ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

ホロコーストの証拠ってあるの?

「証拠」とは何か?

ホロコーストには証拠が全くない。ただの一つもないのである!」だなんてセリフを聞いたり見たりしたことはないでしょうか?

その前に、証拠(evidence)とはそもそも何なのか? 英語Wikipediaから翻訳して紹介します。

ある命題に対する証拠とは、その命題を支持するものである。通常は、支持された命題が真であることを示すものとして理解される。証拠がどのような役割を果たし、どのように考えられているかは、分野によって異なる。

認識論では、証拠とは、信念を正当化するもの、あるいは特定の独断的態度を保持することを合理的にするものである。例えば、木があるという知覚的な経験は、木があるという信念を正当化する証拠として機能することがある。このような役割において、証拠は通常、私的な精神状態として理解される。この分野の重要なトピックとして、これらの心的状態の性質は何か、例えば、命題的でなければならないのか、誤解を招くような心的状態でも証拠としての資格があるのか、という疑問がある。現象学では、証拠は同様の意味で理解されている。しかし、ここでは、真理への直接的なアクセスを提供し、それゆえ不可避である直観的な知識に限定されている。このような役割から、証拠は哲学の基本原理を究極的に正当化し、哲学を厳密な科学に変えると考えられている。しかし、証拠がこのような要件を満たすことができるかどうかについては、大きな論争がある。科学や法律を含む他の分野では、証拠の公共性をより強調する傾向がある(例えば、科学者は統計的推論に使用されるデータがどのように生成されたかに焦点を当てる傾向がある)[1]。科学哲学では、証拠は科学的仮説を確認または不確認するものとして理解される。例えば、水星の「異常な」軌道の測定は、アインシュタイン一般相対性理論を確認する証拠とみなされる。科学的証拠は、観測可能な物理的物体や事象のように、公的で議論の余地のないものであることが重要であり、異なる理論の支持者がその根拠について合意できるようにすることが、競合する理論間の中立的な裁定者としての役割を果たすことになる。これは、科学的手法に従うことで保証され、証拠が徐々に蓄積されることで、科学的コンセンサスが形成される傾向にある。証拠の科学的概念に関する2つの問題は、利用可能な証拠が競合する理論を等しく支持する可能性があるという「過小決定」の問題と、ある科学者が証拠と考えるものが、他の科学者が共有しない様々な理論的仮定をすでに含んでいる可能性があるという「理論的跛行」の問題である。証拠には、知的証拠(自明なもの)と経験的証拠(感覚を通してアクセスできる証拠)の2種類があるとよく言われる。

あるものが仮説の証拠として機能するためには、その仮説と正しい関係に立たなければならない。哲学では、これを「証拠関係」と呼び、この関係がどのようなものでなければならないかについて、競合する理論が存在する。確率論的アプローチでは、支持される仮説の確率を高めるものであれば証拠とみなすとする。仮説演繹主義によれば、証拠は仮説の観察結果で構成される。ポジティブインスタンスアプローチは、ある観察文が普遍的な仮説のポジティブインスタンスを記述している場合、その観察文がその仮説の証拠になるとする。証拠関係は、さまざまな強さの度合いで発生する。その程度は、仮説の真理を直接証明するものから、状況証拠のように仮説と矛盾しないが他の競合する仮説を排除しない弱い証拠まで様々である。

法律では、証拠規則が法的手続きで認められる証拠の種類を規定している。法的証拠の種類には、証言、文書証拠、物的証拠が含まれる[2]。法的ケースのうち、論争になっていない部分は、一般に、「事件の事実」として知られている。争いのない事実を超えて、裁判官や陪審員は、通常、事件のその他の問題について事実の審理を行うことを任務とする。証拠と規則は、争いのある事実の問題を決定するために使用され、そのうちのいくつかは、事件に関連する法的証明責任によって決定される場合がある。特定のケース(例:死刑囚)における証拠は、他の状況(例:軽微な民事紛争)よりも説得力がなければならず、これは事件の決定に必要な証拠の質と量に劇的な影響を与える。

日本語Wikipediaから引用しなかったのは、日本語の「証拠」項目には全く出典がなく、説明が極めて貧弱に感じたからです。しかし、英語版は割と秀逸な文章になっているように思われます。

証拠規則と、大陸法とコモンローの違い。

先に補足しておきますが、上述の引用箇所のうち強調した部分は、米国の裁判で扱われる証拠規則の話であり、日本を含む多くの国では証拠規則は基本的にはありません。法律に詳しいわけではないので、多少間違っているかもしれないと断った上で述べますが、これは法体系の違いによるものです。この違いとは、日本のような大陸法英米のようなコモンローの違いです。簡単に説明すると、大陸法系の国では、制定法(議会や行政府によって定められる法律)が重視されます。これを成文法主と呼びます。それに対し英米などでは判例法主を採っています。コモンロー体系の国では裁判所での判断が法を形成していくのです。

この考え方の違いは、裁判での証拠の扱い方の違いにまで影響しています。大陸法系の裁判における証拠の取り扱いは、原則として自由心象主義となっています。これは、民法や刑法で定められています。日本では以下の通りです。

  • 民事訴訟法第247条
    裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を採用すべきか否かを判断する。
  • 刑事訴訟法第318条
    証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。

簡単に言えば、何を証拠としても良いし、特に証拠の取り扱いに規則もないというわけです。ところが、米国のようなコモンローの国では大きく異なります。何を証拠とするかについては、法的な証拠規則に基づくのが原則なのです。

www.law.cornell.edu

これを見て貰えばわかりますが、非常に細かい証拠に関する規則が述べられています。これらの多くの証拠規則は、それまでに実施されてきた裁判の中で判例として成立してきたのです。しかし繰り返しますが、大陸法の自由心象主義においては、このような細かい証拠規則は基本的にはありません。

このような違いを認識しておかないと、たとえば、ニュルンベルク裁判を扱う議論でも、それをよくわかっていないがために生ずる妙な疑惑まで生じます。ニュルンベルク裁判の規則、すなわち国際軍事裁判憲章第19条では以下のように定められています。

Article 19.
The Tribunal shall not be bound by technical rules of evidence. It shall adopt and apply to the greatest possible extent expeditious and nontechnical procedure, and shall admit any evidence which it deems to be of probative value.

第19条
裁判所は、証拠に関する技術的な規則に拘束されることはない。裁判所は、 可能な限り迅速かつ非技術的な手続を採用し、適用しなければならず、また、証拠的価値があると判断したいかなる証拠も認めなければならない。

大陸法とコモンローの違いをわかっていないコモンロー体系の国の修正主義者はこれを見て、「証拠規則も無しにしたのは、連合国に都合の良い証拠となるものならなんでも採用し、難癖でもなんでもいいからドイツを有罪にしやすくしようと考えたからに違いない。こんなのはインチキである!」のように考えるそうです。

確かに、第二次世界大戦中にドイツが行ったあらゆる犯罪的事実について裁くことを目的とし、かつ対象となった被告も二十名近くに上るニュルンベルク裁判ですから、可能な限り迅速に裁くことを目的としたことは間違いないでしょう。ですが、その意味でも、ニュルンベルク裁判に提出された証拠の量は膨大なものであり、それら証拠の一つ一つにいちいち米国のような証拠規則など採用してられません。

更なる問題は、ニュルンベルク裁判は国際裁判ですし、連合国の面子は大陸法系の国とコモンロー系の国が混ざっているので、極めて技術的で仔細な証拠規則のない大陸法系諸国の司法関係者には、証拠規則は馴染みません。また、米国でも裁判で証拠規則を用いないケースもしばしばあり、大陸法系の国では証拠規則など無しに自由心象主義で裁判をやっているのですから、それら諸々のことを考慮すれば、証拠規則を使わなくとも裁判は特に問題なく進行できると判断して不思議は何もないのです。

以上の内容は、私が独自に述べているだけではなく、ニュルンベルク裁判の検事を務めたロバート・ジャクソンが同様のことを述べているのです。これは孫引用になりますが、

審判に適用されるべき証拠規則は、私たちが独自に主張した場合、深刻な意見の相違を引き起こしたかもしれない。大陸の弁護士は、コモンローの証拠規則を嫌悪している。陪審員による裁判の特殊性に対応するために導入されたものなので、プロの裁判官による国際裁判での使用を促す理由はないと考えた。また、国際裁判では一般的に使用されていない。そこで我々は、審判部が「証明力があると判断した証拠はすべて認める」という単純なルールに落ち着いた。これは、審判部にかなりの裁量権を与えるものであるが、証拠の正式な規則に準拠するのではなく、提出されたものの価値に応じて証拠を認めるというメリットがあった。

ニュルンベルグの回顧』より

ところが、修正主義者の主張を鵜呑みにする日本人修正主義者たちは、コモンロー体系の国の修正主義者による難癖を、そのまま鵜呑みにするのですから呆れるしかありません。たとえば、日本の修正主義者でありかつ大学教授でもあった加藤一郎はこんなことを平然と書いています

通常の司法裁判でならば、供述書や自白がそのまま犯罪を立証する証拠として採用されることはありません。かならず、反対尋問を受け、他の証拠資料や証言とつき合わされ、信憑性が確証された上で、証拠として採用されるのです。

ところが、ニュルンベルク裁判は、そのような司法手順には拘束されませんでした。ニュルンベルク国際軍事法廷憲章第19条には、こうあります。

「法廷は、証拠に関する法技術的規則に拘束されない。法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。」

極端にいえば、提出されたあらゆる証拠は、「ヨーロッパ枢軸国の主要戦争犯罪人」の「有罪」を立証するものであれば、たとえ、それが厳密な証拠手続きにそぐわないものであっても、すべて「許容する」ということになっているのです。

日本の大学教授ともあろう方が、なんとも情けない話です。被告側弁護士には、大陸法の国であるドイツ人の弁護士も参加していたのですから、面倒な証拠規則がなかったことは、それらドイツ人弁護士の利益にもなったのです。さらに追加して言えば、日本が被告となった極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判にもニュルンベルク裁判第19条と同様の規定はありますが、東京裁判を批判する人でも証拠規則云々を批判した人は聞いた事がありません。批判する人は主に証拠規則のない大陸法の日本人だからでしょう。

極東国際軍事裁判所条例

第十三條 證據
(イ) 證據能力 本裁判所は證據にする技術的法則に拘束せらることなし。本裁判所は迅速且機宜の手を最大限度に採用且適用すべく、本裁判所に於て證明力ありと認むる限り如何なる證據をも採用するものとす。被告人の表示した承認又は陳述は総て證據として採用することを得

国立国会図書館デジタルコレクション、戦犯起訴状:極東国際軍事裁判所条例より

ただし、米国が裁判の主体となったニュルンベルク継続裁判では、証拠規則は採用されたこともあったようです(詳しくは調べていません)。

で、ホロコーストの証拠はあったの?

あるに決まってます(笑)。修正主義者たちの主張は、修正主義者たち自身がナチスドイツを有罪とするに足りる証拠がない、と言っているだけです。つまり、前項の国際軍事裁判憲章第19条は、実際には修正主義者たちも(逆の意味で)使っているのです。もちろん修正主義者たちの証拠規則は極めて恣意的です。要するに、如何なる証拠であろうとも証拠として認めない、と言っているに過ぎないのですから。修正主義者に顕著な特徴は、これはおそらく世界中の修正主義者に言えると思いますが、極めてダブルスタンダードなのです。第19条に文句を言いつつ、自分達修正主義者が証拠として認められないものは証拠採用しない、と言っているのですから。

さて、ではどんな証拠なら修正主義者は認めるのか。ネットに多い初心者的・無知無学な修正主義者たちはしばしば「骨がない!」と主張します。それらの人たちは、そもそもが犠牲者の骨があるかどうかを調べてもいません。推測ですが、おそらくネットで誰かがそう言っていたのを見て、単にその主張を鵜呑みにしているのでしょう。実際には犠牲者の骨はあります。たとえばラインハルト作戦収容所の発掘調査では、ボーリング調査ではありますが、骨どころか遺体まで埋まっている事がわかっています(しかしユダヤ教の教義において、死者の発掘は固く禁じられているため、大々的な発掘調査は出来ないそうです)。アウシュヴィッツのビルケナウ収容所の火葬場の遺跡では、今でも雨になると水溜りに骨の細かい欠片が浮いてくるそうです。近年でも、ベラルーシの建設現場から、ナチス時代の虐殺遺体が発掘されて世界的ニュースになった事例さえあります。それらの無知無学な修正主義者は、少し調べればわかることすら調べてもいません。

上記写真は、Googleレンズで検索すればどこの写真かはすぐわかるので説明しません。ともかく、流石にプロの修正主義者になるとそこまで馬鹿なことは言わないようですが、ナチスドイツが一人もユダヤ人を殺さなかっただなんて説はないのですから、骨くらいはあること程度、理解すべきだと思います。

……が、もし仮の上記のような説明をしたとしても次には決まって「600万人分の骨」なる馬鹿なことを言い始めます。600万人分の骨がなければ、600万人殺されたとは言えない、というわけです。こうなってくるともはやYakuzaレベルです。これらの難癖への応酬はいくらでも出来ますが、無意味なのでここではしないことにします。

さて話が脱線してしまいましたが、ホロコーストの証拠にうるさかったのは間違いなく、フランス人修正主義者のロベール・フォーリソンです。彼は、「たった一つでいいから証拠を私に見せてほしい」と生涯言い続けたそうです。初出は1979年1月16日付の新聞「ル・モンド」13面の記事だそうですが、ジャン・クロード・プレサックによるとそれは「明確な歴史的証拠、つまり議論の余地のない、反論の余地のない文書に基づく証拠」なのだそうです。

これは、この言葉を逆手に取ると、フォーリソン自身が証拠とは認めない証拠ならいくらでもあるということを意味します、たとえば、Holocaust Controversiesでは、アウシュヴィッツユダヤ人絶滅の証拠をこれでもかとリストアップしています(500項目以上)。

note.com

アウシュビッツの証拠はこの他にもたくさんあります。しかし、修正主義者たちはそのうち、先ずは証言証拠をバッサリ全部切り捨てます。上記リストのみで言えば360件にも達します。うち、半数以上は伝聞証言で、伝聞証拠は証拠能力が低いとはよく言われますが、リストをよく見てください、囚人として収容所にいた人が大半なのです。囚人の中でガス処刑を直接目撃できたのは、火葬場作業をしていたゾンダーコマンドにほとんど限られるのです。それ以外の囚人がガス処刑の目撃者となることはなかったでしょう。もしくは目撃者となったら自分自身がガス処刑で死んでます。しかしもちろん、修正主義者たちは直接目撃証言どころか、加害者であるガス処刑の実行者の証言までも証拠としては認めたりしません。

では具体的に、どのようにして証言証拠を切り捨てているのか、アウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスの事例を見てみましょう。

証言証拠の否定―アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスの証言のケース。

ルドルフ・ヘスは戦後、英軍に捕虜として捕まったもののすぐに釈放(最初の逮捕時にはヘスはドイツ海軍に紛れ込んでいたためアウシュヴィッツ司令官だとは判明していなかった)、その後フランツ・ラングと変名し逃亡生活を送りとある農家で雇われ農夫をやっていましたが、1946年3月11日の深夜かあるいは12日の未明までに再び英軍によって逮捕されます。

そして、同年4月15日にナチス親衛隊の国家保安本部長官であったエルンスト・カルテンブルンナー被告側の証人として、ニュルンベルク裁判の法廷に立ち、アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人絶滅の内容を含めた、詳細な証言を行いました。同年5月25日にポーランドに身柄を引き渡され、クラクフ拘置所で勾留され取り調べを受けつつ同年9月〜1947年1月まで綿密な予審を受けたのち、ワルシャワの法廷で正式に被告となり、1947年4月2日に死刑判決、約二週間後の4月16日にアウシュヴィッツ主収容所にて絞首刑となります。

しばしばネットでは誤解されているように思われることの一つに、ヘスの証言と言えば上で述べたニュルンベルク裁判での証言しかないように思われていることです。それは大きな誤解で、他にもいくつか種類があり、最も重要なのはクラクフ拘置所で書かれたヘス自身の回想録です。もし、ヘスが戦後に何を述べたのかを知りたければ、ニュルンベルク裁判の証言やその他の証言はほとんど不要であり、回想録だけを読めば事足ります。回想録は2023年現在、日本語版が講談社学術文庫から『アウシュヴィッツ収容所』のタイトルで出版されています。日本語版は他の他言語版にはない、編者のマルティン・ブローシャートの序文が掲載されています。この序文を読んでおけば、「1958年までの11年間」世間には公開されていなかったなどというフォーリソンのウソに騙される心配はありません。

さて、では修正主義者たちはヘスの証言の価値をどのように無価値にまで貶めているのかについてできるだけ簡潔に説明したいと思います。重要な論点は三つあります。それ以外にも何点かありますが、それらについてはここでは述べません。

  1. 「Wolzek収容所」など存在しないからウソである。
    これは、ニュルンベルク裁判の宣誓供述書にある証言内容です。アウシュヴィッツ以外の三つの絶滅収容所について述べている箇所があるのですが、以下のようにヘスは証言しています。
    6. ユダヤ人問題の『最終的な解決』は、ヨーロッパの全てのユダヤ人を完全に絶滅させることを意味していました。私は1941年6月にアウシュヴィッツに絶滅施設の設置を命じられました。その時、すでに、ベウジェツ、トレブリンカ、ヴォルゼク(Wolzek)という3つの他の絶滅収容所が、ポーランド総督府に置かれていました。
    総督府に置かれた絶滅収容所と言えば、強制収容所と兼用だったマイダネクを除くと、ベウジェツ、トレブリンカ、ソビボルの三つの絶滅収容所であり、ヴォルゼクなる絶滅収容所は存在しません。したがってヘスの証言はウソだとするのが修正主義者の判定です。

  2. 1941年夏(6月)にはまだ三つの絶滅収容所は存在しなかったからウソである。
    上記引用部には「1941年6月」とあり、これは自伝では「1941年夏」と書いてあります。しかし、それら絶滅収容所は1941年6月、あるいは夏には存在していないため、修正主義者の判定ではヘスの証言がウソになります。

  3. ヘスは逮捕後、拷問を受けており、その自白に任意性はなく信用性はない。
    これは、1983年に出版された、イギリス人ジャーナリストのルパート・バトラーによる『死の軍団(Legions of Death)』の記述により発見されたものです。そこには、逃亡中のヘスを逮捕したイギリス軍憲兵隊によってヘスは拷問を受けている事が書かれていたそうです。よって、修正主義者たちによると、拷問による自白は信用できず、ヘスの証言はウソだということになります。

ここでは、これらの論点への反論はしません(というか既にしています。こことかこことか)。

ルドルフ・ヘスの証言を認めることは、修正主義者の完敗を意味します。なぜなら例えばここにあるように、アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人の絶滅の様子が極めて詳細に書かれているからです。ルドルフ・ヘスアウシュヴィッツ収容所の所長を開設時から就任し、かつ最も長く務め、一旦退任したのちにも、最大規模のハンガリーユダヤ人の絶滅作戦時には一時復帰しています。ヘスこそが全貌を最も知っていると言っていいでしょう。そのユダヤ人絶滅の実行者自身がその詳細を語っているのですから、本来は疑いようがありません。

ですが、修正主義者はヘスの証言を認めることは絶対にありません。如何なる理由をつけてでも、修正主義者はヘスの証言を絶対に否定します。述べた通り、否定されるべき理由は他にもいくつも挙げられているのですが、上記の三つは決定的だとされているようです。

では、修正主義者ではない「正史派」の歴史学者は何故、修正主義者の見解を支持しないのでしょうか? ここではどちらが正しいかを問うているのではありません。ホロコーストを研究する歴史学者の多くは、修正主義者の上記のような主張も当然知っているのです。歴史的事実の修正を迫る決定的な証拠があるのであれば、歴史学者たちは、その修正を受け入れる筈です。ホロコーストの「正史」は、修正の連続でした。代表的な例としては、ユダヤ人絶滅はヒトラーの意図的な計画に基づくものだとする「意図説」から、多様な経緯と複雑な官僚機構の中から生じてきたものだとする「機能説」への変更も、それらを示す証拠があったからであり、歴史家たちの多くはコンセンサス的にその修正を受け入れてきたのです(但し意図説は消え去ったわけではありませんし、完全に否定されたわけでもありません)。

「科学的証拠は、観測可能な物理的物体や事象のように、公的で議論の余地のないものであることが重要であり、異なる理論の支持者がその根拠について合意できるようにすることが、競合する理論間の中立的な裁定者としての役割を果たすことになる」

これは冒頭で示した英語Wikipediaの中にある一文です。この説明は科学的証拠に関する説明ですが、歴史学も学問ではあり、ある説を正しいとみなすためには、当然ながらその説への「合意」が必要です。つまり、修正主義説を正史派の歴史学者たちが決して認めないのは、合意できないからに他なりません。何故合意できないのかと言えば、修正主義者の示すヘスの証言に対する否定の論拠があまりに薄弱すぎるのと、ヘスの証言の主要な内容が、その他の膨大な証拠と矛盾しないからです。歴史学者が求めているのは、ユダヤ人絶滅の真相・事実・史実なのであって、たとえヘスの証言の一部に誤りがあったところで、その本来の主要なユダヤ人絶滅に関する具体的内容に他の論拠から判明している史実と決定的に矛盾しない限り、捨て去られることはないのです。

これは極めて明白単純なことだと思います。