ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

アウシュヴィッツのプール

遊泳プール?それとも消火用貯水槽?

ホロコースト否定派が大好物の話題が、このアウシュビッツのプールです。写真に写っているように、三つの飛び込み台のようなものが見えますね。

私自身はこの話題、否定論に非常に憤りを感じていた時期に知ったため、アウシュヴィッツ収容所にプールが存在したところで特に何か問題があるとはちっとも思いませんでした。というか、この話題を知ってすぐに「Auschwitz swimming pool」でググって調べ、プールに関する否定論への反論記事をいくつか見つけたので、よくある話でしかないのだな程度にしか思わなかったのです。

それら否定論への反論の内容は、多分全部、「否定派が遊泳プールと言っているのは、実際には消火用貯水槽である」だったと思います。否定派はそれに対し「飛び込み台があるのだから、遊泳プールだったのは間違いない」と反論しているようです。そして、否定派の主張(遊泳プール説)には非常に強力な根拠があります。それは戦後の証言です。こちらのフォーリソンの論文から翻訳引用しますと、

ドイツ系オーストラリア人の修正主義者フレデリック・トーベンは、現在、収容所のプールの横に、ポーランド語、英語、ヘブライ語で、プールが実際には消防隊用の単純な水槽であったと訪問者に信じさせるための碑文が書かれていると指摘している。英語版にはこう書かれている:

「1944年初頭に作られたと思われるプールのような形の消防隊の貯水池」

この標識はいったいいつ登場したのかという疑問が湧いてくる。私自身は知らないが、この碑文は、アウシュヴィッツ国立博物館当局の他の多くの主張と説明と同様に、誤解を招くものである。ドイツ人が、普通の貯水池で満足するのではなく、なぜ、飛び込み台のあるプールのような形状にしたのか、その理由は不明である。

このプールはスイミングプールであった。囚人たちが使っていたのである。マルク・クラインは、『収容所の思い出』の中で、少なくとも2回、このプールに言及している。アウシュヴィッツI捕虜収容所」と題する記事で、彼はこう書いている:

「労働日は、作業コマンドがほとんど休んでいる日曜日と祝日に変更された。その後、昼頃に召集がかかり、休息に充てる夕方は、各人の好みに応じて使い分けることができた。サッカー、バスケットボール、水球の試合(収容者が施設内に作った野外プールで)には、大勢の見物人が集まった。このようなスポーツを行えたのは、重労働から解放された、栄養状態の良い、著名な囚人だけであり、他の大勢の囚人たちから拍手喝采を浴びていたことに注目すべきである(De l'Université aux camps de concentration : Témoignages strasbourgeois, Paris, les Belles-lettres, 1947, p. 453)。」

ナチス強制収容所に関する観察と考察』と題されたパンフレットの中で、彼は次のように書いている。

アウシュビッツ1は、28個の石造りのブロックを3列に平行に並べ、その間に舗装された道路を設けた。長方形を縦に走る3本目の道路には白樺の木が植えられ、ベンチや野外プールを備えた囚人の遊歩道「ビルケンアレー」となっていた (Brochure de 32 pages imprimée à Caen, 1948, p. 10 ; このパンフレットは、Etudes germaniques, n° 3, 1946, p. 244-275に掲載された記事を転載したものである)。」

マルク・クラインはユダヤ系の医学博士ですが、1944年にゲシュタポに逮捕されてアウシュヴィッツやブーヘンヴァルトの囚人となっていたそうです。

さてこの引用箇所のマルク・クラインの証言部分は本当に多く否定派のサイトで使われています。英文に限られる検索ワードでの検索ですが「"Marc Klein" Auschwitz swimming pool」で検索をかけると、2023年5月現在で約 7,300 件がヒットするようです。関係ないページもあるかとは思いますが、それにしても多いと思います。否定派がこの遊泳プールがアウシュヴィッツ収容所に存在したことを非常に重視している事がわかります。その理由については後述します。

このプールが消火用貯水槽であったことについては、どのように証明されるのかについては私自身は調べきれておりません。以下で若干説明されてはいますが、

note.com

デジャコ・アートル裁判の記録がネットにないので閲覧できず、私自身の調査は頓挫しております。作られた時期については、マルク・クラインがアウシュヴィッツにいた時期が1944年6月からであることと、上記リンクで説明されている工事時期が1944年5月〜9月であることは一致しているため、そうなのでしょう。

しかし、遊泳プールであったことと、消火用貯水槽であったことは、実際には矛盾しません。むしろ両立します。ドイツではどうだったのか知りませんが、例えば日本の小中学校などにある水泳用プールは、消防法でも管理規定があります。オフシーズンでも水が貯められているのは、消火用にも使うからです。

フォーリソンは「この碑文は、アウシュヴィッツ国立博物館当局の他の多くの主張と説明と同様に、誤解を招く」などと思わせぶりな記述をしていますが、消火用貯水槽であり・かつ・遊泳プールだとすればいいだけの話です。1944年になると、連合国の空襲もあったわけですし、何より「疑惑のガス室」である主収容所の第一火葬場(第一ガス室)も同年には防空壕に改修されていたわけです(この話はまた後日このブログでも書く予定です)。

もし、最初から遊泳プールを作ることだけを目的に作ったのであれば、それはそれでおかしなことです。1944年と言えば戦争が終盤に差し掛かっている時期です。そんな時期に収容所内に悠長に遊泳プールを作って遊んでていいのでしょうか? 否定派は、戦時中だから燃料は貴重だった筈だ!とかなんとかいう癖に、遊泳プールを作ることについて疑問を持たないのでしょうか? 

しかし、消火用貯水槽を作り、そこを親衛隊員が娯楽のために遊泳プールとしても使えるように飛び込み台なども設置した、ならばそのような疑問は解消されると思います。上の写真に示すような規模の消火用貯水槽を作るにはベルリンの親衛隊経済管理本部の指示や許可なしには出来ないでしょうが、飛び込み台程度は収容所で独自に作る事ができるレベルだと思います。その程度材料費は大したことはないでしょうし、人件費は囚人に作らせればタダです。実際、飛び込み台への階段を造った元囚人の話が載っている記事があります。

www.bbc.com

マルク・クラインはアウシュヴィッツのプールについてしか書かなかったのか?

で、上のフォーリソンが引用した文献、実はネットで読めるのです。

 

「大学から強制収容所まで:ストラスブールでの証言」とタイトルされたこの証言集は、ホロコースト関係の資料を色々と調べていると、時々参考文献としてそれらの脚注に引っかかってきたのを覚えています。それくらいホロコースト関係ではよく使われる文献なのでしょう。出版元はフランスのストラスブルグ大学で1947年に出版された文献です。大勢の人の証言が掲載されており、その中の一人がマルク・クラインなのです。

しかし、原本はフランス語であり、ネットで読めると言っても、写真形式なのでデータ量が多いため重たくて不便で、扱いやすいテキスト形式も今の所見つけておらず、フランス語が読めない私のような人にとっては、ページ毎にスクショしてテキスト抽出し、テキストをコピーしてから翻訳にかけねばならず、翻訳作業慣れしている私でもかなり面倒な作業です。

ただ、マルク・クラインの別の文章を、フランスの反修正主義サイトであるPHDNがテキストベースで公開しているので、クラインがどんなことを言っていたのかについてはそこで確認することができるのでやってみましょう。

先に述べておくと、修正主義者には悪い癖があります。例えば、前回記事で少し触れたルドルフ・ヘスへの拷問を記したとされている『死の軍団』には、きっちりユダヤ人虐殺のことも書いてあるのですが、修正主義者たちはその本のヘスの拷問だとする部分だけを紹介し、その本にはアウシュヴィッツガス室での虐殺のことも書いてあることは言いませんでした。

 1944年10月の時点で、アメリカとイギリスの共同宣言が「フラッシントン」から放送されていた。それは、オシフィエンチムアウシュビッツ)でのドイツの大量処刑計画についてのものであった。この収容所や他の収容所では、「ヨーロッパの多くの収容所から来た何千人もの人々が投獄されている」。
 宣言では、もし大量処刑の計画が実行された場合、英国政府は「最高位の者から最低位の者まで、何らかの形で関与したすべての者の責任を問う連合国の全面的な協力と合意のもとに、罪人を裁くための努力を惜しまない」と警告を続けた。
<中略>
 しかし、長い間、それは虐殺のレベルに違いはなかった。 警告の3日後の10月12日、ビルケナウの兵舎から3,000人のユダヤ人女性が「選ばれ」、火葬場IIでガス処刑された
(ルパート・バトラー『死の軍団』より)

さらには文献に書いていないことまで書いてある、あるいは書いてあることを書いていないとさえ嘘をつく人さえいました

さて、ではマルク・クラインはどんなことを述べているか少し引用してみます。

アウシュビッツ収容所群の平均人口は約15万人と報告されており、アウシュビッツI自体の平均収容者数は約1万5000〜1万8000人であった;国外追放者の連続的な到着にもかかわらず、この人口は、他の強制収容所への移送の結果、また到着時や選別による大量絶滅の結果、多かれ少なかれ一定に保たれたままであった;

アウシュヴィッツは、あらゆる種類の工業施設、鉱山、大規模な資材倉庫、農業搾取、運河工事、電化、排水、道路建設、親衛隊の兵舎、病院、衛生施設、実際の収容所、そして最後に、中央には、アウシュヴィッツに基本的な特徴を与えた有名なガス室と火葬場の施設があった。

輸送集団の到着は、私の時代には、ビルケナウ収容所のガス室や火葬場から数メートル離れた場所に、この目的のために特別に作られたプラットホームがあった。

このことは、選別作業がいかに大雑把であったかを示すために述べたものである。1時間後、2つのグループができていた。大雑把に言って、片方は老人であまり丈夫でない人たち、私のグループには若くて健康な人たちがいることに気づいた。よりハードな仕事に採用されることを自分たちに言い聞かせて、納得していた; 私は刑務所で、より多くの配給を得るためには、重労働をした方が良いと学んでいたからである。一瞬、弱者の集団の中に仲の良い友人を見かけたが、その人たちと言葉を交わした後、別れることになった。私は、不幸な仲間たちが到着後にガスで焼却されたことを、少しずつ、断片的に、そして何ヶ月もかけて知ることになった

初日の夕方から、主にフランス人の古い囚人たちが訪れてくれた。彼らは特別な腕章をつけることで、すべてのブロックに入ることができ、一般の人は入ることができない検疫ブロックにも入ることができたのだ。フランスから知らせを受けに来た同志たちは、皆同じように心配そうに質問してきた:「最初は何人で、今は何人なのか?」ドランシーを出発したのは1,200人、私たちは500人くらいだったはずで、プラットホームでの仕分けの後、アウシュビッツに向けて出発したのは200人くらいだったと記憶していた。私たちが年長者に、他の男性、女性、子供をビルケナウに残してきたことを話すと、ある者は笑い出し、ある者は黙ったままだった。私たちの質問に、何人かは、収容所を覆っていた恐ろしい謎、到着した輸送集団に対する大量ガス処刑と焼却について紹介してくれた

彼は、ビルケナウのプラットホームでの選別作業の様子や、見学したガス室や火葬場について具体的に説明してくれたが、その要旨は次のようなものである。ホームでの選別の結果、絶滅を宣告された人たちは、自分がどうなるのか、まったく想像がつかなかった。持ち物をすべて剥ぎ取られた後、タオルと石鹸を渡され、その上に「浴場」と書かれた特別な建物に連れて行かれた。このシャワーに入ると、通常船舶の害虫駆除に使用される特殊なチクロンBから発生するシアンのガスにさらされたのである。死は即座に訪れるものであった。そして、死体は最新鋭の火葬場で焼却された。死体、それから火葬場の跡を片付ける作業は、多くの物質的な利点を持ち、定期的に集団で排除される囚人からなるゾンダーコマンドによって行われたのである

とまぁ、これくらいにしておきますが、普通に知られているガス室での大量処刑のことをたくさん記述しています。マルク・クライン自身はユダヤ人絶滅が行われた主たる収容所であるビルケナウにはおらず(到着時にはいたが)、アウシュヴィッツ主収容所や副収容所であるライスコにしかいなかったので、これらは直接目撃情報ではなく伝聞情報です。しかしながら、他の収容所に移送されるまでは、アウシュヴィッツの囚人として数ヶ月はそこにいたのですから、収容所内でのさまざまな話を聞いていたし、彼は何度も収容所内での「選別」の現場に居合わせてもいます。彼のいた病院では、選別されて返ってこなかった患者がいたようなことも書かれています。

それらの内容を全て無視、あるいは却下して、プールの話だけを否定説に利用する心境は一体如何なるものであるのか、私には理解しかねるところではありますが、否定派にはそのようなガス室の記述は単に目が滑って読めないだけなのでしょう。

遊泳プールがあったとして何が言いたいのか?

否定派の多くは、アウシュヴィッツに遊泳プールがあること自体で「おかしいではないか!」としか言わない、あるいはその存在だけを強調するだけで、何が言いたいのかをあまり明確には言いません。しかし、アウシュヴィッツホロコーストの象徴のような扱いを受けており、死の収容所としてのイメージが強いので、「実際にはそうではなかった」と、それら「正史」を否定してしまいたいのでしょう。否定派はここにもある通り、プールの他にもさまざまな、死の収容所とは言い難くなるようなものがアウシュヴィッツにはあったのだとしています。

それはまるで、これを書いている現在進行形で起きているこの事件のようでもあります。

www3.nhk.or.jp

「まさか、白昼堂々、人通りも多い時間帯に、あの銀座の大通りで、こんな目立つところで堂々と強盗?」と思った人も多いこの事件。しかし常識的な印象に合わないからと言って、例え犯行動画がなくったって、この事件が実際には起こらなかったと思う人はいないと思います。平和そうな銀座だからって、強盗があり得ないわけでもない。

否定派の、プールに代表される類の話には嘘も多いのですが、少なくとも、プールの話ですらもその詳しい事実を知ろうという気は否定派にはありません。例えば、プール一つとっても、アウシュヴィッツ博物館の案内係は、案内時にはプールに案内しなかった→隠しているのか?→怪しい→見られると困るからに違いない、などと勝手な想像を並べ立てるだけで、「見られると困るもの」をアウシュヴィッツ収容所敷地内にそのままにしてあるのは何故かを考えることもありません。

また次回にでも述べようと思っているアウシュヴィッツ主収容所の第一ガス室捏造疑惑も同様で、それをわざわざ否定派が疑惑とするような状態で放置しておくことの不自然さを否定派自身が気にする気配もないのです。

アウシュヴィッツのプール」の話は、そのような意味で否定派の精神性・偏向ぶりを象徴する話だと思います。