ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

アウシュヴィッツのガス室は捏造?

このブログの第一回目の冒頭でも述べた通り、ホロコースト否定派はナチスドイツの殺人ガス室だけは絶対に認めません

ナチスドイツの殺人ガス室はそのほとんどはナチスドイツ自身によって破壊され、現存している殺人ガス室はほとんどありません。それら現存している殺人ガス室についても、そのどれもを「殺人ガス室などではなく捏造されたものである」と否定派は主張しているようです。

中でも、ホロコーストの象徴になっているアウシュヴィッツ収容所の主収容所に現存していて観光用に閲覧可能となっている第一ガス室は、1970年代後半か1980年代くらいから延々とホロコースト否定派の集中攻撃を浴びています。この第一ガス室はどこにあるかというと、以下の航空写真で赤丸で囲んだ箇所にあります。

アウシュヴィッツ第一収容所それ自体は、かなり保存状態も良好で、戦後から現在まで多少の補修工事はあったようですが、基本的には概ね戦時中のままだとされています。第二収容所であるビルケナウの方は、囚人バラックの多くが戦後解体されてポーランドのあちこちで仮設住宅として使われていたらしく、またガス室のあったすべての火葬場などの主要施設は破壊されたり、敷地自体も何割かは既に別の用途に使われています。

これは今回の記事で取り扱う火葬場1の外観ですが、YouTubeには多数、その内部を撮影した動画が上がっており、そのうちの一つが以下です。戦後何十年も経っているので、かなりボロボロになってきているように見えます。

youtu.be

また、アウシュヴィッツの第一ガス室についてはGoogleマップストリートビューで見ることも可能です。但し、2023年5月現在、ポイントごとに上下左右360度ビューになっているだけで移動はできません。

ともかく、この火葬場1にあるガス室を、ホロコースト否定派は戦後に捏造されたものであると主張しているようです。

第一ガス室の捏造って本当?

否定派の主張したい意味では、もちろん捏造ではありません。しかしここで、「否定派の主張したい意味」と前置きしたのは、否定派ではないのに、このガス室を捏造と表現した人もいるということです。

note.com

このガス室の標準的な年代記を簡単にでも知っておきたいところです。参考文献を記したいところではありますが、私自身、あちこちから情報を得ており、最早、このガス室年代記に関する参考文献など忘れてしまったのでそこはご容赦ください。多分、プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』のこちらを読むといいかと思われます。

第一ガス室(第一火葬場)の誕生から戦後の改修工事までの歴史
  1. 1940年5月、ポーランド軍の敷地を利用して、アウシュヴィッツ強制収容所(第一収容所)開設。
  2. 1940年6月、第一火葬場が第一収容所内に作られる。元々はポーランド軍が弾薬庫として使用していた。
  3. 1941年9月初頭、アウシュヴィッツ第一収容所の11番ブロックの地下室で、チクロンBを使った最初のガス殺実験が行われる。ロシア人捕虜と精神障害者が犠牲になった。しかし、この実験で11番ブロックの地下室は非常に換気が悪いことが判明し、ガス処刑開始から死体搬送完了まで数日を要することになってしまった。11番ブロックは死体処理を行う火葬場とは、収容所敷地において真反対の端にあり、その作業効率の悪さと、収容所内の囚人に死体搬送等の作業が丸見えになってしまうことから、次に示すようにガス処刑の場所を変更することになったと考えられる。
  4. 1941年9月末〜10月頃、第一火葬場内の死体置き場をガス室として使えるよう小規模な改修を行い、ロシア人捕虜800名程度を毒ガスで殺害した。
  5. 1942年12月、第一ガス室でのガス処刑を終了。火葬場の使用は1943年7月頃まで続いた。この第一ガス室での犠牲者総数は一万人を下回る程度とされ、ユダヤ人の処刑は行われたとしても僅かだったと考えられている。
  6. 1944年中に、第一火葬場は防空壕に改修される
  7. 1946−7年頃、第一火葬場・ガス室について、アウシュヴィッツ収容所を博物館として公開するため、防空壕だった状態から再び戦時中のガス室の状態時に再現工事が行われた
  8. 〜現在に至る。

現在のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館では、観光時の案内係は、これらの経緯を説明してくれるそうです。ところが、1990年代頃まではこうした経緯を説明していなかったそうで、ガス室・火葬場も戦時中のままだと説明していたらしいです。たとえば否定論議論界隈では有名な、デヴィッド・コールの以下の動画の4:00くらいからご覧いただくと、確かに案内係の人は「元のままです」と説明しています。

しかし、上の6、7で書いた通り、「元のまま」ではあり得ません。戦時中に一旦防空壕に改修されたのちに、戦後に再現工事が行われているのが史実だからです。何故案内係は「元のまま」だと説明していたのかについては、正確な理由は不明です。別に隠すつもりはなかったようであることは、アウシュヴィッツ博物館の歴史担当であったフランシスチェク・ピーパー博士が説明している内容でわかります。

コールは、ナチスガス室のある問題の火葬場を防空壕に適応させたという、博物館のガイドでさえ知らなかったとされる事実を、私が初めて認めたと主張しています。それは、真実ではありません。アウシュヴィッツ・ガイドの基本的な読み物となっている書籍のページのコピーを同封しておきます。ヤン・セーン著『オシフィエンチム―ブルゼジンカ(アウシュヴィッツ―ビルケナウ)強制収容所  ワルシャワ1957』では、152頁に、1944年5月に、主収容所の古い火葬場Iが防空壕として使用されたことが記されています

素直にこれを受け取るならば、案内係がこの書物をちゃんと読んでいなかったことになります。どのように書いてあるのかまでは知らないので、もしかすると、本当に「防空壕として使用された」としか書いていなかったので、案内係はガス室の時の状態のまま防空壕として使用されていたのだと思い込んでしまい、防空壕に改修工事されたこと自体は知らなかった、のかも知れません。

(完全に余談ですが、恐ろしいことにこんな本まで国会図書館にあるのを知って驚きました。関西館の書庫にあるそうです。疑問をお持ちの方は是非お調べください)

しかし、案内係が「元のままです」と説明していたからと言って、その事実から「隠していた」と考えるのもおかしな話だと思います。上のニコニコ動画の7分くらいから、案内係の責任者が「復元です」とあっさり答えているからです。隠すつもりならそんなにあっさり回答するのは不自然です。

ところが、もっと不自然なのは、その動画のデヴィッド・コールは当時すでに、第一ガス室が戦後に再現工事が行われたものであることは知っていたはずだということです。動画は1992年のものですが、彼は1989年に出版されている有名な、ジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を当然知っているからで、そこにははっきり再現工事が行われたことが説明されているのです。

holocaust.hatenadiary.com

一応、これが初めて戦後の復元工事を記した著書だとされているようですが、コールのビデオにはこの著書も紹介されているので、彼はそのことを知りつつ嘘をついているか、あるいはちゃんと読んでいなかったことは明らかなのです。さらに言えば、それ以前にもロベール・フォーリソンがアウシュヴィッツ博物館側が戦後の復元であると説明していたことを明らかにしているので、修正主義者側がやたらと第一ガス室を戦後の捏造と言い立てるのも、なんだか非常に不自然な気がするのです。

で、否定派は何を捏造の証拠だと言っているの?〜(1)煙突がおかしい。

私自身、未だに否定派の認識がなかなか理解できないのです。否定派の多くは煙突がその証拠だ!の様に言うからです。上のプレサック本から、144ページ目にある写真を以下に示します。

この写真(1945年の写真)には、上の方で示した現在の状態を示すカラー写真にはっきり写っている「煙突」が写っていません。したがって、今ある煙突は1945年以降に建てられたものです。それ自体は誰も否定していません。しかしだからと言って、「煙突はそもそも存在しなかった」とは絶対に言えません。何故なら、そこには火葬場・火葬炉があるからです。煙突のない火葬場は現在ならあります。日本の現在の火葬場にはほとんど煙突はないのだそうです。最新の技術によって必要無くなったからです。しかし、1940年代頃の火葬場に煙突がなかったはずがありません。

このことは、当時の図面にも煙突が書いてあることでもわかります。

1942年の図面だそうですが、最初にあった煙突が破損したので、少し離れた位置に煙突を立てることになったことを示す図面です。いずれにしても、煙突は戦時中にあったのです。これは当然の話です。

そしていつ頃かははっきりしませんが、火葬場が稼働を終了し、煙突は不要となっていたため、一旦撤去解体された。で、戦後に復元した――別にこのストーリーになんの不自然さもありません。

また、否定派は「煙突が建物と繋がっておらず、明らかに捏造だ!」などとも主張します。

 

上の図面でわかる通り、火葬場から煙突への煙道は地下にあります。私がネットでやり取りした否定派の中には、「煙は上にしか上がらないのだから地下に煙道なんてあり得ない!」と主張する人もいましたが、そんなの強制通風装置を入れれば済む話です。ともかく、火葬場があったのに煙突がなかったことなど考えられません。ちゃんと当時の図面もあるのです。

追記(2024年3月7日):いちいち書かなくてもわかるかと思って書かなかったのですが、この写真の煙突自体は戦時中のものではありません。戦後の復元時に再建したもので、高さとか色々不正確なんだそうです。ただ、上記図面にある位置からズレた位置にわざわざ再建するとも考え難いので、戦時中と同じ位置に立ってると思います。ともかく、戦後、1947年からアウシュヴィッツ収容所は博物館として公開されているので、見せ物として火葬場(ガス室、煙突、天井の穴、火葬炉など)を再現するために復元工事を行なったのです。

それに何よりも不可解なのは、そうした否定派の主張する煙突に関する疑惑は、一体何の意味があるのかよくわからないことです。否定派が疑うべきは殺人ガス室であったはずです。否定派は少なくとも、ガス室と主張されている場所が「Leichenkeller」すなわち、「死体安置室」と図面に書いてあり、それを否定してはいません。繰り返しますが火葬場・火葬炉があったことも否定していません。なのに何故、否定派の多くが煙突を疑うのか、わけがわかりません

もし、煙突疑惑を否定派が殊更主張する明確な理由が理解できる方がいらっしゃいましたら、是非ご教示ください。私は理解できません。

で、否定派は何を捏造の証拠だと言っているの?〜(2)ガス室のドアが変、その他。

ガス室のドアとはつまり、ガス室内部を撮影した上の動画の14秒目くらいに写っているドアのことです。(もう一つ奥のドアも捏造の証拠だと主張しています)

観光客がガス室(火葬場)の中に入って、小さな二つ目の部屋とガス室とされる場所の間にある扉のことです。要はこのドアが、「ガス気密扉であるはずがない!」と否定派は主張するのです。理由は、ガス気密扉にしてはあまりにも貧弱な薄っぺらいドアであり、すぐに内部から叩き壊せる大きなガラス窓がついている、と。確かにその様なドアがガス気密扉であるはずがありません。

しかし。

誰もそれがガス気密扉だとは言っていないのです。むしろそうではありませんでした。これは、「第一ガス室(第一火葬場)の誕生から戦後の改修工事までの歴史」の7で説明した復元工事が杜撰だったからです。まず、1941年9月の時点、つまりガス室として使用されていたであろう時期の状態と同じ状態の図面を見てください。

続いて、1944年9月の防空壕時の図面をご覧ください。

ガス室だったのは、上の図面の右下の広い部屋です。それが、防空壕時には、ガス室内部に3枚の隔壁が追加されています。この様な壁を追加した目的は、防空壕としての強度を保つためではないかと考えられます。また、防空壕時には、ガス室だった箇所の右側に新たに出入り口が設けられていることも覚えておくといいかも知れません。他にも留意点はありますが、ともかく、戦時中に一旦、図面の様に防空壕として改修されたのです。

ではこの防空壕を戦後に元のガス室だった時の状態に復元した工事のどこが杜撰だったのか?

以下にその比較図面を示します。

つまり、上で述べたガラス付きのドアは、復元工事時に隔壁を一枚多く壊してしまったため、そもそもそこはガス室の端ではなく、洗面所に通じる壁・ドアだっただけなのです。奥のドアは防空壕にするときに新たに出入り口を設けたからそこにあるだけで元々ありませんでした。

他にも、否定派が疑惑とする箇所はあるのですが、再現工事が正確なものではなく、それらは不正確だったから変に見えるだけなのです。ガス室のガス気密ドア自体は復元されておらず、存在しません。

したがってこれらの否定派の疑惑は、捏造の証拠などではないのです。何故否定派はきちんと図面を比較しないのか? それも理解できない点です。

では、他に疑わしい点はないのか?

あります。本来疑うべきは、ガス室の天井に存在しているチクロンB投下穴です。現在の第一ガス室の天井には以下の様な四角い穴が四つほど開いています。

チクロンBは、この様な天井に開けられた穴からガス室内へ投下されたとされています。従って、この天井の穴の存在こそ、ガス室だったかどうかを証明する一つの根拠になる可能性があるのです。

しかし私自身は、この穴をまともに疑った否定派は、カルロ・マットーニョ以外知りません。この穴に関する議論は、ここでは述べませんが以下で詳しく説明されています。

note.com

おそらく他の修正主義者が、第一ガス室の天井の穴についてそれほど強い主張をしなかったのは、天井の穴など戦後に簡単に開けられたからだと判断したからでしょう。事実、戦時中に防空壕にしたときに当然穴は塞がれたと思われます。防空壕にしておきながら穴を塞がないことなど考えられません。そして戦後、復元時に穴も再現したのです。…が、その穴が正確に再現されたものかどうかはわかりません。上のリンクには復元工事を行なった一人であるアダム・ズロブニッキの証言がありますが、それが正しいとしても、どの穴が本当に使われた穴なのかはわかりません。従ってマットーニョの議論に意味があるとは思えません。

ガス室と火葬場の間にあるスイングドアについて:2023年5月30日追記

何の話かと言うと、以下に第1火葬場の別の図面を二つ示します。左は1942年4月の計画図面で右は1940年11月のものです。図面自体はこちらから借用し、赤の円だけ追加しています。

否定派のクレームは左側図面の方で、1942年4月といえば正史派説ではガス室であったはずの時期の図面なので、赤丸で示された火葬場とガス室を隔てる位置にある気密扉がスイングドアであるのはおかしい、という否定派からのクレームです。

しかし、四角枠とされている緑枠と赤枠を見てほしいのですが、ガス室でなかった時期の右側図面では赤枠の方は位置の変更及び内開きから外開きに変更されており、緑枠も扉の接合部の位置が上下が逆に変更されています。このように、明確に変更する場合には図面上で明示する必要があるとは思いますが、図面上では赤丸のスイングドアで示されるドアが、1942年時点の計画ではその左半分、つまり実際には外開きが使用されるだけで、実際にはスイングとしては機能しないだけだったとすればどうでしょうか?

つまり、当時はこのような図面は古い図面をトレースしつつ、それを修正して作成されただろうということです。で、大した変更でもない赤丸のスイングドアに見える箇所は図面上ではそのままにされたが、実際には外開きしかない気密ドアだった、のではないでしょうか?

「そんなわけがない。図面は正確に書かれていなければならない」と主張するのであれば、実は修正主義者ゲルマー・ルドルフですら認める図面の間違いがあるのだそうです。

これはゲルマー・ルドルフによるホロコースト講義で使用されている防空壕へ改修された時の図面ですが、緑の四角枠で囲まれた位置のスイングドアはあり得たはずのないドアです。これはルドルフ自身が認めているのです。この防空壕への改修時にこの位置を塞いだので、戦後の復元工事時に別の箇所が開けられてしまっていることになっているのです(前述)。以上、スイングドアに対する否定派のクレームは通用しないことがわかります。

 

そもそもの話、何故第一火葬場にガス室があるとわかったの?

戦後、ソ連アウシュヴィッツ収容所を占領して、残されていた多くの文書資料をソ連が回収しましたが、残されていたこの第一火葬場の図面には「ガス室」の明示的な記載はありませんでした。そもそも前述した通り、第一火葬場にあったガス室は、防空壕に改修されており、建物自体を見てもガス室だったとはわからなかったはずです。では何故そこがガス室と分かったのでしょう?

否定派側に立って考えてみましょう。否定派にとってはガス室は存在していません。アウシュヴィッツ第一収容所のガス室は、戦後になってソ連が捏造したものです。ソ連人は、戦時中の戦争難民局が作成した報告書(ヴルバ・ヴェッツラー報告書)を知っており、そこには火葬場にガス室があったと書かれていたことも知っていました。しかしそれはビルケナウ収容所のことであり、ビルケナウにあった四つの火葬場は親衛隊によりダイナマイトで破壊されており、ガス室があったことの証明(それも捏造になりますが)は無理だと判断しました。そこで唯一建物自体は破壊されていなかった第一火葬場を利用して、そこにガス室を捏造することを思い立ちます。第一ガス室ならば簡単な改修だけでガス室を捏造するのは簡単だからです――というストーリーです。

しかし、それは不自然です。では何故、防空壕の図面が残されているのでしょう? 戦時中に一旦防空壕だった事実はソ連にとって不要なはずです。防空壕だった事実を示す図面等の証拠文書を処分すれば、「ガス室のオリジナルのまま」の事実を残せたのではないでしょうか? あるいはもっと言えば、何故煙突の写っていない写真までソ連は撮影してそれを残したのでしょう? さらにはチクロン投下穴(小煙突)がないガス室の天井の写真まで残しています。さらには、ガス密閉扉を再現しなかったり、不自然な位置にある出入り口をそのままにしたり……まるで、そこがガス室でないことをはっきりわからせる様な証拠を残している様なものではないですか。そうするとソ連は驚くほど馬鹿だったことになってしまいます。

ところが、正史派側に立ってみると、そんな不自然さはありません。そこがガス室だったことがわかったのは、証言があったからなのです。元ユダヤ人ゾンダーコマンドだったスタニスワフ・ヤンコフスキー終戦前の1945年4月13日にポーランドで既に第一ガス室のことを証言しています。もちろん戦後にはアウシュヴィッツ司令官のルドルフ・ヘスをはじめとして、元親衛隊員や元囚人の多くが証言していたのです。だからこそ、残された図面にガス室と書いてなくとも、第一火葬場の死体安置室と書かれたそこがガス室だとわかったので、元のガス室だった状態を再現しようと復元工事を行なった――と考えれば良いだけの話であり、特に不自然な点はありません。ガス室が否定派の主張する様におかしな点が多いのは、再現工事が単に不完全で杜撰だったからです。当時の図面を参照すればすぐにその不完全さもわかります。「捏造」を疑う必要はないのです。

何故、否定派はこの様にすっきり不自然さのない再現ストーリーとして理解しようとしないのか? 私にはそれが理解できません