ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

"No Holes, No Holocaust"―穴はなく、ホロコーストもない?

デヴィッド・アーヴィングとアウシュヴィッツ

毎回毎回アウシュヴィッツの話ばかりで恐縮してしまいそうですが、まだまだ続くので我慢してください。それくらいアウシュヴィッツは集中的に否定派の攻撃を受けたからだとお考えいただければ宜しいかと。もちろんアウシュヴィッツホロコーストの一部に過ぎません。

"No Holes, No Holocaust"という有名なフレーズがあります。言い出したのはどうもこれまたロベール・フォーリソンのようですが、有名にしたのはデヴィッド・アーヴィングのようです。

日本ではあまり知名度のない人ですが、イギリスの歴史家で、第二次世界大戦に関する著書をいくつも書いており、ベストセラーになった本も何冊かあるそうです。特に有名なのは『ヒトラーの戦争』で、その中でアーヴィングは、ヒトラーの知らない間にホロコーストが起こった、と書いたそうです。

アーヴィングは元々はホロコースト否定派ではなかったのですが、1970年代後半からホロコースト否定の中心組織となったアメリカのInstitute for Historical Review*1や、ロベール・フォーリソン、エルンスト・ツンデルらの画策によって、ホロコースト否定派の勢力に引き込まれ、ツンデル裁判の第二審で登場したロイヒター・レポートにより、アーヴィングは正式にホロコースト否定派になりました。

アーヴィングは世間的にもかなり認められた知名度の高い歴史家でしたから、その影響力も強かったのです。日本で言えば、歴史家ではありませんが、知名度的には高須克弥氏のような人物だと考えればいいのではないでしょうか。

ホロコースト否定派に転じたアーヴィングは「戦艦アウシュヴィッツを沈めろ!」とまで主張したそうで、2005年にオーストリアで逮捕されてホロコースト否定を辞めてからも、アウシュヴィッツガス室だけは何故か認めておられないと伝え聞いております。

閑話休題

アーヴィングは周知の通り、映画『否定と肯定』でよく知られている通り、ユダヤ歴史学者のデボラ・エスター・リップシュタットを名誉毀損で訴えて、イギリスで裁判となります。ホロコースト否定を扱う裁判ではほとんど大抵、ホロコーストそれ自体は裁判では顕著な事実として扱われ、その歴史事実の正否を問うことはできません。ホロコースト否定をめぐる裁判の第一号かもしれないマーメルスタイン裁判では、ホロコーストは顕著な事実とされてしまったため、IHRは和解に応じざるを得なくなり、メル・マーメルスタインに多額の賠償金を支払わなければなりませんでした。しかし、アーヴィングの裁判ではそうはならず、ツンデル裁判同様にホロコーストの史実をめぐる争いが展開されたのです。その裁判の中で審理の1〜2日間まで費やして、今回のテーマとする「」の論争が繰り広げられました。如何に否定派が穴にこだわっているかがわかります。

「穴」とは何か? 金網導入装置とは?

ホロコースト否定派の間で流布されている以下のような風刺画があります。

ビルケナウの火葬場遺跡へ案内された観光客らが、案内係の説明するガス室の天井にあったガス(チクロンB)投入用の穴の説明を受けている、そのそばで子供が「穴なんかどこにもないじゃないか」と呟いている絵になっています。右端に明らかにユダヤ人と分かる人物が、観光客に背を向け笑っている構図がなんとも下劣です。フォーリソンはこれに類するホロコースト否定のための風刺画を同僚のゲルマー・ルドルフに送っていたというのですから、呆れます。

しかしこの風刺画が明白に嘘であることは、否定派自身の報告からわかります。否定派は穴はあった(ただし関係ない穴)と言っているからです。

さて、否定派が"No Holes, No Holocaust"で主張している穴とは何のことなのでしょう? これは既に過去に触れていますが、さらに詳しく説明しておくことにします。まずその過去の記事では動画を紹介していましたが、今回はその動画のスクショを以下に示します。 

四つの小煙突が問題にしている穴に相当し、そのような穴がビルケナウの二つの火葬場・ガス室に四つずつあったとされています。動画でわかるように、その煙突を通じてチクロンBガス室内に投入していたとされています。ガス室内はどうなっているかというと、以下の動画でCGで再現されています


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ガス室内が見えてくると、金網の柱のようなものがいくつか見えるかと思いますが、これを金網導入装置などと呼びます。天井の外、穴から投入されたチクロンBはその金網導入装置のさらに内側にあるチクロンBを入れるバスケットの中に投入されて、バスケットに付属していたワイヤーでガス室の床まで降ろされたと推定されています。この金網導入装置を導入した目的は、第2及び第3火葬場のガス室は、半地下構造になっていて、吸排気の換気システム以外にガス室内の青酸ガスを排出する方法がないので、ガス室内に投下したチクロンBが3時間程度はガスを放出し続けることから、ガス室内にチクロンBが残っていると遺体搬出作業を迅速にできないため、犠牲者を殺した後は天井からバスケットごとチクロンBを外に出してしまうことにありました。広いガス室内に均等に青酸ガスを分配する目的もありました。

この金網導入装置は、それを製作した囚人ミハエル・クラの証言が残っています。ポーランドの証言サイトから以下にそれを翻訳して紹介します。

鍵屋(註:アウシュヴィッツ内にある金属加工作業場のこと)の工房は、ガス室用の偽シャワーや、チクロン缶の中身をガス室内に投棄するための網の支柱などを製造する役割を担っていました。それらは高さ3メートルほどの柱で、断面は正方形(約70センチ)でした。この支柱は、3枚の網を1枚ずつ重ね合わせたものです。外側の網は直径3mmの針金で、50mm×10mmの角材で補強されています。そのような角材を支柱の四隅に配置しました。それらは上も下も同じ角材で接合されています。ネットの各メッシュは約45平方mmでした。2列目のネットも同様に作り、1列目のネットの内側に約150mm離して配置しました。その網の1枚1枚の網目は約25平方mmでした。コーナーでは、2つのネットが鉄の棒でつながれていました。支柱の中は空っぽで、断面が約150平方mmの薄い亜鉛板でできていました。上部は円錐形の末広がりで、下部は均等な四角い底面を持っていました。板金で作った細い支柱に、支柱の端から約25mmのところに、四角い金属棒をはんだ付けしました。金属棒の上に網目の細かいネット(1メッシュは約1平方ミリ)を敷き詰めました。ネットはコーンの根元で終わっています。そこから上は、円錐の頂点に達するシートメタルフレームに移行しています。チクロン缶の中身は、上から分配用コーンに投げ入れられました。そのため、支柱の四方の壁にチクロンを均一に行き渡らせることができました。ガスが消えた後、中柱ごと取り出し、シリカを除去しました。ガス室の通気口は、部屋の壁に打ち付けられていました。通気口は亜鉛板で覆われており、そこには円形の穴が開いていました。

一見非常に詳しい説明にも見えますが、訳し方にも問題があるのかもしれませんが、この証言だけで金網導入装置を正確に再現することはできません。例えば、クラは穴の断面が70センチ平方の正方形だと推定されるようなことを述べていますが、後述する現地調査結果では天井に開けられた穴の大きさは概ね50センチ四方だと判明しています。また、ガス室内の天井までの高さは2.4mと判明しているため、クラの言う3mでは60センチも長すぎることになってしまいます。支柱を支える構造体となるのが四隅の角材しか説明されておらず、四隅の角材を支える横材(絶対必要)の説明もありません。この辺が証言のみで詳細まで判明させることの難しさを表しています。しかし、出来るだけクラの証言に沿って再現図を描くと以下のようなものになります。(プレサック本、p.487

 

さらに、アウシュヴィッツ研究家として有名なロバート・ヤン・ヴァン・ペルトによって監修された実物大再現モデルがあります。


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この動画の3:55から金網導入装置が紹介されています。ヴァンペルト教授は「ガスコラム」と述べています。非常に実際的なモデルのように見えますが、もちろん、これはヴァンペルト氏が想像でクラの証言を補完した推定モデルでしかなく。実物がこうであったかどうかはわかりません。

もしこのような金網導入装置の現物が残っていたら、それこそかなり殺人ガス室の動かぬ証拠となり、フォーリソンの求める「たった一つの証拠」であったかもしれません(その場合でも「戦後の捏造」と主張可能です)。しかし、その現物は火葬場の設備撤去作業時に撤去されてしまったと考えられています。したがって現物は行方不明です。

では、金網導入装置を含め、ガス室天井の穴(第2or3火葬場)があったことはどのように証明されるのでしょうか?

戦時中の親衛隊文書の中にある穴と金網導入装置

現在までに見つかっている戦時中の文書の中で、唯一、穴と金網導入装置の両方に言及している文書は、否定派が絶対に認めない、フランケ・グリクシュ少佐による再定住行動報告です。この文書を肯定してしまえば否定派は死んでしまうので、否定派は全力で否定します。

この文書の詳しい解説は、こちらを見ていただくとして、穴と金網導入装置については以下のように書かれています。

この部屋には大きな柱が3本ある。この中に、地下室の外の上方から、ある製品を降ろすことができる。300〜400人がこの部屋に集まった後、扉が閉められ、物質の入った容器が上から部屋に入れられる。この容器が柱の底に触れると、ある物質が発生し、人は1分で眠りについてしまうのである。

柱(間接的には穴も)の数が四つではなく三つですが、文書の内容についての解釈は示したリンク先の解説を参考にしてください。ともかく、グリクシュの文書が穴と金網導入装置に言及していることだけは確かです。

戦後の証言

グリクシュ文書を含めたものですが、Holocaust Controversiesブログサイトの執筆者の調べでは、合計28人に上ります。

私自身がこれ以外に2名発見しています。

元囚人(ゾンダーコマンド)のヘンリク・マンデルバウム(証言の翻訳全文はこちら

特殊な装置を使って天井からガスを入れたのです。1つの部屋には4つの(チクロン)ガス注入口がありました。

元囚人のピョートル・ジェラン(証言の翻訳全文はこちら

当時、私は組立工として働いており、チクロンが火葬場(実際にはガス室)に投げ込まれるバスケットを溶接していました

探せばまだ他にもありそうな感触もありますが、発見されているだけでも30名に上ります。図面にさえ載っておらず、文書資料も全く残っていない、ガス室内にチクロンBを投入することだけが目的の穴と金網導入装置ですから、極秘中の極秘だったと思うのですが、それでもこれだけの人数による証言証拠がある事実は、少なくとも無視していいものだとは思えません。数やその詳細が証言者によって異なる事実は、それら証言が本人の目撃であり記憶によるものであることを強く示唆しています。

おそらく否定派の見解としては、これだけ証言内容がバラバラであることから、信用するに足りない、ということではないかと思われます。しかし一般に、人の記憶に基づく証言が、絶対に正確で確実な内容であると言い切れないことは誰しもが知っていることですから、こうした否定派の主張は成立しないでしょう。

航空写真の証拠

否定派との議論で最も物議を醸したのが、航空写真に写った第2、第3火葬場のガス室天井の穴らしき斑点です。

https://collections.ushmm.org/search/catalog/pa28506

これは、1944年8月25日に連合軍偵察機によって撮影された写真ですが、第2、第3火葬場のガス室とされる箇所に、各々四つの黒い染みが写っています。写真には「ZYKLON-B VENT」とありますが、推定されている大きさよりもかなり大きな斑点なので、否定派は穴であるはずはない、と主張していたようです。なお、同様に黒いシミが写っている航空写真は他にも何枚かあります。

Holocaust Controversiesブログサイトの記事では、この写真を用いて、推定されている穴の位置図面を合成したものを公開しています。

このように、穴の位置自体は、黒い染みの位置によく一致しています。航空写真に写った黒いシミが何であるかはこれ以上の解像度の写真が存在しないのでわかりません。天井の上で作業していた親衛隊の消毒係(チクロン投入係)が踏みつけていた跡なのかもしれないし、もしかするとガス室内から引き抜いたチクロンBをその場に捨てていたのかもしれません*2。しかしながら、この黒い染みについては証言証拠すらなく、何なのかは断定は困難です。

否定派は穴について何と言っているのか?

まず、現在のビルケナウにある第2、3火葬場の遺跡は、親衛隊の撤収時にダイナマイトで破壊されたことや、のちの風化により以下のような状態(写真は第3火葬場)ですから、現地調査結果については後述しますが、少なくとも一見しただけでは穴の跡がどこにあるのかはわかりません。特に第3火葬場は現地住民によってレンガなどが盗まれたのか、残っている残骸の量も少なくなっていて穴の跡すらないと思われます。

しかし、第2火葬場に関してですが、火葬場のガス室天井の穴の候補になる穴の跡は、否定派による報告では二つあるのだそうです。以下写真はゲルマー・ルドルフの論文から引用しました。

ジョン・ボール説

ルドルフが示した穴がどこにあるのかというと、おそらくこれと同一の穴だと推測するとして、否定派の自称航空写真専門家だったジョン・ボールによると、以下のポンチ絵の③にある(ジョン・ボール自身の現地確認では)のだそうです。ジョン・ボール自身が航空写真にその穴の位置を書き加えたものもその隣に貼っておきます。


ジョン・ボールの解説は以下の通りです。

  1. 火葬棟
  2. 地下死体安置所のセメント屋根。1943年から44年にかけて、数十万人が殺害された「人間ガス室」であったとされている。ほとんどすべての「目撃者」とされる人々は、SS隊員が屋根の穴から青酸ガス弾を犠牲者に投下するのを見たと証言している。
  3. 1993年に著者が検査した2つの穴は、1944年の航空写真では確認できないため、1944年以降、重要な目撃談と一致させようとする何者かによって屋根を打ち抜いたものである。(左が1番の穴、右が2番の穴)。筆者は1番の穴から死体安置所に入った。
  4. 1944年8月25日の航空写真にある4つのマーク。1993年に著者が屋根の内側と外側を調べたところ、これらの場所に穴はなかったため、航空写真の4つのマークは穴ではなかった。著者が考えるように、4つのマークが写真に描かれたものであろうと、屋根の上の物体の影であろうと、4つのマークが穴ではないという重要な事実に変わりはないのである。
  5. 結論
    • しかし、44年8月25日の航空写真にあった4つのマークの位置には、今日、穴はなく、したがって44年の穴ではなかった。
    • 今日、屋根にある唯一の2つの穴は、1944年の航空写真に対応するマークがないため、44年以降に屋根を打ち抜かれたものである。
    • したがって、1944年には屋根に穴はなく、屋根の通気口からシアン化物ペレットが流し込まれたという「目撃談」は物理的に不可能である。

まず、ボールは「1993年に著者が検査した2つの穴は、1944年の航空写真では確認できないため、1944年以降、重要な目撃談と一致させようとする何者かによって屋根を打ち抜いたもの」としていますが、「1944年以降、重要な目撃談と一致させようとする何者か」はボールが勝手に推理した仮説に過ぎず、何の根拠もありません。そのような穴が開いていることの理由は全くの不明*3であり、ボールが位置が違うと主張するのであれば、単に関係ない穴だとするだけで済みます。後述する現地調査では、そのうちの一つを関係ない穴だとしています(残り一つは何も言及されていません)。

ボールは、「4つのマーク」を、アウシュヴィッツ収容所の航空写真に関する解析を初めて行った米国のCIA(ブルギオニらの報告書)が、航空写真に描き込んだと推測していますが、イギリス軍が撮影した別の航空写真にも写っているのでその推測は成立しません。(ただし以下の写真は、Holocaust Controversiesの記事で紹介されてはいますが、元々の出典がわかりません)

1944年8月23日(イギリス空軍撮影)

さらに、ボールは「1993年に著者が屋根の内側と外側を調べたところ、これらの場所に穴はなかった」としていますが、現地の遺跡はダイナマイトで激しく破壊されていることは述べた通りであり、コンクリート屋根の天井それ自体も破壊されていて、それら破壊片は元の位置からも移動しているような状態であり、無数にある破壊片の断面や亀裂の状態を詳しく調査しない限り、穴の残存痕跡は判明しません。

以上のことから、ジョン・ボール説の結論は成り立たないことがわかります。

ゲルマー・ルドルフ説

ルドルフは、複数の自身の論文で同じ解説を何回も行っているようですが、こちらの記事によると、まず以下のような写真を用いて解説を行っています。

この元になっている写真の高解像度なデジタル画像をネットで探したのですが、十分な解析解像度を持つものが見当たりませんでしたので、ルドルフ自身の上の論文からルドルフが書き加える前の当該箇所を拡大して以下に示します。

ルドルフは、ガス室とされる箇所の外壁幅を何かの図面から読み取って「9.58m」とし、自身が「チクロン投下穴の小煙突」の箇所と推定した部分の幅を、その外壁幅との比較で算出しています。

しかしこの方法があまりにも適当過ぎて杜撰であることはすぐわかります。例えばルドルフが小煙突と推定した「70cm」は、ルドルフが写真上で、ガス室天井の端となっている黒い影の部分の切れ目から推定しています。ところが、その黒い部分の切れ目はガス室天井の端の部分の右側延長箇所を見ると同じように切れ目があり、かつ小煙突などの端部を遮る物体は何もありません。つまり、小煙突の存在だけが壁の黒い部分に切れ目を作るわけではないことがわかります。これは単に、写真の解像度の問題や、建物からカメラに入る光の加減などが撮影画像に影響することを示しています。物理的なアナログ写真画像は、コンピューターグラフィクスのように正確な画像になるわけではないのです。

さらに、「85cm」とされている小煙突は、明らかにその右側にある二つとは影の濃さが異なります。それは「70cm」とされた小煙突右側の窓の下にも何か写っているそれにも似ていますが、それは明らかにガス室建屋の外側に位置しており火葬場建屋の壁面にある何らかの形状でもあるように思えます。「85cm」もそうである可能性があります。

以上のことから、ルドルフが説明するように「3つのオブジェクトの幅は55cmから85cmの間で変化している」だなどとは言えず、「それらは密接に並んでおり、屋根の同じ半分に一斉に位置している可能性が高い」ということもできません(以下のルドルフ作成の図)

従ってルドルフが同論文で結論したような「これらの物体がチクロンBのハッチであったはずがないという証拠である」などと言うことはできません。そのようなルドルフの結論は、ルドルフ自身が誤った推定をしたが故のストローマンに基づいているだけなのです。

反修正主義者の説

反修正主義者の説は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館公認の元、実際に詳細な現地調査を行った報告書に示されているものであり、ここでその報告書全文を示すには長すぎるので、以下を参照ください。

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当然、この反修正主義者による報告についての、修正主義者側の反論も存在します。さらには、その修正主義者の反論に対する反修正主義者側の再反論もあります。それらの議論を確認するのは、ここでは読者の方にお任せしたいと思います。

私がこの穴の議論で付け加えておきたいことは、「No Holes」の証拠は何もないという事実です。つまり、「No evidence of "No holes"」なのです。それに対し、穴があったという証拠は以上で示した通りです。

フォーリソンが求めた「たった一つの証拠」はありませんが、膨大な量の証拠はあるのです。

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*1:日本のホロコースト否定者である西岡昌紀氏は「歴史見直し研究所」と名付けましたが、日本の歴史学者である武井彩佳氏は『歴史修正主義』で「歴史修正研究所」としています。個人的にはどちらも誤りで、「Institute for Historical Review」と名乗ったのはどう考えても、「The Americn Historical Review」なるアメリ歴史学会の公式出版物を意識したからだとしか思えません。「Institute for Historical Review」の略称は「IHR」と称しますが、「Americn Historical Review」は「AHR」なのです。後者は日本語では「アメリ歴史評論」となるかと思うので、前者は「歴史評論研究所」にすべきだと思います…私は影響力がないのでこの呼び方は広まらないと思いますが、IHRの設立目的はホロコースト否定派の主張を正当な歴史学と対等のレベルにまで世間に認めさせることにあったので、西岡・武井両名の日本語訳は不適当だと考えます。

*2:否定派は、そのようなことをすればチクロンBから青酸ガスが放出され続けるので周囲が危険であると主張するかもしれませんが、野外で放出される青酸ガスは空気よりも軽く大気中に拡散してしまうため、よほど近場でない限りは危険性は極めて少ないでしょう。また放置すれば2〜3時間で青酸ガスは全て放出されてしまいます

*3:現地住民が盗掘のために開けた、戦後のポーランド戦争犯罪調査委員会が内部調査のために開けた、何者かが個人的興味から勝手に開けた、風化により劣化でその部分だけが開いてしまった、否定派あるいは反否定派が悪戯目的で開けた、etc.,など他の要因仮説はいくらでも示すことができます