ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ホロコーストの証拠ってあるの?(2)「裏付け」の大事さ。

ホロコーストの証拠ってあるの?」というタイトルで既に記事を書いていますが、そこでは少しリンクを示した程度で、証拠そのものについてはあまり触れませんでした。読者の方の中には、どんな証拠があるのか具体的に説明してほしかった人もいるかもしれません。今回は、前回同様満足いただけないかもしれませんが、少しはその実例を示したいと思います。その前に…

 

ホロコーストの証拠の量は膨大。

前回、証拠とは何か?について述べました。英語Wikipediaから引用したその冒頭には

  • ある命題に対する証拠とは、その命題を支持するもの

と簡単に述べられています。例えば、あなたは会社に遅刻したとします。その理由として、通勤電車が遅延したからだ、とする時、よく知られている様にそうした場合は鉄道会社が駅で発行する遅延証明書を貰うと思います。つまり、命題である「通勤電車が遅延した」を支持するものが「遅延証明書」になり、それ一つで証拠になります。

こうしたたった一つの証拠で証明できるのなら話は簡単なのですが、電車が遅れたのではなく、駅に向かうときに、別の人の自転車にぶつかって、電車に間に合わなかったから、とするとそれを証明するには一つの証拠ではおそらく無理でしょう。あなたはそのときに落として画面が割れたスマホを示すかもしれませんが、それは完全な証拠になりません。そこで、自宅の親にいつもと同じ時間に家を出たことを証言してもらうことになるかもしれません。さらには、自転車にぶつかった時の目撃証言を探すことになるかもしれません。

この様な、証明に必要な証拠の量が一つではなく、大量に必要とされる状況がホロコーストなのです。そもそも、ホロコーストの事実を示す個々の事象の量だけでも膨大です。絶滅収容所だけでも、5〜6箇所もあり、アインザッツグルッペンの殺戮現場は何千箇所にも及び、対象期間もおよそ4年、関係者も膨大で何より殺された人数はおよそ六百万人、規模が大きいことは火を見るより明らかです。

ロベール・フォーリソンは「たった一つの証拠」を要求し続けましたが、それはガス室に限ったものではありましたが、ガス室ですら上で言う遅延証明書の様なたった一つの証拠などありません。証拠がたった一つで済む事象など、むしろかなり例外的な事象に限られると思います。つまりフォーリソンはたった一つでいいと主張しながら、実際にはそれは無茶な要求だったのです。(しかしフォーリソン自身は、たった一つの証拠でガス室を存在しなかったとは証明しませんでした)

では、それら具体的な証拠にはどの様なものがあるのか、若干ですが例を見ていきましょう。

 

Vergasungskeller文書

これは、主にアウシュヴィッツ第二収容所であるビルケナウ収容所にあった、第2火葬場(クレマトリウム2)のガス室についての議論で登場する親衛隊の当時の文書です。まず、知っておかなければならないことは、第2火葬場の設計図面自体はいくつかあるのですが、そこにはガス室であると明確に示す文言は記されておらず、ガス室だとされる箇所に書かれているのは「Leichenkeller(註:「Leichenkeller 1」がガス室であり、Leichenkeller 2」が脱衣室になる)」(死体安置用地下室)であり、否定派は書いてある通りそこは死体安置室だと言って譲りません(しかし、書いてないことも主張する)。では、Vergasungskeller文書とは何か、見ていきましょう。

 

この書簡は、1943年1月29日、アウシュヴィッツの中央建設管理部の責任者であった親衛隊大尉カール・ビショフが、ベルリンの親衛隊経済管理本部(WVHA)の親衛隊上級大佐ハンス・カムラーに宛てた、第2火葬場の建設進捗状況に関する手紙です。第2火葬場が完成するのは同年3月になってからのことです。内容を翻訳すると下記の通りです。

クレマトリウムIIは、多少の工事を除き、言いようのない困難と凍てつくような天候の中、昼夜を問わず全力を尽くして完成させました。火葬炉は、実行会社であるエアフルトのトプフ・アンド・サンズ社の上級エンジニア、プリュファーの立ち会いのもとで火入れされましたが、問題なく稼働しています。死体安置用地下室(Leichenkellerの鉄筋コンクリートの天井の型枠は、霜のためにまだ剥がすことができませんでした。しかし、ガス処理用地下室(Vergasungskeller)を利用することができるため、この点は重要ではありません。

鉄道車両が禁止されていたため、トプフ・アンド・サンズ社は中央建設管理部が要求する時期に吸排気装置を納入することができませんでした。しかし、吸排気装置が到着した後、直ちに設置を開始し、おそらく1943年2月20日には完全に稼働できるようにする予定です。

トプフ・アンド・サンズ社の検査エンジニアの報告書が同封されています。

この文書を理解するには、まず第2火葬場がどの様な構造であったのかを理解しておく必要があります。まず第2火葬場の現在の様子です。

第2火葬場は、親衛隊が撤退時にダイナマイトによって破壊してしまいましたので建物自体は当時の状態では存在していませんが、上から見た形状はわかるかと思います。ガス室になっていた箇所はこの下に伸びている部分であり、脱衣室は左側になります。いずれも半地下構造でした。右側に伸びている箇所が火葬炉のあった箇所であり、こちらは一階(地上階)になります。当時(1942年4月)の図面ではこうなっています。

この図面はこちら以降のページから左右を合わせて作成したものですが、まず見えないと思いますので、元のページを拡大してでもじっくり見ていただきたいのですけれど、ガス室の場所には「Leichenkeller 1」、脱衣室の場所には「Leichenkeller 2」と確かに書いてあります。なお、このバージョンの図面作成時にはまだガス室を火葬場に設置する案は存在せず、本当にLeichenkeller、つまり死体安置室としての使用しか考慮されていなかったと考えられています。後に、図面は書き換えられ、大まかには変更はされてはいませんが、細かい部分で変更されています。詳しくは、プレサックの本の以下の章をじっくり読まないと理解できないかと思います。留意点としては、上の図面に左端にある階段の様なものは、この図面に後で書き込まれたものであり、図面作成時には存在していませんでした。

holocaust.hatenadiary.com

Vergasungskellerの意味

ともかく、後に変更された図面上でも、ガス室の場所には「Leichenkeller 1」、脱衣室の場所には「Leichenkeller 2」と書かれたままでした。したがって、図面の記述を信じる限り、ガス室などどこにもありません。

ところが、上の文書には「Vergasungskeller」なる、図面上にはどこにも書かれていない名称が登場しているのです。

私は「Vergasungskeller」を「ガス処理用地下室」と翻訳していますが、これは出来るだけ字義通りに訳したいからで、「Vergasung」は「気化・ガス化」を意味する言葉なのですが、実は当時あったチクロンBガスを用いた害虫駆除にも使われている言葉であり、気化・ガス化だけを意味するわけではないのです。また「keller」はほとんどの場合地下貯蔵室を意味する用語なので、地下室と訳しています。一般的には、「Leichenkeller」は「死体安置室」、「Vergasungskeller」は「ガス室」と単純に訳されることが多いようですが、アウシュヴィッツを議論する場合、さまざまな類義語が登場することから、できる限り元のドイツ語に沿う様に日本語化するよう心掛けています。

なお、現在では独和辞書を引くと「Vergasung」には「毒ガスによる殺害」の意味も掲載されているようですが、これはナチスドイツの事例からそのような意味も含むように扱われるようになったからだと考えられます。おそらく、否定派は反対すると思います。

どうして、第2火葬場にガス室があったとわかるのか?

アウシュヴィッツ収容所の研究者であったジャン・クロード・プレサックは『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』のp.503において、当時の文書史料だけを用いて「Vergasungskeller」が殺人ガス室を意味することを立証しようとしていますが、そんなことは出来ません。当時の建設部文書やトプフ社など関係各社の文書を調べたところで、せいぜい「ガス室」だと判断されるだけであり、「殺人・処刑用」と書かれた文書など存在しないからです。

第2火葬場に殺人・処刑用ガス室があったことを知るためには、証言証拠に頼らなければなりません。火葬場に殺人ガス室があったこと自体は、多くの証言がありますが、その中でもかなり詳しく書いた、火葬場のゾンダーコマンドとして有名なヘンリク・タウバーの証言から引用したいと思います。ポーランドの法廷の宣誓証言から、直接のポーランド語記録から翻訳してみましょう。

„Chronicles of Terror”. Base of testimonies of the Witold Pilecki Institute of Solidarity and Valor - Tauber Henryk

4 marca 1943 r. pod strażą SS-manów zaprowadzeni zostaliśmy na teren krematorium II. Tu objaśnił nam konstrukcję tego krematorium kapo August, sprowadzony w tym samym czasie z Buchenwaldu, gdzie pracował przy tamtejszym krematorium. Krematorium II posiadało pod ziemią rozbieralnię (Auskleideraum) i bunkier, czyli gazownię (Luichenkeller). W przejściu między tymi oboma piwnicami znajdował się korytarz, do którego prowadziły z zewnątrz schody i koryto do zrzucania zwłok przywiezionych do spalenia w krematorium z obozu. Drzwiami z rozbieralni wchodziło się do tego korytarza, a stąd drzwiami na prawo do gazowni. Od strony wjazdu na teren tego krematorium prowadziły do korytarza drugie schody. Na lewo od tych schodów znajdował się w rogu mały pokoik na włosy, okulary itp. rzeczy, a na prawo mały pokoik, w którym przechowywano zapasowe puszki z cyklonem. W prawym kącie korytarza na ścianie przeciwległej od wejścia z rozbieralni znajdowała się winda do wyciągania zwłok.

1943年3月4日、SS隊員の警備のもと、私たちはクレマトリウムⅡのエリアに案内されました。ここで、私たちは、ブーヘンヴァルトから同じ時期に連れてこられたカポ・アウグストから、この火葬場の建設について説明を受けました(彼は、そこで火葬場の建設に携わっていました)。火葬場IIには、脱衣室(Auskleideraum)と地下にバンカー、つまりガス室(Luichenkeller(註:「Leichenkeller」の誤記))がありました。 この二つの地下室の間の通路には、外から階段でアクセスできる廊下があり、収容所から火葬場で焼くために運ばれてきた死体を捨てるための桶がありました。脱衣室からのドアがこの廊下に通じており、ここから、右側のドアがガス室に通じていました。  この火葬場の入り口から廊下に出るには、2つ目の階段がありました。この階段の左側には、隅に髪の毛や眼鏡などを置く小部屋があり、右側には予備のチクロンBの缶を保管する小部屋がありました。廊下の右手、脱衣所からの入り口と反対側の壁には、死体を取り出すためのリフトがありました。

もちろん証言はこの前にも後もまだ長々とありますが、ともかくこうして証言を読めばはっきり第2火葬場には殺人ガス室があったことがわかります。否定派は証言証拠をバッサリ捨ててしまうので、否定派と議論しているとなかなか気づきにくいのですが、実はVergasungskeller文書は、こうした証言を裏付ける証拠になっているのです。

否定派はVergasungskeller文書をどう言っているのか?

この文書に最も早く反応した否定派は、米国の修正主義者であった、ノースウェスタン大学の電子工学科の教授であったアーサー・R・バッツです。彼は1975年に『20世紀のデマ(The hoax of the Twenties Century)』をイギリスで出版し、一躍有名になった否定論者です。バッツは、上で述べたように、「Vergasung」が「気化・ガス化」を意味することを利用し、Vergasungskeller文書にあるVergasungskellerは、コークスの気化装置のある部屋を意味する、としました。火葬炉はコークスのガスを利用して燃焼させているのだとしたのです。しかし、アウシュヴィッツのトプフ炉は全てコークスを直接燃焼させる仕組みであり、ガス化装置はどこにもありませんでした。

フォーリソンは、バッツ説を採用したものの、それに矛盾を感じ取ったのか、死体安置室の死体をチクロンBで殺菌消毒する、と解釈したようですが、死体は火葬されるのですから、殺菌消毒する意味はありません。(細かく言えば、プレサックが揶揄したようにチクロンBは害虫・害獣駆除剤であって、正確な意味での殺菌消毒はできません)

イタリアの修正主義者カルロ・マットーニョは、臨時の害虫駆除室なる特異な説を考案しました。図面にある通り死体安置室であると同時に、ガスを使う害虫駆除室としても使うことを親衛隊は考えていた、としたのです。マットーニョの理論は多くの当時の文書資料を駆使した見事なものでしたが、肝心の裏付けとなる証拠(証言ですらも!)は全くありませんでした。

Vergasungskeller文書はどう読むの?

文書にはこうあります。

死体安置用地下室(Leichenkeller)の鉄筋コンクリートの天井の型枠は、霜のためにまだ剥がすことができませんでした。しかし、ガス処理用地下室(Vergasungskeller)を利用することができるため、この点は重要ではありません。

元々、この二つの地下室は、死体置き場として利用される予定でした。つまり、一旦そこにおかれた多くの死体を、火葬炉のある一階へリフトアップして順次火葬処理していく、といった流れです。この文書の時点ではLeichenkeller 1を処刑用ガス室として使うことを想定していたものの、元々の死体安置室の設計から大きく変更されたわけでもありませんでした。ガス気密ドア、ガス投入用の天井の穴、金網導入装置が新たに付け加わっている程度です。この文書で述べられている死体安置用地下室(Leichenkeller 2)はこの時点ではまだ脱衣室として使うことが想定されていなかったと考えられます。このことは図面の変遷やタウバーの証言を読み解くことでわかります。

とするならば、単にこの文章は、「火葬場自体を稼働させるならば、死体安置室(Leichenkeller 2)の方は天井の型枠がまだ外せないので使えませんが、ガス室の方が死体安置室として使えるので問題ありません」と言っているのです。ガス室の方は吸排気システムが納入されて設置されない限り使えないので、1943年1月29日時点では殺人ガス室の使用は想定されていなかったことになります。これははっきり続く文章でこう書いてあるので明確にわかります。

鉄道車両が禁止されていたため、トプフ・アンド・サンズ社は中央建設管理部が要求する時期に吸排気装置を納入することができませんでした。しかし、吸排気装置が到着した後、直ちに設置を開始し、おそらく1943年2月20日には完全に稼働できるようにする予定です。

以上のように素直に解釈すればいいだけの話であり、ここに不自然な点は何もありません。こうした文書解釈も、文書自身がタウバーの証言を裏付けているのと同時に、タウバーの証言も文書が裏付けていることになるのですから、証言と文書がしっかり相互に強固に裏付け合っていることになります。

実は証拠の扱いで最も大事なのは、証拠同士で矛盾しないこともそうですが、それよりもむしろこのように証拠間の裏付けがあることなのです。だからこそ、証言は信用できないなどと安易に切り捨ててはいけないのです。

このような証拠間の裏付けをよく示している証拠の実例はまだありますので、次回もそれを示したいと考えます。