ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(1)

ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

 

ホロコースト論争」動画シリーズについて。

非常にめんどくさいので、放置していた件なのですが、この動画シリーズをご存知の方もおられるかと思います。

www.youtube.com

www.nicovideo.jp

YouTubeニコニコ動画以外にもあるかもしれませんが、YouTubeの方は動画がいくつか削除されてしまっています。通報があったのか、Youtubeが自動的に削除したのかは知りませんが、ニコニコの方は全部あるようです。ニコニコ動画ホロコースト否定動画を規制していないので、この人の動画以外にもホロコースト否定動画はそこそこあります。

この動画シリーズの作者さんのお名前は「加藤継志」とされていますが、実名かどうかはわかりません。何冊か本も出しておられますが、その著者名が「加藤継志」なのです。この記事内では、「ホロコースト論争」チャンネルの主催者を「加藤」と呼ぶことにします。

しかしこの本は、国立国会図書館にも納本されておらず(国会図書館に納本しないのは違法ですが、およそ8割程度の納本率だそうです。当然ですが全国の図書館にどこにもありませんので、読みたいのなら買って読むしかありません)、Amazon以外には古本屋にある程度で、流通もしていません。出版社を調べてみると面白いかも知れませんが、それはここでは話題にしません。ちなみに、西岡昌紀の『アウシュヴィッツガス室」の真実』の再販本もその出版社から出ています。

さて、私が2019年頃、この動画シリーズの存在を知ったことも、ホロコースト否定論に本格的に取り組むきっかけの一つになっています。その頃は私自身、ホロコースト否定論の細かい内容をほとんど知らず、歴史修正主義を単に嫌っておりましたので、「とっくに論破されているのに、何を今更……」程度にしか思っていませんでした。

それで、2020年頃だったか、動画シリーズにいくつかコメントを書いてみたのですが、あまりに私が反感を込め過ぎたコメントをしてしまったせいなのか、動画主曰く「荒らし」かと思われて、非表示(コメントした本人にはわからない事実上のブロック)措置を取られてしまいました。今から思えば、当時の私は知識が初心者すぎて、実際のところはその頃は加藤氏の方が知識が私を遥かに上回っており、適当にあしらわれた気がします。

しかし、加藤氏からの返事がないのが気になって別アカウントをわざわざ取って確認したら、私が非表示にされていることがわかったので、それがまた私にしてみれば腹が立って、いずれ徹底的に論破してやろうとさえ思ってはいたのです。

 

――が、それにはちょっと問題があったのです。

 

この動画、一本あたりの視聴時間が30分程度と、やたら長く、数十分に上るものも複数あり、動画と言っても下から上に流れるテキストが主体であり、それをいちいち読まないと内容が掴めないのです。機械音声のアナウンスや背景音楽は眠いだけなので消音すればいいし、倍速で視聴すれば半分の時間で済むのですけれど、それでも全部で20本もありますので、全部見終えるまで5時間もかかりますし、5時間の相当の時間がかかりそうなので、そのような長時間視聴は苦痛です。見ようとチャレンジしたことは何回もあるのですけど、必ず途中で眠たく😴なってしまうのでした(笑)

また、もっと大きな問題があって、動画なので、テキストコピペができないのです。無理やりやろうと思えば、一旦停止して自分で読み取って手入力するか、Googleレンズでも使ってスクショからテキストを取り込むかすればできなくはありませんが、いずれも面倒です。テキストコピーは、ググって情報検索するには必須なのです。また、普通のネットサイトならば、その記事の中を検索したいワードで検索するのは簡単ですが、動画ではそれも出来ません。

したがって、倍速だろうとなんだろうと、動画をじっと見続けなければならないのです。これが非常にめんどくさいので、ずっと放置してきたのです。内容自体は、少し見るだけで欧米の否定論の寄せ集めに過ぎない程度はわかっていたので、欧米の否定論それ自体をHolocaust ControversiesPHDN(THHP)などを翻訳しながら学ぶ方が先決だろうと考えました。ホロコースト否定議論の必須文献であるプレサック本の全翻訳も、第一の目的は内容を学ぶことだったからです。

holocaust.hatenadiary.com

でも、いずれは論破してしまいたいと思ってはいたので、対抗の動画シリーズの作成こそ私には全く動画作成スキルがないので今の所無理ですが、テキストベースなら出来ますし、まだまだ知らないことも多いので全部は無理としても、いくつかは論破できるくらいには知見はあると思いますので、今回から不定期に論破シリーズを始めたいと思います。

さて、それでは本論に入りますが、その前に、この最初の動画の公開日はYouTube上では2018年のようですが、そこから約5年、チャンネル登録者は6770人(2023年8月10日現在)となっていますが、数年前の記憶からすると全然増えていないようです。興味深いのは、この動画チャンネルの最大視聴回数動画は(初回のホロコースト否定動画を除くと)本題のホロコースト否定ではなく、アイヌ問題の動画だったりします。なぜそうなっているのか理由はよくわかりません。私自身は今のところアイヌには無関心なので動画の内容も興味がなく見ていません。


「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説1/20 イントロダクション&アウシュヴィッツの「ガス室」に関するとある事実について。」と題された動画を論破する。

youtu.be

さて、動画を相手にするのには、ブログのようなテキストサイトを使う場合、スクショを取って、批判していくと言うやり方もありますが、それだと記事がスクショ画像だらけになってしまって見難いかもと思ったので、スクショは必要に応じて最低限度とし、動画の中の時間と、対応するテキストを引用していくやり方を取ります。

 

1:25/慰安婦問題への軽々しい言及
それでは、「慰安婦の強制連行」 についてはどうでしょうか? 韓国ならば、 みんなが 「あった」 と信じて疑っていません。しかし、実際には事実無根の捏造であることがはっきりしています。

追記:日本のネット上でホロコースト否定に賛同する人のうち、おそらく100%の人が「慰安婦問題」に関し、いわゆる「否定派」であることは間違い無いと思っています。従って、そうした人たちは以下に私が記述した内容を読めば「鼻で笑う」でしょう。私は確かに慰安婦問題については、コアな論争内容はほぼ知らないど素人と言っていいでしょう(私は今のところ慰安婦問題に首を突っ込む程度で、深入りする気はありません。私より詳しい人はいくらでもいるので私が関わる必要はないだろうと思っています)。しかし以下に述べる内容は、あくまで加藤の認識が極めて「薄っぺらい」ことを指摘しているだけであって、慰安問題に関しての否定も肯定も関係ありません。


慰安婦問題は長年にわたって、日本と韓国の間の大きな歴史認識問題であり続けていますが、私自身はあまり知らない領域の話だったりします。が、「韓国ならば、みんなが「あった」と信じて疑っていません」も「事実無根の捏造」も妥当ではないことくらいはわかります。

日本人の保守右派が主張している「強制連行」は「吉田清治」に代表される軍による強制連行のようですが、韓国の挺身隊研究会の定義では「詐欺または、暴行、脅迫、権力乱用、その他一切の強制手段」としているようであり、これは日本の歴史学者である吉見義明氏の考えに沿ったものです。この考え方は一般に「広義の強制連行」と言われるものであり、本人の意思に反しているのであればそれを強制だとする考え方なのであって、本人の意思に反していたこと自体は何も否定されていないので、捏造とすらも言えません。(「慰安婦の強制連行」問題についてはWikipediaを参照)

慰安婦問題はこの後にもチラッと出てきますが。ここで取り扱う議題ではないのでこれ以上は述べません。しかしこうした記述は加藤の認識が非常に薄っぺらいものであることを示していると思います。

 

3:04/ガス室の設計時期なんてほとんどの人が知らないわけだが。

加藤は、自分の動画を初めて見る人がホロコーストにほとんど無知なことを意識して、「ホロコーストは事実として証明されていると思っていませんか?」のように問いかけた後、以下のように述べます。

「ビルケナウの焼却棟のいわゆるガス室は、 初めから殺人用に計画、設計された物でしょうか? それとも死体安置室として計画されたものが、 完成間近で改造された物でしょうか? 後者だとすれば、その変更の時期は何年の何月ごろでしょうか? これについてどのような見解を持っていますか?」

加藤が意識する無知な視聴者がそのようなことがわかるわけがありませんが、聴衆が無知なのを利用して講演者がそれらの聴衆の意識を引き付けるテクニックの一つとしてよく用いられる手法ではあると思います。加藤は上の引用のすぐ後に「え?」というテキストを表示させていますが、加藤はまさにそうなることを狙ったのでしょう。この手法は悪用にも善用にも普通に使われるので、それ自体は悪いことでもありません。

しかしながら、ビルケナウの「焼却棟」の「ガス室」は最初から設計計画されたものではなかったことは、よほど詳しい人でなければ知らないことです。多分、興味がなければ歴史学者だって知らない人もいると思います。そんなこと知らなくとも、歴史的事実としてアウシュヴィッツではたくさんのユダヤ人らがガス室で殺されたことは確定しているので、修正主義者以外にとってはなんの問題でもありません。

ところが、修正主義者にとっては「殺人ガス室はなかった」のです。ガス室だとされているところは図面には「死体安置室」とし書かれていなかったのであって、プレサックがその主著である『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』で暴いたような、焼却棟の建設中に計画変更が行われて、焼却棟に計画されていた死体安置室の一つが殺人ガス室に変わったことなど、なかったのです。従って、修正主義者にとっては非常に重要な設問ではあるのです。

なお、加藤の設問の回答は、

ビルケナウの焼却棟のいわゆるガス室は、 初めから殺人用に計画、設計されたものではなく、当初は死体安置室として計画されたものが、 完成数ヶ月前に計画変更されたものです。その変更時期は諸説ありますが、少なくとも図面2003の日付となっている1943年12月19日までの時期です。

となります。計画変更の理由は、アウシュヴィッツ司令官であったルドルフ・ヘスの自伝を読むと、以下のように書かれています。

 さて、戸外での最初の屍体焼却の時、すでにこのやり方は、長く続けられないことが明らかになった。悪天候や風の強い時など、焼却の匂いはあたり数キロにひろがり、周辺の住民全部が、党や行政当局の反対宣伝にもかかわらず、ユダヤ人焼却のことを話題にしたからである

 一方、この虐殺作戦に加わった全てのSS隊員は事態について沈黙を守るよう、特に厳しく義務づけられていた。しかし、後のSS法廷での審理でも示されたことだが、関係者はこれに関し沈黙を守らなかった。重い処罰も、このおしゃべりを封じることはできなかった。

 さらに、防空隊も、夜陰にも空中で見えるこの火に対して抗議を申し入れてきた。しかし、つぎつぎ到着する移送者をとどこおらせぬためには夜も焼却をつづけねばならなかった。輸送計画会議で、交通省によって正確にきめられた輸送計画は、関係路線の渋滞と混乱をさけるためにも(特に軍事的理由からして)、無条件に厳守されねばならなかった。

 こうした理由で、全力をあげて計画を推進する一方、結局、大きな火葬場が二つ建てられ、ついでは一九四三年にはそれより小規模のもう二つが追加された。さらに後になって、規模の点では既存のものを遥かに凌ぐような火葬場が一つ計画されたが、これはもはや実現の運びに至らなかった。というのは、一九四四年秋、ヒムラーユダヤ人虐殺の即時中止を命令したからである。

具体的には、1942年の春頃からビルケナウの敷地外にある農家を改造した2箇所(最初は1箇所)の「ブンカー」でユダヤ人のガス室での大量絶滅が始められていたのですが、最初はそれらの死体は付近に穴を掘って埋めていただけだったのを、ヒムラーの命令により再度掘り起こして全て焼却することになったのです。その野外焼却が上記の通り問題を引き起こしたので、1942年8月ごろからビルケナウで建設の始まっていた焼却棟で、遺体の焼却を行う方針に変更され、と同時に1941年秋からアウシュヴィッツの主収容所の焼却棟ではその死体安置室をガス室として利用していたのと同じように、ビルケナウの焼却棟でも同様に死体安置室をガス室として利用することになったのは自然な流れでした。

ヘスの上記引用内の書き方では、ブンカーの後でビルケナウの焼却棟が計画されたようにも読めてしまいますが、事実はそうではなく、プレサックが膨大な資料から読み解いたように、建設途上で計画変更されたものなのです。(註:プレサック説が完全に正しいとも言えないと私は考えますが、それはかなり細かい話なのでここでは述べません)

holocaust.hatenadiary.com

このように、かなり資料を読まないと、加藤の設問がわかるわけありません。それなりにアウシュヴィッツのことを知っている人でもかなりの人が、ビルケナウの焼却棟は最初からガス室併設の焼却棟を建てる計画だった、と誤解しているようです。例えば以下の記事でも誤解している人がいることがわかります。

note.com

 

5:21/ホロコーストの「検証」という否定派の主張

皆さんは、ホロコーストの検証は、外国では法律で禁じられているものだという認識を 持っていないでしょうか。
しかし、それはホロコーストに関して広まっている大きな誤解の一つです。
ホロコーストの検証は、今も昔も、世界のどこの国でも、一切法律で禁じられたことはありません。

これは単なる私の意見ですが、誤解しているのか意図的に無視しているのかは知りませんが、修正主義者が「法律で検証が禁止されている」などと主張するのは、自分達のホロコースト否定の主張を「歴史学者がやっているのと同じ純粋な検証である」などと歪曲したことを言っているにすぎません。これが広まって、「検証が法律で禁止されている」になっているだけなのです。しかし、こちらにあるような明らかに悪意のある風刺画が流布される世界のどこが検証なのでしょうか?

 

12:43/参照文献の「孫引き」

私がまず、この動画で「こりゃダメだ」と思ったのがこれです。この動画の評価を見ると、しばしば「一次資料に基づいている」などと言っている人がいるのですが、普通に言われる「一次資料」が意味するものは、例えば当時の文書史料それそのもの、とまでは言わなくとも、その当時の文書史料を掲載している書籍などを意味します。例えば私が「ヘスの自伝にはこう書いてある」と言ったときに示される資料は、アウシュヴィッツ博物館が保管しているヘス自伝の原稿そのものではなく、講談社学術文庫の日本語版のことです(当たり前)。

従って、大事なことは、著者自身が実際には何を見ているのか?なのです。ですから、私が引用するときに、文献名を記述する場合は必ず、ヘスの自伝なら私が実際に所有している講談社学術文庫版の何ページかを付記します。前述の例では、引用はリンクで示すにとどめてありますが、それはそのリンク先が私自身のものであり、そこにはちゃんと講談社学術文庫版のものであることを示しているからです。

ところが加藤が上で赤で示している文献名は、加藤が実際に見ているものではありません。例えば、上に示された赤の「テロップ」は、こちらにあります。短いので全部引用する(小文字化しました)と、

3.5.6 文書資料的証拠

L(聴衆):トレブリンカでは囚人は死ななかったのですか?

R(ルドルフ):もちろん、死にました。例えば、1943年秋、懲罰労働収容所でチフスが流行し始め、1943年11月12日から12月12日のあいだに、148名の囚人がチフスで死んでいます[1]。ウカシキエヴィチもこの犠牲者たちの埋葬地を発見しています。

 

L:SSはこれらの死体を焼却しようとはしなかったのですね?

R:そのとおりです。

 

L:大量殺戮説を立証する文書資料的証拠にはどのようなものがあるのですか?

R:トレブリンカについての現存の文書資料は非常に少ないのです。巨大な絶滅行為の土台となる計画、組織、資材の調達、人員、予算などの文書資料はまったくないのです。まったくないのです。

 トレブリンカへの移送については、一連の文書資料が残っていますが、それとても、「疎開」とか東部地区への「再定住」と述べているだけです。

 

L:それは、殺戮のカモフラージュ言語なのではないですか?

R:ホロコースト正史はそう考えています。この時期、ユダヤ人に何が起ったのかについて、カナダのメインストリームの教授Eugene Kulischerは、興味深い人口学的研究を上梓しています。クーリッシャーは、詳しい研究調査の中で、多くの権威ある国際組織――そのすべてが第三帝国に敵意を持っていました――が提供するデータに依拠しています。クーリッシャーの結論はこうです[2]。

 

ポーランドのゲットーは、ユダヤ民族の強制的東方移住の最終段階ではなかった。1941年11月20日、総督ハンス・フランクは、ポーランドユダヤ人は最終的にはもっと東方に移されると放送した。1942年夏以降、ドイツ占領下の東部地区のゲットーと労働収容所が、ポーランドと西ヨーロッパ・中央ヨーロッパからの移送者の目的地となった。とくに、ワルシャワ・ゲットーからの大量の移送が報告されている。多くの移送者はロシア戦線に近い労働収容所に送られた。その他は、ピンスクの湿地帯、バルト諸国、ベラルーシウクライナのゲットーに労働者として送られた。」

 

 クーリッシャーは絶滅収容所についてはひとことも述べていません。

 

目次へ

前節へ

次節へ


[1] Photocopy of this document in S. Wojtczak, op. cit. (note 634), pp. 159-164.

[2] E. Kulischer, The Displacement of Population in Europe. Published by the International Labour Office, Montreal 1943, pp. 110f.

これを一般に「孫引き」と呼びまして、学術論文なんかでは孫引きはやっちゃダメと言われています。例えば、以下のように言われていたりします。

孫引きとは、原典を直接引用せずに、他の論文や書籍で引用された文章をそのまま用いることを意味します。

論文やレポートで引用する文献は、基本的に必ず元の論文を自分の目で確認しなければなりません。引用の中には、引用者が意図的に文章を一部変えてわかりやすくしていたり、引用時に間違えているケースがあります。その場合、孫引きをするとそのまま自分も間違えた情報を載せてしまうことになるんです。

文章に限らず、文献や図表も原典にあたらず引用した場合には孫引きとなります。

なお孫引きが後日発覚した場合には、論文と書いた人の信頼性は大きく低下し、責任問題に発展することもあります。現に、以下の記事で実例を示していますが孫引きで社会的信用を落としたり職を解かれた研究者は過去にいます。気を付けましょう。
こちらから引用)

大事なことは、一次資料に直接当たることではなくって、二次資料を用いているのならば、著者自身が参照している二次資料を示す必要があることなのです。ネット上から得た情報であるならば、そのURLを示すことは必須なのです。ところが加藤は、例えば、動画の三回目ではこんな風に示しているのです。

加藤が、ダヌータ・チェヒの『アウシュヴィッツ・カレンダー』を直接参照したわけがありません。これは、こちら脚注番号24を単にテキストコピーしただけのものであり、完全に孫引きです。歴史修正主義研究会のサイトがマットーニョの『アウシュヴィッツ:伝説の終焉』を日本語訳したものですから、孫引きの孫引きです。

このように、この動画では出典の示し方が極めて杜撰であり、これを検証しようとする物好きな私などからすると、調べるのが大変です。いちいち、動画内からスクショを撮るなりして参照文献名のテキストをコピーして、ググらないといけません(ただ単純にググればいいというわけでもありません)。

欧米の歴史修正主義者の論文には、一般の学術論文のように脚注が多数あって、参照文献等もたくさん示されていることが多いですが、これは「真面目な体裁を装う」ためだと言われています。しかしそれでも、この動画のように「孫引き」で示すような杜撰なことはしていないと思います。ところがどういうわけか、ホロコースト論争の動画の他にも、日本の修正主義者は出典の示し方について、かなり杜撰なケースが目立ちます。以前にそれで西岡昌紀氏に怒ったことがあります。

note.com

出典をきちんと示す意義は、著者が何を根拠にしてそのように記述したのかを読者に明確にするためです。それにより、読者はその記述を読者自身で確かめることを可能とします。出典を示すことは、その記述を「もっともらしい」と思わせるために装飾することではありません。こんなこと私がわざわざここで書かなくとも、常識レベルの話です。

何故出典の示し方をきちんとしたやり方にしないのか、理由は分かりませんが、次に示すようにもっと意味不明なものもあります。

追記:細かいことを言えば、加藤の場合、正確な意味では孫引きですらありません。加藤が実際に直接参照した文献について、「文章をそのまま用い」ておらず、出典名の盗用か、あるいは「孫参照」とでも呼ぶべきかと思われます。しかし「出典名の盗用」では意味が分かりにくいし、「孫参照」なる言葉はないので、加藤の動画への言及上は以降全て「孫引き」と呼んでいます。

12:54/意味のないアーカイブの略記の説明

ソースは、 研究書からの引用や文書資料などです。 各種文書は、ロシア、ポーランド、 ドイツなどの文書館に所蔵されていたものです。
略記の意味は以下の通りです。

AGK→Archiwum Głównej Komisji Badania Zbrodni Przeciwko Narodowi Polskiemu Instytutu Pamieci Narodowej,Warschau.
APK→ Archiwum Państwowe w Katowicach
APMO→Archiwum Państwowego Muzeum
<以下省略>

最初の「Instytutu Pamieci Narodowej」とは、ポーランドの公的機関である「国家追悼研究所」(この訳し方が正しいのかどうかは存じません)のことで、「Archiwum Głównej Komisji Badania Zbrodni Przeciwko Narodowi Polskiemu」とは、「ポーランド民族に対する犯罪調査委員会の文書館」です。以下、続く略称の意味も同様の文書館などを意味しますが、もちろん加藤がこれらの文書館に直接訪問して資料収集したわけもありません。

要するに、前述したように、加藤は歴史修正主義研究会などのネットサイトから脚注テキストをコピペしたので、そのテキストの中に書かれている「AGK」などの略称の意味をそれっぽくここで表示させているだけなのです。しかし加藤のやっていることは述べた通り「孫引き」なので、ほとんど無意味です。繰り返しますが、大事なことは、当時の資料を示すのであれば、その資料を加藤自身がどこで拾ってきたのかを示すことです。それが出来ていないと言わざるを得ないので、不正な孫引きという他はありません。

 

15:55/「ナチスドイツが敵視したのは「ユダヤ人」ではなく「ユダヤ教徒」」なる珍説とデタラメ。

 また、既にお気づきの方もいるでしょうが、 この動画シリーズでは、 「JEWS」 という英語に対して、特別な場合を除いては、一般に良く使われる ユダヤ人」ではなく、 「ユダヤ教徒 という訳語を使用することにします。
ユダヤ」は狭い意味での「民族」でも「人種」でもありません。

 事実、 1940年 大ラビのヴェイユもフランス国家元首に「人類学の研究により、ユダヤ人種のようなものは存在しないことが疑問の余地なく証明された」 と説明しています。Kaplan "French Jewry", American Jewish Year Book47(1945-46):89.

 ニュルンベルク法を読み解けば明らかなことですが、当時のナチスが敵視していたのは、ユダヤの「血統」ではなく、本質的には「信仰」でした

 よって、とりわけこのホロコーストという問題を扱う場合においては、「ユダヤ民族」や「ユダヤ人種」 という意味合いで受け取られてしまう「ユダヤ人」という表現よりは、「ユダヤ教徒」の方が適切だろうと判断いたしました。

真ん中あたりに書いてある、「人類学の研究により、ユダヤ人種のようなものは存在しないことが疑問の余地なく証明された」が本当はどこに書いてあったのかについては、加藤は前述の通り孫引きをするので、示されている文献名だとは思えませんが、単純にその文章でググっても分かりませんでした。そこには「Kaplan "French Jewry", American Jewish Year Book47(1945-46):89.」と書いてありますが、それはこれのことです。

FRENCH JEWRY UNDER THE OCCUPATION
Jacob Kaplan
The American Jewish Year Book, Vol. 47 (1945-46 / 5706), pp. 71-118 (48 pages)

とにかく、加藤はまたしても孫引きをしていると思われるので、この文献を直接は読んでいないと思います。ただ「89」とは書いてあるので、これはページ番号だと思い、その前後を翻訳したのが以下です。

公式の抗議
 フランスのユダヤ人は、可能な限り、反ユダヤ主義的措置、逮捕、虐殺に対して激しく、精力的に抗議した。
 1940年10月、ユダヤ人憲章が発布される前で、閣僚会議が発行したコミュニケがそのような憲章が準備中であることを示していたとき、フランスの大ラビであるイザヤ・シュワルツはペタン元帥との謁見を要求した。事務総長のブレカール将軍が元帥の名で大ラビを迎えた。フランス・ユダヤ人の精神的指導者は、クレミュー勅令の破棄と憲章の問題について彼と議論し、ユダヤ人の名において次のような覚書を手渡し、彼は、宗教や人種による市民の差別に抗議した。問題の法令が公表された10月22日、「フランスユダヤ人の名によるフランス大ラビの宣言」が国家元首と全閣僚に宛てて出された。この宣言には次のように記されている:

「この不名誉な法令をユダヤ人に課すことで、新法は彼らの悲しみを増大させるだけだ...ユダヤ人に対して公布された法律は、ユダヤ民族の恣意的な定義を含んでおり、彼らの良心の自由を最も深刻に侵害するものである。それにもかかわらず、ユダヤ人は自分たちが人種的マイノリティでも政治的マイノリティでもなく、単なる宗教的共同体であると宣言している。ユダヤ人は国際主義とアナキズムという悪名高い非難に抗議し、そして、祖国への愛を誇らしげに語る; さらに、戦友のそばで倒れたユダヤ人たちは、その事実を顕著に証明している」

 1941年3月と1943年2月の二度にわたって、フランスの大ラビはペタン元帥に謁見し、政府のユダヤ人排斥策に対する抗議を口頭で述べた。パリの大ラビ、ジュリアン・ヴァイルとパリ共同体もペタン元帥に書簡を送った。1940年10月23日付のこの通信には、次のような内容が記されていた:

「フランスの法律は、民族的な観点から進められているので、外見上は信教の自由を侵害するものではない。しかし、人類学の研究により、『ユダヤ民族』など存在しないことが疑いなく証明された。したがって、この法律の執行は、ドイツの条例の場合と同様に、宗教的根拠に基づいてのみ可能であり、したがって、フランスの伝統的な自由を重大に侵害するものである」

 ヴィシー政府の反ユダヤ政策が明らかになるにつれ、他の抗議行動も起こった。その多くは、フランスユダヤ人中央協議会会長ジャック・ヘルブロネルからのものであった。1941年7月1日付でペタン元帥に送られた彼の抗議文は、ユダヤ人憲章を修正する法律についてこう述べている:

「それにもかかわらず、フランスのユダヤ人は、迫害者に対する憎悪と軽蔑の自然な感情を抑えようとはせず、永遠のフランスの運命に対する信仰を守り、今日犯された法律に対する正当な復讐を遂げようとする」

総督府がフランス・ユダヤ人総同盟の設立計画を発表したとき、中央協議会は1941年10月26日、ペタン元帥、国防長官、ユダヤ人問題総局に宛てて、動議という形で厳粛な抗議を行った。
<後略>

ナチスドイツは、1939年9月1日、ポーランドに電撃的に侵攻して第二次世界大戦が勃発したのですが、1940年5月にはベネルクス三カ国に侵攻し、その後ドイツ軍はパリに無血入城、6月16日、フランスのポール・レノー内閣は総辞職、後継のフィリップ・ペタン元帥はドイツへの休戦を申し入れ、6月22日、コンピエーニュの森において独仏休戦協定が調印されました。

その後、首都をヴィシーとしたフランスの臨時政府であるヴィシー政権は、ナチスドイツに協力し、ユダヤ人を人種で定義してその権利を制限するStatut des Juifs(ユダヤ人規定)を制定、ドイツでやったのと同様にフランスのユダヤ人に対しても迫害が始まるのです。

加藤が全然わかっていないのは、加藤が引用した「人類学の研究により、ユダヤ人種のようなものは存在しないことが疑問の余地なく証明された」は、前後の文脈を読めば、フランスがユダヤ人を排斥しようとして定めた「Loi portant statut des Juifsユダヤ人の地位に関する法律)」を実行しようとすると、ユダヤ人は人種としては定義不能なので、ドイツのニュルンベルク法のように宗教に基づく定義を行なってユダヤ人排斥を行うしか方法がなく、それはフランスでは重要な信仰の自由を侵害することになってしまうと言っているのです。つまり、ドイツのユダヤ人政策に協力しようとするフランスのヴィシー政権の方針はあくまでもユダヤ人が人種であることが前提なのです。

ナチスドイツの方針がユダヤ人を人種としてみなしていないのであれば、わざわざその人種性を否定するこの抗議文は存在し得ず加藤の解釈とは真逆にこの文言はナチスドイツがユダヤ人を人種として見ていた証拠(こんなこと言うまでもないことなのですが)でもあるのです。いったい加藤は何を読んでそんなデタラメなことを言っているのでしょうか?(だからこそ孫引きはダメなのです)

私は加藤が、「ニュルンベルク法を読み解けば明らかなことですが、当時のナチスが敵視していたのは、ユダヤの「血統」ではなく、本質的には「信仰」でした」と書く意味が理解できません。普通に、当時のナチスドイツの政策を学べば、当時のナチスが敵視していたのはユダヤの「血統」です。だからこそ、純粋アーリア人であるドイツ人とユダヤ人の結婚を禁止したのです。しかし、フランスの大ラビの言う通り、ユダヤ人の定義を実際にしようとすると、祖父母が「ユダヤ教共同体」に属するという定義にするしか方法がなかったのです。Wikipediaのニュルンベルク法で示されているユダヤ人の定義を見ればそれは明らかです。

  • 4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体に所属している場合は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」[3][16][18]。
  • 4人の祖父母のうち2人がユダヤ教共同体に所属している場合は次のように分類する[3][16][18]。
  • ニュルンベルク法公布日時点・以降に本人がユダヤ教共同体に所属している者は、「完全ユダヤ人」
  • ニュルンベルク法公布日時点・以降にユダヤ人と結婚している者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
  • ニュルンベルク法公布日以降に結ばれたドイツ人とユダヤ人の婚姻で生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
  • 1936年7月31日以降にドイツ人とユダヤ人の婚外交渉によって生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
  • 上記のいずれにも該当しない者は、「第1級混血」(ドイツ人)
  • 4人の祖父母のうち1人がユダヤ教共同体に所属している者は、「第2級混血」(ドイツ人)[3][18][19]。

「本人の信仰を問わず」と書いてあるのに、どうして「信仰」が「本質的」になるのでしょうか? 本人の信仰を問わないのですから、「ユダヤ人」の意味するところが「ユダヤ教徒」であるわけがありません。

 

加藤が何故、ユダヤ人を人種としてではなく、教徒と考えたがるかの理由はよく分かりません。ナチスドイツは人種差別をしなかった、と言いたいのか。多分そうなのだろうと思われますが、定説的に言えば珍説としか言いようがないので、その解説だけでもっと詳しく動画を作るべきだったと思われます。欧米の修正主義者で加藤のようなことを言っている人は私は存じません。

 

18:09/ブンカーが一つでは計算が合ってないわけだが。

これはまぁ単純なミスだと思いますが、あるいは加藤が否定派だから「そんなものはなかった」と勝手に決めつけているだけだからかもしれませんが、加藤はこの直前で7つのガス室があったと言っているのですから、もう一つの「農家」を忘れてはいけません。下記図面の14番がそれです。

ホロコースト記念博物館サイトより

18:52/第一ガス室の観光者の入り口はそこではない。

これは完全に間違いです。以下の動画を見て貰えば分かります。

youtu.be

加藤はいったい何を見ていたのでしょうか? 実際に上の動画のような観光客撮影のものはYouTubeには昔から大量にありましたから確認は簡単だったはずです。加藤が示した図面上での入り口は、加藤自身が後で説明しているように、防空壕に改修した1944年に作られたものですし、そこからは原則としては観光者は出入りできません。勝手にそこから入ろうとする人は後を絶たないようですが。[2024年4月22日追記:これは私の勘違いで、加藤が図示した箇所からも観光客は入れるようです。ただし、加藤が図示している順路の出入り口は、防空壕に改修した時に作ったものであり、ガス室として使用していた時期には存在しなかったものです。

 

19:35/とっくの昔に否定されているのに繰り返される第一ガス室捏造説

実はこの「ガス室」は、戦後に作られた物なのです。

歴史修正主義者は、どんなに論破されても、同じ否定論を繰り返すだけなので仕方ありませんが、これもホロコースト否定論に興味がなければ今でも知らない人が多いとは思います。アンネの日記捏造論やその他の各種否定論もそうですけどね。ともかく、こちらのブログでも過去にこの話題についてはすでに説明しています。ホロコースト否定論を扱う場合、絶対に外せない話題でもありますので、しっかりお読みいただくことをお勧めします。初学者には若干わかりにくい部分があるかもしれませんが、重要なことは、修正主義者たちは実際には捏造の疑いを挟んでいるだけであって、何一つ捏造の証拠もなく、捏造の証明も一切されていないことです。

holocaust-denial.hateblo.jp

 

30:58/アウシュヴィッツ博物館は第一ガス室(焼却棟1)が戦後に再建されていたことを隠していたか。

つまり、博物館は問い詰められた結果真相を渋々明かしましたが、 そうでない限りは、 虚偽を説明し続けたのです。

アウシュヴィッツ主収容所の第一ガス室捏造疑惑については、上に示した本ブログの私自身の解説で尽きていると思いますが、修正主義者は絶対にガス室だけは認めたりはしないので、何がなんでも捏造だったと言い張ります。そのポイントとしてよく挙げられる一つの問題に、アウシュヴィッツ博物館は戦後の再建の事実を隠していた、あるいはずっとガス室のオリジナルのままだと説明していたが実際にはそうではあり得なかったので虚偽の説明をしていた!と攻め立てます。

しかし、案内係のアリシアの説明は間違ってはいましたが、彼女は「意図的に」虚偽の説明をしたのでしょうか? デヴィッド・コールのビデオに示されたのは、単にアリシアが事実とは異なった誤った説明をした事実があるだけです。以下の動画でそれを確認して見てください。