておきながら、ユダヤ人を生かすつもりだった、などということが言えるでしょうか? もし、修正主義者の言うように、ユダヤ人を東方移送していただけであるのなら、ユダヤ人たちは無一文で、実際に身包みまで剥がされて、一体どうやって、その東方で暮らしていけたのでしょうか?

これに関する否定派からの答えはありません。

なお、細かい話なので気にする必要はないのですが、忘れれさられた絶滅収容所として一部の人には知られるマリー・トロスティネツ絶滅収容所というところもあったことを付け加えておきます。

youtu.be

では長くなり過ぎているので、一旦終了です。今回はもしかすると、三回に分けなければならないかもしれません💦 この調子じゃ絶対全部論破なんて無理(笑)

 

次へ

*1:これはYahoo!知恵袋の回答から拾った換算値ですが、様々な情報から類推すると、どうもかなり低い換算値のようです。ただし今のところより確かな情報を持っていません

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「「歴史修正主義」の驚愕の「起源」とは?「ホロコースト論争」4/20 これが「論争の基本構図」!」と題された動画を論破する。

今回の対象動画はYoutubeから消えているため、ニコニコ動画の方から貼り付けています。ニコニコ動画の方は私は無料のまま使っているので、有料でしか使えない倍速視聴が出来ないのは辛いところですが、一旦停止で手動でページ切り替えすればいいだけですしね。但しそれだと途中の映像を見逃してしまうことがありますので注意が必要です。

今回の対象動画は、特にホロコースト否定の議論内容も出てこないので、少々退屈になることを最初にお断りしておきます。三つ目の動画まではしつこく「孫引き」を指摘しておきましたが、今回の動画はほとんどダラダラ加藤自身が述べているだけなので、その孫引きもありません。

今回はこの記事を作成するにあたって、テキスト文字列ばかりなのを考慮して、こちらの作業としては一旦動画のスクショから、テキストを全部取り出し、反論していく構成にしたため、指摘箇所が動画内の何分何秒なのかを示すことはしません。全文引用しているので、読者の方におかれましては、いちいちそれが何分何秒にあるかを探さなくて済むと思います。指摘箇所についてはページ内リンクでクリック(タップ)すれば私の反論・批判に飛ぶようにしてあります。

なお、いちいち真面目に視聴するのが面倒なので、「この辺は音声のみで説明されているんだろうなぁ〜」とは分かるものの、音声はほぼ全て無視している(一箇所だけは聞き取らざるを得ませんでした(畜生w))ことをお断りしておきます。如何にも動画的な編集になっている部分も無視し、動画とは多少異なった表示形式・順序になっている部分もあります。

 

「歴史的修正主義は今世紀最大の知的冒険である」
ユルゲン・グラーフ
ホロコースト論争」完全解説第4章
「正史派」と「修正派」の主張の違いについて。

 

いきなり質問ですが、「歴史修正主義者」という言葉に対し、どのようなイメージを持っていますか?
恐らくは、「過去の歴史的事実を否定する狂信的右翼、人種差別主義者、ヒトラーの信奉者……………」といったものではないでしょうか。

しかし、(1)歴史上最初の歴史修正主義者は、元レジスタンスで、共産主義者だったことを知れば、多くの人は驚くことでしょう。ポール・ラッシニエはフランス人歴史教師で、ブッフェンヴァルト収容所の囚人でした。 彼は、自分の収容所での体験から、戦後に作られた歴史観に最初に疑問を持った研究者でした。

そして、「ヒストリカル・リビジョニズム」つまり、「歴史的修正主義」とは、このような人々自身が生み出した言葉だったことを知れば、二度驚くことでしょう。

(2)「リビジョン」という言葉は「見直し」「改訂」のことです。
「リビジョニズム」とは、権力者の手によって政治的に歪曲された歴史観を、実証主義的 に再検証し、修正すべき点については「正しく修正しよう」という姿勢のことであり、学間にとって当然の原則を表現したものです。

それが時を経るごとに、「自分の思想に合うように、歴史を勝手に修正する 」 という意味合いに変化してしまったのです。
(3)「ホロコースト・リビジョニズム」は、より誤解が無いように、「ホロコースト再検証運動」 と表現するべきでしょう。

この動画においては「リビジョニスト」のことを、「歴史修正主義者」というレッテル 張りの要素が強くなってしまった訳語を使わずに、単に「修正派」と呼ぶことにします。
これら修正派の研究者達についても多くの誤解があるようです。

まず、彼らの国籍は様々です。 (4)ゲルマール・ルドルフはドイツ人、ユルゲン・グラーフはスイス人、ロベール・フォーリソン教授はフランス人、カルロ・マットーニョはイタリア人です。 他にもアメリカ人、ロシア人、ユダヤ教徒、日本人にも修正派はいます。

(5)イツァク・アラド、
 ハナ・アレント、
 イェフダ・バウアー、
 リチャード・ブライトマン、
 ルーシー・ダヴィドヴィチ、
 アレクサンダー・ドナト、
 ジェラルド・フレミング、
 ダニエル・ゴールドハーゲン、
 アレックス・グロブマン、
 イスラエル・ガットマン、
 ラウル・ヒルバーグ、
 セルジュ・クラルスフェルト、
 シュムエル・クラコフスキ、
 クロード・ランズマン、
 デボラ・リップシュタット、
 アルノ・メイヤー、
 ロバート・ヴァン・ペルト、 
 レオン ポリャーコフ、
 ジェラルド・ライトリンガー、
 ピエール・ヴィダル-ナケ、
 ジョルジュ・ヴェレール、
 サイモン・ヴィーゼンタール、
 エフライム・ツロフ

ただし、このこと自体は論争に全く関係ありません。 研究者の主張が正しいかどうかの判断に、その人の肩書き、経歴、思想信条、人格、宗教、民族、国籍等が、一切影響するはずはありません。
(6)考慮すべきは唯一つ、その主張の中身そのものなのです。

また、修正派研究者の政治的思想は様々で、 むしろリベラルが多いようです。 代表的な修正派研究者、(7)ゲルマール・ルドルフの本来の専門は化学で、思想にはあまり興味が無いと語っています。世界で初めて「殺人ガス室」の科学的検証を行い、世界に衝撃を与えた、ガス処刑の専門家、フレッド・ロイヒターも、全くのノンポリだと言われています。

私が知る限り、 彼らは軒並みナチスによる苛烈なユダヤ政策には批判的です。
彼らは、収容所において疫病などで大量の死亡者が出たことを否定していません。 いや、 否定しないどころか、これまでの動画で紹介したような、(8)収容所の実態が詳細に解き明かされたのは、むしろ、殆どが修正派による研究の結果なのです。

彼らが否定している「ホロコーストの犠牲者」は、これまで解説した死亡者とは、全くの 「別枠」です。
ホロコースト正史派の研究者は、収容所では囚人達の労働力活用と同時に、「ユダヤ絶滅計画」に基づく無差別殺戮が行われたと主張しています。

例えば、(9)アウシュヴィッツにおいては、既に解説したとおり、総計13.6万人の囚人が主に疫病によって死亡したのですが、それと平行して、「殺人ガス室」 によって(10)400万人が殺害されており、そちらは記録に一切残されなかった…………… というのがニュルンベルク裁判の時点で「認定された事実」 です。

修正派は、これを「絶滅論」、正史派の研究者を「絶滅論者」(exterminationists)
と呼んでいます。 これもまたレッテル張りの要素が大きい呼称と思われますので、この動画においては単に「ホロコースト仮説」(Holocaustism)「正史派」(official version)と呼ぶことにします。

前の動画において、「ユダヤ問題の最終解決」とは、「大量移住による、ヨーロッパ からのユダヤ教徒強制排除」のことであり、これには全く異論が存在しない、と解説しました。
しかし、それはあくまでも 「戦争初期段階までは」という条件付きでの話です。

「最終解決」 は、元々ある意味ではユダヤ絶滅計画でした。しかし、その手段が、戦争初期のある段階から 「強制移住」から「文字通りの皆殺し」 に変更された、というのが正史派の主張なのです。

これに対する、修正派の主張は極めて明快です。 彼らは「最終解決」 は最初から最後まで、 移住による強制排除のことであったと考えています。
そして、否定しているものは 「ユダヤ絶滅計画」とそれに基づいた殺害……………後にも先にもこれだけです。

修正派は一般には、「ホロコースト否定派」と呼ばれています。「ユダヤ絶滅計画」のみを否定している彼らが、「否定派」と呼ばれており、事実、(11)ホロコースト論争はその一点でのみ争われている以上、(12)「ホロコーストの定義」は、「ユダヤ絶滅計画に基づく無差別殺害」とするのが相応しいし論理的です。
実は、この動画シリーズでは、これまで「ホロコースト」 という単語をずっとこの定
義で使ってきたのです。
それに対し、(13)ユダヤ教徒の強制移住、強制労働、 それに関連した大量死については、「ユダヤ迫害政策」 と呼び、明確に区別しています。

では、 (14)修正派と正史派の主張の違いを、具体的な死者数で整理してみます。
ホロコースト論争においては、第二次大戦中で死亡したユダヤ教徒を、次の三つに分類できます。

まずは、 収容所で死亡したユダヤ教徒です。 これを 「1」 とします。 これを「1」
次に、屋外で特別部隊に 「意図的に射殺された」 民兵、 非戦闘員のユダヤ教徒がいます。 これを 「2」 とします。

そして、戦乱に巻き込まれた民間人、通常の戦闘で戦死した軍人など、様々な理由で亡くなったユダヤ教徒もいます。これを「3」とします。

さらに、「1」は、二つに分類できます。
一つは、前の動画で解説した、主に疫病が原因で亡くなった囚人です。これを 「la」 とします。
それから、ユダヤ絶滅計画に従って、「殺人ガス室」で殺された人々がいます。これを 「1b」とします。

「2」 も その目的によって二つに分類で きます。
まず、治安維持、パルチザンに対する報復 といった目的で、個別的に射殺したケースが あります。これを 「2a」とします。

次に、 あまり知られていない事実ですが、ユダヤ絶滅計画は屋外で特別部隊によって
も行われたことになっています。 このような、ユダヤ教徒を標的に無差別に行われた
射殺を「2b」 とします。

そして、これらの死者の背景に、ユダヤ絶滅計画という意図があったかどうか、とい う論点があります。これに含まるのは、当然「1」と「2」です。

(修正主義者の主張)

 収容所で死亡したユダヤ教徒
 1a 主に疫病が原因で死亡 ○ 54万人+αの50%超
 1b ユダヤ絶滅政策に基づくガス処刑 ×

 屋外で射殺された非戦闘員ユダヤ教徒
 2a 治安維持の目的で、 ゲリラ兵を個別的に殺害 ○?人
 2b ユダヤ絶滅政策に基づく無差別射殺 ×

 3戦士や様々な要因で戦乱に巻き込まれて死亡 

 1a+2+3 合計100万人前後

また、 修正派は屋外で特別部隊が民兵を射殺したこと自体は肯定しています。 しかし、その目的はあくまでも治安維持であって、個別的に行ったと主張しています。 ただし、それに伴って全くの非戦闘員も犠牲になった可能性も否定していません。 「2a」 の人数については、資料が不足しており推定すら不可能だという前提の上で、少なくとも正史派が主張している死者数は、余りにも過大だという主張です。

(正史派の主張)

 収容所で死亡したユダヤ教徒
 1a 主に疫病が原因で死亡 ?人○
 1b ユダヤ絶滅政策に基づくガス処刑 1000万人○

 屋外で射殺された非戦闘員ユダヤ教徒 300万人
 2a 治安維持の目的で、ゲリラ兵を個別的に殺害 
 2b ユダヤ絶滅政策に基づく無差別射殺 

 3戦士や様々な要因で戦乱に巻き込まれて死亡 

 合計 600万人

  ①ガス処刑=1000万人
  ② 屋外で射殺=300万人
  ①+② 合計 600万人

収容所でチフスの予防を行ったことも、 病死者が大量にいたことも否定はしていません。ただし、私が見る所、このような死者について、正史派は余り関心を向けていないような印象です。

屋外での射殺についても、治安維持の目的もあったことを認めた上で、ユダヤ絶滅が主眼だったという主張です。

(註:上記の「①(ガス処刑=1000万人)+②屋外で射殺=300万人 合計 600万人」の計算を受けて)ますます意味が分からなくなってしまった人が多いでしょうが、これについては、少々長い説明が必要です。 次の動画では、正史派 の主張の中身をもっと詳しく解説いたします。

さて、大雑把に論争の構図を説明したところで、わたしの立場を改めて明確にしておきます。
前に、自分の肩書きは「ホロコースト論争の解説員」ではあるが、自分自身の見解もある、と述べました。
(15)私は、この問題を2000年ごろに知り、大きな驚きを覚えました。そして、手に入る限りの情報を集め勉強を始めました

ネット上で大論争も行いました。
そして半年後、この論争は完全かつ全面的に修正派の主張が正しいという判断に至ったのです。 そして、 その判断は知識を得るごとに、むしろ強くなる一方でした。
もちろん、純論理的には、ホロコースト仮説が正しいと信じるに足る根拠が示されることが今後あるなら、この判断が翻る可能性はあるのです。(16)それが、学問という物です

この動画を見ているみなさんに、是非ともお願いしたいことがあります。

この動画の内容を簡単に信じたりしないで欲しいのです。

私は「ホロコースト仮説は間違いである」と判断しています。 欧米流に言えば、 「歴史修正主義者」 と呼ばれる人々の主張を支持しているのです。
ですから、この動画の内容もそのようなバイアスがかかっていると考えるべきなのです。 解説してきた全ての情報を疑ってください。 そして、(17)疑問点があったら是非裏をとってください

同時に・・
世界に溢れているホロコーストに関するあらゆる記述についても同様に疑ってください。 果たして、その記述のソースは何なのか、常に警戒して下さい。
例えば、(18)アルマ・ロゼのwikiの記述にしても、彼女が何故病気から回復できたのか、ぼかされていたことを思い出してください。

知られてもいい事実ばかりを記述する中で、都合の悪い事実を隠してはいないか。 確定した事実の中に、立証されていない仮説が巧みに潜り込んでいないか。
その主張にはどんな根拠があるのか。 常に疑ってください。
何よりも、 あなたの先入観を疑って下さい。
物には 「道理」という物があります。
道理に従って、曇りのない心で思考すれば、おのずと 「理に叶った解答」 が見えてくるはずです。
それが、遥か昔から続き、 そして今この瞬間も行われている、(19)情報操作という妖怪と戦うための、唯一の武器であるに違いないのです。

ご視聴誠にありがとうございました。
この動画シリーズは、いずれアカウント停止やアクセス規制、 削除といった処置を受けるのではないかと、私は恐れています。
(20)この動画の趣旨、内容を評価して下さった方は、是非とも、拡散、保存をお願いします。 そして、 視聴が不可能になったならば、是非とも再アップ ロード、再拡散をして頂くようお願い致します。

 

(1)歴史上最初の歴史修正主義者はポール・ラッシニエ?

いいえ。歴史上最初の歴史修正主義者は誰なのかよく分かりません。歴史修正主義とは何なのか?定義の問題もありますが、こちらの記事から翻訳引用すると、

www.neh.gov

私たちが歴史修正主義者と呼ぶものは、文字による歴史の誕生と同時に出現した。多くの人が主張するように、1960年代の急進主義が生んだものでもなければ、政治的な左派が生んだものでもない。それどころか、ヘロドトスとトゥキュディデスという、西洋における歴史記述の創始者として名高いギリシア人から始まったのである。それ以来、イデオロギースペクトラムにおいて定まった位置を占めることはなく、事実、リベラルな主張と同様に保守的な主張に対しても多くの解釈的勝利を獲得してきた。

とありますが、紀元前480年頃の話で、西欧における話ですから、もしかしたら他の古代文明社会でも修正主義があった可能性もあります、未調査なだけで。

加藤にもしこのように指摘すれば、ホロコーストに話を限定してくるかもしれませんが、それも最初が誰なのかよく分かりません。USHMMのホロコースト百科事典にあるこちらの年代記を参考にするといいかもしれません。ただし、そこにあるポール・ラッシニエが1964年に初めてホロコースト否定を主張したかのような書き方は誤解を招くものであり、その主著の一つである『オデュッセウスの嘘』は1950年です。しかしフランスに話を限定するとしても、モーリス・バルディシュなるジャーナリスト・文芸批評家が『ニュルンベルクあるいは約束の土地』でホロコーストの犠牲者数を極端に矮小化したのは1948年であり、ラッシニエの同著より前になります。ただし、ラッシニエが広く、「ホロコースト否定の始祖」と言われているのは事実です。なお、ラッシニエが「フランス人歴史教師」というのはやや不正確のようで、こちらによると「エコール・ヴァルドワで教師の職を得て、1933年、ベルフォールの一般教育大学の歴史・地理学教授に就任。 」とあります。

細かい話かもしれませんが、「神は細部に宿る」とも申しますので、私自身も気をつけたいところではあります。

 

(2)「revisionism」を「見直し(論)」と日本語訳したのは誰?

これは私が本人から直接聞いたというだけの話ですが、西岡昌紀氏、らしいです。しかし、「(歴史)修正主義」と呼ばれることの方が実際には圧倒的に多いので、「見直し」は一部でしか広まらなかったようです。

 

(3)ホロコースト修正主義者のやってることは「検証」と言えるか?

これは何度か以前に述べているように思いますが、検証とは言い難いものだと思います。むしろ検証と表現することは誤魔化しに他ならないでしょう。このような、悪意を感じざるを得ない風刺画を広める活動を、検証と呼ぶことは不適切です。私自身は、歴史修正主義と表現するのも優しすぎであり、明確に「ホロコースト否定」とだけ呼ぶべきだと思っています。私自身も、修正主義者と呼んだり、否定派・否定論者等、ごちゃ混ぜ状態で使っているだけですが、それは一般世間に合わせているだけの話です。

 

(4)「Germar Rudolf」は「ゲルマール・ルドルフ」なのか?

Google翻訳にでも突っ込んで、「ドイツ語」で発声させてみてください。日本語でどのように表記するか、定まったルールがあるわけではないので、間違いとも言えませんが、私自身が指摘されたことがあり、気になっただけです。ちなみに日本語Wikipediaでは「ゲルマー・ルドルフ」となっています。

 

(5)正史派(肯定派)はたったそれだけしかいないのか?

もちろん、加藤は一例を示しただけでしょう。何の意味があるのかよくわからない列挙ですが、修正主義者でないホロコースト関連の歴史家・研究者などの数は、プロの修正主義者より圧倒的に、桁違いに多いのは疑いようのない事実でしょう。

ところで「ハナ・アレント」は普通「ハンナ・アーレント」としか日本語では言わないように思うのですが、それはともかくとしてアーレントを正史派とか肯定派と呼ぶのはちょっと違和感があります。アーレントホロコースト関連では『エルサレムアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』で有名なだけではないのでしょうか?

 

(6)「考慮すべきは唯一つ、その主張の中身そのもの」

それは仰る通りなのですが、先に述べたラッシニエについて、加藤が「レジスタンスで、共産主義者だったことを知れば、多くの人は驚くことでしょう」と書いた意図は何なのでしょうか? ラッシニエがレジスタンス・共産主義者であったことは、「その主張の中身」とは関係のない話ですよね? ラッシニエが何を言っていたのか、少しは知っているのでしょうか? 私も直接はそれら主張は読んではいませんが、間接的に相当狂ったことを主張していたらしいことは知っています。こちらのフランスのサイトにはラッシニエについてたくさんの解説があります。一度翻訳して読んでみることです。頭が痛くなるほどのメチャクチャぶりで、さすがは否定派の始祖です。いずれ、当該サイト記事を翻訳公開したいとは思っていますが、宿題が溜まりまくっているので、いつになることか……。

 

(7)ゲルマー・ルドルフに思想はないのか?

そんな馬鹿な(笑)。英語版Wikipediaを読んでみることをお勧めします。日本語版はどうやら修正主義者が書き換えているようなのと情報量が少ないのであまりお勧めできません。それにしてもこれも(6)同様で、肝心なのは主張の中身だと言いながら、ゲルマー・ルドルフに思想はないとか何だとか、あっさりダブルスタンダードを犯す加藤の脳内がいまいち理解できません。もちろん、その意図が印象操作であることは察しはつきます。ホロコースト否定はネオナチの所業などといった評判を覆しておきたいのでしょう。

 

(8)ナチス強制収容所の実態を解き明かしたのは修正主義者なのか?

そんなことは全くありません。アウシュヴィッツにプールや慰安所があった、の類の話のことなのでしょうか? しかし、戦後、プールの話を書いたのは修正主義者もよく知っている通り、元囚人のマルク・クラインであり、それは『大学から強制収容所まで:ストラスブールでの証言』という証言集での証言であって、この証言集は普通に広く、メジャーな歴史研究者たちも使っているものでしかありません。マルク・クラインはこちらにも少し引用した通り、ユダヤ人のガス室処刑のことも証言しているのに、修正主義者たちはそれを紹介しませんでした。しかも、アウシュヴィッツのプール等の情報紹介については、否定派はデマをたくさん混ぜていることは以下のページを読めば分かります。情報にデマまで混ぜることを「実態を解き明かした」などと言うのでしょうか?

note.com

主流の歴史家たちはアウシュヴィッツのプールのことについて書かなかった、と言いたいのであれば、元々は修正主義者ではあったがフォーリソンとは袂を分かち絶滅主義者の一人となったジャン・クロード・プレサックはその主著で、何枚ものプールの写真を載せて丁寧に解説しています。他、アウシュヴィッツ・オーケストラの話や、ナチスの売春宿、図書館などのついての詳細な解説をしているのも、修正主義者でない人たちであって、修正主義者ではありません。それらの詳細な解説情報のある文献などの一部は上で紹介しているリンク内の説明の中に示されています。修正主義者たちがそのような詳しい解説をしたことがあるのでしょうか? その他のナチス強制収容所についても、主流の研究者たちによって詳細な研究がいくつもなされていることは調べるまでもないことです。

 

(9)アウシュヴィッツでは、総計13.6万人の囚人が主に疫病によって死亡した、の?

これはすでに論破済みです。その計算の元になっている「アウシュヴィッツの死の本」にあった囚人の死亡記録からは、死亡簿は明確に死因を改竄していることが判明しているので、死亡簿に書かれた死因を信頼することができないため、疫病死亡者数を出すことができません。たとえ死亡簿の死因の改竄を認めないとしても、修正主義者がよく言う「チフス」については、記録上ではたったの2,060人しか確認できていないこともまた、すでに述べています。修正主義者が、この記録に記されたチフス死亡者の少なさに気づいてダンマリを決め込んでいる疑いがあることは、修正主義者が作成した以下のグラフがなぜかユダヤ人で区別しているだけの形で表示されていることからわかります。死亡簿には死因が書いてあるのになぜそれで区別しないのでしょう?

 

(10)ニュルンベルク裁判ではアウシュヴィッツの死亡者数を400万人だったと認定したのか?

いいえ。ニュルンベルク裁判では、ソ連からアウシュビッツで「400万以上の市民を絶滅した」と述べられただけであり、判決では一切触れられていません。

スミルノフ参事官:……「しかし、アウシュヴィッツ収容所が存在していた期間中、ドイツ人屠殺者は、この収容所で、ソ連ポーランド、フランス、ユーゴスラヴィアチェコスロヴァキアルーマニアハンガリーブルガリア、オランダ、ベルギー、その他の国々の400万以上の市民を絶滅したことを、火葬炉の部分的な使用と、火葬炉が空であった期間についての修正係数を用いて、技術専門家委員会は確認している。」

The Avalon Project : Nuremberg Trial Proceedings Vol. 7より

また、判決ではアウシュヴィッツの死亡者数について、以下のように触れられただけです。

アウシュヴィッツについては、法廷は、1940年5月1日から1943年12月1日までの収容所所長ヘスの証拠を聞いた。彼は、その間に、アウシュヴィッツ収容所だけで250万人が絶滅され、さらに50万人が病気と飢餓で死亡したと推定している。

The Avalon Project : Judgment : War Crimes and Crimes Against Humanityより

これは、所長ルドルフ・ヘスの証言内容そのままであり、ヘスがそう述べた、と書いているだけで、判決でアウシュヴィッツの死亡者数を認定したとは言えません。

誤解のないよう申し添えておくと、細かい話ですが、「250万人」の期間は「1940年5月1日から1943年12月1日」ではありません。ヘスは、アイヒマンがその数字をヒムラーに報告しているところを見たのが、1945年4月だと述べているのです。ニュルンベルク裁判で述べられたその期間は、単にヘスが所長を務めていた期間を意味する(実際には臨時に1944年5月〜7月には一旦アウシュビッツに戻っている)だけであり、その期間内の死亡者数と言ったのではありません。また、ヘスは裁判での証言時や自伝で「犠牲者数の記録を取ることは許されなかった」と述べており、ヘス自身はアウシュビッツでの犠牲者数を直接は知らなかったようです。ただし、ヘス自身はニュルンベルク裁判での勾留中に「せいぜい150万人」と自身の推計を述べています。ニュルンベルクアウシュヴィッツでの殺害数を250万人と述べたのは、アイヒマンがそう述べるのを聞いたため、ヘスはそれが親衛隊の公式数字だと考えたからのようです。

 

(11)「正史派」と修正主義者の間でホロコーストに関する論争など存在したのか?

いいえ、事実上はそんなのありません。そもそもホロコースト否定・修正主義説は主流の歴史家たちからは一切認められておらず、認められていないのですから、そもそも論争が成立しません。ただ、主流の歴史家の間で、修正主義的な考え方をめぐって激しい論争が起きたことはあります。いわゆる「歴史家論争」です。1980年代後半にドイツで生じたこの歴史家論争の内容は、武井彩佳氏の『歴史修正主義』に詳しいので知りたい方はそちらをお読みいただくとして、歴史家論争からも修正主義者たちは埒外でした。

なお、修正主義者の主張に反発する一部の主流に属する人たちによって、修正主義者の主張をdebunkする、つまり嘘や誤りを暴く活動が行われてきましたが、修正主義者たちもそれに言い返すこともしばしばあり、それを論争と呼ぶならそうかもしれません(私のブログ名もその意味で「ホロコースト論争」と名付けているつもりです)。ネット上での素人的言い争いも含めれば、そのような意味では論争はあったとは言い得るでしょう。

しかし、修正主義説が主流になることはあり得ないので、よく使われる意味での「論争」、たとえば「論争になっていて決着していない」などの言い方はできません。2000年代前半頃まで修正主義者たちの中心組織的な位置を担ってきたIHRの所長であるマーク・ウェーバーは以下を読めばわかる通り、「人々に、おなじみのホロコースト物語には欠陥があることを納得させることには、ほとんど成功していない」「従来のホロコースト証言が詐欺的あるいは誇張されたものであると人々を説得することに成功していない」のように語っており、事実上こうした状況を認めています。

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(12)「ホロコースト」に定義なんてあったのか?

たとえば、Googleで「ホロコーストの定義」として検索すると、2023年8月現在、USHMMが運営する日本語版ホロコースト百科事典にある「ホロコーストとは、ナチスドイツ政権とその同盟国および協力者による、ヨーロッパのユダヤ人約600万人に対する国ぐるみの組織的な迫害および虐殺(の)ことです。 ホロコーストは1933年から1945年の間にヨーロッパ全土で進展したプロセスです。 ホロコーストの根底には反ユダヤ主義がありました。」という説明が得られます。

しかし、「ホロコースト」という言葉は、単に、歴史上で起きた事実を指しているだけであり、定義はありません*1。一般的には、ホロコーストという呼び方が広まったのは、1970年代に作成された米国ドラマの『ホロコースト』からだと言われることが多いようです。一部では、ホロコーストと呼ぶのは不適切であり、ショア(SHOAH)と呼ぶべきだとの声もありますが、「ホロコースト」という呼び方は、一般世間的に広まった呼び方なのであって、たとえば「ジェノサイド」のように条約で定められたきちんとした定義のある言葉ではないのです。

 

(13)ユダヤ人の直接的な殺害以外の、ユダヤ人に対するナチスドイツによる迫害状況一般はホロコーストに含まれないのか?

いいえ。たとえばホロコースト映画の代表作と言われる『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』では、ガス室での大量殺戮シーンなど一切ありませんが、それら映画ではホロコーストが描かれていないと評する人がいたら奇異に見られるでしょう。前述した通り、「ホロコースト」は一般世間的に普及している用語なのであって、厳格な定義を持つ言葉ではありません。ホロコーストという言葉は、第二次世界大戦以前から使われていた言葉であることは、修正主義者もよく知っている事実のはずです。

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(14)「修正派と正史派の主張の違いを、具体的な死者数で整理」?

ここから以降、意味不明の「正史派」による犠牲者数の加藤による捏造まで、この後の動画で加藤が解説するそうですので、ここでの私の反論も控えることといたします。ただし、何度も言っているように、この動画を全て論破するのは作業的に非常にめんどくさいので、反論しない場合も大いにあることはここであらためて述べておきます。全部反論してほしい人がいらっしゃったら、手間賃ください(笑)実際に、noteの方から金銭援助していただくことは可能です。もちろん、それがあったら嬉しいと言っているだけです(笑)

 

(15)加藤がこの動画を作るに至った経緯を告白しているが……

加藤がホロコースト否定に興味を持ち始めたのは2000年ごろなのだそうです。私自身は、マルコポーロ事件が起きた頃に、それを耳にする程度には知っていましたが、本格的に興味を持ち始めたのは2020年頃なので、加藤は私の20年も先輩です(どーでもいいw)。

ただ、ホロコースト否定をめぐる議論が日本でも2000年代前半に盛んだったことは、ネット検索をやっていると朧げにわかります。おそらく、その頃から2ちゃんねるが大流行したこともその理由の一つでしょう。

加藤は、ネットで大論争をしたと告白していますが、そうした論争が、論争をした当人にある種のルサンチマンを形成することは珍しくないようです。加藤がその当時に「肯定派」にコテンパンにされたどうかは知りませんが、悔しさ程度のものはあったのではないでしょうか。それは議論の勝ち負けではなく、もっと絶対に負けないくらいに、加藤の言葉を借りれば「完全かつ全面的に修正派の主張が正しいという判断」に至るほどに、知識を蓄えてやる!のような決意をもたらす悔しさです。肯定派からどんな攻撃があろうとも、どんな攻撃も跳ね返せるほどの武器を持つ、あるいは攻撃を躊躇うような核武装も辞さない北朝鮮の如く、見かけだけでも強くなりたい!と(笑)

私自身の告白をすれば、私自身のルサンチマンを理解しています。ホロコースト否定論が持つホロコースト否定のための情報量は膨大なものであり、興味を持ち始めた当初の2020年頃は、ほとんど全く反論できない状態だったからです。スポーツでもなんでもそうだと思いますが、そうした「悔しさ」こそが、自分をより強くする契機になるわけでして、そこは私自身も加藤と同類です。同じ人間なので当たり前ですが(笑)

ただ、加藤は「完全かつ全面的に修正派の主張が正しいという判断」に至るのに半年かかったと言っていますが、私は最初から否定論が嘘であり間違いだと決めつけていました。私がなぜそう思ったのかを自分自身ではよくわかっていません。それは、昔から歴史修正主義者を毛嫌いしていたからかもしれないし、かつて熱中した南京事件の議論を経て修正主義者の習性をある程度は自分なりに理解していたからかもしれません。また経験としては少しですけど、自分自身がいわゆるトンデモ説に引っかかった経験も生きているようには思います。

ただ、私が加藤と一点だけ決定的に異なるのは、私はホロコーストには確実に犠牲者がいて、それら犠牲者遺族やあるいは殺されずにすんで生存し、辛い思いをしながらも自らの経験を語ってきた人たちがいるということを、非常に重く受け止めていることです(語らなかった人も多いのです)。なぜホロコーストの体験をそれらの人は語ってきたのか、それは二度と再び同じ悲劇を絶対に繰り返さない(それでも世界各地でジェノサイドが起きてはいますが)ためです。その思いは、我が国日本の戦争体験者の人たちの多くが「絶対に戦争だけは二度と繰り返してはならない」と語ってきたのと同じ思いなのに違いありません。

 

(16)加藤が「学問」?

何度も何度も言いますが、「孫引き」ばかりしていてよくそんなことが言えたものです。

 

(17)疑問点があれば裏を取れ、ですって?

はい先生、私が先生のおっしゃる通り徹底的に「裏取り」をしてみました。結果、これまでのところ出鱈目ばかりだと判明しています(笑)。

 

(18)アルマ・ロゼについて大して調べなかったのは誰なのでしょう?

加藤は、アウシュヴィッツ収容所の「死の収容所」としてのイメージに反する、病院の存在を修正主義者らしく強調するのですが(アウシュヴィッツ収容所に病院があったことは別に誰も隠していません。それどころか親衛隊の医師や囚人の医師がアウシュヴィッツにはたくさんいたことはよく知られています)、アウシュヴィッツ・オーケストラの一員でもあった、囚人となっていたユダヤ人の音楽家でバイオリニストのアルマ・ロゼについて、日本語Wikipediaに「アウシュビッツへ到着した際、ロゼはひどい病気であったため隔離されていたが、回復後にアウシュヴィッツの女性オーケストラのリーダーの仕事を担った。」と書かれているだけで、当然病院で療養したはずなのに病院のことが書いていないのは、病院を表に出すとまずいからだ、のような趣旨の妄想を述べたわけです(言うまでもないことですが、Wikipediaは誰でも編集できます……)。

加藤が、アルマ・ロゼについて日本語Wikipedia以上に調べた形跡は全くなく、それが英語版ウィキペディアからの翻訳であったことも知っていた形跡もありません。私はアルマ・ロゼがアウシュヴィッツに到着して最初はどうなったのかについて、たかが数分ググるだけで、アルマ・ロゼは「医療実験棟に送られた」とする記述を見つけることができました。

holocaustmusic.ort.org

前回はそれともう一つのサイトを見つけただけですが、今回新たに、ヤド・ヴァシェムのサイトにも記述があるのを見つけました。

アウシュビッツ・ビルケナウに到着したアルマは、メンゲレ博士の医学実験を受けるためにブロック10に送られる。彼女は最後にもう一度だけヴァイオリンを弾かせてほしいと頼む。彼女がバイオリンから引き出した音は、少なくとも今回は彼女の命を救った:マリア・マンドルは彼女をブロックから連れ出し、女性オーケストラの指揮を任せた。アルマはすぐに、オーケストラの一員であることがいかに重要かを理解した。囚人である彼女たちは看守の目には何の価値もないが、音楽家であるというステータスは、殴打、虐待、死を免れるかもしれない、と。

前にも書いた通り、事実としてはどれが信頼性が高いのかについては、Wikipediaや私の探し出してきた記事の記述についてのさらなる根拠を調べないとわかりません。しかし、こんなに簡単に調べられる程度のことを調べないのですから、加藤はただ単に自分自身が信じたホロコースト否定の主張を補強したいだけであって、「事実」を調べる気がないのでしょう。

 

(19)「情報操作」って……、結局は陰謀論ですか。

陰謀論者は一般に、そのように呼ばれることを嫌うようですが、そもそも陰謀論呼ばわりされることの意味をわかっていないようです。世の中に陰謀的な動きがあちこちにあることを別に否定しているわけではありません。これを書いている最近(2023年)だと、ジャニー喜多川氏による性加害問題がBBCが大きく取り上げたことにより、日本で大炎上を引き起こしたわけですが、大手テレビ局がジャニタレを使うことによって視聴率を稼いでいたので、ジャニーズ事務所との関係を良好に保っておきたいため、ほとんど報じてこなかった、みたいなのはその一つです。

しかし、そうした考え方があまりにも無秩序に拡大適用され、そのような「公にはならない隠された意図」によって、世界そのものが動かされていると考えるようになると、はっきりいってそれはビョーキです(病気とは言いませんが)。陰謀論呼ばわりして陰謀論者を馬鹿にしているのは、そういう意味において、なのです。「こいつら何でもかんでも陰謀と言っときゃ世界が理解できたとでも勘違いしてやがる」みたいな。

だったらその陰謀それ自体を明らかにしてよ、と私なら言いたくなります。「情報操作」というのであれば、ホロコーストを否定することではなく、情報操作それ自身を暴く必要があるのではないでしょうか? ところが陰謀論者は、陰謀それ自体を暴くことは決してないのです。ホロコーストに関していうならば、これやあれは矛盾している、矛盾していること自体が捏造の証拠であり、連合国やユダヤ人の陰謀の証拠である! みたいなことを抜かしますが、誰がいつどのようにして捏造を仕込んだのか、その具体的な捏造それ自体の証拠が示されることは決してありません。修正主義者たちは「証拠を出せ!」と「正史派」に迫りながら、自分達は証拠を出さないのです。こんな手前勝手で都合のいいことがあるでしょうか。

 

(20)呆れた「お願い」

私が最初にこの動画シリーズをぼけっと眺めていて、本当に心底呆れ返ったのがこの加藤のお願いです。加藤自身はアカウント停止されるかもしれないなどとその危険性を自覚しているのに、その危険な行為を他者にお願いするからです。そんな馬鹿げたお願いが常識的にあり得ますか? むしろ、「この動画を拡散するのは危険なのでおやめください」くらい言うのが普通の感覚だと思います。

加藤は本当に常識というものが欠如していると断ぜざるを得ません。

今回は以上です。

 

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*1:語源についてはWikipediaなどをご確認ください。