ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

アウシュヴィッツに子供がいたら不自然なのか?

 

現在、次の記事に向けてある記事を翻訳中なのですが、思っていたよりも長くてかなり時間がかかっており(というか翻訳作業は眠たくなることが多くて(笑))、わざわざ翻訳などしなければよかったと後悔中です。でもあまり間が開きすぎてもなんなので、今回は短いネタを一つ。

 

西岡昌紀氏が疑惑に思ってるアウシュヴィッツの子供の映像について。

西岡氏は、繰り返し同じことを主張する壊れたテープレコーダー、あるいはエンドレステープみたいな人なのですが、この件についても同じことを何度か主張しています。

多分もっと過去にも同内容のツイートをしてこられたんじゃないかとも思われますが、西岡氏の悪いところは、疑惑だけを主張して真相を調べようとしないところにあります。

まず冒頭に挙げた写真、つまりアウシュヴィッツ収容所のソ連による解放時に撮られた映像とされ、アウシュヴィッツにいたと考えられる子供が被写体になっている写真はいくつかあります。

 

細かい話(どうでもいい話)ですが、冒頭に示した写真は他の写真に比べ画質が落ちていることがわかるかと思いますが、これはスチル写真と動画から切り取られた写真の二種類があるからです。この動画については、もちろん現在はネットでそれを見ることが簡単にできます。

encyclopedia.ushmm.org

この動画の元は、以下のアウシュヴィッツ解放時の映画映像として編集されたものが以下で見ることが出来ます。上記動画はここから抜粋されたものです。

collections.ushmm.org

私は本当に西岡氏が何を疑惑に思っているのか理解しかねています。例えばこの全体動画を一度でも見たことがあるのだろうか?と。そこに写っていた多くの死体はガス殺死体ではありませんでしたが、それでもアウシュヴィッツ収容所が悲惨な状態だったことは十分窺い知れます。あるいは、ソ連が開放時にいた子供達の映像を撮りたいと思って、アウシュヴィッツ第一収容所の二重の鉄条網の間を歩かせて撮影した、そのこと自体にどうして疑惑があるのでしょうか? 確かに、後述するように、それら集団で歩く子供達の映像は、一般に言われているようにソ連アウシュヴィッツを解放したその日、1945年1月27日の撮影ではなかったのですが、だからと言ってそれらの子供たちが実際にはアウシュヴィッツにはいなかった子供達だったわけではありません。

アウシュヴィッツには確かに子供たちの囚人もいた。それをプロパガンダ映像として撮影して何が悪いというのでしょうか? それを映像として紹介することは何か邪悪な意図を感じなければいけないのでしょうか? 私には西岡氏の疑惑の思惑がさっぱりわかりません。次に説明するように、むしろ開放時に子供がいたことは否定派にとって喜ばしいことですらあったように思うのですが……。

ともかく、西岡氏がそのように疑問に思うのなら、これらの生存者が生存のうちにご本人に聞いてくればそれで疑惑は解消したはずなのです。なぜ聞かなかったのでしょうか?

アウシュヴィッツの子供達に関する否定派のくだらない疑惑

絶滅収容所でもあったアウシュヴィッツ収容所については、「労働に適したユダヤ人は囚人として登録されたが、労働に適さない老人、病人、子供は直ちにガス室で殺された」としばしば言われています。否定派のくだらない疑惑とは、こうした「正史派説」は、開放時に子供がいた写真・映像が存在することによって矛盾しているではないか! とするものです。これに関する詳細な指摘は以下にあります。

note.com

アウシュヴィッツの子供に関してはいくつも本が出ているくらいの常識的な話なので、それをわざわざ疑惑視する否定派の精神性には眩暈がしそうです。

 

 

で、アウシュヴィッツ解放時の子供の映像はいつ撮られたの?

さて、今回のメインの話題ですが、随分と前に知ってはいたのですが、その本を読んではいなかったので、やっと図書館で読んできたのでそれを紹介します。

図書館で読んできたと言っても時間がなかったので、解放時の映像に関する情報を確認するので精一杯でした。しかし、この本の絵が非常に平和なタッチで描かれているのに対し、内容は一般の生存者の体験談と変わりません。この本は、2018年に著者のマイケル・ボーンスタイン氏が来日して、日本テレビの『世界一受けたい授業』に出演されて、紹介されています。

www.ntv.co.jp

では、同著からその開放時の子どもたちの映像に関する情報の内容を引用紹介します。

 おばあちゃんはずっと僕に言い続けていた。「もうすぐ家に帰れるからね――もうすぐだよ」 僕はジャルキのことは何一つ覚えていなかった。でも、きっともう母さんがそこで僕らを待っ ているのだろうと想像していた。

 (註:アウシュヴィッツ収容所の解放日である1945年1月27日から)さらに三日か四日が過ぎたある朝、ソ連兵たちが生存者の一部をあるエリアに呼び出して、以前の縞模様の囚人服をもう一度着てもらえないだろうかと言った。

 おばあちゃんはその話を聞いて、ぽかんと口を開けた。なんで今さら、あの寄生虫だらけの、 泥にまみれた制服を着なければならないの?

 ソ連兵たちは説明した。自分たちはただ、収容所から人々が出てくる歴史的瞬間を映像で記録しておきたいのだ。収容所を解放した当日には、あいにくカメラを回していなかったので、と。 なんだか奇妙な話だった。けれど兵士たちは、縞模様の囚人服は消毒済みだし、着ている時間はほんのわずかだと請け合った。真冬で外は凍るように寒かったため、人々は囚人服の下に何枚も衣服を重ね着することを許された。兵士らは僕たちの健康をとても気遣っていた。

 「お手伝いしましょうか?」。僕がバラックから出ようとしていると、一人の将校がロシア語で声をかけてきた。僕は三枚服を重ねた上に、かなりサイズの大きな青と灰色の縞の囚人服を着込んでいた。将校は僕に手を貸し、ボタンを上まで閉めると、おばあちゃんの手から僕を抱き取った。

 おばあちゃんは止めようとしたにちがいない。唯一の保護者であるおばあちゃんは、僕が手の届かないところに行くのをいやがったはずだ。でも結局のところ囚人はみな、ソ連兵を信じるほかなかった。彼らは小さな子どもたちを列に並べた。歴史上最大の、そしてもっとも悪名高い死の収容所を生き延びた少数の子どもたちが、ずらりとそこに並んだ。「袖をまくって、みんなの番号を見せてください」。一人の兵士がカメラを回しながら指示した。ロシア語だったので、僕は理解できなかった。通訳が身振りを交えながら、もう一度ポーランド語で言い直した。僕はまわりの子どもたちと同じように、ぶかぶかの囚人服の袖をまくり上げ、入れ墨を見せた。

 そのときにはわからなかったが、この映像はのちに世界じゅうの無数の人々にアウシュヴィッツの非道を思い起こさせる材料になる。そしていつの日か、スクリーン上に幼い自分の姿を見つけた僕を仰天させることになる。縞模様の囚人服を着た幼い僕は、アウシュヴィッツの隠れんぼチャンピオンの一人だった。

(pp.192f.)

マイケル・ボーンスタイン氏は冒頭の写真の手前右側に写っている子どもです。以下記事に2018年の来日当時のものと思われる写真が載っていますが、子供の頃の面影そのまんまなのでご本人に間違い無いでしょう(そのように疑うことすら戸惑いますが)。

book.asahi.com

というわけで、これで解放時の子供の映像の真相がはっきりしたのでは無いかと思います。あと、否定派は子供がぷくぷく太っているので、収容所では子供が虐待されていたわけではなかった、栄養が行き届いていたようにしか見えないし、アウシュヴィッツの悲惨な話は嘘である証拠だ!とまで主張することがありますが、撮影時には相当に着込んでいたと証言されていますし、それらの服はアウシュヴィッツのカナダエリアに行けばいくらでもあったそうです。実際にはそれほど太っていたとは言い難いことは上に紹介した動画の中を確認してください。

否定派は、単に疑惑を主張するだけで、この解放時の映像やアウシュヴィッツの子供達について、真相を確かめようとはしないことがよくわかる話だと思います。実際にプロパガンダ活動を行っているのは否定派の方なのです。