ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

アウシュヴィッツの火葬場とその火葬能力

アウシュヴィッツの火葬場の概要

アウシュヴィッツ収容所(アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所)に関する否定派の議論において重要な論点の一つに火葬場があります。何故重要な論点になるかと言えば、アウシュヴィッツでは現在、110万人が犠牲になったとされており、そのほとんどが火葬処理されたとされるから(但し、ソ連による開放時には600体程度の死体が収容所内にあったそうです。死因は知りません)です。否定派の目論見は、否定派自身の検証によって100万体を超えるような火葬能力はなかった、と結論づけることにより、アウシュヴィッツでの大量虐殺などあり得なかったと示すことにあります。それは果たして成功したのでしょうか?

しかしこの検証をさらに批判的に検証するには、当然ながら、アウシュヴィッツの火葬場に関する基礎的な内容を知っておく必要があります。その詳細についてはやはり、下記の文献を多少は流し読み程度でも読んでおくべきでしょう。この記事ではまずこれら資料を参考に概略的に解説していきます。

holocaust.hatenadiary.com

なお、最初に断っておきますが、本記事では野外火葬については述べません。しかし、アウシュヴィッツのトータルでの火葬能力を検討する場合、野外火葬について考慮することは避けられないことを知っておくべきではあります。野外火葬についてはいずれ別の記事を投稿予定です。

アウシュヴィッツ収容所地域の地図

アウシュヴィッツ収容所は複数の収容所からなる収容所群を形成しています。そのうちメインとなるのは、アウシュヴィッツ第一収容所(主収容所)、アウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ収容所)の二つです。規模から言えばこれに三つ目の第三収容所であるモノヴィッツ(ブナ)収容所を加えて説明されることが多いです。これらの大規模収容所区域の他に様々な目的で設置された小さな副収容所が50箇所程度あったそうです。

黄色で示される箇所が三つの主たる収容所の区画を示します。親衛隊は収容所区画だけを管理していたのではなく、これら地域を包括的に管理していました。したがって「アウシュヴィッツ」とだけ表現する場合、これら地域全体を指す場合があります。しかし、ホロコーストを主たるテーマとして論じる場合は、アウシュヴィッツ第一収容所及び第二収容所のみを語る場合がほとんどであり、私などは特に区別するために「アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所」と呼ぶ場合も多いです。特に、主たる絶滅の現場は地図上で一番左端のビルケナウ収容所であり、アウシュヴィッツ主収容所(第一収容所)は無関係とは言いませんが、主収容所でのガス処刑の犠牲者は一万人を超えないとされており、規模の点ではほとんど関係がありません。さらにビルケナウ収容所でのユダヤ人絶滅が本格化し出すと、主収容所のガス処刑及び火葬場の使用は順次中止されています。

アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅が始まったのはブンカー1(赤い小屋)、そしてブンカー2(白い小屋)。

ヘスの自伝(ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』)には、ヘスはヒムラーから、ヒトラー総統がユダヤ人問題の最終解決を命じたと聞かされ、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅の準備をアドルフ・アイヒマンと共に進めよと命令された、との下りがあります。否定派はこのヘスの証言内容には時期的な矛盾があることから偽証であると結論づけていますが、確かに証言を文字通り受け取るなら時期的に明確な矛盾はあります。「正史派」はこの時期の矛盾を、ヘスの記憶の混同・混乱と説明します。ヘスはこの時期のことを概ね5年後に語っているので、証言内容に時期的な矛盾があることは十分あり得ます。そうした問題があることを頭に入れた上で読まないといけませんが、ヘスはこう書いています。

 結局、この問題について、われわれは結論を出せぬままに終わった。アイヒマンは、簡単に作れてしかも特別な設備を必要としない様なガスを調査した上で、私に報せると言った。

 次に、われわれは、適当な場所を探すためあたりの地勢を見てまわった。我々はのちにビルケナウ第三分区となる北西の一角にある農場を適当と判断した。そこは引っ込んだ場所で、まわりの森や植え込みで見通しをさえぎられ、しかも鉄道線路からそう遠くない。

 屍体は、隣接する草原に深くて長い壕を掘って埋葬する。焼却という事はその時点でまだわれわれの念頭に浮かばなかった。われわれは、適当なガスを濃縮化すれば、そこに既存の屋内で、優に八〇〇人は殺害できると計算した。この計画は実際ぴったり合った。

 作戦開始の時点は、アイヒマンもまだ私にはっきりいえなかった。万事がまだ準備段階で、それにヒムラーもまだ命令を下していなかったからだ。

この話に一致する内容をアイヒマンも語っています。ただし、アイヒマンは実際には何度もアウシュヴィッツを訪問していたようで、ヘスよりもさらに記憶が混同・混乱しているようにも思えます。一度きりの訪問のように語っているからです。あと、ヘスは最も大きな火葬場である第2、あるいは第3火葬場のガス室には最大でも3000人が入る程度としか言っていないので、「一万人」はアイヒマンの誤解だと思います。

私が構内の視察に行ったとき、ヘースは車を用意してくれました。私はアウシュヴィッツのことをよく知らなかったので、彼も車で一緒に案内してくれました。司令部から離れて正門の前にきたとき、私はそれ以上中へ入ることはしませんでした。別に強制されることもありませんでした。それから、ある大きな建物の前を通過しました。それは工場のような建物で、巨大な煙突がそびえていました。ヘースは「ここには、一万人を入れることができる!」と言いました。ちょうど現場では、労働可能な人間と、労働不能者とが選別されていたところでした。私はガス室殺人の現場は見ませんでした。見ることができなかったんです。もし見ていたら、卒倒していたかもしれません。心の中では、あぁ、また逃げているな!と思いました。ついで、ヘースは巨大な溝のところへ案内しました。すごく大きな溝です、どの位か、ちょっと分かりませんが、一〇〇メートル位か、あるいは一五○から一八〇あったか。それから、大きな鉄の網がありました。その上で屍体を焼いていました。私は気分が悪くなりました。気分が悪くなって。
(ヨッヘン・フォン・ラング編、『アイヒマン調書』、岩波現代文庫、p.103)

特に「長い壕」「大きな溝」について、ヘスは「焼却という事はその時点でまだわれわれの念頭に浮かばなかった」と書いているのに、アイヒマンは焼却中の様子を述べているので一見矛盾しているように読めますが、この壕での焼却は後に行われているので、アイヒマンは自分は絶滅作戦の計画立案者でもなんでも無い、ただの傍観者だと印象付けたかったのでしょう。

いずれにしても、内容そのものは一致しており、決定的な矛盾は何もありません。ここでこれを紹介したのは、ヘスの記述によれば、アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅については、最初はビルケナウ収容所の火葬場を使う計画はなかったことを知ってもらうためです。

時期ははっきりしないのですが、1942年の初春ごろに、このビルケナウ収容所の敷地外にある農家を改造してガス室を設置し、アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人絶滅が始まり、当初はその遺体を全て長い壕を掘ってそこに埋めていただけだったのです。この最初の農家を改造して作ったガス室のことを日本語では「ブンカー1」と呼びます。また「赤い小屋」とも呼びます。初夏ごろにはブンカー1から南へ500m程の敷地外に「ブンカー2(白い小屋)」も作られました。

このブンカーでは概ね10万人くらいの犠牲者が出たそうですが、最初は焼却するつもりもなく壕に埋めていただけだったものを、ヒムラーの命令で全焼却することになり、アイヒマンの言う通り、壕で焼却処分しています。この壕での野外焼却の煙と匂いが地域周辺に広がったりしてしまったことから、ビルケナウで建設中だった火葬場での焼却に変わっていくことになります。

なお、ブンカー1は1943年に使用が停止すると解体・撤去されましたが、ブンカー2は1943年に使用が停止しても解体されず、1944年5月から始まったハンガリーユダヤ人の絶滅作戦の時には再稼働されています。

アウシュヴィッツ主収容所の第1火葬場

話が前後しますが、アウシュビッツ第一収容所(主収容所)の火葬場(第1火葬場)はアウシュヴィッツ収容所が設立された1940年半ば、元はポーランド軍が弾薬庫として使用していた建物を利用して改築する形で作られます。こちらから図面を流用しますが、1940年11月にはこのように二つの炉室(マッフル、レトルトなどと呼ばれる)を持つ火葬炉が2基設置されていました。

したがって、炉室の数としては最初は4つあったことになります。この二つの炉室をもつ火葬炉を二重マッフル炉(ダブルマッフル炉)などと呼びます。二つの炉室を持つ意味は、炉室が繋がっているからで以下のようになっています。以下は、マウトハウゼン収容所の衛星収容所であるグーゼン収容所にあったダブルマッフル炉です。炉室の境界に二箇所穴が空いているのがわかるかと思います。

このように隣り合う炉室が内部で空間としては繋がっている構造になっているのは、熱を効率よく共有するためです。炉室の下にある扉は、そこから燃えた残骸を掻き出して回収する仕組みであり、そのため上の炉室内の底面は格子状になっていて、その隙間から燃え滓が下の灰皿に落ちるようになっているのです。このグーゼンの火葬炉はアウシュヴィッツの火葬炉と同じでコークスを燃料としていましたが、コークスの熱源は写真には写っていませんが背面下部にあります。そこからコークスを燃やして燃焼ガスを炉室内に行き渡らせる構造になっていました。

なお、当時、ナチスドイツの強制収容所に火葬炉を供給していたのは、トプフ・アンド・サンズ社とコリ社の2社ですが、アウシュヴィッツの火葬炉は全てトプフ社でした(一部例外はあります)。

第1火葬場の火葬炉は翌年末にかけてさらに一基が増設されて計3基、6マッフルとなっています。

第一火葬場は1943年7月頃、使用が終了しているそうで、1944年には火葬炉なども一旦は解体されて防空壕に改造さていたことこちらでも述べた通りです。

ビルケナウ収容所の火葬場

ビルケナウ収容所の火葬場が、アウシュヴィッツにおけるユダヤ人絶滅では議論の中心になります。この火葬場の設立経緯など詳しく説明することはここでは省きます。知っておかないといけない事柄としては、ビルケナウ収容所の火葬場は当初はユダヤ人絶滅とは無関係に計画されたものであることです。ただし、最初は第二火葬場だけだったはずの計画が、なぜか四つに増やされていることはユダヤ人絶滅とは無関係だったとは言い難いことも頭に入れておく必要があります。否定派の結論(意見)としては、1942年の夏にチフスが猛威を振るったから、とされているようです。1942年夏にチフスが猛威を振るったこと自体は事実のようです。但し、それでどれだけ犠牲者が実際にいたのかはまた別の話です。

第2・3火葬場

ビルケナウの四つの火葬場のうち、第2・3の二つの火葬場は、ビルケナウ敷地の南西の端に建築され、向かい合う形で鏡像構造として作られました。現在の航空写真を以下に示します。

第2火葬場は1943年3月に完成し、第3火葬場は同年6月に完成しています。現在は写真に見る通り、1945年1月のナチス親衛隊の撤退時にダイナマイトで爆破された状態となっていて建物は残っていません。この火葬場の火葬炉の配置は冒頭に示した写真の通りですが、図面だと以下のようになっています(第2火葬場)。

図面では五つの四角形が煙道に繋がるような構造になっていますが、一つ一つの火葬炉は第1火葬場の火葬炉が二重マッフル炉だったのに対し、第2・3火葬場では三重マッフル炉になっています。従って第2・3火葬場各々で15マッフルずつあったことになります。この三重マッフル炉では、マッフルは三つありますが、コークスを燃やす箇所は火葬炉の左右に二箇所しかありません。

第4・5火葬場

第4・5火葬場の位置はビルケナウの北西にあり航空写真では以下の通りです。

第4火葬場は1943年3月に稼働を開始し、第5火葬場は同年4月から稼働しました。この二つの火葬場も2・3火葬場同様、鏡像構造となっていて、以下の図面の右側にあるのが火葬炉になります。

火葬炉の構造ですが、但し細かい構造図や写真は残っていないようで、いくつかの図面や文書から推測するしかありません。元々はベラルーシ白ロシア)のモギリョフで使われることになっていた4重マッフル炉をアウシュヴィッツに転用したもので、これを二つ合わせて8重マッフル炉として使う構造になっています。

アウシュヴィッツの火葬炉の公式火葬能力

これについては、有名なヤニシュ書簡と呼ばれる、アウシュヴィッツ親衛隊建設部による公式文書が残されています。

文書の右上に記される日付は1943年6月28日となっていて、「現存する火葬場の24時間稼働性能」として、以下のように記述されています。

第1火葬場 340体
第2火葬場 1440体
第3火葬場 1440体
第4火葬場 768体
第5火葬場 768体
合計 4756体

この火葬能力に基づくと、これを1日の最大値と仮定した場合、アウシュヴィッツでの最大火葬総数の最大値はどのようになるか、簡単に計算してみましょう。計算しやすくするため、火葬場の稼働開始日については1943年6月1日より前は無視するとして、その日を稼働開始日とし、稼働終了日を1944年10月31日とすると、期間日数は518日となります。ユダヤ人絶滅の現場ではない第一火葬場を除くと、火葬能力日最大値は4416体となりますから、これをそのままかけると、2,287,488体、つまりおよそ230万体の遺体を火葬できる能力があったと計算されます。

実際の犠牲者数は、110万人とされていますから、これだけの人数を火葬するのには十分であったことがわかります。本来ならここで議論は終わりです。推定犠牲者数と当時の文書に記された火葬能力数値は矛盾していないからです。

もちろん、否定派は議論を終わらせたりしません。否定派の推定によると、もっと大幅に火葬能力は低かったとされ、親衛隊による上の文書は偽造なのだそうです。偽造者は不明ですが……。

ソ連の推定したアウシュヴィッツの火葬能力

アウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、アウシュヴィッツ収容所を現地調査し、USSR-008とナンバリングされたソ連戦争犯罪調査委員会による報告書を作成しています。この報告書では、ソ連が推定したアウシュヴィッツの犠牲者総数である400万人の算定根拠として、火葬能力値が挙げられています。報告書からその部分を以下に引用します。

400万人以上が殺害された。

ドイツ軍は撤退に先立ち、アウシュビッツで殺された人間の正確な数を全世界が知ることができる資料をすべて破棄し、アウシュビッツでの恐ろしい犯罪の痕跡を慎重に消し去ろうとしたのである。しかし、収容所内で彼らによって人間の生命を絶滅するために建てられた巨大な設備、赤軍によって解放されたアウシュヴィッツ収容者の証言、200人の目撃者の証言、発見された文書、その他の重要な証拠は、アウシュヴィッツ収容所で数百万の人間を絶滅、ガス処刑、火葬したドイツの虐殺者を有罪とするには十分である。52の火葬炉を持つ5つの火葬場だけで、ドイツ軍は、設置以来、以下の数の囚人を絶滅させることができた:

24ヶ月間存在した第1火葬場では、毎月9,000体を焼却することができたので、全期間を通じて合計216,000体を焼却できたことになる;

対応する数値は以下の通り:

- 第2火葬場:19ヶ月、9万体/月、総数171万体;

- 第3火葬場:18ヶ月、9万体/月、総数162万体;

- 第4火葬場:17ヶ月、4.5万体/月、総数76万5千体;

- 第5火葬場:18ヶ月、4.5万体/月。

5つの火葬場すべての火葬能力は、1カ月あたり279,000体で、全期間での総数5,121,000体という数字であった。

ドイツ軍はまた大量の死体を薪で火葬している(註:野外火葬のこと)ので、アウシュヴィッツの人間絶滅のための施設の能力は、この数字が示唆するよりも、実際にははるかに高いと考えなければならない。しかし、個々の火葬場がフル稼働していなかったかもしれないし、修理のために一部停止していたかもしれないことを考慮しても、技術委員会は、アウシュヴィッツ収容所が存在していた期間に、ドイツ人首謀者がソ連ポーランド、フランス、ユーゴスラビアチェコスロヴァキアルーマニアハンガリーブルガリア、オランダ、ベルギー、その他の国々の市民400万人を下らない数の人々を殺したと立証した。

アウシュヴィッツの犠牲者総数が400万人だったという説の根拠はここから生じたものだと推測できますが、この報告書に書かれた1日あたり約9000体の火葬能力の算定根拠は何も述べられていません。推測としては、アウシュヴィッツの囚人の生存者の何人かが自身の推定値として400万人と証言しているので、それに合わせて火葬能力をでっち上げただけではないかと思われます。

アウシュヴィッツ収容所の司令官だったルドルフ・ヘスニュルンベルク裁判でその犠牲者総数を250万人(+病死・餓死者50万人)と答えていますが、同時に250万人という数字の出所はアドルフ・アイヒマンであるとも述べており、ヘスは250万人を過大だと考えており、自身の推計値はどうやら150万人程度だったようです(ヘス自身は記録を取ることを許されていなかった。アウシュヴィッツの政治部は記録を取っていたようですがそれら文書資料は全て焼却処分されたと考えられます)。

しかし、ソ連の推定火葬能力は親衛隊の想定を倍近く上回っており、信用に値しないものだと考えられます。ついでに言えば、親衛隊の文書が偽造ならば、なぜソ連の報告書の半分しか能力がないのか? それもまた不自然です。ヘスもソ連の犠牲者総数を否定していますので、偽証とするのも変だと思われます。

15分で一体を火葬できた理由は複数遺体の同時装填だった。

親衛隊の文書によると、例えば第2火葬場では、日あたり1440体の火葬が可能だったとあります。第2火葬場の炉室数は5×3=15室なので、1室あたりで1日96体が火葬できたことになり、時間あたりにすると4体、つまり15分で1体を火葬できたことになります。しかしここで、火葬時間をGoogleに教えてもらうことにします。

火葬にかかる時間は幅がありますが、一般的な目安は1時間前後です。

Google検索で色々調べていると最も多いのがこの「1時間」で、火葬方法の違い(ロストル式)で35〜40分とするものもありましたが、15分は流石に見つかりません。したがって、安直な否定派式に言えば親衛隊の文書はウソだということになります。

しかし、アウシュヴィッツの火葬場には民間の一般火葬場とは異なる大きな使用上の違いがありました。民間の火葬場では一般に、火葬された遺体の遺灰・遺骨は遺族に返還されなければなりません。従って、一般的な火葬場では遺体の火葬は炉室への遺体装填〜火葬〜遺灰・遺骨回収まで一体ごとにしか出来ません。他人の遺体の遺灰・遺骨が混ざるなどあってはならないことだからです。アウシュヴィッツでも一応はドイツ人囚人の遺体の場合は遺族に返却していたようではありますが、ユダヤ人の場合は特にその必要はありませんでした。つまり、遺体を一体ごとに焼却処理する必要はなく、可能な範囲で複数の遺体をまとめて焼却処分することができたのです。ヘスの自伝には次のようにあります。

屍体は、すぐ特殊部隊の手で金歯を抜かれ、女は頭髪を切られる。次に、屍体は昇降機にのせられ、その間に熱してある上の階の炉にはこびこまれる。屍体は、その状熊に応じて、炉の各室に三人まで入れられた焼却時間は屍体の条件によって異なるが、平均二〇分である。
アウシュヴィッツ収容所』、p.409

詳細な証言を行ったことで知られるユダヤ人ゾンダーコマンドとして働いていたヘンリク・タウバーは第2火葬場での経験として、以下のように証言しています。

レトルトの内部には鉄の部品はなく、シャモット(耐火煉瓦)製の格子がついていました。1,000~1,200℃にもなる炎で、鉄の部分が溶けてしまうからでしょう。シャモット格子はレトルトの中で横向きに配置されていました。レトルトの扉や入り口の穴は小さめで、レトルト自体は長さ約3m、幅約80cm、高さ約1mでした。このようなレトルトで焼くのは、4~5体が一般的です。しかし、もっと多くの死体をレトルトに装填する場合もありました。「ムスリム」(痩せこけた囚人のこと) なら8人まで入れることができました。空襲警報の時に、火葬場長の知らないところで、このような大きな荷物を燃やしました。煙突からもっと火が出るように、そして飛行士に気づいてもらえるようにと考えたからです。そうすることで、自分たちの運命を変えることができると考えたのです。
Chronicles of Terrorにあるタウバーの証言より翻訳引用)

第5火葬場で同様にゾンダーコマンドとして働いていたシェロモ・ドラゴンも次のように語っています。

火葬場での作業はモルによって指示され、その命令の実行者はゴルガー作業主任、第二作業主任はエックハルトでした。衛兵にはSSのクルツシュルスとグスタスがいました。この火葬場は、火葬場IVと同じように作られました。これらの火葬場はどちらも、両側に4つのオーブンを備えていました。各炉室には3体の死体が入れられました。脱衣室とガス室(バンカー)は地上にありました。ガス処刑自体は、これらの火葬場でも、ブンカー1、2と同じように行なわれました。
Chronicles of Terrorにあるドラゴンの証言より翻訳引用)

他にも複数遺体の同時装填を証言している親衛隊員や囚人はいますが、火葬炉メーカーのトプフ社による当時の書簡にも記録があります。以下の文書の日付は1942年9月12日です。

最近特にアウシュビッツで顕著になった強制収容所向けの焼却炉の強い需要、そしてプリュファー氏の報告によれば、再び3マッフル炉7基の注文があったことから、マッフル付きの従来の炉方式が上記の場所に適しているかという疑問が検討された。私見であるが、ブッフェルのオーブンでは火葬が十分に進まず、望まれるほど短時間で多数の遺体を処理することができない。このように、多数の炉やマッフルを用意し、個々のマッフルに複数の死体を詰め込むことで、根本的な原因、つまりマッフルシステムの欠陥を改善することなく、自助努力している。

このように、一つの炉室に複数の遺体を同時に詰め込んで焼却処分を行うことにより、計算上の一体あたりの火葬時間を短くすることができたのだと考えられます。これは何も、本当に同時に一気にまとめて何体も炉室に突っ込んだことを意味するだけでなく、炉室の中の焼却中の遺体の体積が減ってきたら、それらの遺体が完全に焼却されるのを待つことなく、次から次へと遺体を追加装填していくことも意味します。タウバーは実際4〜5体であるとか8体であるとか過剰な遺体装填数を証言していますが、以下のようにも証言しているのです。

死体を載せるためのトロッコは、火葬場IIでは短期間使用されただけで、その後、鉄製担架(ドイツ語でLeichenbrettと呼ばれる)に変わり、レトルト扉の下縁に取り付けられた鉄製ローラーでレトルトの奥まで滑るようになりました。これは、トロッコを使うと死体の炉への装填が遅れるためでした。これらの新しい装置は、上級カポのアウグストによって発明されたようです。その後、すべての後続の火葬場に適用されました。火葬場IIとIIIの炉では、1つの炉の3つのレトルトすべてに1組のローラーがあり、レトルト扉の前にある鉄棒の上を滑っていました。火葬場IVとVでは、各レトルトの扉の前に別々のローラーが常設されていました。各火葬場には、死体をオーブンに装填するための鉄製の担架が2つありました。これらの板は、レトルトの前に置かれていました。 二人の囚人が死体をその上に寝かせました。最初の死体は足をレトルトの方に向け、背中を下にして顔を上にするように並べられたのです。この死体の上に、もう一人の死体が上向きに、頭をレトルトに向けた状態で置かれました。こうすることで、上の死体が下の死体の脚を押し、上の死体の脚が炉の中に押し込まれることなく、自ら炉の中に引き込まれるようにしました。

担架への死体の積み込みは、2人の囚人によって行われました。他の2人は、レトルトに近い方の担架の端の下に置かれたロッドのそばに立っていました。死体を担架に乗せる間、一人がレトルトの扉を開け、もう一人がローラーを準備しました。5人目の囚人は担架をハンドルで持ち上げ、前の2人がバーに持ち上げ、ローラーに乗せた後、担架をレトルトの中に押し込むのです。死体がレトルトの中に入ると、6番目の囚人が鉄の棒でレトルトの中の死体を押さえつけ、この5番目の囚人が死体の下から担架を引っ張り出しました。6人目の作業には、オーブンから取り出した担架に水をかけることも含まれていました。その理由は、オーブンで熱せられた担架を冷やすためでした。また寝かせたばかりの遺体が担架にくっつかないようにするため、石けんを水に溶かして、遺体が担架の板金の上をよく滑るようにしたのです。

ただし、2組目の死体については、かなり急がなければなりませんでした。1組目の死体は、その間にすでに手足をあげて燃えていたので、遅れると2組目の死体を炉に入れるのが難しくなったからです。この2組目の死体を炉に装填しながら、死体が焼かれる過程を観察することができました。まるで死体が体の本体をまっすぐに伸ばしているように見え、腕が立ち上がって縮み、脚も同様でした。体に水泡ができ、古い死体の場合、ガス処刑された後、2日間も予備室で腫れぼったくなって寝ていることもあり、腹部の横隔膜が破れて内臓が出てくることもありました。また、死体の燃焼を早めるために熊手(火かき棒)を持って炉内を操作する際、燃焼の過程を観察することもできました。とにかく、積み込みが終わるたびに、親衛隊の作業長が、オーブンがきちんと積み込まれているかどうかをチェックしたのです。私たちは彼のために各レトルトの扉を開けなければなりませんでしたが、その過程で内部で何が起こっているのかを見ることができました。

遺体装填作業に関するかなり詳細な証言で、内容を仔細に検討すると非常に興味深いのですが、ここではこの装填作業が最初に2体の遺体を炉室に装填してから、炉室から一旦引き抜いた担架に水をかけたり、石鹸水を塗ったりしてから、引き続いて2体を装填している点に注目すると、必ずしも多数の遺体を一回の装填でまとめて装填していたわけではないことがわかります。

以上の通り、親衛隊文書にある一体当たり15分の火葬時間は、複数遺体の同時装填によって実現されていた、計算上の一体あたりの火葬時間であることがわかります。

ホロコースト否定派の火葬における否定の論理

否定派は、当時の文書や戦後の証言によってアウシュヴィッツの火葬処理能力は、現在の推定犠牲者数である110万人を十分処理できたと立証できているにも関わらず、これら当時の文書史料や証言を全否定します。それは否定派の称するところの「科学的・技術的」な論理や知見によって、否定派が編み出した理屈によります。

これを詳細に紹介しようとして、イタリア人修正主義者のカルロ・マットーニョの論文を翻訳して解説しようとしたのですが、少々量が多すぎて、今回は断念しました。なので、非常に簡潔にだけ、その論理の一部を紹介するにとどめます。

  1. 燃料が不足していたので、110万人もの遺体を火葬することが出来たはずがない。

    多くの素人的否定派がこれを主張します。戦時中だったから燃料は貴重であり、110万人もの死体を火葬する余裕などあり得たわけがない、との主張です。アウシュヴィッツの火葬場は石炭を加熱することで生成されるコークスを燃料としていました。このコークスのアウシュヴィッツへの納入量は一部だけ記録が残されていますが、トータルの量は不明です。不明なのですから、それら素人的主張は無視してかまわないものでしょう。

  2. アウシュヴィッツへのコークス燃料の納入記録に基づくと、記録のある時期にガス処刑されたと推定されている犠牲者数は到底火葬できるコークス量ではなかったので、それらの犠牲者数はウソである。

    死体一体あたりの焼却に必要なコークス量を約30kgとしたのはカルロ・マットーニョです。彼は、様々な文献からそのように想定していますが、アウシュヴィッツでは前述した通り、複数遺体の同時装填という技術が使用されており、その場合、遺体それ自体の燃焼エネルギーも遺体の燃焼に加味されなければならず、その計算をマットーニョは行なっていないため、マットーニョの推定は妥当であるとは言えません。

  3. 複数遺体の同時装填は、遺体火葬効率を上げることにはならないので、もし仮に実施されていたとしても、そのような火葬能力はなかったとの結論は変わらない。

    マットーニョは、火葬炉の連結数が火葬効率をやや上昇させることには同意していますが、複数遺体の同時装填についてはそれを認めていないようです。遺体の燃焼には、遺体自身に含まれている60〜70%の水分の蒸発、脱水がまず必要であり、遺体の燃焼エネルギーが遺体自身の燃焼にある程度は寄与するにせよ、その脱水がなければ燃焼が始まらないのだから、何れにせよ相当量のコークスが必要なはずである、とします。一定量のコークスである限り、遺体数が増えれば、それに比例して脱水時間もかかるはずであり、処理時間を短縮させることにはならない、とするのです。しかしマットーニョは、遺体の同時装填だと仮定しているだけであり、実際には既に述べた通り逐次投入していたのですから、逐次投入し続ける限り、燃焼中の遺体が炉室内にあり続けることになり、その遺体の燃焼エネルギーによる脱水を無視することはできません。さらには、アウシュビッツの火葬炉は炉室が連結されているのですから、隣り合う炉室にも燃焼中の遺体があるので、そこからも遺体の燃焼エネルギーが絶えず供給されていることにもなっています。従って、複数遺体の同時装填による火葬効率の向上を無視することはできません。

  4. 複数遺体は炉室のサイズを考えれば、同時の装填は不可能であった。また複数遺体を装填すると多重マッフルの横方向にある燃焼ガスの通路を塞いでしまうので火葬の妨げになってしまう。

    上に挙げている炉室の写真を見ると、横方向には狭いかもしれませんが縦方向には十分な大きさがあるようにしか見えません。タウバーは遺体を遺体の上に積んだと証言しています。大人と2体重ねてその上に子供を2体程度を積むことくらいできたと思われます。穴を塞ぐという主張に対しては、タウバーの証言では「死体の燃焼を早めるために熊手(火かき棒)を持って炉内を操作」とあり、対処方法は存在していたので問題はありません。

    アウシュヴィッツでゾンダーコマンドを経験した元囚人であり画家である、フランス人のダヴィッド・オレールによる絵。この絵を見たある修正主義者は、「炉の口が大きすぎる! その隣にガス室などなかった! だから嘘だ!」のようなことを言っていましたが、そもそもオレールの絵は図面のような正確さを求めるような絵ではありません。また、扉の開いているところをガス室だとオレールは書いていません(位置的には死体リフトのある通路の一部です)。なぜ修正主義者はもっと考えないのか、私には理解できません。

以上、出来るだけ総合的かつ簡潔にしたつもりではありますが、それでも相当な文字数になっているので、この辺で。異常な量の執筆家であるイタリア人修正主義者であるカルロ・マットーニョがこの火葬に関して執念を燃やしているのですが、もちろんそれに対しても欧米の反修正主義者は反論し返しています。以下にその翻訳内容のリンクを紹介して今回は以上です。

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