ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ホロコースト論争ブログが『ホロコースト論争』動画を論破するシリーズ(3)-2

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「ホロコースト論争」動画を論破する(8)/おわりに

 

「戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説3/20  強制収容所での防疫、医療について。収容所の囚人の死者数の合計について。」と題された動画を論破する。-2

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14:02/アルマ・ロゼはアウシュヴィッツで病院にいたのか?

実は、前章で紹介した、作曲家マーラーの姪アルマ・ロゼはビルケナウに入所した時点 で発病していたようです。
ソースはウィキペディアですが、一応画面を貼っておきます。

アウシュヴィッツ
アウシュヴィッツの女性のオーケストラ」も参照
アウシュビッツへ到着した際、ロゼはひどい病気であったため隔離されていたが、回復後アウシュヴィッツの女性オーケストラのリーダーの仕事を担った。

その後、彼女は回復したわけですが、単に放置されていただけで 「自然治癒」 した、 などということは考えにくいです。

やはり、他の患者と同様に収容所内の病院で治療を受けたに違いありません。
しかし、このwikiの文章では、その点が全く説明されていません。 アウシュヴィッツで 病人が治療を受けていたというのは、「好ましくない事実」 だったので、ぼかされた、と考えるのはうがちすぎでしょうか

とにかく動画への反論記事作成は手間がかかるので(じゃぁヤメレと言わないでねw)、アルマ・ロゼの話はすっ飛ばしていてちゃんと読んでいませんが、2番目の動画にあるアウシュヴィッツのオーケストラの話で出てきたんでしょうね。ついでに余談として述べておくと、アウシュヴィッツ・オーケストラの始まりは囚人のフランシスツェク・ニエリチウォが収容所内で自分達囚人(ユダヤ人囚人ではありません)の余興でバンド結成して楽しんでいたのが始まりです。これが親衛隊の目に止まりアウシュヴィッツ・オーケストラに発展していきます。ニエリチウォについては、こちらを読むといいかもしれません。

で、本題ですが、加藤はアルマ・ロゼの日本語Wikipediaの記述を訝しげに「アウシュヴィッツに病院があったことを書くのは正史派的にまずいから隠したのかもしれない」的に述べていますが(病院は実際にあったので別に不味くも何ともありません。そこでは治療も行われましたし、病人の選別もありましたし、注射で病人を殺したりもしていました)、この日本語Wikipedia記事は実は英語Wikipedia記事を翻訳したものであることは明らかだったりします。せめて、その程度は調べて英語版に文句を言ってもらいたいものです。しかし、アルマ・ロゼは有名で、日本語Wikipediaにすら参考文献として伝記が上がっているほどなのです。

Youtubeでは、アルマ・ロゼのバイオリン演奏を聴くことも出来ます。

youtu.be

私はクラッシックの趣味はないので演奏の評価はできませんが、アウシュヴィッツ・オーケストラではファニア・フェヌロンが映画化までされて有名なのですが、アルマ・ロゼの方を映画化しろとの声もあるのだとか、そうした話を見たことはあります。……脱線ばかりですみません。

で、それくらい有名なので、伝記を読まなくとも、それなりにネットだけでもWikipedia以外のページもたくさんあります。例えば、以下のページを読めば、ロゼがアウシュヴィッツに到着して最初はどうなったかはちゃんと記述されているのです。

holocaustmusic.ort.org

アウシュビッツに到着すると、ロゼは医療実験棟に送られた

そう、彼女は病院ではなく、医療実験棟に送られたとあるのです。こちらのページ(註:このリンクは登録を求められることがあります)にも、

ロゼは実験ブロックに「選ばれた」一握りの女性の一人だった。髭を剃り、シャワーを浴び、左腕に53081の入れ墨をし、囚人服を支給された後、ロゼは他の女性たちとともにアウシュビッツ主収容所のレンガ造りの10号棟に案内された。

とあります。Wikipediaの記述が誤っているのか、これらのページの記述の方が正確なのか、それは伝記なりを読まないとわかりません。しかし加藤は、疑惑の方を強調することにしか関心がなく、事実を調べようとする意思が希薄であることがわかります。上記解説ページは私がこの記事を書くついでに、たかだか数分で調べ出してきたものです。その程度の調べもしないのですから、呆れてしまいます。

 

15:11/一応指摘……。

病人の治療は、その症状の重さによって扱いが違っていました。 重症の患者には、専用の病棟がありました。 囚人病院ブロック19特別療養ブロック 「Schonungsblock」は、 収容所用語で 「ムスリムMuslims」と呼ばれていて、栄養失調と脱水状態が最終段階に達した、ひどく衰弱している患者用であったと、アウシュヴィッツ博物館の公式出版物では説明されています※。

ムスリム」というのは、イスラム教徒を表す、あのムスリムと同じつづりですが、 重病患者やその医療施設を表す用語として広く使われていました。


D. Czech, "Le role du camp d'hopital pour les hommes au camp d'Auschwitz," in: Contribution a l'histoire du KL Auschwitz, Edition du Musee d'Etat a Oswiecim, 1978, p. 17.

孫引きの指摘はもはやどうでもいいのですが、一応言っておくと、この参照文献は実際には歴史修正主義研究会にあるマットーニョ論文の翻訳記事脚注番号254にあります。そのマットーニョはどう書いているかと言うと、「ダヌータ・チェクがこの答えを用意している。彼女によると、アウシュヴィッツの囚人病院ブロック19――いわゆる「Schonungsblock(特別療養ブロック)」は、「ムスリム」と呼ばれていたまったく衰弱した囚人用であった[254]。」確かにマットーニョは、ダヌータ・チェヒの論文を参照文献とはしていますが、上の引用のように説明しているのはマットーニョなのであって、チェヒではありません。

 

17:53/アウシュヴィッツの犠牲者数合計は「死の本」では出せません
結局、アウシュヴィッツでのこうした死者は合計何人だったのでしょう。
1990年代初頭、ロシアはそれまで非公開だったアウシュヴィッツ
「死亡者名簿(Sterbebuecher)」
を公開しました。これには、死亡した囚人の名前、誕生日、誕生地、民族、宗教、死亡した日付、死因が、丹念に記載されています。
参考資料
試訳: 航空写真と矛盾している12の 「目撃証言」
ジョン・ボール 歴史的修正主義研究会試訳

これが、1943年7月と8月の名簿の表紙です

画像
Mark Weber, "Pages from the Auschwitz Death Registry Volumes より引用。
http://www.ihr.org/jhr/v12/v12p265_Weber.html

たとえば、80歳以上の高齢者の死亡者も、 このリストには記載されていました。
画像
Germar Rudolf, Lectures an the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA August 2000, p.331より引用

死亡証明書の一例をご紹介しましょう。
ユダヤ人弁護士のエミール・カウフマンの物です。
1943年2月15日に、老衰により78歳で亡くなっています。

画像
Mark Weber, op.cit.
ただし、 死亡者名簿には脱落もあり、また 1944年以降の詳細な記録は失われています。しかし、幸いなことに、他の断片的な資料を合わせれば、死亡者の総計をかなり正確に絞り込むことが出来ます。

  • 1941年9月から1943年12月まで (1942年と1943年の記録のうち43日間だけが失われている) に 67227名が死亡した。
  • 63069名が、1941年と1944年、そして記録の失われている42年と43年の月に死亡したと推定される。

1940/1941:約19500
1942:約48500
1943:約37000
1944:約30000
1945:約500
計:約500100人の登録囚人のうち約135500人
LC. Mattogno, "Franciszek Piper und 'die Zahl der Opfer von Auschwitz'"

修正主義者は、アウシュヴィッツの犠牲者について、「アウシュヴィッツに強制送還されて、囚人登録もされずにすぐガス室行きになって殺された犠牲者」を絶対に認めません。認めたらそこで修正主義者商売は終わりです。しかし、修正主義者がいわゆる「正史派」と揶揄して呼ぶ主流の歴史学者の世界では、アウシュヴィッツの死の本(および欠落している死亡簿)だけをアウシュヴィッツの犠牲者だとは考えていおらず、登録もされておらず、何の文書記録にも残っていないユダヤ人の犠牲者数の方が圧倒的に多かったと考えています。何故でしょうか? 歴史学者たちは「死の本」から判明する犠牲者数を、単にソ連の400万人説やルドルフ・ヘスの250万人説より少なすぎると考えているからでしょうか? ――いいえ、そうではなく、あらゆる多くの証拠が登録された囚人だけが犠牲になったことを示していないからです。

例えば、イスラエルホロコースト記念博物館であるヤド・ヴァシェムのアーカイブから発見されたグレーザー・リストと、アウシュヴィッツへの移送者数の計算にしばしば使われるガシュコ・リストを用いてハンガリー作戦時の犠牲者数の推計を行うと、1944年5月1日〜7月25日の12週間の間に約32万人の犠牲者数が得られるのです。これは上の引用にあるマットーニョ論文の135,500人をはるかに上回るものです(マットーニョの示した数は全期間のものです)。ガシュコ・リストおよびグレーザーリスト、その他のデータを用いた同時期のアウシュヴィッツへの移送者数総計は、同推計で434,537人となっており、これはハンガリー占領後のドイツ全権であったフェーゼンマイヤーがドイツ外務省へ報告したハンガリーユダヤ人の移送者数である437,402人(7月11日付)*1とほぼ一致しています。

従って、ソ連から発見された『アウシュヴィッツの死の本』と、これらの推計値の大幅な差は、死の本には反映されていない犠牲者数があったことを示しているのであって、死の本のみを用いた、アウシュヴィッツの総犠牲者数の推定には意味がないことを示しています。

修正主義者による犠牲者数の推定に関する大きな問題は、アウシュヴィッツへの移送者数の総数を無視していることです。アウシュヴィッツ博物館の歴史部門担当主任だったフランチシェク・ピーパーは多数の研究者や自身の調査などを総合して、130万人がアウシュヴィッツに移送されたと結論づけています。うち、囚人登録や他の収容所などへの通過人数を除くと、差し引きおよそ90万人がアウシュヴィッツから、どこにも記録されずに忽然と消えている計算になるのです(ピーパーの犠牲者数推計値の110万人のうちおよそ20万人は登録囚人の死亡者数推計値)。

ピーパーの110万人説は、確定値というわけではなく、2023年現在まで最も信頼できる推定値とされているだけですが(例えば、前述のマイケル・ハニーによるハンガリーユダヤ人の推計値を含めると、犠牲者総数は110万人より低くなるはず)、いずれにしても、移送者数を無視した犠牲者数推定はあり得ません。

 

補足:高齢者のユダヤ人囚人は労働不適格者として殺されていなければおかしいのでは? という疑問について。

上に示した引用中で、加藤は死亡簿の一つをIHR(歴史評論研究所)の所長であるマーク・ウェーバーの記事から引っ張ってきて示していますが、死亡簿に書かれた死亡原因が信用できないものであることはすでに示しています。ただ、「老衰」は信用しないとしても、年齢は嘘ではないでしょう。一般に、アウシュヴィッツでは、ユダヤ人は労働不適格とされた場合には殺された、と言われています。労働不適格者には子供、病人、障害者、子供を持つ女性などに含め、老人も含まれます。

マーク・ウェーバーは、上の引用中に示した同論文で老人や子供の死亡簿があるのをいくつか示し、「こうした広く受け入れられている主張に重大な疑問を投げかけるものであった」と述べています。

しかし、それは「例外はなかった」とする説はない、ことを無視したものです。高齢者については私自身はよく知りませんが、子供については修正主義者は頻繁に「アウシュヴィッツに子供がいたのはおかしいではないか!」と、有名な写真を引き合いに出して主張してきたのです。以下は、その有名な写真の一つに、そこに写っている「子供」自身が指差ししている写真です(写真はこちらから)

アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所には、一回の輸送列車あたり、何千人ものユダヤ人が移送されてくることは珍しくありませんでした。その大量のユダヤ人を、基本的に、降ろしたその場で「選別」していくのです。ハンガリー作戦時には1日に最大で、5本もの輸送列車が到着していたとされますが、そんな大量のユダヤ人を裁くのですから、正確な区分はむしろ不可能だったでしょう。他にも、諸事情で選別を受けなかった列車もいくつかありましたし、双子の子供は人体実験の素材として生かされていたり等、一般に言われる労働不適格者の範疇に入る人の全てが「例外なく殺された」だなんて、誰も言っていないのです。

私自身も、ポーランドの戦後の証言を公開しているサイトにある、証言を翻訳していて、ルイジ・フェリという名の、アウシュヴィッツに着いた時点ではまだ11歳に過ぎなかった少年の生存者を知りました。彼がガス室送りにならなかった理由はよくわかりません。ただし彼はその証言で「少年は全員、ビルケナウに到着するとすぐにガス室に送られるからです」と語っています。他にも、当時たったの4歳で上手く隠れ過ごすことに成功して生き延びたマイケル・ボーンスタイン氏のような人もいますし、例外だとはいえ、少ないながらも「例外」的に生き延びた子供たちもいたのです。

ですから、老人だって、例えばたまたま労働者が少なくなっている時期にアウシュヴィッツに来て、労働者が足りない状況だったから囚人として選ばれるようなこともあっただろうし、見かけが若くて年齢に比べて体力もあったような老人だっていたでしょう。あるいは、何らかの職能に長けていて、親衛隊が貴重な労働力とみなした老人だっていたかもしれません。

しかしながら、こちらにあるハンガリーからアウシュヴィッツへ強制移送されていたユダヤ人の帰国者の年齢別人口比較を見ればわかる通り、上と下の年齢がほとんどいなくなっていることから、「老人と子供」はそのほとんどが殺されていた、のが事実ではあったと考える他はありません。

DEGOBと1947年のハンガリー国勢調査によるハンガリーユダヤ人の年齢と性別の構成(14~19歳の女性に正規化)。

 

20:09/ベルゲン・ベルゼン収容所とアンネ・フランクの死
次に、アウシュヴィッツ以外の収容所の死者についても解説しましょう。
実は、ナチスの収容所の歴史において、囚人たちに襲い掛かった最悪の破局の舞台はアウシュヴィッツではありませんでした。ダッハウ①マウトハウゼンベルゲン・ベルゼンなど、ドイツ国内の収容所だったのです。

戦争後期、西ヨーロッパ戦線での連合国による無差別爆撃によって、ドイツのインフラが破壊されました。その結果、強制収容所にはもはや何も配給されなくなったのです。 さらに、アウシュヴィッツなど東部地区の収容所から大量の囚人が疎開してきて、②西部地区収容所にチフスが持ち込まれたことが、壊滅的事態を招いたのです。

これが、ドイツ国内の収容所での死者数のグラフです。戦争末期に人数が跳ね上がっていることが分かります。

Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 257768 Chicagó, IL 60625, USA August 2000, p.308より引用

イギリス人医師ラッセル・バートン博士は若い医学生としてベルゲン・ベルゼン収容所 に1カ月滞在し、収容所の状況に関する報告を作成しました。

「多くの人々は、囚人のおかれている状況を、ドイツ側の意図的な行ないの結果とみなしている。…囚人たちは、野蛮な行為や怠慢の事例を熱心に伝え、各国からのジャーナリストは祖国での宣伝のために、この状況を自分流に解釈した。…ドイツ人軍医によれば、数ヶ月間、収容所への食糧配送はますます困難となっていったという。アウトバーンを動くものは何であれ、爆撃されたのである。…私は、記録を二、三年さかのぼってみたが、そこには、日々の配給のために、大量の食事が調理されていたことを記されており、そのことを知って驚いた。その時、私は、世論と反して、意図的な飢餓政策は存在しなかったと確信した。このことは、栄養十分な囚人が大量に存在していたことからもわかる。…ベルゼンのこの状況のおもな原因は、疫病、中央当局による人口過密、宿舎での法と秩序の欠如、食料、水、医薬品供給の不十分さであった」

Quoted according to ③Robert Lenski, The Holocaust on Trial: The Case of Ernst Zündel, Reporter Press, Decatur 1990, p. 157f.

これが、ベルゲン・ベルゼン収容所の死者数です。

 収容所は、焼却しきれない死体が山となって積み上がったのです。

※モザイクをかけていますが死体の山です。

ホロコースト」という言葉から、最も一般的に連想されるイメージは、恐らくこの写真のような光景ではないでしょうか。実は、これはアウシュヴィッツではなく、この時期のベルゲン・ベルゼンの死体の山なのです。
この文字通りの地獄に放り込まれたのが、強制収容所の囚人の中でも、世界で最も有名なあの少女・・・・・・ そうです、 アンネの日記の作者とされる、アンネ・フランクです。

その知名度の割には知られていない基本知識ですが、アンネはアウシュヴィッツでは亡くなっていません。アンネとその姉は、アウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンへ、この最悪のタイミングで移送されたのです。
一方で、アウシュヴィッツに残ったアンネの父、オットーは生き残りました。

⑤明らかに、この時期の死亡率を考えれば、より危険なのはアウシュヴィッツよりもベルゲン・ベルゼンでした。
オットーの二番目の妻の娘でアンネの義理の姉、エヴァシュロッスは、当時の状況を 再現した「手記」を残しています。

そこに興味深い描写がありますのでご紹介します。

Eva Schloss, Evas Geschichte, Heyne, Munich 1991, p. 117.

私たちはどんどん数少なくなっていった。 一両日ごとに、SSは宿舎から30、40名の女性を引き出して、西の中央ドイツに送っていった。私がこれらの移送集団に選別される危険も日ごとに大きくなっていった。SS隊員がやってくるたびに、私は頭を下げ、祈った。
註:念の為ですが、加藤がエヴァシュロッスの手記など読んでいるわけはないので、当然ここは加藤の孫引きで、この文章自体は歴史修正主義研究会のここからコピペされたものです。ちなみに、そこでゲルマー・ルドルフはデタラメを書きまくっているのですが、そんなことまで論破し始めたらキリがないのでここでは述べません。あえて一つだけ言っておくと、そこに書かれているエリー・ヴィーゼルの話は否定派がよくする話で、こちらに反論がありますので参考にしてください。)

 

⑥もしも、アンネがアウシュヴィッツから移送されなければ……彼女は死なずに済んだのでしょうか……

今回は特例として、引用文中に丸数字とアンダーラインを私の方で入れておきましたが、それについて以下に説明したいと思います。

 

①マウトハウゼン収容所はドイツ国内か?

いいえ。オーストリアです。ググれば一発で分かりますので、特に説明はしません。

 

②戦争末期の強制収容所で疫病の犠牲者は大量に出たことについてのナチスドイツの責任は皆無なのか?

いいえ。あんまり安易にWikipediaの記述をそのままコピペするのは、信頼性の点でよくないかもしれませんが、今回はその安易なことをします。ベルゲン・ベルゼン強制収容所から引用します。

ベルゲン・ベルゼンは「休養収容所」などと呼ばれていながら、おびただしい数の死者を出した。死因として最も多かったのは与えられる食料の少なさによる衰弱死であった[9]。また病死も非常に多かった。1944年3月から10月ぐらいにかけて収容所では結核が流行していた。ついで10月から1945年2月ぐらいにかけて赤痢が流行した。その後収容所が解放されるまでの間チフスが流行していた[9]。最終的にはチフスに罹患していない収容者の方が少数派となっていたという[10]。他にも急性肺疾患、疥癬、丹毒、ジフテリア、ポリオ、脳炎、外科疾患、静脈炎などが流行していた[9]。

拘留者が急増したこともその原因である。1944年12月2日の時点でベルゲン=ベルゼンの収容者数は1万5227人だったのだが、1945年3月には5万人にも達している[7]。これは戦争末期の他の強制収容所の撤収にともなう大量移送が原因であった[11][12]。しかし本来ベルゲン=ベルゼンにこんな大量の収容者を置いておける余裕は無かった[13]。

限界を超えた人数が収容されたために管理がほとんど行われず、1944年以降は戦争末期のために食糧事情がまったく改善されないため、収容の実態は収容者を飢餓状態に置いて餓死や病死を誘う事しかしていない[14]。

1945年4月1日には死体焼却炉が止められた。毎日量産される死体に対してその処理能力をとうに超えていたからである。代わりに穴が次々と掘られ、まだ健康な収容者たちが収容所内に転がる死体を集めてその穴まで運んでいった[15]。

ナチスドイツが、抑留者を収容所に詰め込みまくったことは、少なくともナチスドイツの責任以外ではあり得ません。これは前回の記事でも述べた通りです。ナイチンゲールクリミア戦争で把握したように、ていうか現代では常識的な話として、疫病の感染者密度が増すと感染者数が爆発的に増えるのは当然の話です。新型コロナでは東京都知事が「三密」の用語を流行らせたのを思い出して欲しいところです。実際には多少は収容能力を増やしていたようですが、焼け石に水でしかありませんでした。要するに、収容能力を大幅に超えた膨大な数の囚人を、既に戦争末期で弱体化していたナチスドイツに管理出来るわけがなかったのです。

 

ホロコーストの話でよく出てくるベルゲン・ベルゼンの大量死体

Youtubeの検閲に引っ掛かるかもと考えたのかもしれませんが、別に死体の写真にモザイクをかける必要はなかったと思います。Youtubeにある他のホロコースト関連動画ではごく普通にそれらの大量死体の映像はボカシもなく出てくるからです。私も同じ写真をネットで拾ってきて、ここでは薄めにモザイクをかけてはいますが、あまりによく知られている写真なのでモザイクをかける意味はありません。

しかし、それらの戦後に連合軍によって撮影されたナチス強制収容所における夥しい量の死体の映像は、ホロコーストの象徴として頻繁にマスメディア等によって使用されてきたのは事実です。日本でもNHKのあの名作『映像の世紀』でも衝撃的な映像として使用されており、ご記憶の方も多いかもしれません。しかし、その映像が歴史修正主義者によってホロコースト否定の材料に使われてしまうとは皮肉な話でもあります。「それらの大量の死体は実際にはガス室での処刑後の遺体などではなく、疫病や餓死によるものであった」と説明されると「え? ナチスに殺されたのではなかったの? 説明は嘘だったの?」と思う人が出てもおかしくはないでしょう。加藤はここではアンネ・フランクの話に繋げるだけで、そこまでは話はしていませんが、一時期だけ契約していたAmazonKindle Unlimitedでチラ見した西岡昌紀の『アウシュヴィッツガス室」の真実』の冒頭付近では、同類の写真が提示されていて「実はガス室の死体などではなかった」のように書かれていたように記憶します。

しかし、その西岡のような言い分も、逆の意味で誤解を与えるものです。それらの夥しい死体もナチスドイツの強制収容所内の死体であることは疑いようもなく事実であり、前述した通り、ナチスが管理できなかったが故に死ぬしかなかった人たちなのであって、ナチスドイツの犠牲者に他ならないからです。その意味で確かにそれらの犠牲者はナチスに殺されたのです。

これは、私自身がまだ知らないことだと断った上で憶測としてだけ述べる話ですが、それらの戦争末期にナチス強制収容所で疫病や餓死によって死んだ犠牲者の大半は、ユダヤ人だったのではないかと思われます。そしてそれ以外に囚人として収容されていた非ユダヤ人の死亡率はユダヤ人ほどには高くはなかったと思います。もしこれらの事実について何か判明することがあったら、改めて追記したいと考えています。

 

③ロバート・レンスキって誰

あの有名な裁判の被告となった歴史修正主義者である、エルンスト・ツンデルの支持者だそうです。こちらの記事を翻訳していて、うっすら覚えていました。別にツンデルの支持者だから信用できない、としたいわけではありません。ただ、そこにある引用文らしきものは、もちろん加藤の孫引きであり、実際にはユルゲン・グラーフの記事を歴史修正主義研究会が翻訳したものからのコピペですし、ところどころ「…」で省略されているのも気になりますし、まぁそういうことです(笑)

 

アンネ・フランクの死亡時期には、アウシュヴィッツよりベルゲン・ベルゼンの方が死亡率が高かった? 

はい、それはそうでしょう。アンネ・フランクの死亡時期は1945年2月〜3月ごろだと推定されています。アウシュヴィッツは1945年1月27日にソ連によって解放されました。加藤は何を訳のわからないことを言っているのでしょうか?

 

⑥もしアンネ・フランクアウシュヴィッツ収容所にとどまっていたら生き延びていたのか?

アンネ・フランクと姉のマルゴーが、アウシュヴィッツからの囚人移送の第一陣として選ばれたのは1944年10月28日でした。もしこの時、囚人移送に選ばれなかったとしたらどうなっていたと考えられるでしょうか? 11月初旬頃にはアウシュヴィッツではヒムラーの命令によりガス室での処刑は中止されていましたので、少なくともガス室での処刑は免れていた確率は高いでしょう。

それでも、囚人の処刑はさまざまな理由によって続いていました。例えば、ダヌータ・チェヒの『アウシュヴィッツ・クロニクル』から、本当に適当にたまたま拾っただけの11月21日の記述(104ページ)には、「KLアウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)で5名の収容者が死亡、うち4名が殺害される。」と書かれています。ガス処刑が中止された後も、アウシュヴィッツ収容所は恐怖の収容所ではあり続けたのです。従って、仮にそのまま残っていたとしてもアンネ・フランクが殺されなかったとは限らないのです。また、アンネらは、ベルゲン・ベルゼンまでの移動は列車での移送でしたが、もし、アウシュヴィッツ解放直前の徒歩による移動であったらな、殺されていた可能性も高かったのです。いわゆる「死の行進」です。手持ちの資料では、アウシュヴィッツから避難させられた六万六千人のうち一万五千人が死亡した、とあります*2。その詳細な様子はこちらを参考にすると良いかもしれません

但し、ソ連開放時に囚人として残っていたとしたら、健康状態がそれほど酷くはなかったとしたなら、生き延びていた可能性は大いにあると思われます。アウシュヴィッツソ連による開放後、赤軍赤十字が中心となって囚人たちの保護に努めていましたし、当然ながら囚人の自由意志で何処へ行くのも自由となっていました。

加藤が引用のようなことを書いているのは、修正主義者たちは「アウシュヴィッツは言われているほど酷くはなかった」あるいは「ナチスドイツはそんなに悪ではなかった」と嘘をつきたいからで、その一例は、引用文中でエリー・ヴィーゼル氏の事例として示していますので、参考にしてください。

24:49/ホロコースト犠牲者数に関する嘘。

さて、そろそろ強制収容所の囚人の死者数の合計についてまとめましょう。正確にこれ を突き止めることは非常に困難ですが、既存の資料によってある程度の推測は可能です。

イスラエルのヤド・ヴァシェム・センターが集めたHall of Names (名前の殿堂)とも呼ばれるホロコースト犠牲者のリストがありますが、これに学術的な意味は全くありませ ん。実証主義的な基準を一切持っていない※ からです。

Germar Rudolf, Lectures on the Holocaust, Theses & Dissertations Press PO Box 25776 Chicago, IL 60625, USA August 2000,p.39.

一方、ドイツのアロルセンにある国際赤十字委員会追跡委員会では、疑問の余地のない資料によって確証された場合にのみ死者として認定してきました。
これが、1993年の時点での死者数です。

<後略>

 

今回のこのブログ記事では少々引用が多すぎかもしれないと思ったので、最後の方は読んでて馬鹿馬鹿しくなったこともあり、以降は省略します。加藤は「異論の余地のない」だとか「確定事項」だとか書いていますが、それは単に「記録としてそこに書いてある」という意味でしかありません。例えば、警察(法務省)の犯罪白書などにある痴漢認知件数データは、それが認知件数に過ぎず、暗数、つまり検挙されていない記録としてどこにも出てこない実数の方がはるかに多いことは、誰でも少し考えればわかる話です。そのような暗数は実際には存在しない、などという人がいたら痴漢経験のある人から袋叩きにあうか、大笑いされるでしょう。

しかしそうした「暗数」は、アンケート調査などで、ある程度は判明させることが可能です。何千人かの人にアンケートを取って、一年間に痴漢にあったかどうかを聞き、データをまとめて、その結果から暗数を調べることができるのです(実際に法務省は暗数調査を実施しています。ある年の性的事件の申告率は15%に満たない、などのデータを得ています)。

ホロコーストの場合は、それらの算出方法とは考え方は異なりますが、例えばすでに述べた通り、アウシュヴィッツの場合は単純化して言うと、移送人数から登録囚人数を差っ引けば、登録されずに消えたユダヤ人人数を求めることができ、その登録囚人数中の犠牲者数の推計値を合計すれば、アウシュヴィッツの犠牲者総数を得ることができるわけです。

アロルゼンの「国際追跡サービス」が現在は赤十字に属していないことも知らない加藤が、欧米の嘘つき修正主義者の言うことを真に受けて鵜呑みにしているに過ぎない話は、読む価値ゼロ(動画全てがそうなのですが)ではあるのですが、それらについては以下を読めば事足りる話だとだけ最後に述べておきます。

note.com

「赤十字が偽のプロパガンダを暴露」、『偏見のパターン』 、1978年、第12巻、第2号、p.11

赤十字が「偽のプロパガンダ」を暴露

ナチスホロコーストの事実を歪曲し、あるいは否定しようとする動きが強まっていることに鑑み、赤十字国際委員会は、1978年2月1日付のICRC会報第25号において、上記の見出しの下、以下の声明を発表した:

数年前に始まった陰謀は、今やICRCがその網の目に絡め取られるまでになった。その目的は、戦時中のドイツにおける国民社会主義体制を、大量虐殺の非難から白紙に戻すことである。それは、実際の犠牲者数に関する論争、「国際赤十字」に誤って帰属する統計、第二次世界大戦中のICRCの活動に関する報告書からの歪曲された、あるいは切り捨てられた引用によって本質的に育まれている。今日、この陰謀団が配布しているのは、『600万人の神話』と『600万人は本当に死んだのか』というタイトルの、2、3のまやかしのパンフレットである。

このプロパガンダは一定の効果を上げている。これらのパンフレットの読者からICRCに手紙を書く人が増えているが、そのほとんどは、戦後ドイツは中傷キャンペーンの犠牲者であったという自分たちの意見の裏付けが得られることを期待してのことである。

従って、ICRCは、虚偽の統計を発表したこともなければ、作成したこともないという事実を明らかにしなければならないと考えている。ICRCの仕事は戦争犠牲者を助けることであり、その数を数えることではない。いずれにせよ、代表団はどうやってこのような統計データを入手したのだろうか? 彼らが強制収容所に入ることができたのはほんのわずかで、それも戦争末期に限られていた。ICRCがこれらの収容所の収容者のために行おうとしたこと、そして最終的に行おうとしたことはすべて、『1939年から1945年までのドイツ強制収容所における民間人被拘禁者に対するICRCの活動』と題された報告書(英語、フランス語、ドイツ語で入手可能)に記されている。

同じ宣伝計画は最近、別の数字、すなわち収容所閉鎖時に発見された文書に基づく国際追跡サービスによる画像サイズの増加/縮小も利用している。プロパガンダの作者たちは、この数字は強制収容所での総死亡者数とは無関係なのに、そうでないふりをしているようである; 第一に、かなりの量の文書資料がナチス政権が去る前に破棄されたからであり、第二に、一般に記録が残されていない絶滅収容所などで、多くの死亡が記録されなかったからである。 従って、ITSが犠牲者の家族のために、統計の作成などまったく考えずに苦心惨憺して努力しても、強制収容所システムの犠牲者の大勢を数字で示すことは不可能である。ついでながら、このような悲劇が単なる数字に還元されうるかのような、算術的論争には反吐が出るようなものがある

今回の記事作成には前回と合わせて、1週間以上もかかりました。時間がかかったのは他でいろいろ忙しかったこともありますが、もっと省力化したいところではあります。もちろんこの論破シリーズの第一回目に行ったように、全話を論破する気は今のところありません。めんどくさ過ぎます(笑)

 

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*1:ドイツ全権大使フェーゼンマイヤーは、437,402人のユダヤ人が追放されたと報告した。Veesenmayer’s report to the Reich Ministry of Foreign Aff airs, July 11, 1944, in Gyula Juhász et al., eds., A Wilhelmstrasse és Magyarország. Német diplomáciai iratok Magyarországról 1933–1944 (Budapest: Kossuth, 1968), 881を参照(これは元ネタはこちらの脚注20であり、加藤の孫引きを真似しただけです(笑))

*2:ウォルター・ラカー編、『ホロコースト大事典』、柏書房、2003年、p.247