ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(1)

「ホロコースト論争」動画を論破する(2)

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(3)-2

「ホロコースト論争」動画を論破する(4)

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-1

「ホロコースト論争」動画を論破する(5)-2

ホロコースト論争」動画を論破する(6)

「ホロコースト論争」動画を論破する(7)

「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「「アンネ・フランク」がホロコーストの矛盾をあぶりだす?「ホロコースト論争」6/20 「失われた事実」は目の前にあった!」と題された動画を論破する。

この動画シリーズを論破するに当たってやっている作業は、

  1. 動画を冒頭で一旦停止する。
  2. その時点でコピペすべきテキストがあるならスクショしつつ、カーソルキーで動画をポーズしたまま移動して、動画ウィンドウ内全面が別の文字テキストになったらスクショする(基本はこの繰り返し)。
  3. スクショするたびにその都度、その画像を一旦Google Photoにアップロードする。
  4. アップロードしたスクショ画像をGoogle Lensにかけて、テキストだけを抜き出し、コピーする。
  5. コピーしたテキスト文字列を編集中のこのブログ記事に貼り付ける。
  6. 背景画像の文字列と重なっていて、うまくテキスト文字列を抽出できないときは手入力する。
  7. Google Lensによるテキスト文字列抽出は余計な空白が入っているので、目立つところだけ空白を手作業で取り除くなど、若干の修正を行う。
  8. 図表等の画像の場合は、できるだけその画像に重なっているテキスト文字列のない状態のところで一旦停止した上で画像をスクショする。
  9. 場合によっては、その画像の引用先が明確な場合は、その引用先から直接画像をコピペしてくる。
  10. たまに音声を聞かないとわからない部分もあるのでその場合は嫌々ながら渋々音声を聞く。

のような、先ずは動画からテキスト起こしするための単純作業の繰り返しになります。これが本当に流れ作業で単純作業の繰り返しなので、やってるうちに退屈になってきて、ゲームとかネット閲覧とか読書とかetc、他のことをし始めてしまいます。ですから先へなかなか進みません(笑)

今回などは、すでに6回、動画への論破記事をあげていて、相当つまらなく感じるようになっているので、やる気レベルもかなり低下した状態です。

でも、あと何回かは続けたいと思います、今回を含めてあと3回くらいかも。

 

スピードを出している自動車がゆっくりとカーブを曲がろうとするときは、暗闇で、月の光が明るかった。その中には、沈黙に沈みながら話をする、立っている人々が座っていた。((1)ドイツの有名なナンセンス子守唄)

ホロコースト論争」完全解説第6章
アンネ・フランクの運命から見えてくる「事実」

 

前回の動画でまとめた、各収容所別の虐殺数から、最小と最大の数字のみを抜き出してみましょう。

(2)全ての収容所で、人数に10倍を軽く超える開きがあることが分かるでしょう。

原爆投下の被害者などもはっきりとは確定していませんが、開きはここまで大きくありません。

これは、誤差といえる範囲をはるかに超越しています。少なくとも、どちらか一方は確実に間違いだと言えるのです。

私なりに、ホロコースト正史の本質を最も的確に表現するなら、

「全身がパラドックスで構成された巨大なモンスター」

となります。

この奇妙な生物は、体を構成している全ての細胞組織が、別の部分と互いに矛盾し合っているのです。

いくつか例を挙げてみましょう。
1.
(3)ニュルンベルク裁判においては、トレブリンカでの凶器は「高熱蒸気」だとして認定されました。 しかし、正史派の標準的研究書、ラウル・ヒルバーグ氏の著作では、これを当たり前のように「ディーゼルエンジン排気ガスだとしています※。

しかも、「蒸気処刑」 説が間違いである理由は一切説明されないのです。

※英語版ヨーロッパユダヤ人の絶滅, p. 878、 邦訳下 158

2.
(4)正史において最も重要な証拠とされるのは、元アウシュヴィッツ収容所長だったルドルフ・ ヘスの自白です。
彼によれば、1941年秋にアイヒマンが収容所に訪れた時に、チクロンBを使った処刑実験について報告しました。それ以降、大量虐殺の際にはシアンガスを使用することが決定された...... となっています※。

トレブリンカなどで使っていた一酸化炭素 が非効率的なので、シアンガスに決定したことになっているのです。
この自白が、それまではトレブリンカでディーゼルガス室が使用されていた根拠にな るのかと言えば、そうはいかないのです。なぜなら、時系列で言えばトレブリンカが
作られたのは、この話よりも後で、 1942年だからです。


Commander at Auschwitz,; Kommandant in Auschwitz,

つまり、ヘスはトレブリンカで 「42年以降」 使っていた一酸化炭素が非効率的だという理由で、シアンガスの使用を 「41年」 に決めたわけです。
そして、その後でトレブリンカ、ベウゼッツ、ソビボル、ヘウムノでは、なぜか、シアンではなく 「非効率的なはずの」 ディーゼルエンジン排気ガスを採用したわけです。

これは、「論理のブラックホール」と呼ぶ べきではないでしょうか。 ヘスはタイムマシンでも持っていたのでしょうか?

3・
矛盾の最たるものは、前の動画でも説明しましたが、絶滅の決定時期です。ヘスの自白では、(5)-1「1941年夏」に国家指導者ヒムラーのところに召喚され、ユダヤ絶滅命令を受け、それには「計画書もあった」ことになっています※。

※Commander at Auschwitz, pp. 171-174; Kommandant in Auschwitz, pp. 157-159.

これは、記憶違いや細かいミスなどといったことが有りえない、「最重要事項」のはずです。
ところが、その一方で戦後何十年も「ユダヤ絶滅は1942年1月に決定された」というのが、定説となっていたのです。
しかも、さらに驚くべきことは、このように決定的に矛盾した情報が、 何食わぬ顔で両立してきたこと、矛盾を矛盾だと指摘することがタブー視されてきたことです。
既に説明したとおり、マルチン・ブロシャートは「はっきりしたヒトラーの命令は無かった」と主張し、(5)-2ヒルバーグなどは「計画も青写真も予算もなかった」 という説を唱えた※のです。

これらの説は、「ヘスの自白は完全に虚偽だった」と言っているに等しいのです。

※Newsday, Long Island, New York, Feb. 23, 1983, p. II/3.

このようなことは、いちいちあげていったら切りがありません。 小さな情報から大きな情報まで、 全ての要素に、それを否定する情報が、正史自身の内部に存在するのです。
つまり、ホロコースト正史とは、一概にホロコースト肯定論とは言えないのです。

むしろ「部分的否定論の集合体」とみなせるということです。

しかし、ディテールについては定説が無いとしても、ホロコースト、つまり「ユダヤ絶滅計画」の大まかな枠組みについては、正史派の中で意見の統一があるではないか、という反論があるかもしれません。
ところが、その基本設定自体に、大きな問題があるのです。

まず、 労働不適格な人間は選別され、囚人としては登録されず、 殺人ガス室で殺される」という設定になっているのですが、 選別とはどのような基準でどれほどの割合だったのか、という問題があります。
正史派の説には全く一定した物が無いのですが、一例をあげればアウシュヴィッツ博物館長のフランチシェク・ピペルの1990年代の研究では、100数十万人が移送され、 そのうち110万人が虐殺された、となっています。
Die Zahl der Opfer von Auschwitz, National Museum Publishing House, Oświęcim, 1993
これによれば、ざっと8割は労働不能ガス室行き、という計算になります。

Wikiなどを参照しても、おおむね殺される割合は非常に高い、となっているようです。

ここで、あの世界一有名なアウシュヴィッツの収容者、 (6)アンネ・フランクが辿った運命を、この設定に合わせて検証してみましょう。
1944年9月、アンネとその家族は、アウシュヴィッツに移送されました。
移送集団は1019人いましたが、そのうち549人は登録されませんでした。
Wikipediaアンネ・フランクより

半数以上は殺人ガス室に送られる「労働不適格者」だったことになります。
しかし、アンネは登録囚人となりましたので、彼女は「労働適格者だった」ということになります。しかも、家族全員が 「適格者」だったのです。完全にくじ引きのように選別したのであれば、これは凄い偶然です。この事実だけを見ても、収容する場合には、家族がバラバラにならないような配慮があったという推測が成り立ちます。 実際ビルケナウには、(7)「家族収容所」という区画がありました。

(註:上記画像表示中「ユダヤ絶滅を目指していたにしては、ナチスは随分心優しいところもあるものです」と機械音声が入っています)

すると、選別の基準は何なのでしょう。「就労経験」でも「技能」でもないことになります。アンネは15歳の少女だったのですから。
収容所にはもっと幼い子供も、逆に老人も確実に登録されていました。

(註:これは、https://www.auschwitz.org/muzeum/informacja-o-wiezniach/です)

このページから、 (8)元登録囚人の死亡者68751人分の年齢分布を調べることができるのです。

図表
Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA August 2000 P264, より引用

労働不能と判定され、「殺人ガス室」で殺された場合にはこのような記録には残されない、という正史での「設定」を思い出してください。つまり、この人たちですら「労働不適格者」にはならなかったのです。

しかし、1942年6月12日の、スロヴァキアからの移送を免除されたユダヤ教徒のリストによれば「労働可能」の基準は
「14歳から60歳までの男性」だとなっています。
Yad Vashem(1942.6.12) m-7/18(7)
となれば、奇妙なことにアウシュヴィッツでの「労働可能」の基準は、これとは異なることになります。

(註:以下は80歳以上の死亡者のリストで、右端の「mosaic」とはユダヤ教徒であることを示。動画では、ゲルマー・ルドルフの『ホロコースト講義』p.331にある表をスクロール表示させている。ちなみに、ユダヤ教徒はp.331-332の表の61人中18人である(数え間違えていなければ))

カトリックと並んでユダヤ教が多く並んで いますので、

ユダヤ教徒以外に限って生かされていた」

訳ではない事が判ります。
ならば、不適格者の基準は健康状態でしょうか。

(註:機械音声では、以下の図とともにアウシュヴィッツには病棟区画と医師がいて治療も行われたことが解説されています、すでに批判したアルマ・ロゼについて語られてもいます。)

Plan No.2503 of Birkenau, drawn on June 18, 1943.Excerpt for Construction Sector III. RGVA, 502-2-93, p.2

これに関して、正史の立場ではどのように 説明して来たのでしょう。
どうやら、回復可能な患者は治療を受け、 重病患者は「殺人ガス室」行きとなるということのようです。
しかし前述した通り、 (9)ビルケナウには重病患者用の 「特別療養ブロック」すら存在しました。 

4 Spezialbaracken 6b (Schwere Innere)
4棟の特別バラック 6b (重病人)

1943年6月11日の 「捕虜収容所での特別処置 を実行するのに必要なバラックのリスト
RGVA, 502-1-79, S. 100.
4 Spezialbaracken 6b (Schwere Innere)
4棟の特別バラック6b (重病人)

さらに言えば、第三章で紹介した死亡証明書によれば、この(10)ユダヤ教徒、エミール・カウフマンは78歳で老衰で亡くなっているのです。

その状態でもなお、彼は労働不能とは判定されず、ガス室送りにもならなかったのです。

結局、 (11)正史に於ける「労働不能」の基準とは、一体何なのでしょう。
重病人や老衰で死亡寸前の人間よりも、労働が難しい、生死の境をさまよっているような人間だとでもいうのでしょうか?
だとすれば、そのような状態の人間は、そのまま食料も与えず、治療も止めれば自然に死んでいくのではないでしょうか
わざわざ殺人ガス室まで引きずって、取り扱いが危険なシアンガスで止めを刺す必要がどこにあるのでしょう。
また、この基準に従って殺した人間は、 移送者の大半を占めていた……ということになります。
移送した人間の大半が、 生死の境をさまよっている状態……?
果たして、そんなことがありえるのでしょうか

さらに、(12)アンネ・フランクの運命を検証していきましょう。
アンネはその後、ソ連軍の進行が間近に迫っていたことを受けて1944年10月末にアウシュヴィッツから移送されます。
そして、ベルゲン・ベルゼン収容所に移送された後で、劣悪な環境の下でチフスに感染し、15年の短い生涯を終えたのです。

これまでの動画の内容がきちんと頭に入っている人ならば、ここで大きな疑問が生じるはずです。
ドイツにあるベルゲン ・ベルゼン収容所は、絶滅収容所では無いし、殺人ガス室は無かったということで、決着していたはずです。

ナチスが本当にユダヤ教徒を絶滅するつもりがあったなら、この逆方向の移送しかあり得ないはずです。 選別の時に、アンネをガス室送りにしなかった件といい、このベルゲン・ベルゼンへの移送といい、ナチスはむしろアンネの命を生かそう生かそうとしているようにしか見えないではありませんか。

これに対する反論として、いや、一時的に ベルゲン・ベルゼンに移送したとしても、その後で再びどこかの絶滅収容所に移送して、結局は殺すつもりだったのでは? ……などと いう考えをふと思いつくかもしれません。
そこで、各収容所の基本情報をwikiなどで調べたならば、きっとある重大な事実に気が 付き、愕然とすることでしょう。

42年12月ベウゼッツ閉鎖。

43年4月ヘウムノ閉鎖。

 43年10月トレブリンカ閉鎖。

 43年秋でマイダネクのガス処刑停止。

(収容所自体は44年秋まで存続)

ソ連の進行に従って、絶滅収容所は次々と閉鎖されて行きました。

そして、1944年の段階では、絶滅収容所アウシュヴィッツ一箇所だけになってしまいました。 

アンネが移送されるべき絶滅収容所などどこにも存在していなかったのです。冗談のような話ですが、「絶滅収容所が絶滅してしまったのです(註:括弧閉じ"」"がないのは原文ママ

何故に、ナチス絶滅収容所がどんどん減って行ったのに、新しく増やそうとはしなかったのでしょうか。絶滅計画は縮小する一方だったということになります。
他にある多くの収容所では無条件で囚人を生 かし続け、アウシュヴィッツたった一か所でそれも労働不能者に限って殺すだけで、ユダヤ教徒を絶滅できるのでしょうか。

これは、ラウル・ヒルバーグが採用した人数を使って、各収容所の一ヶ月あたりの「虐殺数」を試算したものです。

見ての通り、アウシュヴィッツだけだと、「虐殺能力」が激減してしまいます。他の絶滅収容所が必要ないなどということはないはずです。

 当時、ハンガリーは80万人とも言われる膨大なユダヤ教徒を抱えていた国でしたが、彼らの収容所への移送は、政治的な理由で非常に遅れました。
ナチスハンガリー政府にユダヤ教徒の引き渡しを要求したのは1942年9月24日で、
PS-3688
最初の移送が実現したのは、実に1944年4月16日になってからでした。
「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」 下p.124
膨大なハンガリーユダヤ教徒の虐殺を近い将来に控えていた、正にこの交渉中に、 絶滅収容所は次々に減ってしまったことになります。 

何故に、ナチスは既存の収容所に間に合わせのガス室を増設する、といった対策すら取らなかったのでしょう。

正史の設定では、1944年11月にアウシュヴィッツでも虐殺を停止したことになっているので、この段階でユダヤ絶滅計画はドイツ 支配圏全土で完全停止したことになります。しかし、その時点でも各収容所でユダヤ教徒は大量に収容されていました。 各地のゲットーにもユダヤ教徒は残っていました。 終戦時に生存していた欧州のユダヤ教徒は、ポーランド系だけでも、正史派は38万人、修正派は140万人※はいたと主張しています。
Carl O. Nordling, What happened to the Jews in Poland?, The Revisionist, 2004, No.2
試訳: ポーランドユダヤ人に何が起ったのか?
C.O. ノルドリンク 歴史的修正主義研究会試訳

また、ヨーロッパにおけるユダヤ教徒の境遇問題を調査したイギリス・アメリカ委員会は、1946年2月に記者会見しています。
「戦後のポーランドでは80万人のユダヤ教徒 が依然として移住を希望している」というのです。
それに従えば、欧州に生存していたユダヤ 教徒の総計はそれを遥かに上回ることになります。

Keesings Archiv der Gegenwart, vol. 16/17, Rheinisch-westfalisches Verlagskontor, Essen 1948, p. 651, Item B of Feb. 15, 1946. The Allied occupation forces in postwar years officially registered the weekly (!) arrival of up to 5,000 Polish-Jewish emigrants in the western zones of occupation alone, W. Jacobmeyer, Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte 25(1977) p. 120-135, esp. p. 125.

すなわち、ヨーロッパのユダヤ絶滅は全く完了していなかったのです。ならば、何故にユダヤ絶滅計画はどんどん縮小され、途中で終了してしまったのでしょうか。その理由を、正史では一切説明していません。

ナチスは、ユダヤ絶滅などするつもりが無かったとしか解釈できないではないですか?

また、絶滅収容所がドイツには存在しない、という話も非常に奇妙です。
ヨーロッパのユダヤ教徒は、何もポーランド周辺からのみ移送されたわけではありません。 例えば、フランスからはユダヤ教徒が 75721人移送されていますが、
Deportation des Juifs de France, Beate Klarsfeld Foundation, Brussels/New York 1982
その大半の69000人がアウシュヴィッツに 向かいました。
「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」 上p.499
彼らを殺すことだけがこの移送の目的なら、何故にドイツを横断して、はるばるポーランドまで多額の移送費を使って移送しなければならないのでしょう。

近くの収容所、 ダッハウ、ブッフェンバルトなどに小規模の殺人機能を持たせて、そこで殺せば良かったのではないでしょうか。

それ以前に、囚人の扱いが異なる三種類の収容所がある、という基本設定自体がそもそも不可解なのです。

純粋絶滅収容所     無条件で全員殺害
労働兼絶滅収容所    労働不適格な者のみ殺害
通常の強制収容所    無条件で全員生かす

ナチスは、収容所の労働力を必要としていました。ビルケナウの収容者を拡張しようとしたものの、全く目標に達しなかったのです。その状況において、ある収容所では無条件に囚人を生かし、別の収容所では無条件に殺すという方針に、一体どういう論理的整合性があるのでしょう。
それはまるで、アクセルとブレーキを同時に全力で踏んでいるようなものです。

思い出して欲しいのですが、終戦直後では全ての収容所で無差別虐殺が行われたという定説になっていました。

それならば、このような矛盾は発生しなかったのです。

しかし、1960年代以降、ユダヤ絶滅はポーランドでのみ行われていた、と定説が変わりました。

ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヘンバルトでもユダヤ人その他の囚人はガス処刑されなかった)
Die Zeit, Aug. 19, 1960,

このような場合、 普通ならば研究が進んだ ため、より正しい形に学説が修正された……となるのでしょうが、 全くそうではないのです。 

先ほど、ホロコースト正史は無数のパラドックスで作られていると表現しましたが、 絶滅収容所を6つに限定したために、この怪物は、個別の細胞だけではなく、基本となる骨格からしてねじ曲がり、矛盾をはらんでしまったのです。
それに気が付くためには、何も、難解な研究論文を読み解く必要など有りません。

何という逆説でしょうか。 実は、アンネ・フランクの運命こそが、ホロコースト正史に対する最も端的な反論ソースだということです。

アンネの日記の巻末の解説を読み、wikiに書いてある収容所の基本情報を調べるだけで、かくも巨大な矛盾に辿り着くのです。

終戦後70年間、このパンドラの箱のふたは開きっぱなしでした。
奪われた事実は、すぐ目の前にあったのです。

さて……このように不可解だらけのホロコースト正史ですが、一体どのような根拠に よって成り立っているのでしょうか。
かつて、私がネット上で論争をしていた時、よく正史を支持する人が書いた言葉があります。

ホロコーストは、数多くの証拠によって、 疑いようもなく証明されている!」

……と。
これは、本当なのでしょうか。

次の動画からは、この「数多くの証拠」なるものがどんなものか解説していきましょう。
物証、 写真、文書、 証言……その正体を洗 いざらい明らかにしていきます。

 

(1)「ドイツの有名なナンセンス子守唄」

▶️引用に戻る

これは単純に、知識として知りたくなったからでして、反論の目的はありません。ただし、加藤のちゃんと引用元を示さない悪い癖だけは指摘しておきます。これは、ユルゲン・グラーフの著書を歴史修正主義研究会が翻訳したものの中(p.25)にあります。グラーフ著書の原文(英語版)ではこうあります。

It was dark and the moon shone brightly as a speeding motor car slowly turned around the straight corner. Within were seated standing people, silently sunk in conversation...

これをドイツ語訳して検索にかけると、以下のページが見つかりました。

Dunkel war’s, der Mond schien helle – Wikipedia

Dunkel war's, der Mond schien helleは作者不詳のジョーク詩である。

この詩の特徴は矛盾した表現、パラドックスにある。これはすでにタイトルから始まっており、本文中にも多くの矛盾がある。

これがドイツでは有名なのは事実のようですが、グラーフはヒルバーグの主張のナンセンスさをこの童謡のようなものだ、として示しています。当該箇所ではアインザッツグルッペの所属人数の少なさに比べて殺害人数が多すぎることを、グラーフはナンセンスだと言っているのですが、アインザッツグルッペは、部隊単独でユダヤ人虐殺を行ったわけではないので、グラーフ自身がナンセンスだったりします。

note.com

またこの翻訳シリーズの3回目で、ヒルバーグが論述したアインザッツグルッペンに関する記述に対する当該箇所のグラーフによる極めて不誠実な反論については、以下で徹底的に批判されています。

note.com

加藤が、Dunkel war’s, der Mond schien helle(暗い夜だったけど、月が明るく輝いていたんだ)を引用するのを見て、グラーフのように実際には加藤自身がナンセンスな主張をしていることを示している、ようにしか思えないのは皮肉なものです。ただし、グラーフの名誉のために(グラーフの名誉など守る気はありませんが)言っておきますが、流石に加藤よりはグラーフの方が遥かにマシではあります。

▶️引用に戻る

 

(2)絶滅収容所の犠牲者数の数字がバラバラすぎる?

▶️引用に戻る

ここでは、加藤は各絶滅収容所についての犠牲者数の値があまりにもばらつきが大きすぎることに文句を言って、原爆投下の被害者数でもそんなにばらつきは大きくはないのに、などと言っています。要は、正史派はこんなにいい加減なのだ、とでも言いたいのでしょう。

ですが、どのような事件の犠牲者数であろうとも、それぞれの数字はその由来、つまりどうやってその数字が算出されたのかが重要なのであって、その由来が全然違うものを並べて比較しても無意味です。例えば加藤は、アウシュヴィッツの犠牲者数について最大で900万なる数字を含めていますが(それを出してきたのは元々はフォーリソンですが)、900万なる数字の由来が全然わかりません。フランスで作成された古いモノクロ映画『夜と霧』に登場する数字らしいですが、他では全く見られない数字であり、確認のしようもなく、そのようなわけのわからない数字と、例えば現在の広く認められているフランチシェク・ピーパーによる110万人説を比較するのはナンセンスでしょう。

またフォーリソンは同記事で「修正主義者の圧力に押されてアウシュヴィッツの死亡者数を下方修正せざるをえなくなった」などと述べていますが、アウシュヴィッツの死亡者数についてソ連400万人説をアウシュヴィッツ博物館の公式数字として1990年頃まで変更できなかったのは、東西冷戦の影響であることは明らかです。フランチシェク・ピーパーの研究自体は1986年頃には終わっていましたが、ポーランド民主化されるまでその発表を待たなければならなかったのです。

しかし、加藤によると、ホロコースト犠牲者総数は600万人と戦前よりはるか前から決まっていたのでは無かったのでしょうか? それなのにアウシュヴィッツだけでそれを大幅に超える900万人? 加藤の言っていること自体があまりにも支離滅裂で矛盾だらけに思われるのは私だけでしょうか?

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(3)トレブリンカの「蒸気説」はニュルンベルク裁判で認定されたか?

▶️引用に戻る

いいえ。ポーランドが提出した報告書には蒸気説の記載があったそうですが、ニュルンベルク裁判で認定された殺害方法は「ガス室」でした。詳細は以下をご覧ください。

note.com

働ける人は全員、強制収容所の奴隷労働者として使われた。働けない人は、ガス室で破壊され、体は焼かれた。トレブリンカやアウシュビッツなどの強制収容所は、この主目的のために用意されていた

▶️引用に戻る

(4)アウシュヴィッツ収容所司令官のルドルフ・ヘスの自白の時系列的矛盾

▶️引用に戻る

まず、加藤はそこでヘスの自白が「最も重要な証拠」とされていると述べていますが、重要ではありますが「最も」とは一体誰がそんなことを言っているのでしょうか? 例えば、修正主義者もよく知るジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツガス室の技術と操作』を読めばわかりますが、ヘスの証言はそれほどは出てきません。

holocaust.hatenadiary.com

プレサックがそこで重要視しているのは明らかに、自身がアウシュヴィッツ博物館やソ連アーカイブから見つけた文書資料の方です。修正主義者が目の敵にするほどよく知っているはずのプレサック本がそうなのですから、加藤はいったい何を読んでそんなことを言っているのでしょうか?

さてしかし、加藤がそこで書くように、ヘスの自白というか、回想録などに見られる時系列的矛盾があるのは事実でよく知られています。この矛盾を修正主義者たちは、「矛盾しているから嘘である」と否定論に利用しますが、修正主義者でない歴史家たちは、記憶の誤りだとしています。加藤は「記憶違いや細かいミスなどといったことが有りえない、「最重要事項」のはず」と述べていますが、過去のことを思い出して証言、あるいは記述する以上は、思い出し間違いや、勘違い、失念、誤解などが含まれることは大いにあり得ます

ヘスは、1946年3月11日の深夜、あるいは12日の未明にかけてイギリス軍当局によって逮捕されていますが、アウシュヴィッツ時代の話は概ね逮捕時から2〜5年前の話になります。ヘスは、当然ですが逮捕されて以降、日記やメモなどの私物を一切持っていなかったでしょう。その上で、自身の記憶だけを頼りにその詳細を思い出さなければならないのですから、むしろ、年月等を正確に思い出すのは多少なりとも難しかったと思います。自身の周りにいるのは、当時のこととは無関係の連合国の人ばかりであり、自身の記憶が正しいかどうかを確認することさえできません。

それに、より重要なことは、ヘスには、自身の名誉を守りたいという人間個々人が当然持っている本能的な思考と、残された家族への配慮以外の部分で、意図的な嘘をつく理由はなかったと考えられます(修正主義者たちがヘスへの拷問を主張しているのはまた別の話です)。さらに、他の証言者の証言内容と非常によく一致していることも無視できません。その他の当時の証拠から類推されるさまざまな事実とも、ヘスの証言は基本的には矛盾がないのです。例えばヘスは、自伝に下記のように記述しています。

 私は、ヘスラーと共に、クルムホーフへ視察にいった。ブローベルは、命令に応じてさまざまの焼却炉を作らせ、材木とベンジン廃油で焼却を行なっていた。彼はまた屍体を爆砕することも試みていたが、これは全然不完全だった。
 灰は、まず骨粉製造機で粉末にされた上で広汎な森林原野にまき散らされた。連隊長ブローベルは、東部地区全域の大量墓地をすべて発掘して、始末する任務をうけていた。
 彼の作業司令部は、「一〇〇五」という秘密番号でよばれた。作業そのものは、ユダヤ人部隊の手で行なわれ、彼らは、一つの分区が終るごとに射殺された。アウシュヴィッツ強制収容所は、「一〇〇五」司令部のため、たえずユダヤ人を供給した。
 クルムホーフ訪問の際、私は、トラックの排気ガスを用いる、そこの虐殺施設も見た。ただし、そこの部隊指揮官は、この方法はきわめて不確実と説明した。理由は、
ガスの出来がきわめて不規則でしばしば完全殺害にまで至らないからである。
 クルムホーフの大量埋葬壕に、どれだけの屍体が埋められ、また、どれだけがすでに焼却されたか、私は知らない。連隊長ブローベルは、東部地区の大量埋葬壕内の人数をかなり正確に知っていたようだが、厳重に沈黙を申しわたされていた。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社、pp.389-390

クルムホーフとは、ヘウムノ絶滅収容所のことです。この証言だけならばこれを嘘と見なすことが可能ではありますが、実はこの視察旅行には当時の文書資料が残っているのです。

<内容の一部を翻訳>

受信日:1942年9月14日   1744
送付先
親衛隊経済管理本部  強制収容所アウシュヴィッツ

件名;運転許可証
参考:1942年9月14日

野外炉の実験場ラインハルト作戦を視察するため、アウシュヴィッツからリッツマンシュタットへ、そしてリッツマンシュタットから戻ってくるための車の運転許可が、ここに1942年9月16日に許可される。

運転許可証は運転者が携帯することになっている。

<内容の一部を翻訳>

アウシュビッツ、1942年9月17日

旅行報告
リッツマンシュタットへの出張について

旅行の目的 特別な施設の視察

アウシュビッツからの出発は、1942年9月16日午前5時、アウシュビッツ強制収容所の司令官室の車で出発した。

参加者:親衛隊中佐ヘス、親衛隊少尉ホスラー、親衛隊少尉デジャコ

朝9時にリッツマンシュタットに到着。ゲットー内の見学が行われ、その後、特別施設に移動した。特別施設の視察と、そのような施設の実行についてブローベル親衛隊大佐との打ち合わせ。ブローベル親衛隊大佐がポーゼンの東ドイツの建築資材工場社(ヴィルヘルム・グストロフ通り)に特別注文した建設資材は、アウシュヴィッツ強制収容所のためにすぐに届けられることになっています。注文は同封の文書に示されており、問題の資材は我々の中央建設局C V/3事務所のウェーバー親衛隊中尉と合意の上、注文して方向転換することになっています。該当する数の委託書を上記の会社に送付してください。ハノーバーのビュルガーマイスター・フィンク通りにあるシュリーバー社と親衛隊大佐ブローベルが話し合ったことを参考にして、アウシュビッツ強制収容所用の物質を粉砕するためにそこにすでに予約されているボールミルを引き渡してください。

帰路は1942年9月17日、午前12時にアウシュビッツに到着した。

リッツマンシュタットとはウッチ(ゲットー)のドイツ語名であり、ヘウムノはウッチを含むヴァルテ大管区(ヴァルテガウ)にありました。

上記の二つの文書はHolocoust Controversiesのこちらの記事で紹介されています。

他のさまざまな証言や証拠などともヘスの証言はよく一致しており、それら証拠と「裏付け」あっているのです。従ってこうしたことからも、ヘスの証言に時系列的な矛盾が多少あったとしても、その証拠性の高さはいささかも失われないのです。

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(5)ヒルバーグの「予算も計画もなかった」と、ヘスの述べた「計画」。

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ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の大著で有名なホロコースト史家のラウル・ヒルバーグは「正史」の歴史家の中で最も修正主義者たちの攻撃を受けた歴史家かもしれません。ユルゲン・グラーフはヒルバーグへの批判だけで『粘土の足を持つ巨人』なる長大な著作を書きました。

 ヒルバーグは、ナチスドイツによるユダヤ人絶滅には予算も計画もなかった(大意)と述べたので、修正主義者側から猛批判を受けました。その内容についてはフォーリソンの反応を含めて以下にまとめています。

note.com

これは、ホロコースト研究でも重要な観点の一つのようであり、ユダヤ人の物理的直接的な絶滅はどのようにして引き起こされたのかについて、その研究の歴史的には、初期の頃にはヒトラーが最初(この「最初」がどの時点なのかははっきりしませんが)から計画していたものだとするいわゆる「意図説」が主流だった時には、予算措置はともかく、その大枠が計画されて実行されたものであろう、と考えられていたようです。

しかし研究が進むうちに、ナチスドイツはユダヤ人絶滅を最初から計画していたのではなく、出国政策から強制移送計画、ゲットー化などを経て、戦局の悪化と共に強制移送計画が頓挫したのと、ゲットーの大量のユダヤ人についての管理が困難になった、などの理由でユダヤ人の直接的殺戮をするしかなくなった、のように考えられています。例えば田野大輔氏は次のように述べています。

アウシュヴィッツでのユダヤ人の組織的・機械的な殺戮はそれがあたかも明確で綿密な計画の産物だったか、のような印象を呼び起こしがちである。だが以上に見てきたように、ナチスの反ユダヤ政策は当初から一貫して、大量殺戮をめざしていたわけではなく、むしろ状況の変化に応じて軌道修正をくり返しながら、多様な要因の絡み合いのなかで徐々に急進化の度を強め、最終的に絶滅収容所での工業的殺戮へと行き着いたのだった。こうした「累積的急進化」は、アウシュヴィッツ強制収容所が、開設後に大きく役割を変化させていったプロセスにも部分的に見出すことができるだろう。

田野大輔、「15分で読む:ホロコーストはなぜ起こったか」、『人文会ニュース』、2020年12月、No.136、p.11(pdfはこちら

この「累積的な急進化」という考え方は、ドイツの歴史学者であるハンス・モムゼンが最初に提唱したようで、決して真新しいものではなく、1976年にはすでに発表されていました。

モムゼンは、ナチス・ドイツホロコーストの第一人者であった[2]。彼は、ホロコーストの起源に関しては機能主義者であり、最終的解決はアドルフ・ヒトラー側の長期的な計画とは対照的に、ドイツ国家の「累積的な急進化」の結果であるとみなしていた[2]。

モムゼンは、ヒトラーは「弱い独裁者」であり、断固とした行動をとるのではなく、さまざまな社会的圧力に反応したのだと主張したことで有名である。モムゼンは、ナチス・ドイツ全体主義国家ではなかったと考えていた[2]。 モムゼンは友人のマルティン・ブローシャートともに、ナチス国家を、果てしない権力闘争を繰り広げるライバル官僚の混沌とした集合体であるとする第三帝国構造主義的解釈を展開した[2]。

英語版Wikipediaより

つまり、ユダヤ人絶滅は計画的に引き起こされたものであるのではなく、累積的急進化の結果として生じたものだ、と歴史学の主流では考えられているのです。このような意味で、ヒルバーグも「基本的な計画があって、その結果として生じたものではない」と述べているのです。

さて、加藤は、「も説明しましたが、絶滅の決定時期です。ヘスの自白では、「1941年夏」に国家指導者ヒムラーのところに召喚され、ユダヤ絶滅命令を受け、それには「計画書もあった」ことになっています」と述べて、これでは計画がなかったと言っているヒルバーグ説に矛盾してるじゃないか! と文句を言っています。ではヘスは実際どのように述べたのか、以下に引用します。

 一九四一年夏、正確な日付はもう覚えていないが、私は突然、ベルリンのヒムラーの元へ来るようにという命令を、それも彼の副官を通じて直接受けた。この時、ヒムラーは、それまでの彼の習慣と違って、副官も遠ざけた上で、およそ次のような意味のことをいった。

 総統は、ユダヤ人問題の最終的解決を命じた。われわれSSはこの命令を実行しなければならない。東部にある既存の虐殺施設は、この大がかりな作戦を実行できる状態にはない。従って、自分は、アウシュヴィッツをそれに当てることにした。理由の第一は、交通の弁が良いこと。第二に、そこなら一定区域を遮断、偽装するにも容易であること。

 自分は、最初、SS高級幹部をこの任務に当てようとした。しかし、事前に職務権限上の難点にぶつかったので、これは中止。今は、君がこれの任務に当たらなければならぬことになった。これは、厳しく重大な仕事で、その任に当たる者は全員、いかなる困難にもひるまぬことが要求される。これ以上の詳細については、いずれ国家保安本部から大隊長アイヒマンが行って君に説明する。関係部署は追って私から君にしらせる。この命令については君は絶対に沈黙を守り、上長にも絶対洩らしてはならない。アイヒマンと打ち合わせたあと、自分は予定の計画書を君に送る

 ユダヤ人は、ドイツ国民の永遠の敵であり、殲滅しつくされねばならない。われわれに手の届く限りのユダヤ人はすべて、現在この戦争中に、一人の例外もなしに抹殺されねばならない。今、われわれが、ユダヤ民族の生物学的基礎を破壊するのに成功しなければ、いつかユダヤ人が我がドイツを抹殺するであろう、と。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社、2019、pp.379f

ヘスのこの証言の時期的矛盾についてはすでに述べた通りですのでここでは触れません。しかし、ここで述べている計画書とは、内容不明の計画書であって、ユダヤ人絶滅全体の計画書などとは一切書いてありません。単に、アウシュヴィッツへのユダヤ人の移送計画かもしれないし、当初のアウシュヴィッツが担当するユダヤ人の地理的範囲なのかもしれないし、単なる初期的な工程表なのかもしれません。一言で計画書といってもその内容にはいろいろあるのです(当たり前の話です)。ただ、自伝を読む限り、どうやらそのような「予定の計画書」はヘスの元には送られなかったようです。

たとえそのような「内容不明の計画書」があったとしたところで、「「ヘスの自白は完全に虚偽だった」と言っているに等しい」なる加藤のクレームは全くの的外れと言っていいでしょう。ヒルバーグら、歴史家が述べているユダヤ人絶滅計画とは、累積的急進化と対照的に考慮されるトータルプランのことであって、どこかに書き記された計画書のような書類のこと(しかもヘスの証言から類推されるような瑣末な計画についての)を言っているわけではないからです。

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(6)アンネ・フランクアウシュヴィッツ到着時にガス室行きにならなかったのは不自然なのか?

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加藤は前回の動画のラストで「アンネ・フランクが辿った運命を紐解けば、ホロコースト正史の正体が見えてくるのです」と述べて、この動画に繋げているのですが、まず加藤が疑問視するのは、アンネ・フランク(一家)がアウシュヴィッツに移送された時点でガス室送りにならず殺されていないことです。

しかし、加藤の疑問は一撃で崩壊するのです。アウシュヴィッツ・ビルケナウに到着したユダヤ人は、原則としてその場で「選別」されました。一方はそのままガス室へ、もう一方は囚人登録して収容されます。その基準は、労働に適しているか適していないか、でした。そこまでは加藤も書いています。ところが、なぜか加藤は、労働に適しているか適していないかの基準があったことについては一言も触れずアンネ・フランク(一家)は偶然で殺されなかったのように述べているのです。一家全員がついた時点で殺されなかったのは偶然にしては出来過ぎだ!と。

では、実際には到着した時点でどのように選別を受けたのでしょうか? アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館のサイトから説明を以下に翻訳します。

輸送列車のランプで行われた選別手順は次の通りである。 列車を降りると、家族は分断され、全員が2列に並んだ。男性と年長の男子は一方の列に、女性と男女の子供はもう一方の列に並んだ。次に、収容所の医師や他の収容所職員が選別を行っているところに人々が案内された。彼らは目の前に立っている人々を一目で判断し、時には年齢や職業を簡単に申告させ、生死を決定した。

年齢は選別の主な基準の一つであった。原則として、16歳以下(1944年以降は14歳以下)の子供と老人はすべて死に追いやられた。統計的な平均値として、移送された人々の約20%が労働力として選ばれた。収容所に連行され、囚人として登録され、様々な番号の中から次の番号が割り当てられた。アウシュビッツに強制送還された約110万人のユダヤ人のうち、約20万人がこのようにして選ばれた。残りの約90万人はガス室で殺された。

https://www.auschwitz.org/en/history/auschwitz-and-shoah/the-unloading-ramps-and-selections/

アンネ・フランクは1929年6月12日生まれでしたから、アウシュヴィッツに到着した日は1944年9月6日なので、その時点で15歳でした。フランク一家は、全員がアンネ以上の年齢だったので、一家全員が労働適格者だと見なされたと考えて何も不思議はありません。加藤の言うような偶然ではなく、単純に労働適格者として選別される基準を満たしていただけだったからなのです。加藤は、アウシュヴィッツでは何の基準もなしに、労働適格者をランダムに選んでいただけだとでも言いたいのでしょうか? それこそ労働適格者の文字通り、あり得ません。

さらに考察を付け加えると、加藤が書いているように、アンネが輸送されてきた列車には1019人のユダヤ人が乗っていましたが、そのうち549人がガス室送りになったとされています。この割合は、ガス室送りになったのは概ね75%程度だとされていることに比べると、54%程度と低いので、アンネの送られてきた時期はもしかすると労働者不足だった可能性があります。労働適格者を選び出す目的は、あくまで労働力を供給・補充するためですから、その時期の労働人数の需要を踏まえて、選別時の人数調整が行われていてもおかしくはありません。後述するように、ユダヤ人でも高齢者が囚人登録されていたのは、労働力不足の時にアウシュヴィッツに来たからだと推測することも可能です。もちろん、実際にそこで判定していた親衛隊にしかわからないことであって、これは推測の一つであるにとどまりますが、そのように推測することを否定する理由はありません。

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(7)アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所にあった「家族収容所」区画とは何か?

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これも、前項同様、一撃で崩壊する愚論ですが、加藤はビルケナウの敷地には家族収容所なる区画があったことについて、その「家族」という名称から「(アンネ・フランク一家のようなユダヤ人を考慮して)収容する場合には、家族がバラバラにならないような配慮があったという推測が成り立ちます」などと述べています。しかし、その区画が家族収容所と呼ばれていた理由は、単純に「Auschwitz family camp」でググるだけでたちどころにわかります。

この家族収容所には、二種類ありました。一つは、テレージエンシュタット・ゲットーから移送されてきたユダヤ人の区画と、シンティ・ロマ人(ジプシー)の収容区画です。「Auschwitz family camp」でググるだけですぐに出てくる、二つの英語版Wikipediaからその内容を以下に紹介します。

テレージエンシュタット家族収容所チェコ語: Terezínský rodinný tábor、ドイツ語: Theresienstädter Familienlager)は、チェコ家族収容所としても知られ、チェコスロバキアのテレージエンシュタット・ゲットーのユダヤ人収容者で構成され、1943年9月8日から1944年7月12日まで、アウシュビッツ第二ビルケナウ強制収容所のBIIb区画に収容された。ドイツ人は、最終的解決について外の世界を欺くために収容所を作った。

1943年9月と12月、そして1944年5月に7回の移送でゲットーから追放された囚人たちは、アウシュヴィッツでは珍しい到着時の選別の対象とはならず、アウシュヴィッツで唯一組織的な教育の試みとなった子供区画の創設など、多くの「特権」が与えられた。それでも生活環境は劣悪で、死亡率も高かった。餓死や病死しなかった住民のほとんどは、1944年3月8-9日と7月10-12日の収容所整理の際に殺害された。最初の清算は、チェコスロバキア市民の歴史上最大の虐殺であった。家族収容所に強制送還された17,517人のユダヤ人のうち、戦争で生き残ったのは1,294人だけだった。

英語版Wikipediaより

 

ジプシー家族収容所(ドイツ語:Zigeunerfamilienlager)は、アウシュヴィッツ第二ビルケナウ強制収容所のセクションB-IIeであり、収容所に強制送還されたロマ人家族は、アウシュヴィッツで一般的であった分離ではなく、一緒に収容された[1]。

歴史
1942年12月10日、ハインリヒ・ヒムラーは、すべてのロマ人(ドイツ語:ツィゲウナー、「ジプシー」)をアウシュヴィッツを含む強制収容所に送る命令を出した[2]。アウシュヴィッツⅡ-ビルケナウには、セクションB-Ⅱeとして分類され、ツィゲウナー家族収容所(「ジプシー家族収容所」)として知られる別の収容所が設置された。ドイツ人ロマの最初の移送は1943年2月26日に到着し、セクションB-IIeに収容された。1944年までにおよそ23,000人のロマがアウシュヴィッツに連れてこられ、そのうちの20,000人がそこで死亡した[3]。1,700人のポーランド人シンティとロマの輸送は、到着と同時に、斑点熱の病気の疑いがあったため、ガス室で殺された[4]。

ロマ人とシンティ人の囚人は主に建設作業に使用された[4]。 過密状態、劣悪な衛生状態、栄養失調のために、数千人がチフスとノーマで死亡した[3]。 1,400人から3,000人の囚人が、残りの人口が殺害される前に他の強制収容所に移送された[a]。

1944年8月2日、SSはジプシー収容所を撤収した。収容所の別の場所にいた目撃者は、収容者たちがトラックに積み込まれる前に、即席の武器でSSと戦って失敗したと語った。その後、生き残った人々(2,897人から5,600人と推定される)はガス室で大量に殺された[6][7]。第二次世界大戦中のナチスによるロマ人の殺害は、ロマ語でポラジュモス(貪食)として知られている[8]。

数少ない生存者の一人がマルガレーテ・クラウスで、彼女は医学実験の対象となり、両親は殺害された。彼女はその後、ラーフェンスブリュックに移された[9]。

英語版Wikipediaより

テレージエンシュタット家族収容所と、ジプシー家族収容所区画はビルケナウの隣り合う区画にありましたが、扱い・目的は別です。ジプシー区画についてはWikipediaの記事が短いので全文翻訳して示しましたが、テレージエンシュタット区画については長いので、冒頭しか翻訳していませんので詳細はご自身でお読みください。

テレージエンシュタット家族収容所のユダヤ人たちになぜ「特権」が与えられたのかについては、その理由を明確に示す根拠は見つかっていないようです。しかし、テレージエンシュタット・ゲットーの目的が「ユダヤ人たちはナチスドイツが丁寧に扱っていた」ように見せかけるための偽装であったことはよく知られており、おそらく、ビルケナウのテレージエンシュタット区画のユダヤ人に特権を与えたのは、同様の目的があったのではないかと言われています。テレージエンシュタット・ゲットーには国際赤十字の視察がありましたが、アウシュヴィッツ・ビルケナウについては赤十字の立入自体を認めておらず、結果的には「詐欺」は実施されませんでした。

このように、ものの数分でわかることでさえも加藤は調べておらず、アルマ・ロゼ同様、加藤は史実を知る気がまるでないことがわかるだけなのです。

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 (8)「元登録囚人の死亡者68751人分の年齢分布」を博物館サイトで調べることができる?

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ゲルマー・ルドルフの『ホロコースト講義』にあるそのグラフと表ですが、いったいどうやってそれを作成したのか、全然わかりません。

加藤は、アウシュヴィッツ博物館サイトのあるページを示して「このページから、元登録囚人の死亡者68751人分の年齢分布を調べることができるのです」と述べていますが、そんなわけありません。だって、囚人の名前を知っていなければ、入力できないからです。そして、ゲルマー・ルドルフだって、その名前をどうやって知ったかについてはどこにも書いてません。以下当該部分を翻訳してみましょう(翻訳文自体は歴史修正主義研究会にありますが、微妙に間違っているので)。

L: アウシュビッツに登録された囚人だけが働くことができたというのは本当ですか?
R: 本当です。なぜなら、もしその伝説が真実であったなら、アウシュビッツの死亡帳に登録された犠牲者で、そこに登録された時点で14歳以下であったり、60歳以上であったりした者は存在しないはずだからです。
L: ただ、子供や老人がアウシュビッツに到着したときに、日常的に登録されていたとは今さら言わないでください!
R: まさにその通りでした。1991年、ドイツ人ジャーナリストのヴォルフガング・ケンプケンスは、高いコネクションのおかげで、アウシュビッツの死の帳簿が保管されていたロシアの公文書館で、約800通の死亡証明書のコピーを取ることを実際に許されました。 そのうちの127通を小さな本にまとめ、しばらくの間、売りに出していたのです。修正主義者たちは大喜びでしたが、それは、なんと、彼が選んだ文書には、死亡時に60歳以上、70歳以上、80歳以上であった人物や、10歳未満の子供の名前がいくつもあったからなのです[591]。
しかし、これはそれほど驚くべきことではありません。アウシュビッツの囚人の多くは働くことができませんでしたが、殺害されなかったことを示す文書がかなり前から手元にあったのです。[592]
現在では、氏名、生没年、出生地、居住地から死亡帳をオンラインで検索することが可能です。ただし、データベースを検索するには、有効な氏名が必要です[593]。
表11は、死亡帳の統計的評価で、年齢層別に記載されています[594]。 このことをよりよく説明するために、付録(p.331)の表24に、登録された80歳以上の死亡者すべての詳細を列挙しました[595]。
L: 彼らの中にはユダヤ人でない人も大勢います。
R:  確かにそうです。ユダヤ人はアウシュビッツの囚人の一グループに過ぎません。 「 告白」というカテゴリーは、これらの囚人が国家社会主義者によってどのように分類されたかを必ずしも教えてくれるものではないことに注意してほしいのですが、 というのも、洗礼を受けたユダヤ人(註:つまりキリスト教に改修したユダヤ人)は、当時まだドイツ当局によってユダヤ人に分類されていたからなのです。 ユダヤ人は民族として迫害されたのであって、宗教の一員として迫害されたのではありません。いずれにせよ、80歳以上の高齢者にレジスタンスや犯罪者、政治犯が多かったとは思えません。ということは、彼らはおそらく、国家社会主義者が定義したユダヤ人がほとんどだったのでしょう。

[591] マーク・ウェーバー、「アウシュヴィッツ死亡登録簿のページ」JHR 12(3) (1992)、pp. 265-298、老人受刑者の死亡診断書30枚のコピーがある;E. Gauss(註:これはルドルフ自身の別名義)、『現代史講義』(脚注536)、pp. 214-219.[592] たとえば、1943年9月4日付の、SS経済管理本局(WVHA)労働配分部長からのドイツ内部テレックス・メッセージは、アウシュヴィッツの25000名のユダヤ人収容者のうち、働けるのは3581名だけであったと報告している、あるいは、1944年4月5日付の、オスヴァルト・ポールからヒムラーへの秘密報告書は、アウシュヴィッツ収容所複合体には合計67000名の収容者がおり、そのうち18000名は入院しているか身体障害者であったと報告している。M.ウェーバー、同書参照。
[593] www.auschwitz.org.pl/szukaj/index.php?language=DE
[594] アウシュヴィッツ博物館(op.c.)(脚注51)の1巻248頁と我々の分布は少し異なっているが、これはおそらく年齢の定義の違いによるものであろう。

ゲルマー・ルドルフ、『ホロコースト講義』、pp.245-246f(pdfはこちら

関連する脚注まで翻訳してみましたが、ご覧の通り、ルドルフ自身が「ただし、データベースを検索するには、有効な氏名が必要」と語っているのに、その有効な氏名をどこで確認すればいいのか何も書かれていません。しかも、ちょっと考えればわかる話ですが、アウシュヴィッツの死亡者囚人の名前がわかるのなら、死亡年齢だってわかるはずです。だって、「死亡者」をわざわざデータベースで検索するのですから。

つまり、ここでも加藤は、自分が参照したはずのルドルフの論述をちゃんと読んでいないのです。ルドルフは、それら表とグラフのデータをアウシュヴィッツ博物館サイトのデータベースで検索したものだ、などとは一言も言っていないのです。ルドルフは単に「氏名、生没年、出生地、居住地から死亡帳をオンラインで検索することが可能」と言っているだけです。確かに以下のように検索することはできます。

しかしこれは、死亡者の名前を私が探し出してきて、それを入力して検索したからです。当然、探し出してきたその場所には生年月日と死亡日も書いてあり、年齢もそこでわかるので、それを知るためにわざわざ再度検索する意味はありません。加藤は本当に何も考えていないのです。

私は別に、ルドルフの表とグラフは信用できないものだと言いたいのではありません。しかし、ルドルフ自身ですら脚注でアウシュヴィッツ博物館作成の囚人の年齢分布表とは異なっている、と述べているのです。それがどのように異なっているのかは書かれておらず、それを確認しない限り、評価できません。もちろん、どうやってデータを得たのかについての情報も必要ですが、それも一切書いてありません。これでは評価の土俵にさえ乗せることができません。さらに、ルドルフは(高齢者)囚人のほとんど全部がユダヤ人とみなされていた、のような無茶苦茶なことまで言っています。ユダヤ人は殺されずに生かされていたとでも言いたいからなのでしょう。

ところで別の話になりますが、加藤はユダヤ人をユダヤ教徒だったと最初の動画で定義しています。しかし、ルドルフは上の引用で傍線で引いたようにはっきり、「ユダヤ人は民族として迫害されたのであって、宗教の一員として迫害されたのではありません」と述べています。このように、代表的な修正主義者でさえも加藤のような珍説は採用していないのです。

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(9)アウシュヴィッツの病棟区画について   

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アウシュヴィッツ収容所に病院(病棟区画)があったことについては、以前にすでに述べていると思いますが、加藤は囚人を治療して生かす場所があったとして、それがユダヤ人絶滅に反している、のように主張していますが、アウシュヴィッツ収容所(ビルケナウ収容所)は強制収容所であり、かつ、絶滅収容所であったという特殊な事情を無視しています。もう一箇所、マイダネク収容所がありますが、マイダネク収容所の犠牲者数が現在7.8万人(ヘフレ電報では24,733人(1942年末)となっている)となっていて、強制収容所ではあっても絶滅収容所とは言い難いと個人的には思っています。従って、実質的にはアウシュヴィッツは唯一と言っていい強制収容所でありかつ絶滅収容所であったのです。

その他の強制収容所については、今のところ私はほとんど学んでいないのですが、当然、囚人用の病院や病棟ブロックも存在したでしょう。従って、アウシュヴィッツ強制収容所でもあることを考慮すれば、病棟ブロックが存在することは当たり前の話でしかありません。

それでも加藤は、ユダヤ人囚人を殺さずに治療してまで生かしている場所があったこと、に文句を言うでしょう。ところが、実態はそんな生やさしい場所ではありませんでした。これについては、アウシュヴィッツの医師について詳細に研究した名著が手元にありますので、まずはそちらから少しだけ引用しましょう。

アウシュヴィッツ強制収容所の囚人に対する医療

強制収容所で病気になるということは、ただちに破局を意味した。そして、それまでの通常な生活条件から引き離されて、突然この惨めな環境に置かれた数千人の囚人が、悲惨な生活条件に伴う全ての現象の結果として、病気になったのである。病気になるに際しては、苛酷な外的状態だけではなく、もはや完全に無用かつ無価値な存在になってしまったという精神的崩壊も重要な役割をはたした。われわれは全ての収容所で、再三再四目撃した実態から、病んだ囚人がいかなる運命に直面したかを知ることが出来たし、少なくともいかなる運命に出会ったかを推測できた。病むということは、いまにも彼らに死刑判決が下されることであった。病んだ囚人は病床にあって、別の世界から治療のためにやって来た人物の姿を見たときにこそ、死刑判決を受けたという気持ちになったであろう。その人物こそ支配者の世界からやってきた医者であった。コッホは何時も、「私の収容所には病人は一人もいない。ここにいるのは健康な者か死者だけである!」と語っていた。そして、大半の親衛隊収容所医師はコッホが語った原理に従って行動した。』 

 ここに引用したのは、強制収容所の囚人に対してなされた医療を記述した、コゴンの文章の最初の部分である。収容所の医療に対する彼の評価は、主に自分で調べたブッヘンヴァルト強制収容所の事態に基づいている。しかし、ブッヘンヴァルトの状態は、アウシュヴィッツ強制収容所にも、その他の全ての強制収容所にも当てはまるものであった。なぜならば、ブッヘンヴァルトでの治療や看護の特徴は、全ての収容所にも当てはまるからである。このことは以下に引用する資料によって証明されるはずである。

F・K・カウル、『アウシュヴィッツの医師たち ナチズムと医学』、三省堂、1993、p.155

第一に、アウシュヴィッツ主収容所には有名な「Arbeit macht frei」が入り口に掲げられているように、強制収容所は囚人に労働させる場所でもあったのです。そして、アウシュヴィッツ収容所が存在した期間は、まさに第二次世界大戦の期間でしたから、貴重な労働資源を有する場所でした。ユダヤ人にはどうせ死んでもらうのですから、働けるだけ働いて死んでもらうのが方針だったことは、あのヴァンゼー会議の議事録にさえ書いてあります。

しかし、アウシュヴィッツ収容所が劣悪な環境であったことは、修正主義者がいくら認めたくなくとも、ビルケナウのバラックを見学してきたら誰でもわかる話です。

この3段ベッドに一区画あたり3〜4人も寝かせられたのです。しかも床は土を固めただけの場所です。こんなところで寝かされたら病気になって当たり前です。もちろん、強制労働も酷かったでしょうし、食糧だって最低摂取カロリー未満でした。ユダヤ人囚人の場合は、家族からの食料小包の配送さえ許されませんでした(当然ですが、ユダヤ人は家族ごと強制移送されているので食糧小包配送などそもそもがあり得ません)。非ユダヤ系のドイツ人やポーランド人は、週2回ほどの家族からの食料小包を受け取ることが出来たのです。

確かに、病棟ブロックがあり、病気や怪我で働けなくなると、囚人たちはそこへ入れられましたが、実際には驚くべき死亡率でした。ですから、ユダヤ人囚人たちは特に丁寧な治療を受けられるわけでもないことを知っていたので、病気などで働くのが困難なのを隠すようにしたのです。入れられたらどうせ死んでしまうからですし、選別されてガス室送りになるかもしれないからです。それなら、放っておいて自然治癒する可能性に掛けたほうがマシだと考えても不思議ではありません。

なぜナチス親衛隊は、絶滅させる囚人のために病棟ブロックまで用意したんだ?と考えるのが加藤ですが、それは前にも述べた通り、親衛隊自身の方針が矛盾していたからでしょう。国家保安本部はどんどん殺せとばかりにユダヤ人を移送してくるのに、囚人に対しては今度は経済管理本部の方から死亡率を下げよとまで命令が出されていたのは、これまた修正主義者がよく知っているはずです。その理由は、戦時体制で、ナチスドイツにとっては労働力は貴重だったが故の話に過ぎません。しかし実態が劣悪だったのは、それこそが親衛隊の方針の矛盾の象徴のようなものだと私は考えます。

アウシュヴィッツの病棟ブロックがどれだけ酷い場所だったかについては、是非、『アウシュヴィッツの医師たち』を読まれるべきでしょう。

これらの恐るべき統計にもかかわらず、囚人に対するドイツの管理がいかなる意志を持っていたか、つまり意識的に囚人を殺したのか否かという疑問は有り得る。そこで最後に収容所主任シュヴァルツフーバーの名言を思い起こすことにしよう。彼は収容所に入ってもう七ヵ月たった囚人に対して、「収容所の経費では君は三ヶ月しか生きられないから、君は強制的に消されるよ」と答えた。
医師オットー・ヴォルケン、ウィーン、囚人番号一二八八二八。」

前掲書、p.173

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(10)エミール・カウフマンは「ユダヤ教徒」なのか?

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加藤はここで「ユダヤ教徒、エミール・カウフマンは78歳で老衰で亡くなっている」と書いていますが、そこで示されている死亡証明書にはなんと書いてあるか、少し読み取ってみました。

Nr. 7607/1943
アウシュビッツ、1943年2月24日
弁護士エミール・イスラエル・カウフマン。 プロテスタント(以前はユダヤ教
居住地:ハルバースタット、ヴェステンドルフ通りAr.15.アム・ハルツ
死亡日時:1943年2月15日、14:55
死亡場所:アウシュヴィッツ―カザーネン通り(註:第一収容所のこと)
故人は1864年1月29日生まれ。
<中略>
死因:老衰

いわゆる、改宗ユダヤ人に分類されるユダヤ人ですが、信仰はキリスト教です。したがってエミール・カウフマンはキリスト教です。つまり、加藤はここで二重に間違っているのです。一つは、ナチスドイツが迫害したのが加藤が定義したように「ユダヤ教徒」であるならば、エミール・カウフマンの事例は関係ありません。しかしこの死亡簿を紹介したのは、修正主義者であり、ユダヤ人が78歳まで生かされていた!として紹介したものですから、修正主義者でさえもナチスドイツが迫害対象としたのは「ユダヤ教徒」とは考えていない、つまり加藤のユダヤ教徒説は修正主義的にでさえ誤りであることがわかるのです。

ところで、死因が老衰とありますが、既に述べた通り死亡証明書は改竄されている可能性があることがわかっているので、本当の死亡原因が老衰かどうかはわかりません。

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(11)労働可能と不能の基準はいったい何か

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アウシュヴィッツにおける労働適格者と不適格者の選別基準については、既に述べています。

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(3)-2 - ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証


holocaust-denial.hateblo.jp

この労働可能かどうかで選別する基準については、それは別に法律のようなものではありません。親衛隊が恣意的に運用していただけの話です。加藤が「正史」と呼ぶ研究者たちは、具体的にアウシュヴィッツでの選別の基準はどのようなものであったかについてを、調査研究によって「労働不適格とされたのは子どもや老人、病人、子供のいる女性などであった」と結論づけただけなのです。しかし、別に例外がいなかったなどとは誰も述べていません。「全体として」そうだったと述べているだけなのです。それは、ハンガリーユダヤ人について戦後の帰還者にアンケート調査を行なって調べた結果からもある程度はっきりわかります。

DEGOB(ハンガリー全国被強制追放者救済委員会)調べによるグラフの一例

 

アウシュヴィッツに強制移送されたユダヤ人の年齢比率構成が不明なのでこれだけではわかりにくいと思いますが、16歳以下については非常に特徴的であることははっきりわかります。これは、アウシュヴィッツ・アルバムにあるハンガリーユダヤ人の到着時の写真を見れば一目瞭然です。

子供が多く写っている写真を意識的に選んで貼り付けていますが、他の写真を見てもそれは明らかです。これほど子供が多いのに、上のグラフでは帰還者は2.9%しかいないのです。高齢者についてはグラフが右肩下がりなので、このグラフからはなんとも言い難いものもありますが、66歳以上は0.1%となっていて非常に生存者が少ないことはわかります。子供ほどはグラフからは特徴的には読み取りにくいものの、老人も労働不適格者として殺されていたという説に矛盾はしていません。

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(12)アンネ・フランクが殺されなかったのは正史が矛盾してる証拠?

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さて今回は、一記事で一動画を全てやっつけようとしたので、ちょっと長くなり過ぎていますので、最後の方をまとめて片付けてしまおうと思います。

加藤は、アンネ・フランクアウシュヴィッツガス室送りにならず、ベルゲン・ベルゼンに移送されてチフスで死んだことが大変ご不満なようです。1943年ごろから続々と絶滅収容所が閉鎖され、アウシュヴィッツも1944年11月で絶滅作戦を終えてしまっているとする正史の主張はおかしいではないか、と長々と文句を言っています。

しかし加藤は、大事なことを忘れています。ナチスドイツは、戦争が敗戦で1945年5月に終わることを予想していたのでしょうか? 歴史のIF話をするのはあまり好きではないのですが、もし仮にもっと敗戦が先にあったとしたらどうでしょう? 例えば後5年続いていたとしたら? スターリンが戦時中に死んだりして、ソ連が思いの外、ドイツへの侵攻が遅くなってしまったり、チャーチルが急死したり……。

もし仮に戦争が長引いていたとしたら、ナチスドイツはゆっくりじっくり、本当に支配下ユダヤ人を全滅させていたかもしれないのです

ラインハルト作戦の、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの三つの絶滅収容所が閉鎖れた大きな理由は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所でのユダヤ人絶滅が本格化したからだ、と考えられています。うち、ソビボルとトレブリンカは囚人の反乱があったため、それを契機にして閉鎖されていますが、その時点で総督府ユダヤ人はほぼ壊滅していたので、自動的にその残りをアウシュヴィッツ・ビルケナウに送るだけでした。

ではなぜ、残った絶滅収容所アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅を1944年11月にやめてしまったのでしょう? これは、ソ連が間近に迫っていたからで、さっさと火葬場・ガス室を解体して証拠隠滅したかったからだと考えられます。マイダネクのガス室が解体されずに残ってしまい、ソ連の急襲にあって見つけられてしまったのも痛手だったでしょう。修正主義者がマイダネクのガス室が殺人ガス室ではなかったなどと言おうとも、実際にはソ連はマイダネクの殺人ガス室をさっさと喧伝してしまっていたのです。

なぜ証拠隠滅しようとしたのかについては、単純な話が、戦後の裁判でヒムラーが死刑になりたくなかったからでしょう。ユダヤ人絶滅なんてやってません!と言い逃れたかったからに違いありません。ところが小心者のヒムラーは、連合国に逮捕されると、さっさと青酸カプセルで自殺してしまうわけですが、言い逃れなんて無理だと自覚して諦めたからかもしれませんね。

もちろん、ヒムラーは死んでしまっているので、本人の証言もなく、真相はわかりませんし、以上は推測でしかありませんが、別に不可解な点もないと思います。ナチスドイツがユダヤ人絶滅を徹底的に秘匿しようとしたことは、絶対に修正主義者が認めない「コードワード」に象徴されています

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しかし、加藤や修正主義者がなんと言おうとも、アンネ・フランクナチスドイツによって殺された、ホロコースト被害者の一人であることは疑いの余地はありません。ベルゲン・ベルゼン収容所の衛生環境が最悪な事態になったのは、ナチスドイツが囚人を各所から移送してきて、許容量の何倍も詰め込んだからに他なりません。それは、決して連合国の爆撃による交通網の寸断などとは無関係(『600万人は本当に死んだのか?』を書いたハーウッドの嘘)です。アンネ・フランクはただ単にユダヤ人であっただけなのであって、何の罪があろうはずもありません。その何の罪もない若者の命を奪ったのは、ナチスドイツ以外ではあり得ないのです。

ホロコーストの象徴のようになっているアンネ・フランクの日記を、加藤を含めた修正主義者たちは捏造呼ばわりし、アンネ・フランクの運命を利用してユダヤ人絶滅を否定しようとするその品性は、あまりにも下劣としか言いようがありません