ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

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「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

今回は前置きなしで早速。前回はこちら。このシリーズは必ず第一回目からお読みください。

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説2/20 強制収容所での生活、労働環境について。」と題された動画を論破する。

youtu.be

0:28/クリスタル・ナハト(水晶の夜)について詳しく語りたがらないのは何故?
1938年11月8日の暴動 「水晶の夜」の後、 ナチスユダヤ教徒を収容所に収容したのですが、その多くはすぐに釈放されました。 その後、ナチスはヨーロッパからユダヤ教徒 を「一掃」すること。 すなわち、「ユダヤ間題の最終解決」を計画しました。

クリスタル・ナハトの解説をもっとちゃんとやれ! ……とまでは言わないけれど、ユダヤ人」を強制収容所に入れた後すぐ釈放した、としか書かない意図は何なのでしょうね? 安直にWikipediaから引用しようかとも思いましたが、文責がはっきりしている米国ホロコースト記念博物館のサイトであるホロコースト百科事典から引用します。強調は私自身によるものです。

クリスタル・ナハトは、「水晶の夜」(破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のように光っていたことから)とも呼ばれるこの事件は、1938年11月9日と10日に起こった凶悪な反ユダヤ主義暴動を指しています。

<中略>

この暴動は、主にナチ党員とSA(Sturmabteilungen: 直訳すると「突撃部隊」で、ストーム・トゥルーパーとしても知られている)の構成員、そしてヒトラー・ユーゲントによって扇動されました。

この事件の直後に、ドイツ当局はクリスタル・ナハト がエルンスト・フォム・ラートの暗殺に対する市民感情の自発的爆発によるものであったとの声明を発表しました。フォム・ラートは、パリのドイツ大使館に配置されていた書記官でした。この大使館員が、ヘルシェル・グリンシュパン(17才のポーランドユダヤ人)により1938年11月7日に銃撃されました。事件の数日前、ドイツ当局によりドイツ在住の何千人ものポーランドユダヤ人が帝国から追放されました。グリンシュパンは、1911年からドイツに住んでいた両親もその中に含まれていたということを知りました。

グリンシュパンの両親を含む追放されたポーランドユダヤ人は、自らの出生地であるポーランドへの入国も拒否されました。彼らは、ポーランドとドイツの国境地域にあるズボンシンの町の近くの難民キャンプにとどまることを余儀なくされました。パリで不法滞在をしていたグリンシュパンは、自身と家族の惨状に絶望して復讐を試みました。ドイツ大使館を訪れて、応対したこの大使館員を銃で撃ったのでした。

フォム・ラートは、1938年11月9日、銃撃の2日後に死亡しました。その日は、偶然にも1923年のミュンヘン一揆記念日(国家社会党員にとって重要な日)と重なっていました。祝賀行事のためにミュンヘンに集合していたナチ党の指導者は、この機会を反ユダヤ主義の暴動を発動するきっかけとして利用することにしました。クリスタル・ナハト大暴動の主な扇動者である国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、召集されたナチ党員に世界中のユダヤ人が暗殺を企んでいると吹聴しました。「総統は、…この暴動は党により準備された、あるいは組織されたものであってはならないが、自発的に噴出したものである場合には、それを妨げるものではないとの判断を下している。」と告げました。

11月9日~10日

ゲッベルスの発言は、明らかに暴力の行使を容認する命令であると解されました。この発言の後、集結した各管区の指導者たちはそれぞれの部署に指令を出しました。11月9日の晩から翌10日の早朝にかけて、帝国各地で暴力行為が勃発しました。保安警察(Sicherheitspolizei)長官ラインハルト・ハイドリヒは、11月10日午前1時20分に州警察の本部および各署と管轄地区のSA指導者へ暴動に関する指令を含んだ緊急電報を送りました。全ドイツおよび統合地域のSA、そしてヒトラー・ユーゲントにより、ユダヤ人が所有する家や商店が破壊されました。この暴動が「大衆による怒りによる蜂起」であるという呈をなすため、部隊の構成員の多くは一般市民の服を着用していました。

自然発生的暴挙であり、帝国中の各地で発生した局所的事件であることを装ってはいましたが、ハイドリヒが伝えた中央からの命令には詳細に渡る指示が含まれていました。曰く、「この『自然発生的な』暴徒は、非ユダヤ系ドイツ人の生命または資産に危害を加える行為を為さないこと」、「外国人(ユダヤ人であっても外国籍の者)には暴行を加えないこと」、そしてユダヤ人コミュニティのシナゴーグ及びその他の所有物を破壊する前にすべてのシナゴーグアーカイブ(文書、資料、記録)を撤去し親衛隊情報部(SD)へと移送すること」。また、「警察当局は各地の刑務所に収容できる限りできるだけ多くのユダヤ人(望ましくは若く健康な男性)を逮捕すべきこと」も指令に含まれていました

シナゴーグ及び建築物の破壊
暴徒により、ドイツ、オーストリアとスデーデン地方で267のシナゴーグが破壊されました。地元市民や消防隊の眼前で、多くのシナゴーグが夜通し焼き払われました。消防隊には、近くの建物に延焼が及びそうなときのみ介入するよう命令が出ていたのです。SA及び国中のヒトラー・ユーゲント構成員により、ユダヤ人が所有する推定約7,500軒もの商店のショーウィンドウが粉砕され、その商品が略奪されました。また、多くの地域でユダヤ人墓地が冒涜の対象となりました。

暴動は、ドイツ帝国内の2大ユダヤ人コミュニティ、べルリンとウィーンで特に壊滅的であったことが明らかになりました。SAの暴徒たちは、街を徘徊して家屋内のユダヤ人を攻撃したり、道で出会ったユダヤ人に公衆の面前で辱めたりしました。中央からの指令には殺害は含まれませんでしたが、クリスタル・ナハトの11月9日~10日の間に少なくとも91人のユダヤ人の命が奪われました。この時期の警察記録では、強姦と暴動後の自殺の件数が大幅に増加しました。
<以下略>

グリンシュパンの事件を、ナチスが利用して水晶の夜暴動を引き起こし、ユダヤ人殺害命令こそ確認できないものの、少なくとも91人のユダヤ人が殺されているのです。クリスタル・ナハトはホロコーストに至るまでの経緯の中で重要な転換点とされています。これを契機に、一気に反ユダヤ主義政策は過激化していったからです。もちろん、加藤はホロコースト否定論者ですから、そうした説明に利用されないよう、クリスタル・ナハトの詳細な解説をしたがらず、むしろナチスユダヤ人に対して穏便だった、と視聴者を誤解させておきたい気持ちはわからなくはありません。

何せ今回の動画はそのために作られているのですからね(笑)

 

1:08/ユダヤ人移住計画の話を長々とするのは修正主義者の特徴のひとつではあるが……

ちょっと長くなりますが、動画からテキストを引用します。

 ドイツ国家元帥ヘルマン・ゲーリングは、 ラインハルト・ハイドリヒに、「あらゆる手段でユダヤ教徒の移住を推進すること」を目標とする 「ユダヤ移住中央国家局」の設置を委任しました※。
 しかし、戦争が進展し、ドイツの支配圏が拡大すると、必然的にポーランド、フランスなどの地域にいた大量のユダヤ教徒も、ドイツの支配圏内に入ったのです。

※Nuremberg document NG-2586-A

 1940年6月24日、ハイドリヒは「領域的解決を拡張することが必要である」 とドイツ外務大臣だったリッベントロップに伝えたのです。

NG-2586-J

 そして、外務省はこの指示にこたえ、ドイツの支配圏内の全ユダヤ教徒マダガスカルに移住させることを目指す「マダガスカル計画」を立案しました。

Magnus Brechtken, Madagaskar fur die Juden.
Antisemitische Idee und politische Praxis 1885-1945,
Studien zur Zeitgeschichte, vol. 53, 2nd ed.,
Oldenbourg, Munich 1998; Hans Jansen,
Der Madagaskar- Plan. Die beabsichtigte Deportation der europaischen Juden nach Madagaskar, Herbig,
Munich 1997; cf. the review by Ingrid Weckert,
"Madagaskar fur die Juden," VffG 3(2) (1999),
pp. 219-21.

 ここで、思わず耳を疑った人もいたのではないでしょうか。 まるで、トンデモ陰謀論の ような話に聞こえるかもしれません。しかし、これは、疑いようの無い歴史的事実なのです。当時、マダガスカルはフランスの植民地でした。 その為、フランスがドイツに降伏した後はこのマダガスカル計画はフランスとの「交渉の対象」となったのです。

 1941年7月31日 「ユダヤ問題の最終解決」がゲーリングの指令によって導入されました。

NG-2586-E. PS-710

<後略>

加藤が「思わず耳を疑った人もいたのではないでしょうか」と書くように、マダガスカル計画等、確かにホロコーストに無知な人は知らないかもしれませんが、ホロコーストに至るまでの経緯に関する知識が多少あればそんなの当然知っていることでしかありません。

ナチスドイツはユダヤ人の処置については、ユダヤ人自身の意思によるドイツからの出国政策では多くのユダヤ人をドイツから追い出すことができなかった上に他国への侵攻に伴ってさらなる大勢のユダヤ人を抱え込むことになってしまったので、ユダヤ人の強制移送計画を考慮するようになり、一旦はポーランド占領時にそのポーランド各所にゲットーを作ってそこへユダヤ人を集中的に詰め込み(ゲットー化)、さらにはそこからどこか遠くへ強制移送する、その一つがアイデアとしてはナチスドイツが考えるよりずっと前からあった、マダガスカル島へ移住させるという計画を考えるようになっていったのです。

芝健介氏の『ホロコースト』(中公文庫)によると、マダガスカル計画自体は1885年からあり(ポール・ド・ラガルト)、他にもドイツと同じくらい反ユダヤ主義政策の強かったポーランド外務省でも検討されていました(1937年にはマダガスカル島の現地調査までしていたそうです)し、他でも考慮されていたくらいでした。とにかく、欧州の多くの国で当時は反ユダヤ主義が蔓延っていたからです。忌々しいユダヤ人などマダガスカル島へ追い出してしまえ!ってわけです。

こんなことは、ホロコーストを学んでいる人にとっては初学者ですら常識的な知識にすぎません。だからこそ、無知な視聴者を狙ってホロコースト否定論の洗脳を行いたいとしか思えない加藤のような輩の主張に引っかからないように、まずはちゃんとしたホロコーストの勉強をすべきなのです。加藤は明らかにホロコーストに無知な視聴者に狙いを定めているとしか思えません。

ところでこれはちょっと余談ですが、上の引用中の赤い、参照文献を示すテキストのうち、「Magnus Brechtken」で始まる数行の記述が実際にはどこにあるかというと、ここにあります。

ゲルマー・ルドルフの『ホロコースト講義』を歴史修正主義研究会が日本語公開しているものです。加藤が「孫引き」ばかりしていることは以前にすでに述べているのでそれはいいとして、その末尾の「pp. 219-21」は歴史修正主義研究会版の誤りそのままで、「pp. 219-221」が正解です。本当に加藤は実際の参照先から文献名をコピペしかしてないことがバレバレなのです。しかし、こんな小細工で、「一次資料を使ってるから正しいっぽい」と誤解させることができるのですから、効果的ではあったかもしれませんけどね(笑)

 

さて、動画は初歩的な説明が続くので、少し飛ばします。

11:41/ナチスドイツが強制収容所の囚人の死亡率を下げるような指示を出していた話は別に不思議でもなんでもないのだが……。

 このように、 収容所の囚人は、ナチスにとって貴重な労働力でした。
 しかしながら、初期の収容所では死亡率が非常に高かったようです。 その要因が劣悪な栄養状態であることは全ての研究者で意見の一致があります。
 そこで、ナチスは収容所の労働条件の改善を図りました。1942年12月28日、 強制収容所監督官グリュクスは19※の収容所の所長に次のような指令を出しています。

※より正確には、15の強制収容所 (ナチヴァイラー、ダッハウザクセンハウゼン、ブッヘンヴァルト、グーゼン、 シュトゥットホフ、フロッセンビュルク、 ラーフェンスブリュック、ノイエンガムメ、ニーダーハーゲン、アウシュヴィッツ、ヘルツォーゲンブッシュ、 ルブリン) と2つの「特別収容所」 (SS特別収容所ヒンツァート、SS特別収容所モリンゲン)、 2つの懲罰施設(シュトラウビヒ監獄、 ダンツィヒ/マツカウ監獄収容所)

「収容所の医師団は、自分たちの持っているあらゆる手段を使って、収容所での死亡率が かなり低くなるようにするであろう。 … 収容所の医師は、以前よりも注意深く、囚人の栄養状態に配慮し、 収容所長の行政的措置に対応しながら、改善策を提案すべきである。こうしたことは、紙の上だけではなく、収容所の医師団によって定期的に監察されるべきである。・・・ SS全国指導者は、収容所の死亡率を是が非でも低くするように命令している」

NO-1523.

 事実、これらの改善策によって以降の8ヶ月で収容所の死亡率は80%も下がったとされます。

PS-1469.

もう指摘はいいかなと思いつつ、一応言っておくと、赤で示されている「※より正確には、15の強制収容所〜」の部分はこちらの脚注36をコピペしたものです。文章の多くもこのグラーフの論文から適当に使っているのでしょう。

さて、ナチスドイツによるユダヤ人の絶滅方針は、労働力にならないユダヤ人はすぐ殺す、労働力になるユダヤ人は使い倒して殺す、でした。あのアンネ・フランクアウシュヴィッツに到着してすぐ殺されなかったのは、彼女は当時15歳であり、労働を可能とする基準年齢が概ね14歳程度だったので、労働力とみなされたからです。こうした方針は、ユダヤ人絶滅の始まった頃とされる1941年6月22日の独ソ戦開始以降、しばらくの間はなかったようなのですが、当時は戦時下ですから、ナチスドイツとしては主に軍需面で労働力が必要だったため、強制労働力としてすぐに利用できるユダヤ人を使うのは必然的な流れでした。ナチスドイツは思うがままにユダヤ人を迫害していたからです。有名なヴァンゼー会議の議事録にもこう書いてあります。(註:加藤がこの議事録を捏造と考えているのは以降の動画にありますが、それを私が再反論するかどうかはこれを書いている時点では未定です。捏造疑惑への反論自体はこちらにあります)

適切な指導のもと、最終的な解決の過程で、ユダヤ人は東部での適切な労働に割り当てられることになっている。体力のあるユダヤ人は、性別によって分けられ、道路工事のために大規模な労働力としてこれらの地域に連れて行かれるが、この活動の過程で、間違いなく大部分のユダヤ人は自然消滅する。最終的に残る可能性のあるものは、間違いなく最も抵抗力のある部分で構成されるので、それなりの扱いを受けなければならない。なぜならば、それは自然淘汰の産物であり、解放されれば、新たなユダヤ人の復活の種として機能するからである(歴史の経験を参照)。

ここに書かれた道路工事については、実際には計画はあったものの実行されなかったと聞き及びますが、「体力のある」ユダヤ人を労働に使う方針を明確にしつつ、それ以外のユダヤ人への言及が一切ないことは非常に示唆的なものです。

さて、ヴァンゼー会議の主催者であったラインハルト・ハイドリヒは、1941年7月31日付で、ヘルマン・ゲーリングからユダヤ人問題の最終解決に関する全権を委任されていました。ハイドリヒは、国家保安本部(RSHA)長官であり、その権限はユダヤ人問題を解決することであっても、強制収容所で労働力となった囚人のユダヤ人を管理する権限はありませんでした。これらの労働力となる囚人を管理したのは、国家保安本部に遅れて設置された経済管理本部(WVHA)の方(強制収容所総監リヒャルト・グリュックスの管轄)でした。このRSHAとWVHAの関係は、単純に言えば、ユダヤ人囚人に関しては対立する関係にあったのです。RSHAはユダヤ人を絶滅させる目的でアウシュヴィッツに移送しているのに、WVHAはアウシュヴィッツで一旦囚人として登録されたユダヤ人に対しては、労働力確保の観点から無闇に殺すな!、だったのです。ですから、ホロコーストの否定を主張する人の多くがこれを「矛盾している!ユダヤ人を絶滅させるというのに生かせ!と言うのはおかしいではないか!」と文句言うのですが、実際に矛盾していたのだから仕方ありません。したがって上の引用で示されているグリュックスからの指示も当たり前でしかありません。しかし、これもまたホロコーストをちょっと勉強するだけですぐわかる話なのです。

ところで、上で示されている「事実、これらの改善策によって以降の8ヶ月で収容所の死亡率は80%も下がった」は本当なのでしょうか? このPS-1469はハーバード大学のプロジェクトの一つとして実施されているニュルンベルク裁判に提出されたドキュメント資料の公開プロジェクト公開されています。

以前この文書を解読しようと試みたことがあるのですが、印字が掠れていてうまく読み取れないこともあり、一体どこに80%も死亡率を低下させたと書いてあるのか、判然としませんでした。PS-1469は修正主義者が好んで使う文書であることは知っていますが、なぜか修正主義者もこの文書自身をテキスト抽出さえしてくれません。英語に得意な方、解読していただけないでしょうか?

しかし、英語が苦手な私ですら、PS-1469に「ユダヤ人(Jews)」の記述がないことはわかります。修正主義者にとって、問題はユダヤ人の死亡率なのではないのでしょうか? 強制収容所の囚人は全てユダヤ人だったわけではありません。アウシュヴィッツですらも、比率こそ存じませんが、囚人の全てがユダヤ人というわけではありませんでした。アウシュヴィッツの囚人の中にはドイツ人でさえいたのです。

いずれにしても、強制収容所の囚人労働力は加藤の言う通り、貴重だったのは確かであり、むやみやたらに死なれてもナチスドイツにとっては困るのですから、死亡率を低下させる必要もあったのでしょう。但しそれは、強制収容所に囚人登録された囚人についてのみの話であり、絶滅収容所で囚人登録もされずにすぐ殺されたユダヤ人にはなんの関係もない話であったことは忘れてはいけません。特にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は強制収容所でありかつ絶滅収容所でもあったのです。

 

13:02/それって信用できるの?……って言いたくなる情報の紹介。

次に紹介するのは、1998年にマウトハウゼン収容所で発見された資料です。
囚人に与えられる一週間分の食料の規定量が記されています。これは、全収容所に共通に適用されました。

John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos 試訳: 航空写真と矛盾している12の 「目撃証言」 ジョン・ボール歴史的修正主義研究会試訳 より引用

<中略>

これによって、肉体労働者の一日の摂取カ ロリーは合計 2709 kcalとなり、身長175 cmの人間にとっては、まずまず十分な摂取カロリーとなります。また、興味深いことに、カロリーが全くない疑似コーヒーが、純粋な嗜好品として配給されています。

※他の期間の数字
41/8/1-42/5/14    2981kcal
42/5/15-44/4/27   2786kcal
44/4/28~45/2/28   2703kcal
45/3/1~      1967kcal
参考資料
ソフィア先生の逆転裁判 part13

この数字が表向きだけの物でなかった証拠としては、戦時中収容所に出入りしていた国際赤十字による調査結果があります。書籍からの引用ですが、「1943年から 1944年の間で、 重労働者は最低でも一日に2750キロカロリーを摂取していた」とあり、先ほどの数字とほぼ一致しています。

Did Six Million Really Die? Richard E Harwood The Red Cross Report, examined below, demonstrates conclusively that throughout the war the camps were well administered. The working inmates received a daily ration even throughout 1943 and 1944 of not less than 2, 750 calories, which was more than double the average civilian ration in occupied Germany in the years after 1945.

え〜、まずマウトハウゼンの食料の規定量についての文書ですが、これ、よくわかりません。元ネタとしては、上に記されている通り歴史修正主義研究会のサイトにあるのです(註:余談ですが、「孫引き」をする加藤も流石に引用元である歴史修正主義研究会が、食料規定量の文書の参照先をジョン・ボールのサイトとしか示しておらず、そこにも「そもそもの出典先」が書いてないのでそれを示せないのが笑えます)が、その翻訳元になっているジョン・ボールのサイトはもう存在していません。webアーカイブにはあるにはあるのですが、作り方が古い「ホームページ」のためか、どこをどう見たら良いのかよくわかりません(数個のアーカイブを試しましたが、うまく閲覧することができませんでした)。ジョン・ボールって誰なの?と思われる方は、以下を参考にしてください。そこに含まれている別の記事も出来ればご覧ください。こんな奴信用できるの?……っていう。

note.com

でもまぁ、そんな文書はあったのだとしておきましょう。さすがに、修正主義者だからと言って当時の文書資料を偽造まではしないでしょう。とは言え、どういった類いの文書なのかその内容がわからないため、実際のところ論評のしようがありません。一応、ネット上で同文書を探してはいるのですが、今のところ未発見です。

加藤はそんなことはお構いなく、言うまでもなく孫引きの状態で上のようなことを書いているわけですが、参考にしているソフィアのページ(そもそも、ソフィアのページの著者って誰なのでしょうか? 「お前はどうやねん?」ってのはさておくとしてw)ですらも、ソフィアのページの著者自身が行ったカロリー計算について「こんな素人が計算したようなデータが、信頼に値すると本気で思っているのか?」と自分自身で突っ込むほどなのです。

で、加藤は、そのソフィアのページで引用されている、ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』の文章をそのままそっくりコピペ(ほんのわずかに編集はされているが)しているだけなのに、加藤は「書籍からの引用」などと平然と嘘をつき、またしても孫引きしているだけ、という具合なのです。

ではそのハーウッド本の記述(戦時中収容所に出入りしていた国際赤十字による調査結果<中略>重労働者は最低でも一日に2750キロカロリーを摂取)は正しいのでしょうか? 

いいえ、ハーウッドの嘘です。

まず、ハーウッド本のその該当箇所には、何の脚注指定もなく、どこを見てそんなことを書いているのかはさっぱりわかりません。ハーウッド本が出鱈目だらけであることは、私自身の他、Holocaust Controversiesの執筆者やデボラ・リップシュタットなどが暴いています。

note.com

これらを読めばわかる通り、当時の国際赤十字委員会はナチス強制収容所の実態など把握していませんでした。赤十字は戦争末期にほんのわずかな強制収容所に入れただけで、それ以外、強制収容所に出入りなと出来なかったのです。アウシュヴィッツにも行きはしましたが、収容所内は入らせてもらえず事実上門前払いでした。それ故、強制収容所内の労働者の摂取カロリー量など赤十字にわかるわけありません。

故に、こんな連中を信頼する方がおかしいのであって、上でリンク紹介しているソフィアのページにある冒頭のアウシュヴィッツ博物館の説明の方がよっぽど信頼できると考えるのが常識的判断です。私は実態はもっと酷かったということを、証言を翻訳していて知っています。

note.com

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館サイトによる2023年8月現在の説明は以下のとおりです。

栄養
囚人たちは1日3食を与えられた。朝は、半分のリットルの「コーヒー」、つまり沸騰したお湯に穀物ベースのコーヒーの代用品を加えたもの、あるいは「紅茶」(ハーブティー)しか飲まなかった。これらの飲料はたいてい無糖だった。昼の食事は約1リットルのスープで、主な材料はジャガイモ、ルタバガ、少量のグロート、ライ麦粉、アボ食品エキスであった。スープはおいしくなく、新しく収容された囚人たちは、しばしば食べることができなかったか、嫌々ながらしか食べることができなかった。夕食は約300グラムの黒パンに、約25グラムのソーセージ、マーガリン、大さじ1杯のマーマレードやチーズが添えられた。夕方に出されたパンは、翌朝の必要量をまかなうためのものであったが、飢えた囚人たちはたいてい一度に全部食べてしまった。これらの食事の栄養価の低さには注意が必要である。

栄養不足と過酷な労働の組み合わせは、生体の破壊を助長し、脂肪、筋肉量、内臓組織の貯蔵を徐々に使い果たしていった。その結果、やせ細り、飢餓病となり、収容所ではかなりの数の死者が出た。飢餓病に苦しむ囚人は「ムゼルマン」と呼ばれ、ガス室の選別の犠牲者になりやすかった

収容所当局が食料小包の受け取りを許可した1942年後半には、囚人の栄養状態はある程度改善された。しかし、ユダヤ人とソ連兵捕虜はこの特権を共有できなかった

ナチス強制収容所におけるユダヤ人の扱いが酷かったことは、少し調べるだけで誰でもすぐにわかる話です。あるいは、強制収容所以外でもユダヤ人たちは無理やりゲットーに押し込まれていたことを否定する修正主義者は流石にいないでしょう。それらゲットーの実態はどうだったのでしょうか? ほんのわずかに頭を働かせるだけで、こんな下らない嘘に騙されることはないのです。

ポーランドワルシャワ、ゲットーの舗道で飢餓に苦しむ子供たち。
提供:ヤド・ヴァシェム(写真はこちらから)

そして続けて加藤は、強制収容所の食料事情等はそんなに悪くなかったかのように色々と資料を列挙し、Wikipediaにあるアウシュヴィッツの説明の中に食料事情が酷かったと書かれていたことを示した上で、次のように述べていたので、私は思わず吹き出してしまいました。

Wikiの内容が、常に間違っているとまでは言えないでしょうが、注意が必要だと一般に言われるのは、こういうことがあるからなのです。

 

どの口でそんなことを言ってるんだ?」と(笑)

 

 重要なポイントなので、あえて繰り返します。 ナチスは、収容所での死亡率を下げ、 労働環境を改善することが、 軍需工場の生産効率を上げるために必要不可欠だと考えていました。
 それを裏付ける、非常に貴重な資料がアウ シュヴィッツ博物館に所蔵されています。

 次に紹介するのは、1943年10月26日、SS 経済管理中央本部長オズヴァルト・ポールが全ての強制収容所長に送った回覧状です。少し長いですが、全文を読み上げます。

Archiwum Muzeum Stutthof, 1-1b-8, S. 53 ff. Julij 19
Carlo Mattogno Healthcare in Auschwitz: Medical Care and Special Treatment of Registered Inmates. p298 より引用

 ドイツの軍需産業の分野では、過去2年間に実行された改善努力のおかげで、強制収容所は戦争の中で決定的に重要となった。われわれは無から、比類の無い兵器工場を建設してきた。今、われわれは 全力を傾けて、すでに達成されている生産レベルを維持するだけではなく、それをさらに改善しなくてはならない。そのことは、作業場や工場が今のまま残っているかぎり、囚人の労働力を維持し、高めることによってのみ可能であろう。再教育政策が採用されていた初期の時期には、囚人が有益な仕事をするかどうかは問題とならなかった。しかし今では、囚人の労働能力は重要であり、収容所長、連絡所長、医師団のすべての権限は囚人の健康と効率を維持するために拡大されるべきである。偽りの同情からではなく、われわれは囚人たちの手足を必要としているからである。囚人たちはドイツ民族の偉大なる勝利に貢献しなくてはならないのだから、われわれは心から囚人の福祉に配慮しなくてはならない。私は、病気のために労働できない囚人を10%以下に抑えることを第一の目標としたい。責任ある部署にいる人々は、一丸となってこの目標を達成すべきである。それには以下のことが必要であろう。

1)   適切な栄養供給

2)   適切な衣服供給

3)   すべての自然保健措置の利用

4)   仕事の実行には必要ではない作業をさけること

5)   報奨の奨励

私は、本書簡の中に繰り返し記述されている措置の監督に個人的な責任を負うつもりである。

紹介されているオズワルド・ポールの文章が実際にはこちらにあるのは別に良いとして、オズワルド・ポールは経済管理本部(WVHA)の長官(本部長)ですから、すでに述べた通り、強制収容所の囚人を管理する側の人間であり、その長なのですから、こんなの当然なのです。従って、「ナチス、収容所での死亡率を下げ、 労働環境を改善することが」の主語はナチスではあっても、より正確には「経済管理本部」なのです。これについては繰り返し説明するよりは、ヘスの自伝から引用しましょう。

 ユダヤ人担当官─アイヒマンとギュンターは、じつにはっきりしていた。一九四一年夏のヒムラーの命令にもとづき、全ユダヤ人が虐殺されねばならぬことになった。国家保安本部は、ポールの提案により、ヒムラーが働けるユダヤ人の選別を命じたとき、はげしく異議を申し立てた。
 国家保安本部は、つねに、ユダヤ人を一人残らず抹殺することだけを眼目とし、新しい労働収容所で何千という働けるユダヤ人が、解放される恐れがあるとし、何らかの事情で生き残らぬものでもないと考えたのである。どの関係係官でも、国家保安本 部とユダヤ人担当官ほどに、ユダヤ人の死亡率の上昇に関心をよせた者はない。
 それにたいしてポールは、出来るだけ多くの抑留者を軍需配置につかせるようにと ヒムラーの委託をうけていた。従って、彼はできるだけ多数の抑留者の調達、それゆえまた虐殺のための移送ときめられたユダヤ人の中からも、なるべく多く働ける者をえらび出すことに最大の価値をおいた。彼はまた、たとえ効果は少なくとも、こ れら労働力の維持に最大の価値をおいた。
 つまり、国家保安本部と経済行政本部とは、まったく正反対の見解に立ったのである。しかし、ポールの方が強いように見えた。というのは、彼の後ろには、ヒムラー が立ち彼はまた、総統にたいする約束にせまられて軍需用抑留者を要求して、火がついたように責めたてたからである。
 他面、ヒムラーは、できるだけ多くのユダヤ人を抹殺することも望んでいた。一九 四一年、ポールが強制収容所部門を受けもって以来、ユダヤ人は、ヒムラーの軍需計 画に編入されていた。戦争がきびしくなるにつれて、ヒムラーは、いよいよはげしく 抑留者の配置転換を要求した。しかし、抑留者の大部分は、東部にあり、しかも後には、ユダヤ人になった。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社学術文庫、2019、pp.330-331

このように、強制収容所におけるユダヤ人の扱いについては、実際に矛盾していたことがわかると思います。ところが、修正主義者たちは、国家保安本部側のことは極力語らずに、経済管理本部側のことばかりを目立たせようとするのですね。

 

19:33/ホロコースト否定論の定番:アウシュヴィッツのプール、など。

アウシュヴィッツのプールの話は、その件だけで記事をすでに作成してあります。

holocaust-denial.hateblo.jp

この話題は、他にもサッカーなどの遊興競技、アウシュヴィッツの楽団、図書館、労働クーポンの話(ユダヤ人はもらえなかった)、福祉相談、結婚、出産、アウシュヴィッツの子供、子供の遊び場、などの話が続きます。これらを概ね扱っている反論記事は以下になります。

note.com

なお、23:15くらいからある「囚人釈放」の話には、ユダヤ人の存在は確認できません

ともかく、この手の話は、要するに徹底的に印象操作して、アウシュヴィッツのイメージを反転させようってだけの魂胆は見え見えなわけです。中でも酷いなと思ったのは以下の話です。

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ネットで否定派とやり合ってて、この話が出てきたので、このページを示したら、相手は、3000件の出産があったのは本人の話だから信用できるが、乳児が殺されたり死んだりしたことを本人は確認していないだろうから信用しない、とまで言われて、呆れたものです。

結局、ホロコースト否定は本質は信仰なのだと思うしかありません。それを信じたいがため、否定派はプールの類の話に固執するのです。こちらは、アウシュヴィッツにプールがあろうとも、そこでユダヤ人絶滅が行われていたことは史実として疑いないものと思っています。信仰ではなく、単純に事実は事実として認めるべきだと考えるからです。もちろん、否定派から言わせれば、私の方が信仰に見えるでしょう。「(プールなどの話を)ここまで言われてもまだホロコーストを信じるの?」ってわけです。しかし、プールがあろうとも、そこでユダヤ人絶滅が行われていたことは論理的な矛盾は何もないのです。そして、ユダヤ人絶滅には十分過ぎるほど証拠があります。その上で、否定派は嘘ばかりついていることも知っています。これでいったいどうやって、ホロコーストなどなかった(あるいはそんなに酷くなかった)と信じろというのでしょうか?

 

今回は以上です。今回も14,000文字まで来てしまったし(笑)

 

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