「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1
「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説3/20 強制収容所での防疫、医療について。収容所の囚人の死者数の合計について。」と題された動画を論破する。-1
0:26/修正主義者の十八番、ユダヤ人の死亡原因をチフスのせいにする
古くから東ヨーロッパは疫病のために恐れられた地域でした。クリミア戦争での連合軍、 1812年のナポレオン軍は、チフス、コレラ、赤痢といった疫病により、多くの兵士を失ったのです。
"Zyklon B and the German Delousing Chambers", "Typhus and the Jews"
今回の対象動画は、これもホロコースト否定派が頻繁に主張する「ユダヤ人が死んだのはチフス(等の疫病や餓死)などであって、ガス室での虐殺などでは決してない! アウシュヴィッツの死亡者数は実際には少ないんだ!」なる言い分をまたしても約30分間にもわたって解説するものです。Youtubeの動画は一回あたり10分にしろ!(笑)
さて、まずは上の引用欄下部にある参照文献めいた記述は何かというと、一つは
Zyklon B and the German Delousing Chambers
by Friedrich Paul Berg
Published: 1986-04-01
のようであり、もう一つは、
Typhus and the Jews
by Friedrich Paul Berg
Published: 1988-12-01
のようです。なぜ、せめて著者名を書かないのか? 意味不明です。どちらも、修正主義者のサイトであるCODOHに全文公開されているのですが、上の記述文章がどこに書いてあるのか見つけることはできませんでした。いずれも長いので、いちいち全部読んでられません。一応、「1812」でテキスト検索をかけて一箇所だけ見つけた段落を以下に翻訳して示します。Typhus and the Jewsの方にあります。
ユダヤ人に発疹チフスが多いのは、彼らが古着の商人であったからかもしれない。たとえば、プリンツィングの古典的著作『Epidemics Resulting from Wars(戦争から生じた疫病)』では、1769年から72年にかけての露土戦争において、東ヨーロッパでペストとチフスが蔓延した可能性について論じている。軍事病院を除いてペストの痕跡がすべて消えた後、後にペストが再び発生したのは、ユダヤ人がジャッシーの軍事病院で毛皮のコートを購入したことに端を発していた[24]。その後、同じ戦争中にトランシルヴァニアでも、ロシア陣営で衣服、毛皮、戦利品を購入したユダヤ人の行商人が、同様に病気の蔓延に手を貸した」[25]。ナポレオンのロシア遠征の終わりに、プリンツィングは1812年から13年にかけてヴィルナで流行したチフスについて次のように語っている。「兵士たちは民家に宿営していたため、それほどでもなかったが、短期間のうちに街中に広まった、 ユダヤ人が死者の衣服を手に入れたからである。約3万人のユダヤ人住民のうち、8000人以上が死亡した」[26]
1812年のロシア戦役はよく知りませんが、クリミア戦争(1853年から1856年)における兵士の死亡率の高さについて、実際にはそのほとんど大半が疫病によるものであったことは、あのフローレンス・ナイチンゲールを知っていたら誰もが知っていると思います。
その大きな要因は、単純に「東ヨーロッパ」だったからなのではなく、疫病対策がほとんど考慮されていなかったから、です。このクリミア戦争でのナイチンゲールの奮闘は、『うしおととら』で有名な漫画家、藤田和日郎氏が『黒博物館 ゴーストアンドレディ』で痛快かつ感動的に書いているので、ぜひオススメしたいところです。
ナイチンゲールがクリミア戦争で直面した衛生環境はどんなものだったかというと、テキストコピーで引用させないドケチなサイトから引用する(無断引用は違法ではありません)と、
(1) クリミア戦争の惨劇
クリミア戦争は、ロシアがオスマン帝国に宣戦したことに端を発し、1854年〜1856年にかけて、イギリスとフランスおよびサルデーニャが、オスマン帝国を支援して起きた戦争である。ナイチンゲールは戦地における救護活動のために、1854年10月にイギリスを出発した。 戦争は1856年3 月、ロシアの敗北によって終結したが、この戦争全体を通してイギリス兵の全死亡者数は1万8千人余に達した(1) そのうちの1万6千人余が感染症に罹患したために死亡したことが、戦後に明らかとなった。ここではまず、戦地の病院の実態を描写する。
- ナイチンゲールが派遣されたスクタリ (クリミア半島から黒海を渡ったトルコの地) の陸軍病院は、トルコ軍が兵舎として使っていた巨大な建物を病院に転用したものであり、病院の建物の床下には、粗悪な工事で作られた単なる汚水溜でしかない無蓋の下水溝が何条も走っており、それらは詰まっていて流れず、汚水は床から壁に浸み込んで湿気と悪臭を発していた。
- 便所はすべて詰まったり壊れたりしていて使用不能で、そこから溢れ出した糞尿水が病室内へ流出して、床上1インチも溜まっている場所もあった。
窓はほとんど無く、あっても締め切りであり、換気はまったくなされず、厳しい冬の季節に入っても暖房装置も燃料もなかった。- 患者たちは汚れて破れた夏物の衣類を着た切りで、ノミやシラミにたかられ、 ベッドも無く、藁を詰めた麻袋を敷物の代わりとして石床に寝かされ、 寒さに震えていた。
こうした不潔と欠乏が原因で、 病院ではコレラや赤痢、 発疹チフス、 インフルエンザなどの感染症が蔓延し、多くの傷病兵たちは、そもそも入院の原因であった外傷や疾病とは別の、これら院内に発 生した感染症によって次々に倒れて、治療も看護も受けられないままに苦しみながら死んでいった。
<後略>
動画への反論とはあまり関係がないのですけれど、ホロコースト否定者はしばしば、チフス等の疫病で亡くなったユダヤ人についてすらも、ナチスドイツには全く責任がないかの如くに語るので、注意してほしいとは思います。あのアンネ・フランクが亡くなったベルゲン・ベルゼン収容所に収容許容量の何倍にも達する膨大な数のユダヤ人囚人を詰め込んだのは、他ならぬナチスドイツです。戦争末期にすでに追い詰められていた状況でそんな無茶をしたら囚人を満足に衛生管理することが出来なくなることなど火をみるより明らかだったはずです。統計家でもあったナイチンゲールが、野営地の人口過密状態にさえ言及していた事実を上記サイトで読んでみてください。アンネ・フランクは紛れもなくホロコーストの犠牲者なのです。
0:51/どこにその死亡者数が「チフス死亡者数」だって書いてあるの?
アウシュヴィッツでは、収容者が増えるにつれてチフスによる死亡者が増えていきまし たが、 最初に感染爆発の悪夢に襲われたのは、1942年夏でした。
8月1日から19日までで実に4113名、8月全体では合計8000名もの囚人が死亡しました① 。 これはアウシュヴィッツの歴史の中で、最も高い死亡者数です。
頂点に達したのは1942年9月7~11日であり、一日平均で375人が死亡したのです② ※。
① D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945 (Reinbeck bei Hamburg: Rowohlt Verlag, 1989), p. 281
②Jean-Claude Pressac, Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes, Piper Verlag, Munchen/Zurich 1994, p. 193.
何度も何度も言いますが、加藤は孫引きをするので、上の文章が本当はどこにあるのかを探すのは容易ではありません。①で示されている脚注の場所自体は、ここにあると判明はさせましたが、そこには「男性収容地区だけで、8月1日から19日の間に、4113名の死亡が記録されている。」とは書いてありますが、「8000名」はどこに書いてあるのかわかりません。こんな出鱈目な参照の示し方があるでしょうか? (註:後述する別のマットーニョの論文では、「8,600人」となっている)
②の方の実際のコピペ元は、こちらのグラーフの論文にあり脚注番号は[88]です。そこには「流行の頂点は1942年9月7日-11日であり、平均して、1日375人が死亡した」とは書いてあります。
いずれにせよ、その文章の元を辿っても、どこにもその死亡者数がチフスによるものだという記述はありません。プロの修正主義者は、書いてもいないことを書いてあると言ったり、書いてないことを書いてあると言ったりする明白な嘘つき修正主義者もいますが、マットーニョやグラーフのレベルになると、そんなことはあまりしないようです。だからと言って、それらの修正主義者が嘘つきでないわけではありません。
残念ながら、①も②もネットで公開されていない(チェヒの『アウシュヴィッツ・カレンダー』はイタリア語版ならありますが、公開形態が異なっていて、ページ番号では検索できません)ので、直接調べることもできません。
しかし、私は①の本当の参照先であるマットーニョの他の論文を翻訳しているので、そのトリックを示すことはできます。
該当箇所を引用すると、
1942年8月には、アウシュビッツ収容所史上最高の月間死亡率を記録した。この月の間に約8,600人の囚人が死亡したが[18]、これは7月(約4,400人死亡)の約2倍にあたる。追加で3つの火葬場を建設するという決定が最初に言及されたのは、8月14日(その日に「火葬場IV/Vの計画1678」が作成された)にさかのぼる[19]。 その月の1日から13日までに、2,500人の囚人が死亡しており、1日平均で190人以上が死亡したことになる。14日から19日(21日の覚書に記載されているインタビューが行われた日)にかけては、さらに高い死亡率が記録されている。約2400人の捕虜が死亡し、1日平均約400人が死亡した。最も悲惨だったのは8月19日で、500人以上の囚人が亡くなった。
8月1日には、21,421人が男子収容所に収容された。19日までに4,113人の捕虜が死亡し、その数は1日平均216人、うち14日から19日までは1,675人で、1日平均279人だった。1日から19日までの期間、収容所の平均人員は約22,900人であった。 もし、20万人の収容所で同様にチフスが流行したら、どのような結果になるか想像してみて欲しい。
この引用で示されている死亡者数について、一切その死亡要因は書かれていません。その上で末尾に強調したように、チフスの流行をマットーニョは書くのです。叙述トリックというか意図的にミスリードを狙っているというか、です。マットーニョはそれらの数字を上げる際に一切、チフスでそれらの人数が死んだとは書いていないのです。
少し頭を働かせて欲しいのですが、一体どうやって、そのような細かな死亡者数データを得ることが出来るのでしょうか? そこが肝心なのです。後でも出てきますが、これらの数字について、例えば上の引用の中にある脚注番号[18]に、マットーニョはこう書いています。
Die genannten Zahlen fußen auf einer statistischen Untersuchung der in den Sterbebüchern von Auschwitz enthaltenen Daten.
上記の数字は、アウシュビッツの死亡帳に記載されているデータの統計的調査に基づいている。
私は、マットーニョがどうしてその「統計調査」とは一体何なのかを書かないのか、それが非常に怪しいように読めます。「アウシュヴィッツの死亡帳」とは何かというと、英語では「Auschwitz Death Book」と呼ばれ、デボラ・リップシュタットのサイトから説明を引用すると、
アウシュビッツの死の本とは?
死の本とは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの囚人のうち、登録され、番号を与えられ、そこで死亡した者の死亡証明書をまとめたものである。死の本には、1941年7月29日から1943年12月31日までの死亡者のみが記載されている。全てが残されていたわけではないが、346冊はアウシュビッツ・ビルケナウのゲシュタポ事務所に保管されていた。死亡証明書(死亡記録、死亡簿)には、発行日、姓名、出生情報(日付と場所)、死亡情報(日付、時刻、場所、原因)が記録されている。死因はたいてい架空のものだった。1945年1月、ロシア軍がアウシュビッツ・ビルケナウを解放したとき、彼らは死の帳簿をモスクワに持ち帰った。1989年に研究者が使用できるようになるまで、その存在は知られていなかった。1991年、それらはアウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館に送還された。
死の本それ自体はネットでも見たことはありませんが、死の本に含まれる死亡記録は以下のようなものです。
これは、こちらのHolocaust Controversiesの記事の中でリンクを貼ってあったところへ飛んで、現在では閲覧不可だったためWebアーカイブから掘り出してきたものです。修正主義者はこれが異常に好きなので、後で見るように加藤もどこかから探してきて動画の中に貼っているようですが、修正主義者のサイトにたくさんあったのですがどこか忘れてしまいました。
このソ連から見つかったアウシュヴィッツの死の本には、上記のような68,864件の死亡記録が含まれていますが、前述した通りその期間は1941年7月29日から1943年12月31日までの死亡者についてだけで、この期間内にも欠落期間があります。当然ですが、この記録は修正主義者が決して認めない、アウシュヴィッツに到着して囚人登録されずにすぐにガス室送りになって殺されたユダヤ人は含まれません。登録囚人についてのみの記録なのです。
さて、この死亡簿には確かに死因が書いてありましたが、リップシュタットサイトからの引用にある「死因はたいてい架空のものだった」については、Holocaust Controversiesにも記事があります。当該記事では、本当に架空の記載があったことを見事に証明しています。日本語訳はこちらにあります。一例を以下に示します。
23歳で心臓発作はおかしいと考えるのが普通でしょう。アウシュヴィッツの死の本がソ連から発見される17年前に以下のような証言を行っている元囚人がいます。
私の仕事は、死亡診断書を書くことでした。囚人が死んだ病気の記述は、収容所で殺された者にも当てはまります。銃殺、注射による殺害、ガス室。それぞれのケースヒストリーが必要です。もちろん、架空のものです。それが収容所当局の要求であり、私が命じられたことでした。そもそも、撃たれたとわかっている囚人の場合、「心不全」と書いていたのは、正直なところです。しかし、後になって、この心不全が多すぎたと思い.....例えば撃たれた人の場合、下痢と書いたり...要するに、無防備な囚人に対して行われた大量殺人の痕跡をすべて消し去るという、死に関わる記録の素っ気ない改ざんに他ならなかったのです[39]。
(引用はこちらから)
死の本が発見されるずっと前の証言内容が、死の本からわかる事実に一致しているのです。
しかし、死の本にある死亡簿には、改竄であれ事実であれ、死亡原因が書かれてはいます。つまり、この死亡簿の死亡原因を見ることにより、そこに「チフス」と記載があれば、それを集計して死の本にあるチフス死亡者数を統計的に得ることは可能ではあります。しかし、私が翻訳した以下の記事では、「(死の本にある)68,864人の死者のうち、チフスによるものはわずか2060人であった」と書かれています。
これは、その脚注に「Grotum and Parcer, "Computer Aided Analysis of the Death Book Entries", 220-221.」によるものであると書かれています。この資料それ自身はネットでもその内容が公開されていないので、私自身が調べることはできませんが、ネット上で検索する限り、アウシュヴィッツの死の本にあるチフス死亡者数の統計データは、上の記事にしかないようなので、これを正しいとする限り、否定派の主張はウソになります。
ただし、アウシュヴィッツの親衛隊は、アウシュヴィッツの衛生状況を誤魔化すために、実際にはチフスが死亡原因であっても、チフス死亡者数を低く見せかけるために、死亡簿には別の死亡原因を書いて改ざんしていたようなので、実際のところ、68,864人の限定された死亡簿内であっても、その正確なチフス死亡者数を死の本から突き止めることはできません。
アウシュヴィッツ収容所では、1942年の夏、8月頃にチフスの流行があったことは確かなようです。しかし、その流行でチフスによる死亡者が何人いたのかは不明なのです。仮に、死の本でその時期のチフスと書かれた死亡簿から突き止めようとしたとしても、残された記録の全期間でたったのたったの2,060名なのですから、流行時期だけに限定したとしたらもっと少なくなるので、マットーニョの書くような8月の囚人死亡者数8,600名のほとんどはチフスではあり得ないことになります。
今回の記事はこれで終わっても良さそうなのですが、続けます(笑)
1:15/デタラメなサイトにあった謎の棒グラフを提示されても困るのですが……。
「ホロコースト・デプログラミングコース(Holocaust Deprogramming Course(ホロコースト脱洗脳講座))」は、Webアーカイブで見ることが出来ますが、画像が多いので読み込むのに時間がかかる場合があることにご注意ください。元々は誰が作ったのかわからない(=匿名の人が作った)ウェブサイトです。X(旧Twitter)で見かける多くのホロコースト否定の投稿に用いられるネタがいっぱいここに詰まっています。
で、確かにそのグラフはそこにありました。
このグラフの下にはいくつかのリンクがつけられていますが、いずれも怪しい否定派さんのサイトといった雰囲気ですが、それらを辿っても、このグラフの元データは分かりませんでした。辿っても辿っても出てくるのは怪しい否定派さんばかりで……。
いずれに致しましても、前項で述べた通り、アウシュヴィッツの死の本からわかるチフス死亡者総数はたったの2,060人のようですから、このグラフも検証の必要はありません。
あえて付け加えるとすると、推測ですが上のグラフはアウシュヴィッツ死の本をまとめた出版物から調べたものかもしれません。死の本の死亡簿件数は68,864件ですから、数字が一致していませんが、判読不能の死亡記録があったのかもしれません。ですが、死亡簿には死亡原因が書いてあるのに、死亡原因には触れずにユダヤ人数を区分してあるのは、グラフ作成者がチフス死亡者数があまりに少ないのに気づいて、誤魔化した、と考えられなくもありません。
ところで、「ホロコースト・デプログラミングコース(Holocaust Deprogramming Course(ホロコースト脱洗脳講座))」は、以下で嘘と間違いだらけであることは暴かれていますのでご一読を。
6:37/チクロンBからのシアン化水素ガスの発生速度は「ゆっくり」?
1920年代、ドイツは、画期的な殺虫剤、チクロンBを開発しました。この商品は、第二次大戦の頃までには、石膏を添加されることによって、ガスの発生を遅らせるように改良されたのです。
これは、1942年のR. Irmscherの論文による。 それによると、石膏 (ERCO) が添加された丸薬からのシアンの放出は、華氏59度で3時間後である。この点については「ルドルフ報告」を参照。
チクロンBはフランクフルトのデゲシュ社が製造免許を持ち、製造していました。 第二次大戦が終わるまで、チクロンBは、食糧倉庫、列車や船のような大型輸送機関での害虫やネズミの駆除にきわめて重要な役割を果したのです。
これが、チクロンBです。
細切れの固体が缶に詰まっているのです。誤解されがちですが、これは、ガスが固体
化されているのではありません。
多孔質の固体に、液体状のシアンガスがしみこませてあるのです。
使い方はいたって簡単で、缶のふたを開けたら必要量だけを床の上に敷いた紙の上にばら撒けばくだけです。
すると、その直後から自然にシアンガスが 気化して発生し、バルサンをたくように、 建物中を殺虫処理できるのです。
この「使用法」から、化学の知識が一切無 くてもシアンガスの特性が理解できることにお気づきでしょうか。
つまり、言い換えれば、シアンガスはふたが閉まって圧力がかかった状態なら、絶対に気化しないのです。
そして、先ほど説明したとおり、チクロンBは3時間ほどかけてゆっくり気化するように改良されていますから、使用する人間は室外に退避する時間が十分にあるのです。
それでも、シアンガスは極めて危険な物質でしたので、家や部屋を燻蒸するにあたっての詳細な手順を記したチクロンBの使用ガイドもありました。
動画はチフスに関する情報をダラダラ流して、続いてそのチフスを媒介するシラミを駆除するための害虫駆除剤であり、かつ大量虐殺に用いられた毒ガス発生剤でもあったチクロンBの解説に移っています。
さて、上記テキストをここで引用したのは、ネットでさまざまな修正主義者とやりとりする中で、「チクロンBは青酸ガスをゆっくり放出するように作られている」と主張する人がいたのを覚えていたからです。しかし、この「ゆっくり放出するように作られている」の根拠を見つけることはできませんでした。上では「ルドルフ報告」が出典に挙げられていますが、これはもはや言う必要もなく当然孫引きであり、実際には赤で示した文章はサミュエル・クロウェルの『シャーロック・ホームズのガス室』にある脚注122の文章(「これは、1942年のR.Irmscherの論文に示唆を受けた。それによると、石膏(ERCO)が添加された丸薬からのシアンの放出は、華氏59度で3時間後である。この点と前述の点についてはルドルフ報告の最新バージョンを参照。http://www.vho.org/」)を少し書き換えただけであることはわかっていて、その脚注がつけられている文の直前にある「缶が開けられると、丸薬が撒き散らされ、ガスがゆっくりと放出される」から加藤がそう書いたのでしょう。
で、そこにある「R. Irmscherの論文」ですが、私がそれをPHDNで見つけて翻訳しています。
チクロンBは、石膏や珪藻土のペレット状のものにシアン化水素の液体を染み込ませてあるものです。確かに、米国の処刑用ガス室で使用されるような方法である、硫酸にシアン化カリウムを投入して直接化学反応で青酸ガスを発生させる方法や、加藤がこの動画内で説明しているアメリカ軍が用いていたとされるような瓶詰めにされた青酸ガスそのものよりは、ガス拡散速度は遅いでしょう。チクロンは液体の蒸発を待たないといけないからです。その蒸発速度は、上記で私がグラフ化したものを示すと以下のとおりです。
気温によって差はありますが、「シアンの放出は、華氏59度(15℃)で3時間後」と書けば遅いように思えるかもしれませんが、グラフを見ればわかるように、初期放出速度の方が後半よりも速いのです。上のグラフは1時間毎の放出量測定値を直線で繋いだものですが、実際には曲線で表されるだろうことは容易にわかるかと思います。シアン化水素の液体の蒸発速度が速いのは、蒸気圧を見れば分かります。
- 水(20℃):23.4hPa
- エタノール(20℃):58.7hPa
- シアン化水素(20℃):826hPa
気温が20℃の場合、液体シアン化水素は水の35倍、エタノールの14倍も蒸発しやすいことがわかります。ディゲシュ社のチクロンBの取扱説明書であるNI 9912にも、「液体が蒸発しやすい」と書かれています。チクロンBは液体シアン化水素を染み込ませてあるペレットですから、液体そのものよりも放出速度は若干遅いとは思われますが、それでもペレット表面近くにあるシアン化水素はすぐ蒸発するはずです。
何故修正主義者たちが、チクロンBからのシアン化水素ガスの放出を「遅い」などと表現したがるのかというと、目撃者の証言では「即死した」や「数分で死亡した」などと言われているからで、それら証言をウソだと否定してしまいたいからだと考えられます。
また、もし仮に、犠牲者の死亡時間が遅いと思ったのであれば、チクロンBの投入量を増やせばいいだけなので、その意味でも「ゆっくり」という言い方には意味がないことがわかります。
「使用する人間は室外に退避する時間が十分にある」も、加藤の書く意味では事実上ウソで、NI 9912には、以下のとおり記述されています。
X 建物の薫蒸
<中略>
- ガスマスクを装着する。
写真は、ペレットではなく、ダンボールディスク状のチクロンBを用いた作業風景写真ですが、シアン化水素ガス専用のフィルター付きガスマスクの装着は必須でした。もし、Amazonプライム(またはその他の配信サイト)の動画を視聴できるのであれば、『アウシュヴィッツ ナチスとホロコースト』という動画の一話目の41分30秒あたりからその作業風景(動画の方はペレット)がありますので、ぜひご確認ください(Amazonプライム動画はスクショさせてくれません)。作業員は、作業開始前の缶開けから作業中までずっとマスクをつけています。
11:05/セントラルサウナ自体は現存してますが。
さて動画では、害虫駆除室の話をしているところで、次のような図が表示されています。
これもまた、加藤の単純な勘違いの指摘ですが、いわゆる「Zentralsauna」はちゃんと現存しています。
加藤は、この直後にある参照文献名にあるとおり(といってもそのテキスト自体は孫引きです)、プレサック本を読んでいるはずなのですが、ちゃんと読んでいなかったのでしょう。その本にあるセントラルサウナの解説の章では、プレサックが撮影した写真(キャプションにPMOナンバーが付されていない写真は全てプレサック自身が撮ったもの)まで載っているのですが。プレサックによると「50年代か60年代には、Zentral Saunaの中央部分の屋根が落ちた。その後、アウシュビッツ博物館によって、かなり完全な修復が行われた」そうですが、2001年4月からは観光客向けにも公開されているそうです(ドイツ語版Wikipediaより)。
12:38/ナチスの「衛生細菌検査センター(保健衛生バクテリア検査局)」情報が公開されていないって何の話?
アウシュヴィッツ収容所に隣接するライスコ収容所では1942年に収容所の保健衛生環境 を改善するための 「保健衛生バクテリア検査局
Hygienisch-bakteriologische Untersuchungs-Stelle
を設置しました。
ドイツの赤十字国際委員会追跡センターにこの研究所のファイルは保管されています。 これは現在非公開になっているようですが、貴重な歴史資料を何故公開しないのでしょうか。
恐らく、「悪意のある研究」 に使われることを防ぐためではないでしょうか。
その「Hygienisch-bakteriologische Untersuchungs-Stelle」のことは私はほぼ知りませんが、ナチス親衛隊のその組織がヤバいことをやっていた程度のことは知っています。例えば、こちらのドイツ語Wikipediaでも参照されるといいかと思います。このナチスの「衛生細菌検査センター」は、あの731部隊(日本の歴史修正主義者に言わせると「単なる防疫給水部隊であった」らしいですが)を連想しそうな感じです。
さて加藤の言うファイルが何のことなのか、加藤は例の如くきちんと資料参照を示さないのでよくわからないのですが、加藤が読んでいるはずの歴史修正主義研究会にあるルドルフ報告を途中まで翻訳した文章の中に、こうあります。
武装SSおよび強制収容所での衛生に責任を持っていたのは、"Hygieneinstitut der Waffen-SS"[132](武装SS衛生研究所)であった。それは、1942年にベルリンに設立され、アウシュヴィッツ近くのライスコに"Hygienisch-bakteriologischen Untersuchungsstelle Südost d. W-SS" (武装SS衛生・バクテリア実験ステーション南東)をそなえた支部を持っていた。この実験センターのファイルは現存している。(1943年から1945年までの151巻)[133]
で、この脚注133には何と書いてあるかと言うと、
[133]Heinz Bobrach et al., Inventar archivalischer Quellen des NS-Staates, K. G. Saur, Munich 1995, volumes 3/1, 1991. 約110000の実験が行なわれている。多くの有益な情報はファクシミリのかたちでHefte von Auschwitz, nos. 1 through 19, special editions, Auschwitz State Museum Publishers, Auschwitz Museum, since 1959で見ることができる。
だそうです。「見ることができる」のに公開されていないとはどう言うことなのでしょう?
ドイツ語Wikipediaといい、ルドルフ報告のこの参照文献といい、情報はかなりよくわかっているようなのですが、「貴重な歴史資料を何故公開しない」とはいったい何の話なのかよくわかりません。
なお、加藤が書いている「ドイツの赤十字国際委員会追跡センター」とは、ここのことだと思います。
これもまた、私はまだまだ不勉強なのであまり良くは存じておりませんが、翻訳していると、アロルゼン(アロルセン、なのか、アーロルセンなのか…)国際追跡センターという言葉は時折出てきますから、名前程度は知っています。
しかし、アーロルセンの追跡センターは、加藤の動画公開時点である2018年ごろはすでに国際赤十字には属していません。この英語版Wikipediaの説明によると、「これらの新しい活動は人道的使命の一部ではないため、ICRCは2012年12月にITS(註:International Tracing Service(国際追跡サービス))の運営から撤退した[5]。」とあります。
ただ、同Wikipediaには「アーカイブは現在、クラウドソーシング・プラットフォーム「Zooniverse」を通じてデジタル化され、書き起こされている。2022年9月現在、アーカイブの約46%が書き起こされている[4]。」とのことですので、単にまだデジタル化されていないだけなのかもしれません。ナチス時代の当時の資料を公開しないとしても、その理由はプライバシー(故人の名誉等)に関わること以外では考え難いので、「「悪意のある研究」 に使われることを防ぐ」などあり得ないと思います。
13:21/「ホロコーストサバイバー」って何?
次に表示するのは、モスクワの公文書館で 発見された、アウシュヴィッツでの治療記録 です。
3138人のハンガリー系ユダヤ人の治療記録 が1944年6月28日に作成されています。
Gosudarstvenny Arkhiv Rossiskoi Federatsii (GARF), Moscow, 7021-108-32, p. 76.
pl National Socialist Concentration Camps: Legend and Reality Jurgen Graf より引用
外科のケース 1426
下痢:327
便秘 253
扁桃腺炎 79
糖尿病 4
心臟疾患 25
疥癬 62
肺炎 75
インフルエンザ 136
発疹炎症 59,268
その他 449
猩紅熱 5
流行性耳下腺炎 16
はしか 5
丹毒 5"
次に表示する画像は、「ホロコーストサバイバー」から引用した、アウシュヴィッツ博物館所蔵の資料です。囚人名ソロモン・ラダスキー No.128232の治療記録です。
加藤は、以降ダラダラとアウシュヴィッツで囚人に医療が施されていたことについて述べているのですが、一旦労働者として登録したユダヤ人囚人は労働力として貴重なのだから、病気・怪我を多少治療して治る見込みがあるのなら、治療する方針だったのです。だから、アウシュヴィッツ収容所(ビルケナウ収容所)には病棟ブロックがあったのです。これらのことは、絶滅収容所と強制収容所の二つの目的を兼ね備えていたのがビルケナウ収容所であったことを考えれば、矛盾しているように見えて別に矛盾しているわけではないのです。(アウシュヴィッツでのユダヤ人の取り扱い方針に矛盾・対立があったことは前回述べたとおり)
ところで、引用の末尾で強調して示した「ホロコーストサバイバー」とは一体何なのでしょう? 本の名前? でもそんな名前の本はありません。「holocaust survivor」でありそうですが、見つかりません。それでググると今度は、どれがどれだかわからないほどたくさんヒットします。加藤は本当に困った人です。自分が見てもいない参照先はこれ見よがしに示すくせに、どうして自分が見ている参照先を示さないのでしょうか。
でも、割と簡単に見つけました。ここです。
このサイトが有名なのかどうか、私自身は知りませんでした。で、ソロモン・ラダスキーはここです。
今回は、かなり長くなっているので、ここで一旦切ります。で、このソロモン・ラダスキーのページを以下に全翻訳しておきます。加藤が参照を示さない理由がわかると思います。彼はこうした証言の都合の悪いところは否定するホロコースト否定者ですからね。
なお、当該ページの最初の写真以外は以下では引用しませんので、必ず元記事を参照してください。また、元記事には用語にリンクが貼ってあって、ポップアップで説明が出るようになっていますが、以下では同記事のリンクを入れるだけとし、説明は翻訳しません。点線枠の注釈は、私自身が解説が必要かと思って独自に挿入したものです。
ソロモン・ラダスキー
「どうやって生き延びたか? 人はトラブルに巻き込まれると、生きたいと思うものだ。ある人は言う、「なるようにしかならない」と。そうではない! 日々、自分のために戦わなければならない。ある人々は気にしなかった。私は生きたくない。何が違うんだ? どうでもいいんだ。私は日々考えていた。私は生きたい。人は自分の意志を持ち続けなければならない。」
出生地:ポーランド、ワルシャワ
出生:1910年5月17日
死去:2002年8月4日
戦時中の生活:ワルシャワ、強制収容所
職業:毛皮職人
家族:既婚、子供2人
ソロモン・ラダスキーのサバイバー・ストーリー
どうやって生き延びたかですか? 人はトラブルに巻き込まれると、生きたいと思うものです。ある人は言います、「なるようにしかならない」と。そうではありません! 日々、自分のために戦わなければなりません。ある人々は気にしませんでした。私は生きたくありません。何が違うのですか? どうでもいいのです。私は日々考えていました。私は生きたい、と。人は自分の意志を持ち続けなければならないのです。
私はワルシャワ出身です。ヴィスワ川の対岸のプラガに住んでいました。そこでの生活は楽しかったのです。自分の店を持っていて、毛皮のコートを作っていました。ワルシャワでは、ユダヤ人の祝日が来ると、それが祝日であることがわかりました。すべての店が閉まり、人々はシナゴーグにいました。
私の家族78人のうち、生き残ったのは私だけです。私の両親は3男3女をもうけました、 両親はヤコブとトビーで、兄弟はモイシェとバルク、姉妹はサラ、リブカ、レアです。彼らはみんな殺されました。
註:「私の家族78人(the 78 people in my family)」とあるが、文章を読めばこれは「8人」のミスタイプだろう。
母と姉は1941年1月の最終週に殺されました。1941年は雪の多い寒い冬でした。ある朝、SDとユダヤ人警察が私を路上で捕まえました。私は線路の雪下ろしを大勢の人たちと一緒にやらされました。私たちの仕事は列車を走らせ続けることでした。私がゲットーに戻ると、母と姉が殺されていたのです。ドイツ人は、ゲットーの人々から金と毛皮を集めるようユダヤ人評議会(ユーデンラート)に要求しました。ドイツ人は母に宝石や毛皮のことを尋ね、母は何も持っていないと言ったのです。それで母も姉も撃たれたのです。
父は1942年4月に殺されました。彼はゲットーに食料を密輸していた子どもたちからパンを買いに行きました。子供たちはパンやジャガイモ、キャベツを壁を越えてワルシャワ・ゲットーに持ち込んだのです。ドイツ人は父の背中を撃ちました。
註:こうしたワルシャワ・ゲットーへの子供による「密輸」は、ロマン・ポランスキー監督の映画『戦場のピアニスト』でも描かれている。
強制送還は1942年7月22日に始まりました。他の2人の姉と2人の兄はトレブリンカに行きました。その後、私は家族の誰とも会うことはありませんでした。
私は毛皮職人です。ゲットーではトッベンスの店で働いていました。ドイツ軍用のラムウールのジャケットを作っていました。今でいうアイゼンハワージャケットです。
昼食にはパンとスープをくれました。夕方にはまたパンとコーヒーが出ました。ポーランド人が店に来ると、余分な食料と交換できました。シャツ数枚でサラミ1枚、パンやジャガイモでスープを作りました。しかし、私たちの状況はいつまで続くのでしょうか?
ある日、選別があり、私は店から引き出されました。ただ、幸運だったのは、ある民族ドイツ人が私のことを優秀な労働者だと言ってくれたことです。それで私は店に戻ることを許され、他の誰かが私の代わりになったのです。
友人が、シュルツの店で私の姉妹が働いているのを見たと教えてくれました。私は彼女に会いたかったのですが、3キロも離れていて、どうやって行けばいいのかわかりませんでした。あるユダヤ人警官が、ドイツ兵に一緒に行ってもらえば連れてきてくれると教えてくれました。500ズロチもする大金でしたが、私はOKしました。
兵士は私に手錠をかけ、私が囚人であるかのようにライフルを持って私の後ろを歩きました。シュルツの店に着いたとき、妹が見当たりませんでした。そして、私はそこで立ち往生していることに気づきました。ゲットーはドイツ兵に包囲されていたので、私は戻ることができませんでした。翌朝は1943年4月19日で、ワルシャワ・ゲットー蜂起が始まった日でした。
1943年5月1日、私は右足首を撃たれました。弾丸は骨ではなく肉を貫通したので、足を失うことはありませんでした。私はUmslagplatzに連れて行かれました。トレブリンカ絶滅収容所は1日に1万人しか収容できませんでした。私たちのグループは20,000人でした。彼らは私たちの列車の半分を切り離し、マイダネク強制収容所に送ったのです。マイダネクも死の収容所でした。
マイダネクでは服を取り上げられ、縞のシャツとズボンと木靴を与えられました。私は21番兵舎に送られました。私がベッドに横になっていると、年配の男性が「調子はどうかな?」と言いました。彼はパリで医者をしていました。 彼は小さなポケットナイフを持ち出し、私を手術しました。今でも、彼がどうしてナイフを収容所に置いていたのか理解できません。薬も包帯もありませんでした。彼は言いました、「私は薬を持っていないから、自分で何とかするしかないよ。排尿の際、尿の一部を傷口の消毒薬として使いなさい」
職場まで3キロ歩かなければなりませんでした。足を引きずることなく、まっすぐに体を支えてキャンプの門を出なければならなかったのです。怖かった。足を引きずれば、列から外されました。マイダネクではどんな些細なことでも吊るされました。どうしたらうまくいくのかわかりませんでした。神様が助けてくれたに違いないのです。私は幸運でした。
私たちは木靴を履いて点呼のところに立ちました。そして門を出るときには、木靴を脱いで紐で肩に縛らなければなりませんでした。私たちは裸足で通勤しなければなりませんでした。道には小さな石が落ちていて、皮膚に食い込み、多くの人の足からは血が流れていました。仕事は汚い現場仕事でした。数日後、それに耐えきれなくなった何人かが道路に倒れこみました。起き上がれない場合は、横たわったまま撃たれました。仕事が終わると、遺体を担いで戻らなければなりませんでした。1,000人が仕事に出れば、1,000人が戻ってこなければならなかったのです。
ある日、私たちが点呼に並んでいると、列の最後尾にいた男がタバコを吸っていました。ヘビースモーカーは、何かを吸っている気分になるために、紙切れを見つけては火をつけるのです。ドイツ人の収容所長が背の高い黒馬に乗ってやってきました。馬の頭には白い斑点があり、脚も白かった。美しい馬でした。収容所長は手に鞭を持っていました。この男は怪物だったのです。日が暮れていました。彼はタバコの煙を見ました。
収容所長は私たちを見下ろして、誰がタバコを吸ったのか知りたがりました。誰も答えませんでした。「私は10匹の犬を吊るすつもりだ」彼は言いました「3分時間をやろう」彼らは私たちを犬と呼んでいました。背番号入りのタグをつけていたからです; 私の番号は993でした。私たちはあちこちを見回しましたが、誰も答えません。
ラーガー総統は3分も待たず、2分も待ちませんでした。彼は鞭を取り、5人の囚人の2列を切り落としました。 私は10人のグループにいました。
彼は、「誰が最初にベンチに上がりたい?」と尋ねました。ベンチに立ってロープを首にかけなければならなりませんでした。私はベンチに上がった最初の3人でした。私はベンチに上がり、自分の首にロープをかけました。
彼は私たちを殴り始めました。頭に血が流れるほど殴られました。
そうなる前に、ある兵士がマイダネクにやってきて、別の収容所に連れていく750人のグループを3つ選ぶという目的を持っていました。 私は750人の第2グループに選ばれました。この兵士はルブリンの本局で私たちの書類を処理していました。私がベンチに立っていると、その兵士が絞首台のところに戻ってきました。
何が起きているのか見ると、彼は大声で 「止まれ、止まれ! ここで何が起きているんだ?」と叫び始めました。
収容所長は言いました、「犬がタバコを吸った。どの犬か言わないので、10匹の犬を吊るすことにする」
「誰の犬ですか」と兵士が尋ねました。「私はこの人たちを移送する書類を持っているし、死んだ犬を連れてくることはできない。生きたまま連れてこなければならない」
兵士は私の首に巻かれていたロープを外しました。あと数秒あれば、私は死んでいたでしょう。彼はベンチを蹴っ飛ばすところでした。私たちがベンチから飛び降りて列に戻るまで、兵士は私たちを殴り続けました。
兵士は私たちを線路に連れて行き、列車に乗せて翌朝マイダネクを発ちました。私は9週間そこにいました。食料も水もなく、2泊3日の列車の中でした。マイダネクでの9週間、私はシャツを着替えず、体も洗いませんでした。私たちはシラミに食われ、多くの者が空腹でむくんでいました。
列車を降りると、アウシュビッツに到着していました。そこでは選別があり、何人かはそこの野原で機銃掃射されました。ガス室には連れて行かれませんでした。
私は腕に数字のタトゥーを入れるために連れて行かれました。128232という番号です。その数字を足すと18になります。ヘブライ語では、アルファベットは数字を表します。18という数字はヘブライ語で「Chai(チャイ)」、つまり命を意味するのです。タトゥーを入れた後、私はジャガイモをもらいました。
私は最初にブナの収容所に送られました。私は検疫から出た後、私は線路建設の仕事に就きました。そこのカポは殺人者でした。私は背が低いのですが、彼は背の低い男と背の高い男を一緒にして、20フィートの長さの鉄を運んでいました。背の高い男は膝を曲げなければなりませんでした。
ある時、私は転んで起き上がれなくなりました。カポは叫びながら私を殴り始め、私を脇に引き寄せました。一晩中、服を脱いで裸で立っていなければなりませんでした。 翌朝、赤十字のついたトラックがやってきて、私たちを押し込みました。私たちは、彼らが私たちをガス室に連れて行くのだと思いました。
その代わり、私たちはアウシュビッツ第一収容所に連れて行かれました。ポーランド人の男性が建物から出てきて、私たちに番号を呼ぶように言いました。私は「128232」と言いました。彼は紙を見て、私の名前を尋ねました。私は「スラマ・ラドシンスキ」と言いました。ポーランド語で私の名前ですが、ユダヤ人の名前には聞こえません。彼は私に、どこから来たのかと尋ねました。「ワルシャワです」と私は言いました。 いつからそこにいたのか?「そこで育ちました」と私は言いました。
彼は私の人生で聞いたこともないような罵声を浴びせ始めました。彼は私を列から引きずり出し、隅に追いやりました。彼は「ここにいろ」と言いました。彼は私に毛布を持ってきて、それで体を覆いました。私は凍えていたので、彼は私をバラックの中に入れました。
私は横になった。何が起きているのか、何を考えているのかわかりませんでした。若い男が近づいてきて、「あなたを知っている」と言いました。私は彼に「あなたは誰ですか?」と尋ねました。彼はエルリッヒと名乗り、マイダネクから私を知っていると言いました。
私は彼にこの場所が何なのか尋ねました。彼は病院のバラック、ブロック20だと言いました。彼は私にこう言いました。「メンゲレ博士は週に2回、選別に来る。でも今日は火曜日で、今週はもう来ないだろう。何が起こるか、また知らせる」私は月曜日から何も食べていませんでした。彼は私にパンをくれました。
註:アウシュヴィッツで「選別」と言えば、親衛隊員が不要な囚人を処分する(殺す)ために選び出すことを意味する。
エルリッヒはそこに5週間いました。彼は私と同じ日にマイダネクからアウシュビッツに来ました。病院の二人の医師は、クラクフのラビであった彼の祖父を知っていました。彼らはメンゲレ博士から彼を隠しました。その医師たちは、クラクフでユダヤ人を匿う手助けをしようとしていました。SSが来て匿ったユダヤ人を殺し、医師たちをアウシュビッツに連れて行ったのです。
木曜日にエルリッヒが私のところに来て、「君はここから出ていかなければならない 」と言いました。私は言いました、「2階の窓から飛び降りればいいのか?」午後になると、彼は再びやって来て言った、「ここから出なければ、明日以降は死ぬことになるぞ」約1時間後、一人の男が入ってきてテーブルに座りました。彼は「仕事に行きたい者はいるか?」と尋ねました。病院にいたポーランド人たちは、仕事に行くことを心配していませんでした。赤十字から小包をもらい、食べるものも十分にあるのに、なぜ働きに行かなければならないのか? と。
註:国際赤十字は、ナチスの強制収容所の囚人に食料小包を送っていた。しかし、ユダヤ人には届かなかった。このエピソードでもポーランド人には食料小包が届いているのに、ユダヤ人のソロモンには届いていないことがわかる。
私はこの仕事に就かなければなりませんでした。テーブルの男は私に電話番号を聞き、そして私を罵りました。私は彼に懇願しました。「外に出たいのです。外に友達がいるのです。外に出してください」と。彼は私にブロック6と書かれた紙を渡しました。
私はブロック6まで歩き、その紙を見せました。そこにいた男は、「夜の9時まであなたを入れることはできない」と言いました。私は男たちが仕事から戻るまでそこにいました。ある男性が私に尋ねました、「君はここに来たばかりだが、出身地と職業は?」、私は言った、「私はワルシャワ出身で、毛皮職人でした」、どこに住んでいるのかと聞かれたので、そう答えました。彼は私に、ある男の名前を知っているかと尋ねました、 「そう、彼も毛皮屋で、こんな通りに住んでいるんだ」
男の一人が言いました、「私はあなたを信じない; この男は何と呼ばれているのだろう? 彼にはあだ名がある」 、この人は左耳の脇に小さな皮が垂れ下がっていて、「ツチク」(イディッシュ語=乳首)と呼ばれています」と私は言いました。そう言うと、彼らは私を助け始めました。大きなパンと冷たいスープを持ってきてくれました。
彼らは私にどこで働くのかと聞くので、その紙を見せました。彼らは言いました、「それはダメだ! その仕事では8日や10日では終わらない」その仕事は炭鉱での仕事でした。「その仕事に就いている人は最長で2週間。その後は火葬場行きさ」 私は怖んくなりました。私の番号はそこで働いていると登録されていました。私は言いました、「もし私がそこに行かなければ、私は厨房の隣に吊るされ、囚人たちは私の横を通り過ぎることになるのです」
彼らは言いました、「心配無用だ」ある男が別の男を呼んでこう言ったのです、「これを直してきてくれ!」と。彼らはその紙切れを持ってカポのところへ行きました。このカポは殺人犯でした。緑の三角巾を持っていました。ドイツ人は刑務所を開放し、囚人たちを我々のボスにしたのです。何人かはカナダで働いていました。輸送が来ると、貴重品を分けてくれました。彼らは命がけで金塊などを密輸したのです。毎日、彼らはこのカポにタバコやサラミを持ってきたので、彼は「はい」と答えた。
註:「カナダ」とは、囚人が持ち込んだ荷物を親衛隊が奪い取って、それら荷物を分別整理する収容所内の場所のこと。カナダは豊かな国だと思われていたのでそう呼ばれるようになった。カナダで働かされていた囚人は、囚人仲間にそれら荷物を横流ししていた。
翌朝、彼らは私を起こし、私を連れて行きました。彼らは私を列の真ん中に並ばせ、私たちは一緒にゲートを出ました。彼らはゲートを出てすぐに私に言いました、毎日6,000人以上の囚人がゲートを出て行くが、誰が誰だか誰も知らない、と。
美しいオーケストラが門のそばで演奏していました。彼らは私を他の仕事に行かせてくれませんでした。アウシュビッツが清算される最後の瞬間まで、私は彼らと一緒にいてくれました。かれらは小さなパンとスープをくれました。
ある日、少年たちがカポに帽子を作ってくれないかと頼んできて、ストライプの生地を持ってきてくれました。私は計測のために紐を取りました。私は糸と針を頼んで、2時間ほどでキャップを作りました。硬さを出すために、セメント袋から紙を取り出し、上部を二重にしました。カポはそのキャップを気に入ってくれました。それ以来、私は彼の部下となり、彼はずっと私を打ち負かしたことはありませんでした。
私は1年以上、少年たちと一緒に同じ仕事で砂を掘っていました。私たち10人は砂鉱山で働いていました。ブレスラウ出身の小柄な男がいて、私たちが監督にしたのです。彼は上に立ち、私たちは20フィート下にいました。毎日、荷車に砂を積んで16キロの道のりを歩きました。片道4キロ、往復4キロを2往復しました――1日10マイル以上です。
私たちは1日に2回、死者の灰を覆うために砂をビルケナウまで運びました。その砂は、火葬場から出た灰を覆うためのものでした。私はこれを1年以上続けました。
火葬炉は火葬場の片側にあって、灰はそちら側から出てきました。反対側にはガス室がありました。ゾンダーコマンドは火葬炉から灰を出しました。灰を入れる大きな穴があり、灰を砂で覆ったのです。
私は輸送が来たときに見たのです。私は入っていく人たちを見て、誰が右で誰が左かわかりました。私は誰がガス室に行くのか見ました。私は本物のシャワーに行く人も見ましたし、ガスに行く人も見ました。1944年の8月と9月、私は彼らが生きている子供たちを火葬場に投げ込むのを見ました。手足をつかんで放り込むのです。
註:ソロモンは火葬場内には入っていないので、子供を火葬炉に投げ込むことは見ているはずはない。これは、火葬場Ⅴの裏手にあった野外焼却場へ子供を放り込んでいる光景なのかもしれない。子供を火の中へ放り込む目撃談はいくつかあるので、これもその一つであるとは言えるが、ソロモンがそれら戦後の証言に影響されている可能性はある。
ある土曜日、作業をしているときに後ろを振り向いたら、ライフルを持った兵士がいた。その兵士は言いました、「ゆっくりやっていい、今日は安息日だからな」彼はハンガリー人で、こう言った、「4時に私のバラックに来てくれ。ゴミを入れたバケツを出しておく。ゴミの下を覗けば、11個のパンが見つかるだろう」2、3週間、彼は私たちのためにパンを出してくれました。カナダからお金を持ってくるように言われたので、そうしました。彼はよくユダヤ教の祝日の名前を教えてくれました。ある日、彼は姿を消しました。
ロシア軍はスターリングラードでドイツ軍を追い返していました。ウッチのゲットーから輸送がやってきました。その時、私たちは彼らが幼い子供たちの頭と足をつかんで、生きたまま火葬場に放り込むのを見ました。そして、ハンガリーユダヤ人の人々がやってきました。
註:上記のハンガリーユダヤ人のリンク先の説明には「55万人」とあるが、1944年5〜7月のハンガリーユダヤ人の絶滅作戦の時にアウシュヴィッツに輸送されたユダヤ人の人数は、ハンガリーをナチスドイツが占領後にハンガリー全権となったフェーゼンマイヤーの報告によれば、437,402人であるとされる。こちらによると、そのうち選別されてすぐに殺害された人数は32万人程度と推計されている。
火葬場を破壊しようとする若者のグループがいました。ビルケナウには4つの火葬場がありました。若い女の子たちは弾薬工場で働いていて、爆薬を密輸していました。一つの火葬場が破壊されました。私たちが仕事から戻ると、彼女たちのうち2人が私たちの前に吊るされました。
生存は続いていました。1945年1月18日にアウシュビッツの清算が始まるまでは、毎日がさまざまな問題がありました。18日に私はアウシュビッツを離れ、9日後にロシア軍が解放しました。この7日間で、私は5ヶ月を費やしました。
出発するときは、みんなバラックから出なければなりませんでした。私はソスノヴィエツから来たラビと一晩中歩いていました。ラビは仕立て屋だったブロック2から来ました。私たちの後ろにいた兵士たちが、倒れている人たちを撃っているのが見えました。ラビは道路に倒れ、ベルギーから来たこの少年と私はラビを挟んで支え、歩き続けました。兵士が引いているソリが見えたので、ラビを乗せたソリを朝まで引いてもらえないかと頼みました。
仕立て屋のバラックであるブロック2に住んでいた男たちは、人々が服の裏地に縫い付けていた金やダイヤモンドを手に入れることができました。彼らはブロック長に金とダイヤモンドを渡し、ラビをバラックに隠しました。彼らは壁に作ったクローゼットに彼を隠しました。彼らは朝6時の点呼に出るときにラビをクローゼットに入れ、夕方戻ってきたときに連れ出しました。私は何度も朝5時にそこに行き、ラビと一緒に両親のためにカディシュを唱えました。
昼間、私たちは小さな町に到着し、農家の人たちが私たちを厩舎に泊めてくれました。夕方には外に出なければなりませんでした。鉄道の駅まで歩きました。2日後、列車が私たちをグロース・ローゼン収容所に運んでくれました。私は二度とラビに会うことはありませんでした。
グロース・ローゼンは人殺しでした。看守たちは手に鉄パイプを持って歩き回っていました。彼らは言いました、「私たちはあなたを助けるつもりだ;私たちはあなたをここから連れ出すつもりだ」私たちは2000人の男たちと一緒に小屋に入れられました。昼間は立っていなければならず、夜は頭を食べ物にくっつけて寝ました。食事は夜、パン1切れとコーヒー1杯だけでした。そこで死ぬかと思いました。
彼らは私たちを鉄道駅まで送ってくれ、そして3日後にダッハウに到着しました。列車の旅はひどかったです;列車は引き上げては引き戻し、引き上げては引き戻した。水のために雪を食べました。ある男が息子と一緒に入っていて、その息子は気が狂ってしまいました。その息子は父親の首をつかんで窒息死させたのです。ダッハウでは、チフスのブロックに選別されました。私にはラドム出身の強い友人がいました。でも、彼はチフスブロックに入れられました。
私は1945年4月26日か27日にダッハウを出発しました。解放されたのは5月1日でした。その間、私たちは列車で移動していました。ツッツィング、フェルダーフィング、ガルミッシュにいました。そこには大きな山がありました。ある日、列車から降りさせられ、山の反対側まで20フィート登らなければなりませんでした。するとドイツ軍が機関銃を設置し、我々を狙い撃ちし始めたのです。私たちが列車に駆け戻ったとき、数百人が殺されました。
翌日、私たちは飛行機が爆弾を落とす音を聞きました。数時間後、兵士たちが列車のドアを開けました。爆弾の後片付けに数人必要だというのですが、私たちは怖くて行けませんでした。それで、「お前、お前、出て行け」と言われ、私は捕まりました。これで終わりだと思ったのです。ゲットーに何年もいて、みんなを失って、これで終わりだ、と。私の家族のためにカディッシュを唱えるために誰が残されるのだろう?、と。
私たちは山の反対側にある小さな町に行ったのですが、そこは駅が爆撃された場所でした。ある男にはシャベルを、別の男にはほうきを、そして私にはピックをくれました。私は駅構内で小さな黒パンを売っているカウンターを見ました。殺される前にパンを一切れ食べたい、と自分に言い聞かせました。私はキドゥシュ・ハシムの準備ができていました。私は上着から黒パンを取り出し、食べ始めました。兵士が私を見て、「仕事に行け」と叫びました。私はパンを食べるまでそこにいました。殴られても動かなかったのです。転んだら蹴られたけど、起き上がりました。私はその小さなパンを食べ終えなければなりませんでした。頭に血が流れました。食べ終わると仕事に行きました。願いは叶いました。そして、私は生き残ることを知ったのです。
翌日の早朝4時、ツッツィング付近で高速道路の激しい交通音が聞こえました。私たちは列車の2つの小さな窓から外を見ました。ロシア軍が来るかと思ったのですが、アメリカ軍でした。私たちは大声で叫びました。二人の兵士を乗せたジープが走ってきました。一人は背の低い男で、憲兵でした。ドイツ語が上手でした。彼は私たちが誰なのか尋ねました。私たちは強制収容所から来たと答えました。みんな大声をあげて泣き出しました。アメリカ兵は、我々は自由だと言いました。彼らはドイツ人を逮捕し、ドイツ人は怖くなったのです。1945年5月1日のことでした。
アメリカ人がご飯を作ってくれました。憲兵は私が米を食べるのを見て私に言いました、「そんなものは食べるな。食べたら死ぬぞ。脂肪分が多すぎて、今は食べられない。胃が縮んでいるから、それを食べると下痢をする。パンをあげるからトーストしなさい」
「トーストって何です?」と私は尋ねました。彼は言いました、「トーストとはパンを硬くすることだ」私たちはフェルダフィングに連れてこられました。私は日向に座っていました。少しの水と砂糖を沸かしました。2週間で私の胃は伸びました。パジャマはくれましたが、靴はありませんでした。
ある日、同じMPがジープに乗っているのを見かけました。私たちは彼に言いました。「あなたは私たちに自由を与えてくれました」彼は「ここから3キロのところにいるから、明日の朝7時に来い」と言いました。私たちは朝6時にそこにいました。兵士たちが朝食を取っているのを見ました。彼は私たちにも朝食をとるように合図し、大尉に私たちのことを話しました。大尉は私たちを連れてこいと言いました。私たちはパジャマに裸同然で、靴も履いていませんでした。大尉は私たちにPXに行くようにと紙を渡し、私たちは靴、ズボン、シャツ、ジャケットを手に入れました。昼休みに戻ってくるように言われました。何週間も1日3食でした。
フェルダフィングの避難民キャンプで、入院している姪に食べ物を持って行ってほしいと頼まれました。私はオレンジとパンとバターを持っていきました。彼女が元気になると、白いリネンのズボンをくれました。「あなたは私の命を救ってくれた」と彼女は言いました。
ドイツでは、フェルダフィングは行方不明者を探す場所として有名でした。壁には生存者の名前が書かれたリストが貼られていました。解放された多くの人々が親族を探しに来ました。一人は以前から知っている女性で、もう一人のソフィアは私の妻の友人でした。
ソフィアは言いました、「私のガールフレンドの家族も毛皮業を営んでいたの。バーシュティンという名前を聞いたことがある?」私は 「バーシュティン家と取引していた」と答えました。彼女は私にタークハイムまで会いに来てほしいと言いました。
失うものはもう何もありませんでした。ウッチから来た仕立て屋の二人の兄弟が、グレーと白の毛布でスーツとズボンを二着作ってくれました。友人と私は荷物を一つにまとめ、ヒッチハイクでトゥルクハイムに向かうため高速道路に出ました。私は1945年8月にフェルダフィングを出発しました。
翌日、妻のフリーダがソフィアに会いに来ました。妻は恥ずかしがり屋で、私に会うために階下に降りて来ようとしませんでした。そこでソフィアは、「窓のところに行って見てごらん」と言った。彼女は見てくれました。それ以来、私は「妻が窓から釣り竿を覗き込んで、私を釣り上げた」と言っています。
私たちは1946年11月に結婚しました。妻は私と同じ町の出身で、彼女の家族とはよく付き合いがありました。私たちには家族のような感覚がありました。
私たちはとても貧しかったのです。当時はカードがないと買えませんでした。市長のようなバーガーマイスターのところに行って、スーツを買うためのクーポンをもらいました。問題は、それを買うお金がなかったことです。妻とソフィアがスーツを買うために貸してくれた少しのお金があって、そのスーツを友人が結婚するときに貸したのです。
妻はドレスを持っていませんでした。私たちは土曜日の夜に結婚する予定でした。土曜日の昼間、私は知り合いのドイツ人女性の家のドアをノックしました。彼女とは道で何度か話したことがありました。彼女にはフリーダと同じ大きさの娘がいました。私はタバコ2箱、ハーシー・チョコレート・バー2本、小さな缶コーヒーを手に入れ、紙袋に入れました。
彼女がドアに出ると、私たちは話をし、彼女は私にこう言いました、「あら、市役所で見たわよ、結婚するのね」「はい」、私は言ったんです、「申し訳ありませんが、私の花嫁にはドレスがありません」と。
彼女は「オー、ノー!」と言って天井に向かって飛んだのです。彼女の母親が彼女に尋ねました、「彼はあなたのことなど何も言っていないのに、なぜ飛ぶの?」、彼女は言いました、「彼はドレスを欲しがっているわ」、私は言いました、「そう、ドレスが欲しいのです」、私はその女性に、強盗に来たのではないと言いました。彼女に助けを求めに来たのです。
杉の衣のところに行き、扉を開けると、スカイブルーのドレスが目に入りました。ハンガーにかけられたそのドレスを手に取り、かざしてみると、とてもきれいな色でした。娘は泣き出した。私は小さな袋を取り、テーブルの上にひっくり返して言いました。「これが私の全財産です。後で、少しあれば、もっと払うつもりです」。母親は「持っていきなさい」と言いました。私はお礼を言って外に出ました。娘は泣いていました。その後、私は自分を取り戻したとき、娘に怒られるのが嫌でその家には戻りませんた。道で母親を見かけ、話しかけました。私は彼女に「あなたたちが私たちにしたこと」とは言いませんでした。
私たちは1946年11月11日に結婚しました。結婚式には、町の緑豊かな人たちがみんな来てくれました。私の友人は金曜日に早く家を出て、鯉とアヒルとガチョウを持って帰ってきました。私たちはチャラとケーキを食べ、歌と踊りを楽しみました。ただひとつだけ欠けていたのは、親戚でした。
私たちはタークハイムからランツベルクに移り、4年後にアメリカに来ました。私の息子は1948年5月13日に生まれ、イスラエルは1948年5月14日に誕生しました。
私たちは1949年にニューオーリンズに来ました。私は英語が話せませんでした。毛皮屋に行くと、毛皮をくれて、ミシンを指さしました。私は縫いました。それから皮を伸ばすための枠を指差して、それができることを見せました。さらにナイフを手に取り、裁断ができることも見せました。初心者の時給は50セントだというのに、時給75セントで雇ってくれたのです。
私は50ドルでミシンを買い、仕事を受け始めました。その後、ハスペル兄弟の店に雇われ、主任になりました。そして2人の子供を育て、教育しました。28年後、フリーダと私は1978年にイスラエルへ最初の休暇に出かけました。
戦前、ワルシャワには37万5千人のユダヤ人が住んでいました。今そこに住んでいるのは5千人もいないでしょう。この話をすることは、私にとってとてもとても重要なことなのです。
<以上>
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