ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ロイヒター・レポートvsクラクフ報告

ロイヒター・レポートとは?

1985年、カナダ在住のドイツ人であったホロコースト否定論者のエルンスト・ツンデルは、リチャード・ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』なる小冊子(及び自説を主張する小冊子も付属)を当時の西ドイツを中心に世界中にたくさん送りつけたことがきっかけで、カナダのホロコーストを記憶する会の代表であったサヴィーナ・シトロンがツンデルを「虚偽の内容をばら撒いた」として告発、カナダの検察がそれに乗る形でツンデルを裁くための裁判が始まったのでした。

一般には、ホロコースト否定の主張をめぐる裁判は世界中で多数開かれていますが、ホロコーストの史実を問うようなことはありません。ホロコーストはほとんどの裁判では「公知の事実(顕著な事実)」として扱われ、その証明は不要とされます。ツンデル裁判より前に争われたアメリカでのマーメルスタイン裁判(1981年)では、歴史評論研究所(IHR)が「ユダヤ人がアウシュヴィッツガス室で殺された事実を証明したら賞金5万ドル」との挑戦状を出したことについて、裁判ではそれら史実は公知の事実として扱われたため、IHRは賞金+慰謝料をメル・マーメルスタインに支払い、謝罪広告を出さざるを得なくなりました。

ところがツンデル裁判ではそうはならず、ホロコーストの史実それ自体についての真偽を問う裁判が行われることとなったのです。これはおそらく、カナダ刑法第177条にある「虚偽の事実」、つまりはツンデルがばら撒いたハーウッドの小冊子が虚偽か否かを審理せざるを得なくなったからだと考えられます。ツンデル裁判の第一審はツンデルを有罪とする判決が下されましたが、裁判の進行に問題があったとして第二審が1988年に開かれることとなりました。この時に登場したのがロイヒター・レポートです。

アウシュヴィッツガス室を科学調査しようと言い出したのは、ツンデル裁判を支援していたロベール・フォーリソンで、フォーリソンの人的繋がりの中に、アメリカ・ミズーリ州州立刑務所の所長であったビル・アーモントラウトなる人物がいたそうです。アーモントラウトの刑務所におそらく、フレッド・A・ロイヒター・Jrが営業か何かで出入りしていたのでしょう。ロイヒターはアメリカで死刑コンサルタントなる商売をやっていたそうです。死刑を専業とした民間人はフレッド・ロイヒターしかいなかったようです。で、そのアーモントラウトが「ズバリその任務に適格な人物がいます」として、フォーリソンにロイヒターを紹介したのです。

その後の調べで、ミズーリ州刑務所には死刑ガス室は存在はしていましたが、1960年代に稼働を停止したまま、その後一度も再建すらされていません。ロイヒターはミズーリ刑務所の死刑ガス室を設計したと主張していましたが、それが本当だとしても、せいぜい営業用資料を作成したくらいなものでしょう。彼は生涯でただの一つも死刑用ガス室を製造していません(2023年5月現在存命中ですが既に彼は80歳を超えていますし、死刑コンサルタント商売はとっくの昔に廃業しています)。また、彼は工学系の学位すら持っていなことをツンデル裁判で自分自身でそう述べています。

ロイヒターは被告側弁護士のダグラス・クリスティから依頼の手紙を受けた翌月の1988年2月末、ツンデルから3万ドルの調査費用を受け取り、ロイヒターとその妻、その他の仲間と共に、彼らはポーランドに飛び立ち、3月初旬ごろ、アウシュヴィッツやマイダネクを現地視察、アウシュヴィッツガス室遺跡などから資料サンプルを無断で採取して米国に持ち帰ったのでした。そして資料サンプルの分析をマサチューセッツ州のアルファ分析研究所に依頼、一ヶ月ほどしてロイヒター・レポートは完成したそうです。

ところが、ツンデル裁判において「ガス室でのガス処刑がなかった」ことの決定的証拠となるはずだったその報告書は、裁判では証拠採用されませんでした。書いてある内容云々ではなく、ロイヒター自身が前述の通り、証人資格に問題があったからです。裁判ですから、きちんとした資格のない証人が提出した調査資料を証拠として認めることは、Wikipediaで匿名人物のネット上の記述を出典として認めるようなものです。

その内容は?

私は実際に自分自身でロイヒター・レポートを翻訳して、私自身の感想としても衝撃を受けました。もちろん当時の否定派が受けた衝撃とは別の意味です。

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ホロコースト否定論に興味を持ち始めたばかりの頃は、ロイヒター・レポートはたとえ誤っているにせよ、もっと高度な内容で反論も難しそうなイメージを持っていました。ところが、実際に翻訳してみて「なんだこりゃ?」とかなりの肩透かしを食らったような感触がありました。最も驚いたのは、それっぽい記述内容がふんだんになされているにもかかわらず、参考文献が全くないところでした。従って、専門知識がなければわからないような技術的内容については、ほぼ検証不能です。

ところが、あのデヴィッド・アーヴィングがロイヒター・レポートを読んでホロコースト否定派に転ずるほどの感銘を受けたというのですから、何がなんやらわけがわからなくなります。当時、本当に否定派には絶賛されたそうです。推測ですけど、ただ単にロイヒターの職業が死刑の専門家であり、米国の処刑用ガス室に通じていると信じられたからだと思います。

しかしロイヒターの仕事ぶりはすぐに暴かれ、彼はまともな商売をしていたとは言い難いことが明らかにされています。

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というわけで、ロイヒター・レポートの内容は翻訳記事中にも書いた通り、実際にはゴミ同然でしかありませんでしたが、唯一、シアン化合物残留量の分析結果のみは検討の余地はありました。ロイヒター・レポートの本文中ではほとんど触れられていませんが、シアン化合物の分析結果は確かにマサチューセッツ州のアルファ分析研究所の分析値であることに相違はなく、捏造された数値ではなかったからです。その評価についてはまた後で述べます。

クラクフ報告書とは?

ホロコースト否定の議論では有名なロイヒター・レポートに対し、クラクフ報告はそれほどは有名ではありません。この報告書は、ロイヒター・レポートに遅れることおよそ6年後の1994年にポーランドの公的研究機関であるクラクフ法医学研究所(Institute of Forensic Research (Instytut Ekspertyz Sadowych) of Krakow)から発表されたものです。アウシュヴィッツ博物館からの依頼に基づく報告です。

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ロイヒター・レポートが、ロイヒターの専門分野でない火葬場などの殺人ガス室以外の内容まで述べた報告であったのに対し、クラクフ報告はシアン化物の残留物測定結果のみに内容を絞った報告書になっています。この報告書には明確に「殺人ガス室があったことが立証された」と書かれているわけではありません。そうではなくこの報告書の目的は、ロイヒター・レポートのシアン化物の残留物測定結果に対する反論なのです。つまり、クラクフ報告書におけるシアン化物分析結果は、殺人ガス室があったとする定説に全く矛盾していないことを示したものだったのです。間接的には、アウシュヴィッツ収容所の殺人ガス室があったことを証明したとは言えますが、クラクフ報告にはそのような明確な結論は書かれておらず、測定結果や検討内容を淡々と示しただけの内容であり、最後に「最終的な備考」として次のように極めて抑制的に書いてあるだけなのです。

本研究では、かつてシアン化水素と接触した施設の壁に、相当な期間(45年以上)にもかかわらず、このチクロンBの構成成分の組み合わせの痕跡が保存されていることを明らかにした。これは、かつてのガス室の廃墟についても言えることである。シアン化合物は、それが形成され、長い間持続するための条件が生じた場所で、局所的にのみ、建築資材の中に発生するのである。ロイヒター(2)は、その推論において、彼がガス室跡の資料から検出した微量のシアン化合物は、「かつて、ずっと昔に」収容所で行なわれた燻蒸の後に残ったものだと主張している(報告書の14.004項)。このことは、1回のガス処理(害虫駆除)を受けたとされる居住区の対照サンプルの検査結果が否定的であること、1942年半ばの腸チフスの流行に関連した収容所の燻蒸期間には、ビルケナウ収容所にはまだ火葬場がなかったという事実によって反論される。最初の火葬場(火葬場II)が使用されたのは1943年3月15日のことであり、他の火葬場はその数ヶ月後であった。

それに対しロイヒターはあまりにも大胆な結論を書いています。

すべての資料を検討し、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクのすべての現場を視察した結果、著者は圧倒的な証拠を発見した。これらの場所のいずれにも、処刑用ガス室は存在しなかったのである。検査した場所のガス室とされるものは、当時も現在も、処刑用ガス室として利用されたり、真剣に考えられたりすることはありえないというのが、筆者の最善の技術的意見である。

さて、それではロイヒター・レポートとクラクフ報告の相違点を簡単にみていきましょう。

シアン化物残留濃度の測定結果の違い

1. ロイヒターレポートのシアン化物残留濃度測定結果

ロイヒター・レポートにおけるシアン化物残留濃度の測定結果は、レポートの付属資料に記された以下のグラフが非常にわかりやすいと思います。

 

少々解説が必要なので、簡単に説明します。数値で示される測定結果は、そのままだとなんのことやらわからないでしょう。「ガス室跡の建築資材からシアン化物の濃度を調べたら、1.2mg/kgであった」と言われたってそれだけではどう評価すればいいのかわかりません。何か基準値が必要でそれと比較して初めて評価が可能となるのです。そこでロイヒター報告では、アウシュヴィッツ収容所内でシアン化水素(チクロンB)ガスが使われたことがわかっている害虫駆除室の壁面から試料を採取し、それを対照試料(コントロール・サンプル)としたのです。簡単に言えば、対照試料に含まれるシアン化物濃度と、ガス室跡とされる場所から採取した試料に含まれるシアン化物濃度にそれほど差がなければポジティブ・陽性であり、大きく差がありかつ極めて低いかゼロであればネガティブ・陰性である、とするわけです。

グラフの右端の棒グラフが対照試料となる害虫駆除室のものです。値で言うと、1,050mg/kgです。つまり、シアン成分が試料1kgあたり1,050mg含まれていたことになります。それに対し、ガス室とされた場所から採取した試料からは、0-7.9mg/kgでした。つまり、害虫駆除室と比較しても最大でも133分の1しか、ガス室跡からはシアン化物は検出されなかったのです。

こうして、ロイヒターは「どの試験場所でも結果的な測定値がなかったことは、これらの施設が実行ガス室でなかったという証拠を裏付けるものである」と結論しました。微量ではあるがポジティブな結果もあることについては、「これらの建物がある時点でチクロンBで害虫駆除されたことを示している」つまり、収容所全体が疫病対策のためにチクロンBで燻蒸されたことがあったために、微量だがシアン化物が残留していたのだろう、としたのです。確かに、1942年の夏頃にアウシュヴィッツ収容所はチフスの猛威に見舞われ、収容所全体でチクロンBによる害虫燻蒸が行われたそうです。しかしロイヒターは、知りませんでした。例えばロイヒター報告では、第3火葬場のガス室跡で6.7mg/kgを検出していますが、第3火葬場は1942年の夏にはまだ建設さえ始まっていませんでした。

2.クラクフ報告のシアン化物残留濃度測定結果

クラクフ報告に記された測定結果は、ロイヒター・レポートのようなわかりやすいグラフがないので、直接報告書をご覧いただくしかありません。

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クラクフ法医学研究所は、アウシュヴィッツ博物館から正式に調査依頼を受けた上で現地でサンプルを採取しているので、ロイヒターやその他の修正主義者らによる違法な試料収集では絶対に採取できないブロック11の分析結果が存在するのが特徴的です。ブロック11では、アウシュヴィッツ収容所における最初のチクロンBによる処刑実験が行われました。実施されたのは1941年9月3日(または5日)の一度限り(ただし、初回のガス投入では全員死ななかったので、2日目に再度チクロンBを追加している)です。

さらに重要な相違点が二つあります。

  • クラクフの用いた方法はロイヒターらの分析感度よりも300倍程度感度が高かった。分析値の表示単位として、ロイヒターらはmg/kgで表示されるが、クラクフではμg/kgとなる。つまり、ロイヒターらの分析法よりはるかに微量が計測可能となる。
  • プルシアンブルーは分析結果から除外された。

また、分析結果から明らかな違いがあります。ロイヒター・レポートでは前述の通り、害虫駆除室(囚人服燻蒸施設)の値は1,050mg/kgでしたが、クラクフ報告では最大値でも900μg/kgであり、その差はおよそ1200倍もあります。また、ロイヒター・レポートでは害虫駆除室とガス室跡の値はガス室跡の最大値を採った場合、その差はおよそ133倍になると述べましたが、クラクフ報告では1.4倍しかありません。

そうすると、ロイヒター・レポートでは、基準となる害虫駆除室とガス室跡のシアン化物残留濃度差があまりにもかけ離れているので、ガス室とされている箇所ではほとんど全くと言っていいほど毒ガスであるシアン化水素ガスは使われていなかった=殺人ガス室などなかった!と結論したくなりますが、クラクフ報告ではほとんど差がないため、そのような結論は出せなくなるのです。

この違いは、害虫駆除室にあって殺人ガス室には存在していなかったプルシアンブルーの分析上での有無にあります。では、プルシアンブルーを分析に含めるのが正しいのか、そうでないのかについて考えてみましょう。

プルシアンブルーと非プルシアンブルーの重要な違い

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館には、当時の害虫駆除室がいくつか現存しているそうです。その実際の様子の写真はネット上にはほぼないので、私が頻繁に使う写真をまた使うしかありません。真ん中の人は修正主義者のゲルマー・ルドルフです。この人は今回の議論には無関係です(しかしある意味ではプルシアンブルーの専門家w)。

プルシアンブルーとは、上の写真のように青くなっている箇所の組成のことです。要するに、シアンイオンが壁の組成中にある鉄分と結合したもので、このように金属成分と非金属成分が結合した化合物を金属錯体、略して錯体と呼びます。

プルシアンブルーは、一般的には自然に生ずる物質ではありません。元々は人工的な化合物で18世紀初めに初めて作られたと言われています。人工的に生成された化合物ですから、製法はわかっています。しかし、シアン化水素ガスが鉄分と反応してプルシアンブルーを形成する機序については詳しくはわかっていません。上の写真は、アウシュヴィッツのどこかの建物の中にある害虫駆除室のすぐ外だそうですが、マイダネク収容所にある害虫駆除ガス室内など、その他の関連箇所にあるプルシアンブルーのある箇所においても同様に、すべてマダラにしかプルシアンブルーは存在しません。ガスに接触していたであろう壁面全体が真っ青一色に染まっている箇所がただの一箇所もないのです。このことは、プルシアンブルーのシアン化水素ガスの存在による生成条件が複雑であることを示しています。必ず出来るわけでもない、と言うわけです。

で、プルシアンブルーは、この議論において考慮されなければならない重要な性質があります。それは極めて安定した化合物であることです。日本では葛飾北斎の絵(版画)に使用されている顔料でもあります。要するに、壁面なら壁面にプルシアンブルーが生ずると、そのままその壁面に長期間にわたって存在し続けるのです。

しかし、シアン化水素ガス存在下で、プルシアンブルーにならなかったシアン成分も存在します。シアン化水素そのものがそうですし、ナトリウムやカリウムなどの金属イオンと結合しているものもあるでしょう。しかしこれらの非プルシアンブルーのシアン成分は、水に容易に流出してしまいます。シアン化水素が非常に気化しやすい化合物であることは言うまでもありません。

ロイヒターは1988年、クラクフ法医学研究所は1994年、つまりそれぞれ戦後43年後、49年後に試料採取して分析値を得たのですから、この長期間のことを考えなければなりません。つまりこういうことです。

このグラフはあくまでも模式的に作っただけのグラフですが、プルシアンブルーが長期間にわたって安定しているので、たとえ45年経ったところで年月でほとんど濃度が変わらないのに対して、非プルシアンブルーのシアン化物濃度はどんどん濃度が減少してしまうため、45年も経てば大きな濃度の差が生ずるのは単なる当たり前に過ぎないことを示したグラフです。

害虫駆除室と殺人ガス室の違い

見た目から判断する限り、害虫駆除室にはプルシアンブルーが存在し、殺人ガス室跡には存在していませんでした。プルシアンブルーの正確な生成機序は不明であると述べましたが、その要因を害虫駆除室と殺人ガス室の違いで推測・考察してみましょう。

  1. 害虫駆除室における衣服の燻蒸は、長時間(24時間)かけて行われたが、処刑ではせいぜい30分程度しか時間はかけられていなかった。
  2. ゾンダーコマンドらの証言によると、ガス室は、遺体搬送時に徹底的に洗浄された。しかし害虫駆除室ではそうした洗浄の証拠を示すものはない。

うち、2については修正主義者は「天井まで洗った証拠はない」のようなクレームがあったような記憶があります。しかし、1の違いはかなり大きいように思えます。シアン化水素ガスと壁面・天井等の素材中の鉄分との反応時間が、プルシアンブルー形成にとって重要な要件にように思えるからです。殺人ガス室では、シアン化水素ガスを換気しなければ遺体搬送作業はできない上に、遺体の火葬には時間がかかることからせいぜい1日あたり一回のガス処刑が限度だったと考えられます(これにはヘスの証言もあります)。とするならば、ガス室内のほとんどの時間はシアン化水素ガスが存在しなかったことになります。

害虫駆除室にはプルシアンブルーは存在し得ても、処刑用ガス室には存在し得なかったとするなら、同じシアン化水素ガスが用いられていたとしても、プルシアンブルーを双方に存在し得るものとの前提でシアン化物の残留濃度を調べるのは明らかにその条件の違いを無視していることになると考えられます。

従って、害虫駆除室を含めてシアン化物残留濃度を比較して調べたいのであるならばプルシアンブルーは除外されなければなりません。

問題はそこでシアン化水素ガスが使われたか否かではないのか?

次回の記事では、歴史修正主義研究会の主宰だった文教大学教育学部教授であった故・加藤一郎による、クラクフ報告への批判をこっぴどくやっつけてしまおうと企んでいるのですが、そのうち一つだけ先行して今回やってしまいます。加藤は以下のように述べています

問題がすりかえられている。ロイヒター報告およびルドルフ報告が問題としたのは、「殺人ガス室」にシアン化合物の残余物が検出されるか否かではなく、大量のチクロンBを使って衣服などの害虫駆除作業が行なわれた害虫駆除室の残余物と、やはり大量のチクロンBを使って「大量ガス処刑」が行なわれたとされている「殺人ガス室」の残余物の「量的」比較であった。そして、1990年のクラクフ報告も、結論はロイヒター報告、ルドルフ報告とは異なるにせよ、やはり、害虫駆除室のシアン化合物の残余物と「殺人ガス室」のシアン化合物の残余物との「量的」比較を行なっている。ところが、1994年のクラクフ報告は、普通の居住区からのサンプルを基準サンプルとして(すなわち数値0か、限りなく0に近い数値を基準として)、「殺人ガス室」にはシアン化合物の痕跡が残っているかどうかだけを検証対象としてしまっているのである。

実際には、クラクフ報告ではその量的問題をきちんと考慮しています。そうでなければ、炭酸ガス存在下でどうなるか、や、素材の違い、水による流出度合いなどまで調査しているわけがありません。また、居住棟のサンプルが基準として有効なのは、8つのサンプルの「全て」で検出限界未満だったという事実です。これは、ロイヒターがレポート内で「検出された量が少ないということは、これらの建物がある時点でチクロンBで害虫駆除されたことを示している」に対応しているのです。つまり、ロイヒターのデタラメを明らかにしたのです。

さらに付け加えておくと、ゲルマー・ルドルフはロイヒター調査で得られたガス室跡から検出されている微量データを、「バックグラウンドレベル」のようなものと解釈して正当化しようとしましたが、クラクフ報告のそれは、それすらも粉砕しています。ルドルフはバイエルンのどこかの農家のサンプルから得たシアン成分の微量データを用いて、微量検出値はバックグラウンドレベルに他ならないと証明しようとしましたが、クラクフ報告のそれは感度300倍であり、そのレベルですら居住棟は検出限界未満だったのです。

クラクフ報告に従う限り、シアン化水素ガスがほぼ使われていないのであるならば、検出限界未満でなければなりません。一度しかガス処刑が行われていないブロック11ですら低濃度でありながらも検出値を得ているのです。

ダメ押し的にいえば、量的なことを考えていないのは加藤の方です。ロイヒター・レポートにあるシアン残留濃度の(最小差をとっても)133倍もの差を見て、ガス処刑が行われたかそうでないかをデジタルに考えているのは他ならぬ加藤でしょう。

結局、クラクフ報告で分かったことは…

前にも述べた、これこれとそっくり同じことであり、ホロコースト否定派が否定する証言やら文書史料などのたくさんの証拠と、クラクフ報告から判明する事実は何も矛盾していないことです。むしろ、矛盾していないことにより、裏付けられてしまっているのです。

否定派は矛盾している、矛盾しているとうるさいわけですが、一体どこが矛盾しているというのでしょうね?