ホロコースト論争―ホロコースト否定の検証

ホロコースト否定論(否認論)を徹底的に検証するブログ

故・加藤一郎氏によるクラクフ報告への批判、への反論

加藤一郎って誰?

一般に知られている日本人で有名なホロコースト否定論者はマルコポーロ事件で知られる西岡昌紀氏ですが、ネット上で使用されるホロコースト否定論の内容の多くは、加藤一郎氏によるサイトのものです。そのサイトは歴史修正主義研究会と言います。当該サイトに掲載されている記事・論文のほとんどは、欧米の歴史修正主義者による記事・論文の日本語訳です。翻訳記事・論文がいくつあるかは数えていませんが、翻訳公開順に並べてあり、これだけの量を翻訳して公開するのに5年と9ヶ月の期間がかけられたようです。私自身はホロコース否定論に興味を持ってまだ3年程度ですから、まだまだ修行が必要かもしれません。

さて、加藤一郎とは誰なのかについては、私自身はネットで得られる情報以上には知りません。文教大学教育学部の教授だった人で、おそらく2009年ごろに亡くなられているようです。文教大学の紀要論文集に以下の記事が載っているからです。

cir.nii.ac.jp

CiNiiで「文教大学 加藤一郎」で検索をかけてみると、最初はスラブ民族史の研究を細々とやっておられたようですが、なぜか1996年頃に東京裁判史観なるテーマに興味を持ち、そこからニュルンベルク裁判に関心が移って、そしてホロコースト否定論へと流れていったようです。

従って、教育学部教授ではありますが、一応は歴史学者さんのようです。しかし、歴史学者でかつホロコースト否定論者って、おそらく世界的にもかなり珍しい存在ではないかと思われます。大学教授でホロコースト否定論者と言えば、フランスのリヨン大学文学部教授だったロベール・フォーリソンや、大学名忘れたけど米国のアーサー・バッツ(電子工学科教授)など、他にも何人かいたはずですが、歴史学者は聞いたことがありません。私が知らないだけでいるのかもしれませんが。

日本の大学教授で唯一のホロコースト否定派であることはおそらく間違いありません。しかしホロコースト否定がかなりヤバめの世界であることは常識的に認知されているはずで、文教大学は加藤一郎に文句言わなかったのだろうか?と非常にその辺が不可解です。文教大学の発行物である大学紀要にホロコースト否定論文を載せているのですから、文教大学は一体何を考えているの?と思わざるを得ません。なお、加藤一郎氏の論文は、文教大学の紀要と文教大学関連の発行物以外に確認できません

ところで歴史修正主義研究会はそうは名乗っているものの、加藤一郎氏以外のメンバーは一人も確認できません。従って、翻訳者も執筆者も加藤一郎氏以外にいたとはちょっと思えません。ただ、サイトはさくらインターネットのサーバーを使っていることはわかっていますが、本人が亡くなっているのにその本人の名前でずっと維持されています。一年更新で年額1700円程度払えば維持できるようですが、ということは加藤一郎氏の関係者の誰かが毎年年額を支払続けて維持していると推測できます。

また微かな記憶なのですが、ネット上で誰かが文教大学での加藤一郎の授業を受けた感想を述べていたのを読んだ記憶があるのです。しかし、その情報を再度見つけることはできていません。確か、Togetterまとめのどこかにあったように思うのですが…。加藤一郎氏の情報としては、他に分かっていることは昭和24年生まれで岐阜県出身であることくらいです。ですから、60歳くらいの若さでお亡くなりになられていることになります。

歴史修正主義研究会版のクラクフ報告翻訳物の脚注への反論

前回の記事で「歴史修正主義研究会の主宰だった文教大学教育学部教授であった故・加藤一郎による、クラクフ報告への批判」への反論というのを一つだけやっているのですが、その加藤一郎氏の批判があるのが以下です。

revisionist.jp

その翻訳文中に合計34個もの加藤による脚注が付加されています。当然ですが、元論文にはそんなものはありません。加藤が勝手に付け加えているのです。また、加藤はクラクフ法医学研究所が1990年に事前調査的に実施した予備報告を誰かが流出させて修正主義者側が公表したものを、これまた勝手に付け加えています。予備報告の公表はもちろん調査を依頼したアウシュヴィッツ博物館に無許可で行われています。

さてそれでは、加藤からの批判となっている脚注を逐次論評していきたいと思います。

 

[1] ロイヒター報告がホロコースト正史派にとっていかに衝撃的であったかと同時に、半世紀近くにわたって、アウシュヴィッツの法医学的検証がまったくなされてこなかったことを示している。<後略>

アウシュヴィッツの法医学的検証がまったくなされてこなかった」とありますが、されています。

note.com

定量的検査はされていませんが、アウシュヴィッツに残されていた毛髪類とビルケナウ火葬場にあった換気扇の金属製パーツから定性的にシアン成分を検出しています。修正主義者からの反論はもちろんそれらは「害虫駆除」によるものだと言っています。髪の毛は百歩譲ってその可能性があるとしても、第2火葬場で発見された換気扇の金属製パーツにシアン成分が検出された事実に対し、第2火葬場が害虫駆除されたからだ、というのは意味がわかりません。火葬場が害虫駆除される理由がないからです。そうではなく、この調査結果事実は、そこにガス室があったとする証言証拠や文書証拠に矛盾していないことが肝心だと思うのですが。

 

[2] チクロンBを使った害虫駆除室のサンプルからは、「ガス室」のサンプルの最大20倍のシアン化水素化合物の残余物が検出されたということ。

[3] 「殺人ガス室」の5つのサンプルのうち、1つしかシアン化水素化合物の残余物が検出されず、しかも、その数値は害虫駆除室の最大の数値の20分の1にしかなっていないということになる。分析方法と数値は異なるが、クラクフ報告のここまでの分析結果は、害虫駆除室では高い濃度のシアン化合物の残余物が検出され、「殺人ガス室」では低い濃度(もしくは0)のシアン化合物の残余物しか検出されなかったとする、ロイヒター報告、ルドルフ報告の分析結果と一致している

大事なことは、ここで述べられている調査結果は、本報告ではなく公表されていない予備報告だということです。これを修正主義者らは「不味い結果が出たから隠したのであろう」とのニュアンスで主張するのですが、この予備報告と本報告は明確に異なる重要な部分があります。一つはこの予備報告の調査結果の単位は「micrograms per 100 grams of material」つまり「mg/100g」となっていて、ロイヒターやルドルフの調査結果単位である「mg/kg」よりも10倍検査精度が低く、クラクフの本報告では「μg/kg」であり、単位から言えば本報告の一万分の1しか精度がないのです。ロイヒター報告では、微量でもシアン成分を検出してはいるので、この予備報告では検査精度が不十分だということがわかります。もう一つは、本報告では分析値から除外されているプルシアンブルーが予備報告では除外されていないということです。本報告では明確に「構成されるシアノ鉄錯体(これが議論になっている青である)の分解を誘発しない方法を用い」とあります。この二つの重要な要素を理解していないから加藤は次のような無理解なことを主張するのです。

 

[4] クラクフ報告は、シアン化合物の残余物は、風雨にさらされることによって消滅すると断定することで、分析結果からでてくる結論、すなわち、「殺人ガス室」ではチクロンBが使用されなかった、したがってガス処刑は行なわれなかったという、ロイヒター、ルドルフの結論を何とか回避しようとしている。しかし、シアン化合物の残余物はきわめて安定している。風雨にさらされていたはずの害虫駆除室の外壁には、50年経った今でも、プロシアン・ブルーの青いしみが残っている。また、「殺人ガス室」の壁すべてが風雨にさらさられているわけではない。たとえば、アウシュヴィッツ中央収容所焼却棟1の死体安置室の壁は、風雨にさらされてこなかったし、ビルケナウの焼却棟の「ガス室」の壁にしても、崩壊したコンクリートの天井で守られている。

重要なことは、プルシアンブルーは非プルシアンブルーのシアン成分とは異なって、長期的に安定して存在し得る化合物であることです。日本語ウィキペディアにも

「紺青はその組成にCN−イオンを含む物質ではあるが、ヘキサシアニド鉄(II)酸塩[注釈 12] とヘキサシアニド鉄(III)塩[注釈 13] 同様に難分解性シアノ錯体とも呼ばれ、CN− イオンは強く鉄原子と結合しているため遊離しにくく、通常は生体に対してのシアン化合物としての毒性はない。しかし、熱やアルカリには弱くシアン化合物を遊離する。」

とあるとおりです。そして加藤は何故か、クラクフ報告の最後の方にある「表Ⅶ. 漆喰のなかのシアン化合物イオンの濃度に対する水の影響の結果」の項を無視して脚注も付けていません。しかしそこでマルキエヴィッチらは、非プルシアンブルーのシアン成分が水に流出しやすいことを実験できちんと確かめています。「したがって、水がシアン化合物を流しだす量はかなり多い。」とある通りです。普通に読めばはっきりわかる箇所なので、加藤は意図的に無視して脚注をつけなかったと断ぜさるを得ません。持論に合わないので無視するしかなかったのでしょう。

そして何より大事なことは、それでもクラクフ報告では、ロイヒターらの調査結果よりさらに微量ではあるが、分析感度を300倍にすることで、風雨に晒されていたとされるアウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室遺跡からシアン成分を検出しているという事実です。事実は、シアン成分は長年の風雨でさえも消滅していなかったのです。加藤はまるで何も理解していません。

 

[5] 問題がすりかえられている。<後略>

これについては前回の記事で既に述べています。

 

[6] 報告の序文にあたるこの箇所は、歴史的修正主義がヒトラー体制を取り繕おうとしているとか、その残虐行為に疑問を呈していると政治的に非難することからはじめており、学術報告の序文としては、きわめて異例かつ異質である。これは、報告の意図が、科学的=化学的真実の探求ではなく、政治的な目的の追求にあることを示している。
[7] この箇所も、根拠を示してない断定であり、学術的な化学論文にはふさわしくない。

クラクフ報告の本論には無関係な冒頭の文章を批判することこそ、「科学的=化学的真実の探求では」ないとしか思えません。そして本論の内容に先立って「政治的な目的の追求にあることを示している」と評することは明らかな印象操作に他ならず、わざわざクラクフ報告を読むのに「政治的な目的の追求にあるのだから信用してはならない」と、バイアス眼鏡をかけさせているようなものです。そのような態度に客観性があるとは言えないことは自明でしょう。また、歴史資料の歪曲や事実の否定に関して、クラクフ報告が述べているそれらの事実が何を指しているのかは不明ですが、ホロコースト否定派が1988年以前から正史側からそのように見なされてきたことも常識の範囲の話です。加藤が自身のサイトで論評している日本の正史派がそのような趣旨のことを述べていることを知らないわけがありません。いずれにしてもこのクラクフ報告は以下の学術的な専門雑誌としか考えられないポーランドの法医学専門雑誌に掲載されたものであり、加藤がどう言おうがその専門雑誌に載る程度には学術的な化学論文であることは間違いありません。

mostwiedzy.pl

 

[8] ちなみに、ロイヒター報告では、「殺人ガス室」の一部ではなかったはずの焼却棟1の洗浄室――今日の焼却棟Ⅰでは、隔壁が間違って取り除かれて、「殺人ガス室」として展示されているが――のサンプルからも微量のシアン化合物の残余物が検出されている。収容所の建物は、チクロンBを使った燻蒸消毒を受けており、どの建物でも、微量のシアン化合物の残余物が検出される可能性がある。

 

1941年9月時の「焼却棟Ⅰ(第1火葬場)」は下記の図面の通りです。

 

私は、しばしば修正主義者はガス室のドアを開けたら青酸ガスが漏れ出して大変危険である、のような話を何度も見たことがあるのですが、洗浄室はご覧の通りガス室のすぐ隣であり、そこにはガス気密扉がありました(加藤が「隔壁が間違って取り除かれて」と言っている隔壁とはガス室と洗浄室の境界にある壁のことで、そこにはガス気密扉がありました)。しかし、ここでは加藤は、あたかも絶対に隣の部屋には青酸ガスは漏れ出すことはあり得なかったかのように述べています。私は換気のためにガス気密ドアは解放されなければならなかったと考えますが、もしそうならば、隣の洗浄室の壁面からもシアン成分が検出されてもおかしくはないことになると思います。違うのでしょうか? 私はここでロイヒター調査で検出されたそのシアン成分濃度が、ガス室から漏れ出したガスによるものであるに違いない、と言っているのではありません。そうではなく、その可能性は否定できないと言っているのです。なんたって、真隣の部屋ですからね。

加藤は「収容所の建物は、チクロンBを使った燻蒸消毒を受けており」と言っていますが、火葬場建物を害虫駆除すべき理由は何なのでしょうか? 住居棟バラックは囚人たちの生活区域ですから害虫駆除されて当然であるとは思いますが、火葬場を害虫駆除する理由がわかりません。確かに死体は置かれますが、それら死体は焼却処分されるので、死体についたシラミも一緒に焼却駆除されてしまいます。

ところで、ロイヒターのその値はゲルマー・ルドルフは害虫駆除によるものではなく、分析限界付近の値はバックグラウンドレベルで検出されてしまうものであって、シアンの痕跡を意味するわけではないとしています。修正主義者たちは意見が一致しないので困り物ですね。

また、クラクフ報告では、その燻蒸が行われたはずである居住棟の試料からは8つのサンプル全てでシアン成分は検出されませんでした。加藤は何故かそのことに一言も言及していません。これもまた「持論に合わないので無視するしかなかったのでしょう」か?

 

[9] ここでも、クラクフ報告は、害虫駆除室では高い濃度のシアン化合物が検出されたというロイヒターやルドルフの分析結果を否定していない。しかし、ここから、「殺人ガス室」の残余物が少ないことの言い訳が続く。

[10] 風雨によって流されてしまった説。しかし、この説には、壁の中に生成されたシアン化合物が風雨にさらされることによって消滅してしまうことを化学的に証明しなくてはならない。この説に反する事例は、大量に実在している。ビルケナウの焼却棟ⅡとⅢの廃墟から300メートルほど離れた地点に、BW5bの害虫駆除ガス室の2つの外壁(北と南)があり、そこには大量のプロシアン・ブルーのしみが残っている。外壁であるから、半世紀以上も風雨にさらされていたはずであるが、なぜ、大量の青いしみが残っているのであろうか。

前述した通り、シアン成分はプルシアンブルーと非プルシアンブルーに区別されるからです。自分で作った模式的なだけのグラフを使いまわしますが、以下のように説明されます。このような簡単な事象については、ゲルマー・ルドルフでさえも認めています。

プルシアンブルーは風雨に強いが、非プルシアンブルーはそうではないのです。そして加藤は「シアン化合物が風雨にさらされることによって消滅してしまうことを化学的に証明しなくてはならない」と書いていますが、それは加藤が無視している「表Ⅶ. 漆喰のなかのシアン化合物イオンの濃度に対する水の影響の結果」にあるわけです。何故自分で「したがって、水がシアン化合物を流しだす量はかなり多い。」と訳しながら、そこを完全に無視するのか私には全く理解できません。また実際に消滅しているわけではなかったこともそこには書いてあります。肝心なことは、風雨にさらされていても非プルシアンブルーのシアン成分を検出したことなのです。

 

[11] ガス処刑短時間説。しかし、ガス処刑は連続的に、ベルト・コンベアー的に、しかも、1年以上にわたって行なわれたのではなかったのか。

クラクフ報告にある「さらに、害虫駆除時間は、各衣服グループに対して比較的長く、約24時間であり、これに対して、ガス室でのチクロンBによる処刑は、アウシュヴィッツ所長ヘスの陳述(7)やゼーン(6)のデータによれば、わずか20分ほどであったことが知られている」への加藤の批判ですが、クラクフ報告自体のその脚注では文献名が記されているだけで、その内容が不明です。が、少なくともヘスの自伝には書いてあります。

 つづいて、ドアが手早くネジ締めされ、待ちかまえている消毒員が、すぐガス室の天井にあけた投入孔から、床までとどく空気穴の中に、ガスを投入する。これが、即座にガスを発生させる働きをする。ドアの覗き穴から観察していると、投入孔のすぐ そばに立っている者がたちまち死んで倒れるのが見える。
 三分の一は即死する、といってもいいだろう。残る者は、よろめき、叫び、空気を求めてあがき始める。しかし、叫びはほどなく喉の鳴る音にかわり、数分のうちに全 員が倒れる。おそくとも、二〇分後には、もう一人として身動きする者もない
 天候の工合、乾湿や寒暖の度合い、ガスの状態(いつも同じとはいかなかった)、
また、移送者の組成、健康者が多いか、老人や病人、子供が多いかなどにより、ガス の効果が発するのに五分から一〇分までくらいの差がある。投入孔からの距離に応じて数分以内に失神が始まる。叫び立てる者、老人、病人、虚弱な者、子供は、健康 な者、若い者よりも早く死ぬ。
ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社学術文庫、2019、p.408)

そして、ヘスは第2、第3火葬場ではそれぞれ一度に2000人(最大で3000人とあるがそれに達したことはないとも書いてある)をまとめて処分でき、それぞれの火葬場で最大で1日当たり2000体を処理できたと書いていることから、ガス処刑は1日当たり20分を一回しかできなかったことがすぐに読み取れます。ヘスは別でこうも証言しています。

私はこの方法を理解しようとしたが、彼は修正してくれた。「いいえ、あなたはそれを正しく理解していません。殺すこと自体には一番時間がかからなかったのです。2,000人を30分で処分できますが、時間がかかったのは燃やす方でした。殺すのは簡単で、衛兵がいなくても部屋に追い込むことができました。彼らはシャワーを浴びると思って入ったのに、水の代わりに毒ガスを入れてしまったのです。全体的にあっという間に終わってしまいました。」彼はこれらのことを、静かに、無関心に、淡々とした口調で語った。
アーヴィングvsリップシュタット裁判資料(8):アウシュヴィッツ-7より

修正主義者たちは、ヘスの証言よりもはるかに火葬に時間がかかることを知っているはず(ロイヒター報告では全火葬場で1日当たり二百体にも満たない)なのですが、なぜかそれを無視して絶対に不可能な「ガス処刑は連続的に、ベルト・コンベアー的に、しかも、1年以上にわたって行なわれた」なるストローマンを持ち出して批判するのですから、わけがわかりません。何れにせよ、ヘス自伝の文庫本を読めばすぐわかる話なのです。

 

[12] 焼却棟Ⅰの「ガス室」の内壁は、オリジナルのままであり、ビルケナウの焼却棟の「ガス室」の壁についても、崩壊した屋根の下で、かなり良好に保存されている部分もある。

嫌味はあまり言うものではないとは思いますが、ホロコースト否定派のかなり多くの人たちは、その「焼却棟Ⅰの「ガス室」」は戦後にソ連が捏造したものだと言っていたように思うのですが、加藤によれば「オリジナルのまま」なのだそうです。すると、デヴィッド・コールを案内したアウシュヴィッツ博物館の案内係は事実を語っていたことになると思うのですが、

……それはここではどうでもいい話ではあります。ともかく、この脚注に関しては仰る通りです。ですから、クラクフ法医学研究所は、ロイヒターのようにビルケナウの遺跡の水溜まりの中から試料を採取したり(以下の写真はこちらの動画からのスクショ)はせず、出来る限り風雨に守られた箇所から試料採取を行ったのです。なお、ロイヒターは非プルシアンブルーのシアン成分が水に流出しやすいことを知っていたから水溜まりの中からサンプルを採ったのではなく、単に無知だったからでしょう。

 

 

[13] 1990年の報告は、害虫駆除室=大量のシアン化合物の痕跡、「殺人ガス室」=微量の痕跡というロイヒターやルドルフの分析結果(結論ではない!)を確認していることになる。

これもまぁそう言えなくもありませんが、脚注[2][3]への批判で既に述べているので省略します。

 

[14] 実は、1990年の報告は、その分析結果がアウシュヴィッツ博物館の意に沿わなかったためであろうか、公表されなかった。マルキエヴィチは、ウェーバー宛の書簡の中で、1990年の調査が「予備的であり」「不完全な」ものであったことを理由としている。しかし、ロイヒター、ルドルフ報告、および1990年のクラクフ報告の分析結果から出てくる結論を何とか回避するために、もう一度、研究方法を考え直したのであろう。

加藤は、当該脚注番号のある箇所で「鑑別分析」と翻訳していますが、当該箇所の英文翻訳では「screening analysis」とあり、スクリーニング分析であって、スクリーニングとは一般に、本調査に先駆けて行う事前調査を意味します。1990年の調査が事前調査であることは明らかで、ロイヒターが30サンプルを採取しているのに対し、クラクフは22サンプルしか採取しておらず、前述したように分析精度もロイヒター調査より低いものであったからです。したがってこうした加藤の言い分は、全く妥当ではありません。「ロイヒター、ルドルフ報告、および1990年のクラクフ報告の分析結果から出てくる結論を何とか回避するため」なる加藤の主張は邪推であり的外れです。もっと言えば、加藤はクラクフの本報告の評価を貶めるために、そのような主張を印象操作的に行っているとさえ言い得るでしょう。

 

[15] 報告の執筆者マルキエヴィチたちは、壁の外壁の煉瓦にプロシアン・ブルーの青いしみがどのようにして生成するのか、科学=化学的に理解できていないと告白していることになる。

[16] 青いしみ=ペンキ説。修正主義者のルドルフは、「害虫駆除施設の内壁、建物の外側の青色は、なぜ不規則で、パッチ状であるのか(ペンキ職人が通常のペンキ作業をするのではなく、刷毛やその他の塗る道具を壁に投げつけたりして、内壁と外壁にペンキを塗ったのではないとすれば)」と皮肉っている。またルドルフは、みずからが撮影したアウシュヴィッツ・ビルケナウおよびマイダネク収容所の害虫駆除施設と「ガス室」の青いしみについて以下の写真を発表している。

しかし、プルシアンブルーに執拗に拘ったゲルマー・ルドルフは、たとえばこちらの論文の「3.3.シアン化水素の残渣 3.3.1. フォーメーション」で長々とプルシアンブルーの生成過程について論じてはいますが、それらはルドルフの仮説に留まり、そのルドルフでさえもそこで「しかし、各要因の正確な影響力はまだ不明である」と述べざるを得なかった程なのです。マルキエヴィッチらは専門家であることは事実であり、その専門家らが「プルシアンブルーが生成されるに至った化学反応や物理化学的過程を想像するのは困難」としているのに、化学の専門家ではない加藤にその告白を批判・非難する資格はありません。なお、ペンキ説はクラクフ報告よりも前にアウシュヴィッツのプルシアンブルーについて論じたベイラーが仮説として述べたに過ぎず、クラクフ報告はその先行研究の仮説を紹介しているだけです。

ただし重要なことは、形成過程が不明なプルシアンブルーを検査から除外しても、クラクフ報告は非プルシアンブルーのシアン成分を検出し得たという事実です。プルシアンブルーと非プルシアンブルーの長期安定性の違いは前述の通りであり、戦後およそ45年の長期間を考慮に入れないで、それらの残留濃度を比較するのは明確に誤りです。

 

[17] マルキエヴィチたちは、ここで分析対象を変えたのであり、その目的は、何とか、ロイヒター、ルドルフ報告、および1990年のクラクフ報告の分析結果から出てくる結論を何とか回避するためであった。ルドルフは手厳しく批判している。「これは何を意味しているのであろうか。非鉄シアン化合物は安定性がなく、50年も経過した今日ではほとんど残っていないので、プロシアン・ブルーを分析から除外してしまえば、害虫駆除室のシアン残余物ははるかに少なくなってしまう。同じことがシアン化水素にさらされたことのある部屋すべてにあてはまる。そして、検出レベルは非常に低くなってしまうであろう。そして、検出レベルが低くなってしまえば、適切な解釈ができなくなってしまう。このような方法を使えば、何年も経過した材料からサンプルをとっても、ほとんど同じレベルの検出結果が生じてしまうにちがいない。それにもとづいて分析したとしても、大量のシアン化水素にさらされた部屋とそうではない部屋との区別をつけることは事実上不可能であろう。シアン化合物の残余物はすべてゼロに近づいてしまうであろう。」

まずここで述べておかなければならないことは、加藤による本文の翻訳があまり適切とは言えないことです。こちらの英語文によると、当該箇所は以下のようになっています。

We decided therefore to determine the cyanide ions using a method that does not induce the breakdown of the composed ferrum cyanide complex (this is the blue under discussion) and which fact we had tested before on an appropriate standard sample. 

これを加藤は以下のように翻訳しています。

それゆえ、われわれは、組成された鉄シアン化合物(問題のブルーである)の劣化をもたらさない方法、すなわちシアン化イオンを使うことを決定した。

加藤に化学の知識が乏しいのは明らかで、英文にある「complex」とはこの文脈上では「錯体」を意味します。従って「the composed ferrum cyanide complex」は化学では一般に「シアノ鉄錯体」あるいは「シアン化鉄錯体」などと呼ばれます。「complex」は「複雑」を意味する単語で、もともと日本語で「錯体」と訳されたのは、いわゆる金属錯体とされる化合物の構造が複雑だったからです。プルシアンブルーの化学分子構造が複雑であることはその化学式からもすぐわかります。理想的な組成式 Fe_4(Fe(CN)_6)_3と表されます。その結晶構造はたとえば以下のように表されるそうです。(関東化学株式会社資料より)

 

また、「does not induce the breakdown of」は「劣化をもたらさない」ではなく、「分解を誘発しない」などと翻訳するのが適切です。クラクフ報告でどのような方法が具体的に用いられたのかは記述されてはいませんが、プルシアンブルーを含む試料からプルシアンブルーに含まれるシアンイオンを分析値に含めないためには、プルシアンブルーからイオン成分を分解しない必要があるからです。

加藤は当該の批判内容で用いているルドルフのそれをどこから引用したのかを示していないのは単なるミスとしてもいいのでそれは無視するとして、そのルドルフの批判も的外れです。既に何度も述べている通り、クラクフ報告ではその「非鉄シアン化合物」を検出しているからです。はっきり言って、クラクフ報告でもし非鉄シアン化合物を検出できなかったら、検査報告としては失敗だったことになり、公表されなかった可能性もあります。実際、クラクフ報告をネットに公開するにあたって付け加えられた、米国の反修正主義者で化学者のジェラルド・グリーン氏が書いた序文には「(マルキエヴィッチらは)プルシアンブルー以外のシアン化合物は風化している可能性があるため、事前に検出できるかどうか自信がなかったという」とあります。しかし、検査に十分な感度を確保することによって、検討するには十分な測定結果が得られたのです。それにより、プルシアンブルーを無視しても、比較検討が可能となったので、ガス室跡でも青酸ガスが使われていたことを示唆することができたのです。

 

[18] この箇所も、1994年報告が、本来の論点であるはずである「量的」比較を回避していることを示している。

[19] シアン化合物の残余物の「量的」差は、その建物が置かれていた条件に依存しており、それを説明するには、大量のサンプルが必要であると述べている。ということは、1994年報告は少なくとも現時点では、「量的」比較を行なっておらず、「量的」差を説明することはできないということになる。

加藤はクラクフ報告を読めば明瞭な事実を理解する気がないのでしょうか。クラクフ報告で報告されている内容は、住居棟の8つのサンプルからのシアン成分検出量は濃度0であり、ガス室跡からはいずれも0ではない量を検出して、その量的比較を行なっているのですが。付言すると、プルシアンブルーと非プルシアンブルーは、長期安定性及びおよそ戦後45年という期間を考慮すれば、同じ物質とは言えず、異なる物質を比較してもただナンセンスなだけであることは言うまでもないのです。その意味でクラクフ法医学研究所は正しい比較を行なっているのです。なお、脚注19は、加藤が何を言っているのか正確に読み取ることができません。クラクフ報告が言っているのは、シアン成分の残存は局所性がある=同じ調査場所でも採取箇所によって大きな違いがあると考えられるので、出来るだけたくさん採取して、シアン成分が検出されるところを見つけないといけない、と言っているだけです。ゲルマー・ルドルフでさえも、プルシアンブルーを局所的に採取しています。

 

[20] ルドルフの撮影した写真はプロシアン・ブルーの青いしみが、レンガ造りの外壁に、半世紀以上も風雨にさらされたあとでも、残っていることを示している。

これはクラクフ報告の「この一連の実験の結果、モルタルがシアン化水素をもっとも吸収するか固定すること、湿気を含んだ資材はシアン化水素をかなり蓄積する傾向を持っていること、一方、煉瓦、とくに古い煉瓦は、この化合物をあまり吸収しないか固定しないことが明らかとなった」に対応する加藤の批判ですが、クラクフ報告が述べているのは、「表Ⅴ.48時間の燻蒸後に採取した物質のシアン化水素もしくはその合成物の濃度」の話であって、プルシアンブルーの話ではありません。ゲルマー・ルドルフが主張するように、その写真の青いシミが害虫駆除室内の燻蒸中のシアン化水素ガスが外に漏れ出したものが、レンガの中の鉄分と反応してプルシアンブルーを生成した証拠だとしても、クラクフ報告では分析からプルシアンブルーを省いているので、それは関係がないのです。クラクフ報告は非プルシアンブルーしか検査対象とはしていません。

 

[22] ブロック11の地下室での「最初のガス処刑」は、ホロコースト正史では、1941年9月3日のことになっている。たしかに、9月3日ではなく、1941年末であったと主張するホロコースト正史派の研究者もいるが、1941年11月3日と日付までも断言している研究者はいない。好意的に解釈すれば、歴史家ではないマルキエヴィチたちが、定説の「9月3日」を「11月3日」と誤記したともいえるが、いずれにしても、この「ガス処刑」は一度限りの実験的なものであったとされている。また、修正主義者は、そもそもこのようなガス処刑は行なわれなかったと考えている。

好意的も何も、「11月3日」説などないので、単純な誤記、または間違いでしかありません。クラクフ法医学研究所はアウシュヴィッツ博物館の依頼を受けて報告書を書いており、そのアウシュヴィッツ博物館では、ダヌータ・チェヒ編纂の『アウシュヴィッツ・カレンダー(アウシュヴィッツ・クロニクル)』(イタリア語版がネットで公開されています)の作成を行なっており、その初めてのガス処刑は1941年9月3日であることが記されています。しかし、別の研究では9月5日が正しいのではないかとされているようです。

note.com

 

[29] この記述は不正確である。たしかに、現在の焼却棟Ⅰは、「殺人ガス室」が存在したように作り変えられており、学問的には、宣伝目的の偽造に近いが、建築資材(死体安置室、いわゆる「ガス室」の内壁など)にはオリジナルなものも残っている。

加藤の翻訳では、

アウシュヴィッツの焼却棟Ⅰの建物は保存されているが、何回も建て直された。

でありますが、英文では、

Crematorium I at Auschwitz -- building preserved but reconstructed several times 

となっていて、「reconstruct」は「立て直す」だけを意味するわけではなく、「改修、改築、修繕」などと訳すことを妨げるものではありません。従って、

アウシュビッツの第一火葬場--建物は保存されているが、何度も改築されている。

と訳すだけで正確な文意になります。詳細はこちらクラクフ報告では別に、元の素材が残っていないなどとは一言も述べていません。なお、「「殺人ガス室」が存在したように作り変えられており、学問的には、宣伝目的の偽造に近い」とは修正主義者の加藤の主張でしかありません。修正主義でない歴史学上では復元・再現とみなされていることは加藤だって知っていて当然でしょう。そのような定説を無視して「学問的には」と評することは妥当ではありません。

 

[31] プロシアン・ブルーを除外して……<中略>……ルドルフは、1994年のクラクフ報告の方法と結果を次のように手厳しく批判している。「ヤン・ゼーン研究所の研究者たちが出したかったのはこの結果であったにちがいない。すなわち、害虫駆除室と『ガス室』のシアン化合物の残余物の値がほぼ同じレベルだという結果である。この結果を踏まえて、彼らは『同量のシアン化合物、同量のガス処理活動、したがって、人間が焼却棟の地下室でガス処刑された。こうしてロイヒターは反駁されている』と述べることになった。クラクフ報告の分析結果はまさにこのことを明らかにしており、その作者は当然の結論を導き出したというわけである。しかし、もし、別の人々が採取し、別の方法を使って分析した結果を検証すれば、マルキエヴィチと同僚は自分たちの望ましい結論を導き出すために、方法を修正して、結果をごまかしたことは明らかである。これが、科学的ペテンであることが分からないとすれば、十分にクラクフ報告を検討していないのである。」

ルドルフのこの主張は、ルドルフ自身にも跳ね返ってくるものだという認識はなかったのでしょうか? クラクフ報告がペテンだと言うのならば、ルドルフもペテンであると言われても非難はできないはずです。ルドルフは自身の調査で多数の害虫駆除室サンプルを採取しており、彼がプルシアンブルーに異常なほどこだわったことは明らかで、プルシアンブルーが検査結果に含まれなくてはならない理由を彼自身以外には理解し難いほどの分量で説明しています。これを修正主義者の論説への批判として頻繁に用いられる「難読化」と呼ばないでどう評価すればいいのでしょうか? それと比較してクラクフ報告は、単に害虫駆除室と殺人ガス室は条件が異なるとして、害虫駆除室に存在し、かつ、殺人ガス室に存在していないプルシアンブルーを検査から除外しただけです。プルシアンブルーを除外しても、両者には非プルシアンブルーとしてシアン成分は存在していました。これにより両者は等しい条件で比較可能となったのです。検査まで終戦からおよそ45年も経っているのですから、長期的に安定して存在し得るプルシアンブルーは、風雨により容易に流出してしまう非プルシアンブルーとは、その長期間を考えれば同じ物質として扱うことはできないので、プルシアンブルーを検査結果に含めることこそペテンに他ならないと言えるでしょう。ルドルフは実際自らの論文で明確にペテンとしか言いようのない説明まで行っています。長くなりますがこちらから引用します。

4.2.2.2.「ガス室」の換気速度について
少し複雑な数学の概念を説明するために、次のようなことをする。青い玉が100個入ったバケツを渡された人がいるとする。バケツに手を入れるたびに、赤い玉を1つ入れ、中身を軽く混ぜてから、見ないでランダムに1つ玉を取り出す。バケツの中に青い玉が50個だけ残り、他の玉はすべて赤になるまで、何度これを繰り返せばいいのだろう? ヒント:青玉の半分をすでに赤玉に交換していると仮定して、やみくもに別の玉を取り出す際に、青玉ではなく赤玉を取り出してしまい、目的、すなわち意図した交換ができなくなる確率はどのくらいか? これは、部屋の換気において、古い空気と新鮮な空気が混ざり合うことで発生する問題である。一般に考えられているよりも、うまく換気するのに相当な時間がかかるということである。上記のケースでは、青いボールの半分が赤いボールに置き換わるまでに、平均70回の交換が必要である[136]。

ビルケナウの火葬場IIとIIIの「ガス室」とされる場所--普通の死体安置室の換気のためにのみ設計された施設--の換気設備は、1時間にせいぜい6回から8回の空気交換しかできなかったことが計算で示されている[137]。

「平均70回」で示されるボールの交換と、「1時間にせいぜい6回から8回の空気交換」は全く異なる交換内容であり、単純比較できるものではありません。簡単に説明すると前者はボールの数をいくらにでも変更することが可能であり、10倍の1000個にするだけで、平均70回は平均700回に変わります。しかし後者は換気能力と室内容積で交換回数は一意に決定されるだけです。ガス室の換気能力があたかも全く能力不足であるかのように見せかけるために、このようなペテンとしか言いようのないような議論をルドルフは行うのです。クラクフ報告にはそのような部分は一つもありません。

 

[32] ガス室内でのHCNの濃度は「0.1%を超えていない」という説には根拠がない。実際のガス処刑が行なわれている、アメリカのガス室では、10分間で一人の死刑囚を処刑するのに0.5%濃度のHCNが使用されている。致死濃度の16倍以上である。たしかに、化学的データによると、HCNの致死濃度は0.03%であるが、それは、人間が、たとえば、口に直接パイプをくわえて、そこからHCNを吸引した場合の理論的数値である。いわゆる大量ガス処刑では、413㎥の部屋に押し込まれた1000-2000名の人々を、5-10分で殺さなくてはならないのだから、天井の穴から落とされたチクロンBの丸薬が放出するHCNガスを5-10分以内に部屋の隅々にまでいきわたらせなくてはならないという事情を考えると、かなり高い濃度のHCN――少なくとも、アメリカのガス処刑室の10倍以上――が必要である。

確かに、クラクフ報告のその部分には0.1%を超えていない根拠は何も書かれていません。しかし仮に、加藤の主張するように0.5%だったとしても、そこでクラクフ報告が述べているのは犠牲者が吐き出した二酸化炭素との共存であり、クラクフが実験したシアン化水素ガス+二酸化炭素ガスの混合割合が5:1→2:1になるだけの話です。二酸化炭素ガスの存在が素材からシアン化水素を流出させる(水に溶けやすくする)要因になるという話なのですから、0.5%に変更しても大して変わらない結果になったでしょう(水素イオン濃度pHがほとんど変わらないため)。

しかしルドルフがどこからか探し出したらしき、その米国ガス室で使用されたシアン化水素ガスの濃度については問題があります。ジェラルド・グリーン氏がルドルフの示した参考資料を探しても見つからなかったと述べています。米国の司法的死刑は絶対に失敗が許されないので十分な濃度を与えたであろうことは否定しませんが、ルドルフも加藤もその根拠を明確に示してはいません。また死ぬまで10分としているのは、米国の処刑では専門家の医師が鑑定を行うからで、そこで死刑囚の死を心臓停止などで確認するまでの時間のことであり、アウシュヴィッツでは気密扉の小さなガラス窓から室内を眺めて犠牲者が倒れ込んだ様子から、死亡時間を判定していただけです。アウシュヴィッツでは心臓停止などをいちいち確認していたわけがありません。死んでなかったら銃で首の後ろを打っただけでしょう。このようにルドルフの主張を確かめもせず鵜呑みにするだけの加藤の態度は、私には加藤が学者であったとはとても思えません。

「HCNの致死濃度は0.03%であるが、それは、人間が、たとえば、口に直接パイプをくわえて、そこからHCNを吸引した場合の理論的数値」なる珍妙な主張は、少なくとも私はこの加藤の主張以外では見たことがありません。シアン化水素ガスの即死濃度270-300ppmを記述している資料には、その値が即死濃度であると書かれているだけです。シアン化水素ガスの致死濃度については、それ以外の数字もあり、例えば、国際シアン化物管理協会の説明によると、

「シアン化水素のヒトに対する毒性は、曝露の性質に依存する。個人による用量反応効果のばらつきがあるため、物質の毒性は通常、暴露された集団の50%が死亡する濃度または用量(LC50またはLD50)で表される。ガス状のシアン化水素のLC50は100~300ppmである。この範囲のシアン化物を吸入すると、10~60分以内に死に至るが、濃度が高くなるほど死は早くなる。2,000ppmのシアン化水素を吸入すると1分以内に死に至る。摂取した場合のLD50は、シアン化水素として計算された体重1キログラムあたり50~200ミリグラム、または1~3ミリグラムである。擦り切れていない皮膚との接触の場合、LD50は体重1キログラムあたり100ミリグラム(シアン化水素として)である。」

のようなものや、以前の記事で示した国立医薬品衛生研究所(NIHS)の示す資料によると、

  • AEGL-1 は、いわゆる「不快レベル」で、感受性の高いヒトも含めた公衆に著しい不快感や、兆候や症状の有無にかかわらない可逆的影響を増大させる空気中濃度閾値である。これらの影響は、身体の障害にはならず一時的で曝露の中止により回復する。
  • AEGL-2 は、いわゆる「障害レベル」で、公衆に避難能力の欠如や不可逆的あるいは重篤な長期影響の増大が生ずる空気中濃度閾値である。
  • AEGL-3 は、いわゆる「致死レベル」で、公衆の生命が脅かされる健康影響、すなわち死亡の増加が生ずる空気中濃度閾値である。

などもあります。このNIHSの資料では、致死レベルの値として挙げられている10分間の暴露の濃度が27ppmでかなり低い値となっていますが、この値は必ず確実絶対に致死に至るレベルではなく、その最低限の閾値を示していることには留意が必要です。しかしながら、2000ppm〜27ppmまで値のばらつきがあることは確かです。これは、人間それ自体で実験できず(加藤の言うような「口に直接パイプをくわえて、そこからHCNを吸引」する実験など出来るわけがありません。自分の主張を少しは考えなかったのでしょうか?)、あくまでも実験動物や事故などの経験事例から判定された数字だからです。また、個々人の違いもあります。

しかしアウシュヴィッツは違います。1941年9月初旬の実験以来、多数の処刑を繰り返して実施しており、どれほどのチクロンを用いれば確実に犠牲者を処刑出来たかを、実際の処刑実例で知ることができたのです。

 

[33] 「ガス室」では大量の人間が処刑され、彼らが吐き出す二酸化炭素の量が多いので、HCNはあまり保存されないという主張は、報告自身のデータにも反している。シアン化水素だけで燻蒸した表Ⅴとシアン化水素プラス二酸化炭素で燻蒸した表Ⅵのデータを比較すれば、シアン化合物の濃度が低下しているのは、8例のうちの2例(湿った古いモルタルと湿った新しい煉瓦)にすぎない。

また、焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲとは異なり、焼却棟ⅣとⅤには機械的な換気装置はない。このために、5-10分で犠牲者が死亡しても、そのあとドアや窓を開いて長時間自然換気を行なわなくてはならなかった。しかも、チクロンBが5-10分で放出するガスは10-15%にすぎない。だから、焼却棟ⅣとⅤは、ホロコースト正史にしたがっても、焼却棟Ⅱと焼却棟Ⅲと比べると、かなり長時間HCNガスにさらされていたことになる。しかし、1994年報告の結果は、焼却棟Ⅱ、焼却棟Ⅲ、焼却棟Ⅴの「量的」差を検出していない。これは、報告の方法の欠陥を示している。

加藤は実験の内容それ自体を全く誤解しています。最初加藤が何を言っているのか全く理解できませんでした。「シアン化合物の濃度が低下しているのは、8例のうちの2例」などと書いてあるからです。この誤解を説明するのは結構難儀ですが、とりあえず私の翻訳版から以下に二つの表をスクショコピペします。

以下のような作表は無意味なのを最初に留意しておいてほしいのですが、表ⅤおよびⅥの数字を素材―状態―CO2の有無で比較できるよう以下のように羅列します。これをここでは便宜上「加藤の表」と呼ぶことにします。

加藤はこのような比較を行い、CO2なしの状態ではデータのない新しいモルタルの例を省いて、全データ比較が8例であると解釈し、黄色で強調している2例が減っているだけじゃないか!と言っているのです。繰り返しますが、このような比較に意味はありません

表Ⅴの意味は何かと言えば、各素材をシアン化水素ガス(2%)に48時間接触させた場合の、各素材サンプルのシアン化水素およびシアン化合物濃度です。表に記される結果から分かることは、古いレンガを除き、他三つの素材サンプルでは水で湿らせた素材の方がシアン化水素およびシアン化合物濃度が高かったことです。また、モルタルが比較素材の中で最もCNイオン含有率が高いこともわかります。

ところが、表Ⅵでは比較を行った五つの素材中、三つの素材で水で湿らせた素材の方がシアン化水素およびシアン化合物濃度が低くなっているのです。特に古いモルタルでは、CO2がない場合、176→2700μg/kgであり、15倍もウェットの方が高くなるのに、CO2がある場合はその逆に、1000→244μg/kgであり、4分の1と減ってしまっています。新しいレンガでもそうで、同様に4→52μg/kgで13倍、52→36μg/kgで3割減なのです。

では、加藤の表はどう読めばいいのでしょうか? 実はこのような比較はできません。サンプル処理の条件が異なる(表ⅤではHCN濃度は2%で48時間燻蒸、表ⅥではHCNとCO2を1:5の割合で混合したとあるだけで濃度の記載はなく、燻蒸時間も書いておらず、ガス処理後に48時間外気に接触させている)ので、その濃度を比較する意味がないのです。条件が同じなのはあくまでも、表Ⅴ、表Ⅵのそれぞれの中での比較においてだけです。その上で、表ⅤとⅥのその傾向の違いを比較する意味が生じるのです。加藤はしっかりクラクフ報告を読むことが出来ていませんし、実験の意味もわかっていません。

さらに、「しかし、1994年報告の結果は、焼却棟Ⅱ、焼却棟Ⅲ、焼却棟Ⅴの「量的」差を検出していない」とありますが、加藤は現場の状況や戦後49年間という長期間をまるで考慮していません。ビルケナウの火葬場は全てダイナマイト破壊されそのほとんどの部位は長年にわたって風雨にさらされ続けていたのです。そのような状況下で、シアン化物をほとんど残留しなかったであろうガス室の遺跡から、加藤の言う意味で量的な比較を行い得るレベルのシアン化物濃度を検出し得たでしょうか? 加藤はプルシアンブルーと非プルシアンブルーの区別がついていないからそのような主張を行うのでしょう(クラクフ報告にはプルシアンブルーは除外していると明確に書いてあるのですが……)けれど、加藤には科学的思考能力が欠如していると言わざるを得ない、と思います。

 

[34] クラクフ法医学研究所は、ルドルフとの往復書簡の中で、「これまでの、往復書簡を念頭におけば、私たちは、アウシュヴィッツ・ビルケナウの建物についての私たちの研究では、シアン化合物の濃度を完全に確定していないということを知っていましたし、今も熟知しているということを述べておきたいと思います。とくに、私たちは問題のプロシアン・ブルー(その化学的生成は非常に複雑です)を除外してきました。しかし、私たちは、チクロンBが使われてきた建物の中に、プロシアン・ブルー以外のシアン化合物が存在するのを発見してきました。このことは、これらの建物がこの組成物と接触したことがあったことを明瞭に示しています。これが、私たちの研究の要点です。私たちの研究は始まったばかりであり、今後も続けられていくでしょう」と述べている。Germar Rudolf,  Counter-Leuchter Expert Report: Scientific Trickery? (online: http://vho.org/GB/Books/cq/leuchter.html)  要するに、ホロコースト正史派が、自説のためにしばしば援用しているクラクフ法医学研究所報告とは、これだけのことであったのである。

どうもここは、加藤が都合のいい場所だけを切り取って紹介しているように思われるのですが、リンク先は翻訳しておらず読んでもいないので、断定はしません。しかし「これだけのこと」とどう言う意味なのでしょうか? ですが、それでも「しかし、私たちは、チクロンBが使われてきた建物の中に、プロシアン・ブルー以外のシアン化合物が存在するのを発見してきました」と明確に記述されており、加藤がその意味を理解できていないことは確実です。

そして加藤が全く言及していない、表Ⅰや表Ⅶについてを考えれば、あまりにもルドルフに依拠しすぎてその主張を鵜呑みにしてしまっているので、それらの表に言及しないのは、その重要性が理解できないからなのでしょう。表1はルドルフがバックグランドレベルだとするシアン成分の微小レベルでの検出について、表Ⅶは非プルシアンブルーのシアン成分が水で流出してしまうことを確かめている件について、です。ルドルフはこれらを無視しています。

 

以上、加藤がクラクフ報告を全く理解していないことを論じました。ネットに多く生存している歴史修正主義研究会の資料をコピペするしか能のないネット否定派も加藤同様、修正主義説をただ単に鵜呑みにしているだけです。何故ホロコースト否定説を単に鵜呑みにするだけで、それ自体を批判的に検証しようとしないのか? 私にはわかりません。

 

ロイヒター・レポートvsクラクフ報告

ロイヒター・レポートとは?

1985年、カナダ在住のドイツ人であったホロコースト否定論者のエルンスト・ツンデルは、リチャード・ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』なる小冊子(及び自説を主張する小冊子も付属)を当時の西ドイツを中心に世界中にたくさん送りつけたことがきっかけで、カナダのホロコーストを記憶する会の代表であったサヴィーナ・シトロンがツンデルを「虚偽の内容をばら撒いた」として告発、カナダの検察がそれに乗る形でツンデルを裁くための裁判が始まったのでした。

一般には、ホロコースト否定の主張をめぐる裁判は世界中で多数開かれていますが、ホロコーストの史実を問うようなことはありません。ホロコーストはほとんどの裁判では「公知の事実(顕著な事実)」として扱われ、その証明は不要とされます。ツンデル裁判より前に争われたアメリカでのマーメルスタイン裁判(1981年)では、歴史評論研究所(IHR)が「ユダヤ人がアウシュヴィッツガス室で殺された事実を証明したら賞金5万ドル」との挑戦状を出したことについて、裁判ではそれら史実は公知の事実として扱われたため、IHRは賞金+慰謝料をメル・マーメルスタインに支払い、謝罪広告を出さざるを得なくなりました。

ところがツンデル裁判ではそうはならず、ホロコーストの史実それ自体についての真偽を問う裁判が行われることとなったのです。これはおそらく、カナダ刑法第177条にある「虚偽の事実」、つまりはツンデルがばら撒いたハーウッドの小冊子が虚偽か否かを審理せざるを得なくなったからだと考えられます。ツンデル裁判の第一審はツンデルを有罪とする判決が下されましたが、裁判の進行に問題があったとして第二審が1988年に開かれることとなりました。この時に登場したのがロイヒター・レポートです。

アウシュヴィッツガス室を科学調査しようと言い出したのは、ツンデル裁判を支援していたロベール・フォーリソンで、フォーリソンの人的繋がりの中に、アメリカ・ミズーリ州州立刑務所の所長であったビル・アーモントラウトなる人物がいたそうです。アーモントラウトの刑務所におそらく、フレッド・A・ロイヒター・Jrが営業か何かで出入りしていたのでしょう。ロイヒターはアメリカで死刑コンサルタントなる商売をやっていたそうです。死刑を専業とした民間人はフレッド・ロイヒターしかいなかったようです。で、そのアーモントラウトが「ズバリその任務に適格な人物がいます」として、フォーリソンにロイヒターを紹介したのです。

その後の調べで、ミズーリ州刑務所には死刑ガス室は存在はしていましたが、1960年代に稼働を停止したまま、その後一度も再建すらされていません。ロイヒターはミズーリ刑務所の死刑ガス室を設計したと主張していましたが、それが本当だとしても、せいぜい営業用資料を作成したくらいなものでしょう。彼は生涯でただの一つも死刑用ガス室を製造していません(2023年5月現在存命中ですが既に彼は80歳を超えていますし、死刑コンサルタント商売はとっくの昔に廃業しています)。また、彼は工学系の学位すら持っていなことをツンデル裁判で自分自身でそう述べています。

ロイヒターは被告側弁護士のダグラス・クリスティから依頼の手紙を受けた翌月の1988年2月末、ツンデルから3万ドルの調査費用を受け取り、ロイヒターとその妻、その他の仲間と共に、彼らはポーランドに飛び立ち、3月初旬ごろ、アウシュヴィッツやマイダネクを現地視察、アウシュヴィッツガス室遺跡などから資料サンプルを無断で採取して米国に持ち帰ったのでした。そして資料サンプルの分析をマサチューセッツ州のアルファ分析研究所に依頼、一ヶ月ほどしてロイヒター・レポートは完成したそうです。

ところが、ツンデル裁判において「ガス室でのガス処刑がなかった」ことの決定的証拠となるはずだったその報告書は、裁判では証拠採用されませんでした。書いてある内容云々ではなく、ロイヒター自身が前述の通り、証人資格に問題があったからです。裁判ですから、きちんとした資格のない証人が提出した調査資料を証拠として認めることは、Wikipediaで匿名人物のネット上の記述を出典として認めるようなものです。

その内容は?

私は実際に自分自身でロイヒター・レポートを翻訳して、私自身の感想としても衝撃を受けました。もちろん当時の否定派が受けた衝撃とは別の意味です。

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ホロコースト否定論に興味を持ち始めたばかりの頃は、ロイヒター・レポートはたとえ誤っているにせよ、もっと高度な内容で反論も難しそうなイメージを持っていました。ところが、実際に翻訳してみて「なんだこりゃ?」とかなりの肩透かしを食らったような感触がありました。最も驚いたのは、それっぽい記述内容がふんだんになされているにもかかわらず、参考文献が全くないところでした。従って、専門知識がなければわからないような技術的内容については、ほぼ検証不能です。

ところが、あのデヴィッド・アーヴィングがロイヒター・レポートを読んでホロコースト否定派に転ずるほどの感銘を受けたというのですから、何がなんやらわけがわからなくなります。当時、本当に否定派には絶賛されたそうです。推測ですけど、ただ単にロイヒターの職業が死刑の専門家であり、米国の処刑用ガス室に通じていると信じられたからだと思います。

しかしロイヒターの仕事ぶりはすぐに暴かれ、彼はまともな商売をしていたとは言い難いことが明らかにされています。

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というわけで、ロイヒター・レポートの内容は翻訳記事中にも書いた通り、実際にはゴミ同然でしかありませんでしたが、唯一、シアン化合物残留量の分析結果のみは検討の余地はありました。ロイヒター・レポートの本文中ではほとんど触れられていませんが、シアン化合物の分析結果は確かにマサチューセッツ州のアルファ分析研究所の分析値であることに相違はなく、捏造された数値ではなかったからです。その評価についてはまた後で述べます。

クラクフ報告書とは?

ホロコースト否定の議論では有名なロイヒター・レポートに対し、クラクフ報告はそれほどは有名ではありません。この報告書は、ロイヒター・レポートに遅れることおよそ6年後の1994年にポーランドの公的研究機関であるクラクフ法医学研究所(Institute of Forensic Research (Instytut Ekspertyz Sadowych) of Krakow)から発表されたものです。アウシュヴィッツ博物館からの依頼に基づく報告です。

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ロイヒター・レポートが、ロイヒターの専門分野でない火葬場などの殺人ガス室以外の内容まで述べた報告であったのに対し、クラクフ報告はシアン化物の残留物測定結果のみに内容を絞った報告書になっています。この報告書には明確に「殺人ガス室があったことが立証された」と書かれているわけではありません。そうではなくこの報告書の目的は、ロイヒター・レポートのシアン化物の残留物測定結果に対する反論なのです。つまり、クラクフ報告書におけるシアン化物分析結果は、殺人ガス室があったとする定説に全く矛盾していないことを示したものだったのです。間接的には、アウシュヴィッツ収容所の殺人ガス室があったことを証明したとは言えますが、クラクフ報告にはそのような明確な結論は書かれておらず、測定結果や検討内容を淡々と示しただけの内容であり、最後に「最終的な備考」として次のように極めて抑制的に書いてあるだけなのです。

本研究では、かつてシアン化水素と接触した施設の壁に、相当な期間(45年以上)にもかかわらず、このチクロンBの構成成分の組み合わせの痕跡が保存されていることを明らかにした。これは、かつてのガス室の廃墟についても言えることである。シアン化合物は、それが形成され、長い間持続するための条件が生じた場所で、局所的にのみ、建築資材の中に発生するのである。ロイヒター(2)は、その推論において、彼がガス室跡の資料から検出した微量のシアン化合物は、「かつて、ずっと昔に」収容所で行なわれた燻蒸の後に残ったものだと主張している(報告書の14.004項)。このことは、1回のガス処理(害虫駆除)を受けたとされる居住区の対照サンプルの検査結果が否定的であること、1942年半ばの腸チフスの流行に関連した収容所の燻蒸期間には、ビルケナウ収容所にはまだ火葬場がなかったという事実によって反論される。最初の火葬場(火葬場II)が使用されたのは1943年3月15日のことであり、他の火葬場はその数ヶ月後であった。

それに対しロイヒターはあまりにも大胆な結論を書いています。

すべての資料を検討し、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクのすべての現場を視察した結果、著者は圧倒的な証拠を発見した。これらの場所のいずれにも、処刑用ガス室は存在しなかったのである。検査した場所のガス室とされるものは、当時も現在も、処刑用ガス室として利用されたり、真剣に考えられたりすることはありえないというのが、筆者の最善の技術的意見である。

さて、それではロイヒター・レポートとクラクフ報告の相違点を簡単にみていきましょう。

シアン化物残留濃度の測定結果の違い

1. ロイヒターレポートのシアン化物残留濃度測定結果

ロイヒター・レポートにおけるシアン化物残留濃度の測定結果は、レポートの付属資料に記された以下のグラフが非常にわかりやすいと思います。

 

少々解説が必要なので、簡単に説明します。数値で示される測定結果は、そのままだとなんのことやらわからないでしょう。「ガス室跡の建築資材からシアン化物の濃度を調べたら、1.2mg/kgであった」と言われたってそれだけではどう評価すればいいのかわかりません。何か基準値が必要でそれと比較して初めて評価が可能となるのです。そこでロイヒター報告では、アウシュヴィッツ収容所内でシアン化水素(チクロンB)ガスが使われたことがわかっている害虫駆除室の壁面から試料を採取し、それを対照試料(コントロール・サンプル)としたのです。簡単に言えば、対照試料に含まれるシアン化物濃度と、ガス室跡とされる場所から採取した試料に含まれるシアン化物濃度にそれほど差がなければポジティブ・陽性であり、大きく差がありかつ極めて低いかゼロであればネガティブ・陰性である、とするわけです。

グラフの右端の棒グラフが対照試料となる害虫駆除室のものです。値で言うと、1,050mg/kgです。つまり、シアン成分が試料1kgあたり1,050mg含まれていたことになります。それに対し、ガス室とされた場所から採取した試料からは、0-7.9mg/kgでした。つまり、害虫駆除室と比較しても最大でも133分の1しか、ガス室跡からはシアン化物は検出されなかったのです。

こうして、ロイヒターは「どの試験場所でも結果的な測定値がなかったことは、これらの施設が実行ガス室でなかったという証拠を裏付けるものである」と結論しました。微量ではあるがポジティブな結果もあることについては、「これらの建物がある時点でチクロンBで害虫駆除されたことを示している」つまり、収容所全体が疫病対策のためにチクロンBで燻蒸されたことがあったために、微量だがシアン化物が残留していたのだろう、としたのです。確かに、1942年の夏頃にアウシュヴィッツ収容所はチフスの猛威に見舞われ、収容所全体でチクロンBによる害虫燻蒸が行われたそうです。しかしロイヒターは、知りませんでした。例えばロイヒター報告では、第3火葬場のガス室跡で6.7mg/kgを検出していますが、第3火葬場は1942年の夏にはまだ建設さえ始まっていませんでした。

2.クラクフ報告のシアン化物残留濃度測定結果

クラクフ報告に記された測定結果は、ロイヒター・レポートのようなわかりやすいグラフがないので、直接報告書をご覧いただくしかありません。

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クラクフ法医学研究所は、アウシュヴィッツ博物館から正式に調査依頼を受けた上で現地でサンプルを採取しているので、ロイヒターやその他の修正主義者らによる違法な試料収集では絶対に採取できないブロック11の分析結果が存在するのが特徴的です。ブロック11では、アウシュヴィッツ収容所における最初のチクロンBによる処刑実験が行われました。実施されたのは1941年9月3日(または5日)の一度限り(ただし、初回のガス投入では全員死ななかったので、2日目に再度チクロンBを追加している)です。

さらに重要な相違点が二つあります。

  • クラクフの用いた方法はロイヒターらの分析感度よりも300倍程度感度が高かった。分析値の表示単位として、ロイヒターらはmg/kgで表示されるが、クラクフではμg/kgとなる。つまり、ロイヒターらの分析法よりはるかに微量が計測可能となる。
  • プルシアンブルーは分析結果から除外された。

また、分析結果から明らかな違いがあります。ロイヒター・レポートでは前述の通り、害虫駆除室(囚人服燻蒸施設)の値は1,050mg/kgでしたが、クラクフ報告では最大値でも900μg/kgであり、その差はおよそ1200倍もあります。また、ロイヒター・レポートでは害虫駆除室とガス室跡の値はガス室跡の最大値を採った場合、その差はおよそ133倍になると述べましたが、クラクフ報告では1.4倍しかありません。

そうすると、ロイヒター・レポートでは、基準となる害虫駆除室とガス室跡のシアン化物残留濃度差があまりにもかけ離れているので、ガス室とされている箇所ではほとんど全くと言っていいほど毒ガスであるシアン化水素ガスは使われていなかった=殺人ガス室などなかった!と結論したくなりますが、クラクフ報告ではほとんど差がないため、そのような結論は出せなくなるのです。

この違いは、害虫駆除室にあって殺人ガス室には存在していなかったプルシアンブルーの分析上での有無にあります。では、プルシアンブルーを分析に含めるのが正しいのか、そうでないのかについて考えてみましょう。

プルシアンブルーと非プルシアンブルーの重要な違い

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館には、当時の害虫駆除室がいくつか現存しているそうです。その実際の様子の写真はネット上にはほぼないので、私が頻繁に使う写真をまた使うしかありません。真ん中の人は修正主義者のゲルマー・ルドルフです。この人は今回の議論には無関係です(しかしある意味ではプルシアンブルーの専門家w)。

プルシアンブルーとは、上の写真のように青くなっている箇所の組成のことです。要するに、シアンイオンが壁の組成中にある鉄分と結合したもので、このように金属成分と非金属成分が結合した化合物を金属錯体、略して錯体と呼びます。

プルシアンブルーは、一般的には自然に生ずる物質ではありません。元々は人工的な化合物で18世紀初めに初めて作られたと言われています。人工的に生成された化合物ですから、製法はわかっています。しかし、シアン化水素ガスが鉄分と反応してプルシアンブルーを形成する機序については詳しくはわかっていません。上の写真は、アウシュヴィッツのどこかの建物の中にある害虫駆除室のすぐ外だそうですが、マイダネク収容所にある害虫駆除ガス室内など、その他の関連箇所にあるプルシアンブルーのある箇所においても同様に、すべてマダラにしかプルシアンブルーは存在しません。ガスに接触していたであろう壁面全体が真っ青一色に染まっている箇所がただの一箇所もないのです。このことは、プルシアンブルーのシアン化水素ガスの存在による生成条件が複雑であることを示しています。必ず出来るわけでもない、と言うわけです。

で、プルシアンブルーは、この議論において考慮されなければならない重要な性質があります。それは極めて安定した化合物であることです。日本では葛飾北斎の絵(版画)に使用されている顔料でもあります。要するに、壁面なら壁面にプルシアンブルーが生ずると、そのままその壁面に長期間にわたって存在し続けるのです。

しかし、シアン化水素ガス存在下で、プルシアンブルーにならなかったシアン成分も存在します。シアン化水素そのものがそうですし、ナトリウムやカリウムなどの金属イオンと結合しているものもあるでしょう。しかしこれらの非プルシアンブルーのシアン成分は、水に容易に流出してしまいます。シアン化水素が非常に気化しやすい化合物であることは言うまでもありません。

ロイヒターは1988年、クラクフ法医学研究所は1994年、つまりそれぞれ戦後43年後、49年後に試料採取して分析値を得たのですから、この長期間のことを考えなければなりません。つまりこういうことです。

このグラフはあくまでも模式的に作っただけのグラフですが、プルシアンブルーが長期間にわたって安定しているので、たとえ45年経ったところで年月でほとんど濃度が変わらないのに対して、非プルシアンブルーのシアン化物濃度はどんどん濃度が減少してしまうため、45年も経てば大きな濃度の差が生ずるのは単なる当たり前に過ぎないことを示したグラフです。

害虫駆除室と殺人ガス室の違い

見た目から判断する限り、害虫駆除室にはプルシアンブルーが存在し、殺人ガス室跡には存在していませんでした。プルシアンブルーの正確な生成機序は不明であると述べましたが、その要因を害虫駆除室と殺人ガス室の違いで推測・考察してみましょう。

  1. 害虫駆除室における衣服の燻蒸は、長時間(24時間)かけて行われたが、処刑ではせいぜい30分程度しか時間はかけられていなかった。
  2. ゾンダーコマンドらの証言によると、ガス室は、遺体搬送時に徹底的に洗浄された。しかし害虫駆除室ではそうした洗浄の証拠を示すものはない。

うち、2については修正主義者は「天井まで洗った証拠はない」のようなクレームがあったような記憶があります。しかし、1の違いはかなり大きいように思えます。シアン化水素ガスと壁面・天井等の素材中の鉄分との反応時間が、プルシアンブルー形成にとって重要な要件にように思えるからです。殺人ガス室では、シアン化水素ガスを換気しなければ遺体搬送作業はできない上に、遺体の火葬には時間がかかることからせいぜい1日あたり一回のガス処刑が限度だったと考えられます(これにはヘスの証言もあります)。とするならば、ガス室内のほとんどの時間はシアン化水素ガスが存在しなかったことになります。

害虫駆除室にはプルシアンブルーは存在し得ても、処刑用ガス室には存在し得なかったとするなら、同じシアン化水素ガスが用いられていたとしても、プルシアンブルーを双方に存在し得るものとの前提でシアン化物の残留濃度を調べるのは明らかにその条件の違いを無視していることになると考えられます。

従って、害虫駆除室を含めてシアン化物残留濃度を比較して調べたいのであるならばプルシアンブルーは除外されなければなりません。

問題はそこでシアン化水素ガスが使われたか否かではないのか?

次回の記事では、歴史修正主義研究会の主宰だった文教大学教育学部教授であった故・加藤一郎による、クラクフ報告への批判をこっぴどくやっつけてしまおうと企んでいるのですが、そのうち一つだけ先行して今回やってしまいます。加藤は以下のように述べています

問題がすりかえられている。ロイヒター報告およびルドルフ報告が問題としたのは、「殺人ガス室」にシアン化合物の残余物が検出されるか否かではなく、大量のチクロンBを使って衣服などの害虫駆除作業が行なわれた害虫駆除室の残余物と、やはり大量のチクロンBを使って「大量ガス処刑」が行なわれたとされている「殺人ガス室」の残余物の「量的」比較であった。そして、1990年のクラクフ報告も、結論はロイヒター報告、ルドルフ報告とは異なるにせよ、やはり、害虫駆除室のシアン化合物の残余物と「殺人ガス室」のシアン化合物の残余物との「量的」比較を行なっている。ところが、1994年のクラクフ報告は、普通の居住区からのサンプルを基準サンプルとして(すなわち数値0か、限りなく0に近い数値を基準として)、「殺人ガス室」にはシアン化合物の痕跡が残っているかどうかだけを検証対象としてしまっているのである。

実際には、クラクフ報告ではその量的問題をきちんと考慮しています。そうでなければ、炭酸ガス存在下でどうなるか、や、素材の違い、水による流出度合いなどまで調査しているわけがありません。また、居住棟のサンプルが基準として有効なのは、8つのサンプルの「全て」で検出限界未満だったという事実です。これは、ロイヒターがレポート内で「検出された量が少ないということは、これらの建物がある時点でチクロンBで害虫駆除されたことを示している」に対応しているのです。つまり、ロイヒターのデタラメを明らかにしたのです。

さらに付け加えておくと、ゲルマー・ルドルフはロイヒター調査で得られたガス室跡から検出されている微量データを、「バックグラウンドレベル」のようなものと解釈して正当化しようとしましたが、クラクフ報告のそれは、それすらも粉砕しています。ルドルフはバイエルンのどこかの農家のサンプルから得たシアン成分の微量データを用いて、微量検出値はバックグラウンドレベルに他ならないと証明しようとしましたが、クラクフ報告のそれは感度300倍であり、そのレベルですら居住棟は検出限界未満だったのです。

クラクフ報告に従う限り、シアン化水素ガスがほぼ使われていないのであるならば、検出限界未満でなければなりません。一度しかガス処刑が行われていないブロック11ですら低濃度でありながらも検出値を得ているのです。

ダメ押し的にいえば、量的なことを考えていないのは加藤の方です。ロイヒター・レポートにあるシアン残留濃度の(最小差をとっても)133倍もの差を見て、ガス処刑が行われたかそうでないかをデジタルに考えているのは他ならぬ加藤でしょう。

結局、クラクフ報告で分かったことは…

前にも述べた、これこれとそっくり同じことであり、ホロコースト否定派が否定する証言やら文書史料などのたくさんの証拠と、クラクフ報告から判明する事実は何も矛盾していないことです。むしろ、矛盾していないことにより、裏付けられてしまっているのです。

否定派は矛盾している、矛盾しているとうるさいわけですが、一体どこが矛盾しているというのでしょうね?

 

マルコポーロ事件

 

西岡昌紀という人物について。

1995年に起きたマルコポーロ事件についてのその事件内容で、ここで私が改めて語ることも特にはありません。示したリンク先のWikipedia記事の履歴を見ると、「2020mars」なる人物がたくさんの編集行為を行っていることがわかりますが、2020marsは西岡昌紀氏自身であることは明らかで、自分自身についてのページすら自分で編集する人です(ウィキペディアの方針に反しています)。

西岡氏はそのマルコポーロ事件で有名になった人物ですが、私が西岡氏がツイッター上で活動している事実を知ったのは今が2023年として、およそ3年前のことで、それ以前のことについてはそこから調べていろいろ知ったことになります。別に私は西岡氏を追っかけているわけではないのですが、事実上、日本にはホロコースト否定者として有名であり、かつ具体的な議論を行なっている人物は西岡氏以外はいないため、日本でホロコースト否定に関心を持っている以上はどうしたって西岡氏の情報は入ってきます。

西岡氏自身も編集するウィキペディアの西岡氏の2023年5月現在のページに書かれていない事柄としては、西岡氏は地球温暖化否定論者でもあることです。また、西岡氏は日本の歴史認識問題の一つである731部隊について、生体実験を行なっていた事実は認めています*1。しかしウィキペディアの同氏のページにあるポーランド現代史の闇について、その記事の一部に事実誤認があることについては、私からの指摘により西岡氏も明確に認めています。誤りは当該記事2ページ目にある、「ドイツでは発禁処分」のことで、「ドイツでは、この本は事実上の発禁処分になったという」と書いていますが、今時こんなネタはネットで検索すれば、即座に調べがつきます。発禁処分になんかなっておらず、最初は反ユダヤ主義的として最初の出版社が出版を自主的に取り下げただけで、その年のうちに別の出版社から出版されています。

 

さて、そのような指摘まで行う私と西岡氏の関係ですが、当然ツイッター上でやりあってきたという経緯があります。現在は西岡氏にブロックされてしまっておりますが、

 

その理由は、西岡氏が私とのやり取りの最後の方で、西岡氏の著書である『アウシュヴィッツガス室」の真実』を所有していない人とと議論したくない、の趣旨のことを言ったので、そうなのかなと思っています。AmazonKindle Unlimitedで読めるのは知っているのですが、読む本もほぼないので解約しており読めません。アマゾンでは、再版のものが1100円で売っているのも知っていますが、そもそも西岡氏の主張のほとんど全ては欧米の歴史修正主義者の借り物でしかないので、買う価値はないと判断しております。1100円程度の本、印税収入もほぼないに等しいレベルだと思うので、ネットで無料公開して仕舞えばいいのに、と思います。実際欧米の歴史修正主義者の著書や論文の多くはネットで無料公開されています。『ホロコースト論争』の加藤継志もそうですが、なぜ今どきわざわざ本なんか出して、それをネットで無料公開しないのか、理由がよくわかりません。日本人のホロコースト否定者がドイツに送還されることも考え難いし。

 

さてそんな西岡氏ですが、彼の主張は述べた通り、欧米の歴史修正主義者の借り物でしかありません。西岡氏自身の説など聞いたこともありません。彼は、1995年にマルコポーロの当該記事を公表する以前は、英字新聞への投稿マニアだったそうです(これも西岡氏のウィキペディア記事には書いていませんが、リップシュタットの『ホロコーストの真実』の序文(推薦の言葉)を書いたデーブ・スペクターがそう書いています)。それで多少欧米の事情を知っていたのでしょう、ホロコースト否定論が欧米では賑わっていると。ネットの発達していなかった1990年代くらいまでは、日本にはホロコースト否定論はほとんど輸入されてこなかった経緯がありますから、彼はそうした欧米の事情を知って驚いたのかもしれません。しかし、デーブ・スペクターですらも「その内容には、オリジナリティのかけらもなく」と評するほどに、西岡の主張内容は欧米の否定論を借りただけだったのです。というか、多少なりとも欧米の否定論を知った上で西岡氏と議論すればわかりますが、彼の主張は欧米の否定派の劣化版でしかありません。しかもそれら否定派の主張を西岡氏自身で検証した形跡もありません。彼は単に鵜呑みにしているだけなのです。

しかも、西岡氏が否定論で何かわからないことがあったりすると、アメリカの歴史評論研究所の所長であるマーク・ウェーバーに聞いたり、フランスの修正主義者ロベール・フォーリソンに聞いたり、と修正主義者にしか尋ねていないようなのです。マルコポーロ事件の時、雑誌「創」に当該事件の件で記事を書いた江川紹子氏は、当該記事の中で西岡氏に犠牲者にインタビューしたのか?と尋ねたら、全くしていないと回答が返ってきたのだとか。あるいは以前の記事で取り上げたアウシュヴィッツ第一火葬場の捏造疑惑に関し、西岡氏はしつこいくらい煙突の戦後の捏造を主張しているのにも関わらず、アウシュヴィッツ収容所への訪問時に、職員に煙突のことを一言も聞かなかったそうです(私自身が西岡氏から直接そう聞きました)。なんでも、修正主義者と疑われてはまずいからだと考えて聞けなかったと、私に言い訳してくれましたが、ところがマルコポーロ事件時に現地取材したジャーナリストの福田みずほ氏は普通に煙突のことも職員に尋ねているのです(雑誌『創』1995年4月号、pp.122ff)。

以上のことなど(他にも理由はいっぱいあります)から、西岡氏はホロコースト否定論についてほとんど何も自身では検証していないことがわかります。ホロコースト否定論に感化されてしまった人は、多分その全員が否定論それ自身を検証しようとする気が全くないようです

 

マルコポーロ事件についての私見・雑観。

で、前述した江川紹子氏の雑誌『創』(1995年4月号、pp.110ff)「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」を読むと、以下のようにあります。

廃刊にいたる経緯
記事の反響は大きく、すばやかった。 発売当日、ロサンゼルスに本拠地を置くユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタ ール・センターに東京からファックス で、『マルコ』の記事が送られた。その 後ウィーゼンタール・センターは日本の駐米大使やロスの日本領事館などに抗議。さらに大手企業に対し、『マルコ』 への広告出稿を中止するよう呼びかけた。フォルクスワーゲンカルティエジ ャパン、マイクロソフトフィリップモリス三菱自動車などが広告拒否を表明。カルティエのように、『マルコ』 一 だけでなく、文藝春秋社のすべての雑誌からの撤退を決めた社もあった。
日本での動きもあった。駐日イスラエル大使館が『マルコ』編集部に対して抗議、 「反論を執筆していただきたい」とする編集部に対し、大使館は求めているのは謝罪・訂正であるとして、その申し出を拒否したが、交渉そのものを受け付けないわけではなかった。

ところが、当時のマルコポーロ編集長だった花田紀凱氏によると、事情がかなり違います。

花「編集長は解任だけどね。会社を辞めたのはその1年後です」

康「さすがユダヤでね、徹底的に締め上げてきたわけだよ。強い力で広告主を締め上げてくるっていうのは、さすがだよね」

花「康さんね、でもそれは実際そこまでのことはなかったの。確かに、“広告出稿拒否がくるんじゃないか?”っていう話は会議の中では出てました。外国の企業だって日本の雑誌にたくさん広告出をしてますからね。そこから“クレームがくるんじゃないか”っていう話は出てたんです。ただ、実際にあったのは、三菱自動車の8ページにわたる広告、“初めてとれた”って広告部も非常に喜んでた大きな契約だったんだけど、そこが、“ちょっと様子を見させて”って代理店を通じて言ってきたことくらいなんです」

――実際に報道されているように、何個か広告が落ちたということはなかったんですね。

ユダヤ組織が文藝春秋の社員に講義

花「それはない。そういう話は出てたというだけですね。まあそう思うのも当然だよね。

20年前の記憶から証言している当事者の花田氏と、事件当時さまざまな情報源から情報を得ていた江川氏のどちらが正しいのか軽々には言えませんが、江川氏がマルコポーロへの記事のために阪神淡路大震災を頑張って取材していたのに廃刊になってしまった憤りと、廃刊事件をあまり大したことだとは思っていなかった様子の花田氏の温度差は考慮の余地はあると思われます。

しかし、江川氏は、当時の欧米の事情にはあまり通じていなかった様子で、欧米では1980年代ごろから2000年くらいまでは、社会的にホロコースト否定論は大問題になっていた事実を鑑みると、当時のサイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)が日本という辺境の国でのホロコースト否定論の大々的紹介に過剰とも言える反応を示したのは、十分あり得る話だと思います。ただしホロコースト否定があまり問題になっていない近年でも、SWCは非常に機敏な反応を示すことも多々あるようです。反ユダヤ主義監視団体ですから、団体の目的であるお仕事をしているだけなのかもしれませんが。

news.yahoo.co.jp

個人的に思うこととしては、西岡氏が当該記事で「タブー」と、ホロコーストについての否定的議論を表現したのが、この廃刊事件でタブーだったのが本当であるかのように思われてしまった感があることが残念です。日本の歴史認識問題がそうであるように、ホロコースト議論とて、別にタブーではないからです。特に、ホロコースト否定禁止法のない日本では、ホロコースト否定を主張すること自体何の違法性もありません。

ホロコースト否定論は私自身は酷いデマだと思ってはいますが、法的根拠もないのに規制されるべき謂れはありません。言論の自由市場の中で、活発な議論を経て、デマはデマだと見抜かれるべきだと考えています。デマを主張することの責任を取ってもらえるのなら、自由にデマは述べていいはずです。場合によっては、デマの主張を裁判で認められて、名誉毀損などの損害賠償金を払えばいいのです。それが本来の自由主義社会のあり方ではないかと考えます。

私の思想としては、デマはデマとして可能な限り自分自身で見抜くべき、と思っています。世の中無数の嘘があるのですから、私たちが社会生活を送る限り、社会の中にある嘘と戦っていかなければならないのです。

それだけに、文藝春秋社があっさりマルコポーロを廃刊にしてしまった事実は非常に残念極まりないと思っています。あの時すべきだったことは、自社で徹底的に西岡論文なり、ホロコースト否定論の検証をして、その総括記事を掲載することでした。

 

マルコポーロ記事には何が書いてあったの?

記事自体は日本のネオナチがどうやら勝手に公開しているようです。著作権的に問題ある気もしますが、リンクを紹介しておきます(私の環境ではサムネイルに表示される文字列が文字化けしてしまいますが)。

www7.plala.or.jp

註:上記サムネイルのリンクは消えてしまっているので、以下のアーカイブをご利用ください。

https://web.archive.org/web/20081222073303/http://www7.plala.or.jp/nsjap/marco/marco0.html

で、以前にも反論というか、クソミソにこき下ろしているのですが、この論文はただのゴミであり、読む価値は全くありません。単に、西岡が欧米のホロコースト否認論を信仰レベルで信じ込んでしまい、その胸中を独白したに過ぎません。西岡は、自説への承認欲求が異常に強い人であることは、議論した経験から私自身がよく感じ取っています。彼は自身が信じ込むと、それを吹聴したくなる人なのです。何故その自身の感覚を疑うことを知らないのか、私にはよくわかりません。ともかく、自身のWikipedia記事を自身で編集することを厭わない人物ですから、西岡氏がとんでもなく承認欲求の強い人であることはおわかりいただけるかと思います

今回は、特にホロコースト否定論それ自体に関することは述べませんでしたが、以上です。

*1:731部隊が生体実験を行なっていたことや細菌戦をやっていたことは史実です。米軍が石井らを戦犯裁判にかけない代わりに取引としてその成果事実を極秘裏に米国に持ち帰ったことは有名な話で、ヒルレポートやフェルレポートなど、それらは米国でとっくの昔に機密解除されて知られています

"No Holes, No Holocaust"―穴はなく、ホロコーストもない?

デヴィッド・アーヴィングとアウシュヴィッツ

毎回毎回アウシュヴィッツの話ばかりで恐縮してしまいそうですが、まだまだ続くので我慢してください。それくらいアウシュヴィッツは集中的に否定派の攻撃を受けたからだとお考えいただければ宜しいかと。もちろんアウシュヴィッツホロコーストの一部に過ぎません。

"No Holes, No Holocaust"という有名なフレーズがあります。言い出したのはどうもこれまたロベール・フォーリソンのようですが、有名にしたのはデヴィッド・アーヴィングのようです。

日本ではあまり知名度のない人ですが、イギリスの歴史家で、第二次世界大戦に関する著書をいくつも書いており、ベストセラーになった本も何冊かあるそうです。特に有名なのは『ヒトラーの戦争』で、その中でアーヴィングは、ヒトラーの知らない間にホロコーストが起こった、と書いたそうです。

アーヴィングは元々はホロコースト否定派ではなかったのですが、1970年代後半からホロコースト否定の中心組織となったアメリカのInstitute for Historical Review*1や、ロベール・フォーリソン、エルンスト・ツンデルらの画策によって、ホロコースト否定派の勢力に引き込まれ、ツンデル裁判の第二審で登場したロイヒター・レポートにより、アーヴィングは正式にホロコースト否定派になりました。

アーヴィングは世間的にもかなり認められた知名度の高い歴史家でしたから、その影響力も強かったのです。日本で言えば、歴史家ではありませんが、知名度的には高須克弥氏のような人物だと考えればいいのではないでしょうか。

ホロコースト否定派に転じたアーヴィングは「戦艦アウシュヴィッツを沈めろ!」とまで主張したそうで、2005年にオーストリアで逮捕されてホロコースト否定を辞めてからも、アウシュヴィッツガス室だけは何故か認めておられないと伝え聞いております。

閑話休題

アーヴィングは周知の通り、映画『否定と肯定』でよく知られている通り、ユダヤ歴史学者のデボラ・エスター・リップシュタットを名誉毀損で訴えて、イギリスで裁判となります。ホロコースト否定を扱う裁判ではほとんど大抵、ホロコーストそれ自体は裁判では顕著な事実として扱われ、その歴史事実の正否を問うことはできません。ホロコースト否定をめぐる裁判の第一号かもしれないマーメルスタイン裁判では、ホロコーストは顕著な事実とされてしまったため、IHRは和解に応じざるを得なくなり、メル・マーメルスタインに多額の賠償金を支払わなければなりませんでした。しかし、アーヴィングの裁判ではそうはならず、ツンデル裁判同様にホロコーストの史実をめぐる争いが展開されたのです。その裁判の中で審理の1〜2日間まで費やして、今回のテーマとする「」の論争が繰り広げられました。如何に否定派が穴にこだわっているかがわかります。

「穴」とは何か? 金網導入装置とは?

ホロコースト否定派の間で流布されている以下のような風刺画があります。

ビルケナウの火葬場遺跡へ案内された観光客らが、案内係の説明するガス室の天井にあったガス(チクロンB)投入用の穴の説明を受けている、そのそばで子供が「穴なんかどこにもないじゃないか」と呟いている絵になっています。右端に明らかにユダヤ人と分かる人物が、観光客に背を向け笑っている構図がなんとも下劣です。フォーリソンはこれに類するホロコースト否定のための風刺画を同僚のゲルマー・ルドルフに送っていたというのですから、呆れます。

しかしこの風刺画が明白に嘘であることは、否定派自身の報告からわかります。否定派は穴はあった(ただし関係ない穴)と言っているからです。

さて、否定派が"No Holes, No Holocaust"で主張している穴とは何のことなのでしょう? これは既に過去に触れていますが、さらに詳しく説明しておくことにします。まずその過去の記事では動画を紹介していましたが、今回はその動画のスクショを以下に示します。 

四つの小煙突が問題にしている穴に相当し、そのような穴がビルケナウの二つの火葬場・ガス室に四つずつあったとされています。動画でわかるように、その煙突を通じてチクロンBガス室内に投入していたとされています。ガス室内はどうなっているかというと、以下の動画でCGで再現されています


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ガス室内が見えてくると、金網の柱のようなものがいくつか見えるかと思いますが、これを金網導入装置などと呼びます。天井の外、穴から投入されたチクロンBはその金網導入装置のさらに内側にあるチクロンBを入れるバスケットの中に投入されて、バスケットに付属していたワイヤーでガス室の床まで降ろされたと推定されています。この金網導入装置を導入した目的は、第2及び第3火葬場のガス室は、半地下構造になっていて、吸排気の換気システム以外にガス室内の青酸ガスを排出する方法がないので、ガス室内に投下したチクロンBが3時間程度はガスを放出し続けることから、ガス室内にチクロンBが残っていると遺体搬出作業を迅速にできないため、犠牲者を殺した後は天井からバスケットごとチクロンBを外に出してしまうことにありました。広いガス室内に均等に青酸ガスを分配する目的もありました。

この金網導入装置は、それを製作した囚人ミハエル・クラの証言が残っています。ポーランドの証言サイトから以下にそれを翻訳して紹介します。

鍵屋(註:アウシュヴィッツ内にある金属加工作業場のこと)の工房は、ガス室用の偽シャワーや、チクロン缶の中身をガス室内に投棄するための網の支柱などを製造する役割を担っていました。それらは高さ3メートルほどの柱で、断面は正方形(約70センチ)でした。この支柱は、3枚の網を1枚ずつ重ね合わせたものです。外側の網は直径3mmの針金で、50mm×10mmの角材で補強されています。そのような角材を支柱の四隅に配置しました。それらは上も下も同じ角材で接合されています。ネットの各メッシュは約45平方mmでした。2列目のネットも同様に作り、1列目のネットの内側に約150mm離して配置しました。その網の1枚1枚の網目は約25平方mmでした。コーナーでは、2つのネットが鉄の棒でつながれていました。支柱の中は空っぽで、断面が約150平方mmの薄い亜鉛板でできていました。上部は円錐形の末広がりで、下部は均等な四角い底面を持っていました。板金で作った細い支柱に、支柱の端から約25mmのところに、四角い金属棒をはんだ付けしました。金属棒の上に網目の細かいネット(1メッシュは約1平方ミリ)を敷き詰めました。ネットはコーンの根元で終わっています。そこから上は、円錐の頂点に達するシートメタルフレームに移行しています。チクロン缶の中身は、上から分配用コーンに投げ入れられました。そのため、支柱の四方の壁にチクロンを均一に行き渡らせることができました。ガスが消えた後、中柱ごと取り出し、シリカを除去しました。ガス室の通気口は、部屋の壁に打ち付けられていました。通気口は亜鉛板で覆われており、そこには円形の穴が開いていました。

一見非常に詳しい説明にも見えますが、訳し方にも問題があるのかもしれませんが、この証言だけで金網導入装置を正確に再現することはできません。例えば、クラは穴の断面が70センチ平方の正方形だと推定されるようなことを述べていますが、後述する現地調査結果では天井に開けられた穴の大きさは概ね50センチ四方だと判明しています。また、ガス室内の天井までの高さは2.4mと判明しているため、クラの言う3mでは60センチも長すぎることになってしまいます。支柱を支える構造体となるのが四隅の角材しか説明されておらず、四隅の角材を支える横材(絶対必要)の説明もありません。この辺が証言のみで詳細まで判明させることの難しさを表しています。しかし、出来るだけクラの証言に沿って再現図を描くと以下のようなものになります。(プレサック本、p.487

 

さらに、アウシュヴィッツ研究家として有名なロバート・ヤン・ヴァン・ペルトによって監修された実物大再現モデルがあります。


www.youtube.com

この動画の3:55から金網導入装置が紹介されています。ヴァンペルト教授は「ガスコラム」と述べています。非常に実際的なモデルのように見えますが、もちろん、これはヴァンペルト氏が想像でクラの証言を補完した推定モデルでしかなく。実物がこうであったかどうかはわかりません。

もしこのような金網導入装置の現物が残っていたら、それこそかなり殺人ガス室の動かぬ証拠となり、フォーリソンの求める「たった一つの証拠」であったかもしれません(その場合でも「戦後の捏造」と主張可能です)。しかし、その現物は火葬場の設備撤去作業時に撤去されてしまったと考えられています。したがって現物は行方不明です。

では、金網導入装置を含め、ガス室天井の穴(第2or3火葬場)があったことはどのように証明されるのでしょうか?

戦時中の親衛隊文書の中にある穴と金網導入装置

現在までに見つかっている戦時中の文書の中で、唯一、穴と金網導入装置の両方に言及している文書は、否定派が絶対に認めない、フランケ・グリクシュ少佐による再定住行動報告です。この文書を肯定してしまえば否定派は死んでしまうので、否定派は全力で否定します。

この文書の詳しい解説は、こちらを見ていただくとして、穴と金網導入装置については以下のように書かれています。

この部屋には大きな柱が3本ある。この中に、地下室の外の上方から、ある製品を降ろすことができる。300〜400人がこの部屋に集まった後、扉が閉められ、物質の入った容器が上から部屋に入れられる。この容器が柱の底に触れると、ある物質が発生し、人は1分で眠りについてしまうのである。

柱(間接的には穴も)の数が四つではなく三つですが、文書の内容についての解釈は示したリンク先の解説を参考にしてください。ともかく、グリクシュの文書が穴と金網導入装置に言及していることだけは確かです。

戦後の証言

グリクシュ文書を含めたものですが、Holocaust Controversiesブログサイトの執筆者の調べでは、合計28人に上ります。

私自身がこれ以外に2名発見しています。

元囚人(ゾンダーコマンド)のヘンリク・マンデルバウム(証言の翻訳全文はこちら

特殊な装置を使って天井からガスを入れたのです。1つの部屋には4つの(チクロン)ガス注入口がありました。

元囚人のピョートル・ジェラン(証言の翻訳全文はこちら

当時、私は組立工として働いており、チクロンが火葬場(実際にはガス室)に投げ込まれるバスケットを溶接していました

探せばまだ他にもありそうな感触もありますが、発見されているだけでも30名に上ります。図面にさえ載っておらず、文書資料も全く残っていない、ガス室内にチクロンBを投入することだけが目的の穴と金網導入装置ですから、極秘中の極秘だったと思うのですが、それでもこれだけの人数による証言証拠がある事実は、少なくとも無視していいものだとは思えません。数やその詳細が証言者によって異なる事実は、それら証言が本人の目撃であり記憶によるものであることを強く示唆しています。

おそらく否定派の見解としては、これだけ証言内容がバラバラであることから、信用するに足りない、ということではないかと思われます。しかし一般に、人の記憶に基づく証言が、絶対に正確で確実な内容であると言い切れないことは誰しもが知っていることですから、こうした否定派の主張は成立しないでしょう。

航空写真の証拠

否定派との議論で最も物議を醸したのが、航空写真に写った第2、第3火葬場のガス室天井の穴らしき斑点です。

https://collections.ushmm.org/search/catalog/pa28506

これは、1944年8月25日に連合軍偵察機によって撮影された写真ですが、第2、第3火葬場のガス室とされる箇所に、各々四つの黒い染みが写っています。写真には「ZYKLON-B VENT」とありますが、推定されている大きさよりもかなり大きな斑点なので、否定派は穴であるはずはない、と主張していたようです。なお、同様に黒いシミが写っている航空写真は他にも何枚かあります。

Holocaust Controversiesブログサイトの記事では、この写真を用いて、推定されている穴の位置図面を合成したものを公開しています。

このように、穴の位置自体は、黒い染みの位置によく一致しています。航空写真に写った黒いシミが何であるかはこれ以上の解像度の写真が存在しないのでわかりません。天井の上で作業していた親衛隊の消毒係(チクロン投入係)が踏みつけていた跡なのかもしれないし、もしかするとガス室内から引き抜いたチクロンBをその場に捨てていたのかもしれません*2。しかしながら、この黒い染みについては証言証拠すらなく、何なのかは断定は困難です。

否定派は穴について何と言っているのか?

まず、現在のビルケナウにある第2、3火葬場の遺跡は、親衛隊の撤収時にダイナマイトで破壊されたことや、のちの風化により以下のような状態(写真は第3火葬場)ですから、現地調査結果については後述しますが、少なくとも一見しただけでは穴の跡がどこにあるのかはわかりません。特に第3火葬場は現地住民によってレンガなどが盗まれたのか、残っている残骸の量も少なくなっていて穴の跡すらないと思われます。

しかし、第2火葬場に関してですが、火葬場のガス室天井の穴の候補になる穴の跡は、否定派による報告では二つあるのだそうです。以下写真はゲルマー・ルドルフの論文から引用しました。

ジョン・ボール説

ルドルフが示した穴がどこにあるのかというと、おそらくこれと同一の穴だと推測するとして、否定派の自称航空写真専門家だったジョン・ボールによると、以下のポンチ絵の③にある(ジョン・ボール自身の現地確認では)のだそうです。ジョン・ボール自身が航空写真にその穴の位置を書き加えたものもその隣に貼っておきます。


ジョン・ボールの解説は以下の通りです。

  1. 火葬棟
  2. 地下死体安置所のセメント屋根。1943年から44年にかけて、数十万人が殺害された「人間ガス室」であったとされている。ほとんどすべての「目撃者」とされる人々は、SS隊員が屋根の穴から青酸ガス弾を犠牲者に投下するのを見たと証言している。
  3. 1993年に著者が検査した2つの穴は、1944年の航空写真では確認できないため、1944年以降、重要な目撃談と一致させようとする何者かによって屋根を打ち抜いたものである。(左が1番の穴、右が2番の穴)。筆者は1番の穴から死体安置所に入った。
  4. 1944年8月25日の航空写真にある4つのマーク。1993年に著者が屋根の内側と外側を調べたところ、これらの場所に穴はなかったため、航空写真の4つのマークは穴ではなかった。著者が考えるように、4つのマークが写真に描かれたものであろうと、屋根の上の物体の影であろうと、4つのマークが穴ではないという重要な事実に変わりはないのである。
  5. 結論
    • しかし、44年8月25日の航空写真にあった4つのマークの位置には、今日、穴はなく、したがって44年の穴ではなかった。
    • 今日、屋根にある唯一の2つの穴は、1944年の航空写真に対応するマークがないため、44年以降に屋根を打ち抜かれたものである。
    • したがって、1944年には屋根に穴はなく、屋根の通気口からシアン化物ペレットが流し込まれたという「目撃談」は物理的に不可能である。

まず、ボールは「1993年に著者が検査した2つの穴は、1944年の航空写真では確認できないため、1944年以降、重要な目撃談と一致させようとする何者かによって屋根を打ち抜いたもの」としていますが、「1944年以降、重要な目撃談と一致させようとする何者か」はボールが勝手に推理した仮説に過ぎず、何の根拠もありません。そのような穴が開いていることの理由は全くの不明*3であり、ボールが位置が違うと主張するのであれば、単に関係ない穴だとするだけで済みます。後述する現地調査では、そのうちの一つを関係ない穴だとしています(残り一つは何も言及されていません)。

ボールは、「4つのマーク」を、アウシュヴィッツ収容所の航空写真に関する解析を初めて行った米国のCIA(ブルギオニらの報告書)が、航空写真に描き込んだと推測していますが、イギリス軍が撮影した別の航空写真にも写っているのでその推測は成立しません。(ただし以下の写真は、Holocaust Controversiesの記事で紹介されてはいますが、元々の出典がわかりません)

1944年8月23日(イギリス空軍撮影)

さらに、ボールは「1993年に著者が屋根の内側と外側を調べたところ、これらの場所に穴はなかった」としていますが、現地の遺跡はダイナマイトで激しく破壊されていることは述べた通りであり、コンクリート屋根の天井それ自体も破壊されていて、それら破壊片は元の位置からも移動しているような状態であり、無数にある破壊片の断面や亀裂の状態を詳しく調査しない限り、穴の残存痕跡は判明しません。

以上のことから、ジョン・ボール説の結論は成り立たないことがわかります。

ゲルマー・ルドルフ説

ルドルフは、複数の自身の論文で同じ解説を何回も行っているようですが、こちらの記事によると、まず以下のような写真を用いて解説を行っています。

この元になっている写真の高解像度なデジタル画像をネットで探したのですが、十分な解析解像度を持つものが見当たりませんでしたので、ルドルフ自身の上の論文からルドルフが書き加える前の当該箇所を拡大して以下に示します。

ルドルフは、ガス室とされる箇所の外壁幅を何かの図面から読み取って「9.58m」とし、自身が「チクロン投下穴の小煙突」の箇所と推定した部分の幅を、その外壁幅との比較で算出しています。

しかしこの方法があまりにも適当過ぎて杜撰であることはすぐわかります。例えばルドルフが小煙突と推定した「70cm」は、ルドルフが写真上で、ガス室天井の端となっている黒い影の部分の切れ目から推定しています。ところが、その黒い部分の切れ目はガス室天井の端の部分の右側延長箇所を見ると同じように切れ目があり、かつ小煙突などの端部を遮る物体は何もありません。つまり、小煙突の存在だけが壁の黒い部分に切れ目を作るわけではないことがわかります。これは単に、写真の解像度の問題や、建物からカメラに入る光の加減などが撮影画像に影響することを示しています。物理的なアナログ写真画像は、コンピューターグラフィクスのように正確な画像になるわけではないのです。

さらに、「85cm」とされている小煙突は、明らかにその右側にある二つとは影の濃さが異なります。それは「70cm」とされた小煙突右側の窓の下にも何か写っているそれにも似ていますが、それは明らかにガス室建屋の外側に位置しており火葬場建屋の壁面にある何らかの形状でもあるように思えます。「85cm」もそうである可能性があります。

以上のことから、ルドルフが説明するように「3つのオブジェクトの幅は55cmから85cmの間で変化している」だなどとは言えず、「それらは密接に並んでおり、屋根の同じ半分に一斉に位置している可能性が高い」ということもできません(以下のルドルフ作成の図)

従ってルドルフが同論文で結論したような「これらの物体がチクロンBのハッチであったはずがないという証拠である」などと言うことはできません。そのようなルドルフの結論は、ルドルフ自身が誤った推定をしたが故のストローマンに基づいているだけなのです。

反修正主義者の説

反修正主義者の説は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館公認の元、実際に詳細な現地調査を行った報告書に示されているものであり、ここでその報告書全文を示すには長すぎるので、以下を参照ください。

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当然、この反修正主義者による報告についての、修正主義者側の反論も存在します。さらには、その修正主義者の反論に対する反修正主義者側の再反論もあります。それらの議論を確認するのは、ここでは読者の方にお任せしたいと思います。

私がこの穴の議論で付け加えておきたいことは、「No Holes」の証拠は何もないという事実です。つまり、「No evidence of "No holes"」なのです。それに対し、穴があったという証拠は以上で示した通りです。

フォーリソンが求めた「たった一つの証拠」はありませんが、膨大な量の証拠はあるのです。

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*1:日本のホロコースト否定者である西岡昌紀氏は「歴史見直し研究所」と名付けましたが、日本の歴史学者である武井彩佳氏は『歴史修正主義』で「歴史修正研究所」としています。個人的にはどちらも誤りで、「Institute for Historical Review」と名乗ったのはどう考えても、「The Americn Historical Review」なるアメリ歴史学会の公式出版物を意識したからだとしか思えません。「Institute for Historical Review」の略称は「IHR」と称しますが、「Americn Historical Review」は「AHR」なのです。後者は日本語では「アメリ歴史評論」となるかと思うので、前者は「歴史評論研究所」にすべきだと思います…私は影響力がないのでこの呼び方は広まらないと思いますが、IHRの設立目的はホロコースト否定派の主張を正当な歴史学と対等のレベルにまで世間に認めさせることにあったので、西岡・武井両名の日本語訳は不適当だと考えます。

*2:否定派は、そのようなことをすればチクロンBから青酸ガスが放出され続けるので周囲が危険であると主張するかもしれませんが、野外で放出される青酸ガスは空気よりも軽く大気中に拡散してしまうため、よほど近場でない限りは危険性は極めて少ないでしょう。また放置すれば2〜3時間で青酸ガスは全て放出されてしまいます

*3:現地住民が盗掘のために開けた、戦後のポーランド戦争犯罪調査委員会が内部調査のために開けた、何者かが個人的興味から勝手に開けた、風化により劣化でその部分だけが開いてしまった、否定派あるいは反否定派が悪戯目的で開けた、etc.,など他の要因仮説はいくらでも示すことができます

ホロコーストの証拠ってあるの?(3)ガス検知器

プレサックの衝撃

フランス人の薬剤師、ジャン・クロード・プレサックが著した『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』(1989年、ベアテ・クラスフェルド財団)[以下、プレサック本と呼ぶ]は、修正主義者たちが「これぞガス室がなかったことを示す決定的証拠だ!」と喜んでいたロイヒター・レポートが発表されたのとほぼ同時期に出版され、アウシュヴィッツの殺人ガス室の存在を決定的に証明した書籍だとして、当時評判になりました。

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ガス室否定の決定版と、ガス室肯定の決定版がほぼ同時期に世に出たのは単なる偶然ですが、定説側の人々によってロイヒター・レポートが反論されまくったのと同様、プレサック本は修正主義者たちから徹底的に反論されました。

しかしその反論の内容は、大きく異なりました。ロイヒター・レポートへの反論の大半がシアン化物測定結果についてが主体だったのに対し、プレサック本への反論は多岐にわたっており、修正主義者が一体プレサック本の何を反論しているのかは少々分かりにくくなっています。強いて言えば、プレサックがガス室を肯定していると見える箇所はほとんど全て反論対象になっていると言えるかもしれません。プレサックを叩き潰さない限り、このままではガス室の存在が決定的に肯定されてしまうとでも否定派は考えたのか、あるいはプレサック本に対して有効な論駁を与えれば、ガス室の決定的な存在否定になると思ったのかもしれません。何れにせよ、プレサック本の登場は、否定派に新たな仕事を与えたようなものでした。特にプレサックに対して執拗なまでに反論をしたのは間違いなくイタリア人の修正主義者であるカルロ・マットーニョでしょう。

さて、プレサック本はとにかく膨大な量のアウシュヴィッツ関連史料を掲載しており、特にガス室関連ではこの本さえあればほとんどのことがわかるのではないかと思わせるほどです。中でも、第2・3火葬場に関する説明ページは約200ページにも及ぶ分量で解説されています(大きな本なので普通の本ならその倍の400ページ分に相当すると表現してもいいかもしれません)。

今回は、そのプレサック本の第2・3火葬場に関する説明ページの中の、370ページから掲載されている話について、です。

アウシュヴィッツ中央建設管理部が要求した「ガス検知器」

アウシュヴィッツ中央建設管理部は、トプフ・アンド・サンズ社に対し、以下のような電報を送付ました。

翻訳すると、以下のように書いてあります。

作業現場30

電報

所在地:トプフ工場 エアフルト

テキスト:打ち合わせで取り決めたガス検知器10台をすぐに送れ。見積もりは後日。

アウシュヴィッツ中央建設管理部
ポロックのサイン
SS少尉

1943年2月26日     18.20 SS少尉キルシュネック      イェー[リング、民間雇用者]

日付けに注目してほしいのですが、前回記事で示したVergasungskeller文書の日付は1943年1月29日でした。その文書には「おそらく1943年2月20日には完全に稼働できるようにする予定です」と書かれていたのを思い出してください。実際には2月20日には完全には完成しなかったのですが、これは火葬場2の完成直前に建設管理部がトプフ社宛に送ったものです。「作業現場30(BW30)」とあるのは、第2火葬場を意味します。

この電報に対し、トプフ社は以下の手紙(1943年3月2日付)で返信しています。(文書写真はこちらから)

内容を翻訳すると、

返信: 火葬場、ガス検知器。

「打ち合わせで取り決めたガス検知器10台をすぐに送れ。見積もりは後日」と指定された電報を受領したことを確認しました。

我々は2週間前、貴社が求めている青酸(シアン化水素)残留物の表示装置について、5社に問い合わせたことをここに報告します。我々は3社から否定的な回答を得ており、2社からは未回答です。

この件に関する情報が入りましたら、すぐにご連絡し、このデバイスを製造している会社と連絡を取るようにいたします。

修正主義者でない私のような人にとっては、割とすんなり理解できる電報とその返信の内容です。つまり、これらの文書史料は、第2火葬場のガス室に関連して、何らかの理由で、処刑ガス室で使用するチクロンBから発生する青酸ガスを検知する装置をアウシュヴィッツ武装親衛隊・中央建設管理部が、火葬場の工事担当者であったトプフ・アンド・サンズ社に要求していた事実があったことを示しているのです。

では何故、ガス検知器10台を親衛隊建設管理部は必要としたのでしょう?

ガス検知器10台を親衛隊建設管理部が必要とした理由

まず、プレサックは、下記のように推測しました。これは、当時、ビルケナウの火葬場の現場で働いていたトプフ社の作業員であるハインリッヒ・メッシング技師の工程表をもとにプレサックが推測したようです。トプフ社は火葬炉設備だけでなく、換気装置も担当していたのです。

3月1日から7日にかけて、メッシングはLeichenkeller 1のすべての設備を完成させた。10日、11日には「Gasprüfer」が到着し、「テスト」に進むからだろう。何のテスト? もちろん、使用するチクロンBの量を決める目的で、換気後、毒ガスの残存量を測定するためである。13日になると、すべてが整い、ガス室が使えるようになる。14日の夜、1500人のクラクフユダヤ人たちによって、そのテストが開始された。

当該翻訳ページで私自身がその誤りを解説しておきましたが、修正主義者のカルロ・マットーニョはソ連での裁判記録を調べて、トプフ社の技術責任者であったクルト・プリュファーへの尋問に次のような回答があるのを発見しました。(内容はこちらから引用)

アウシュヴィッツ強制収容所のSS建設管理部にあてた1943年3月2日の私の手紙のコピーに記載されているガス検知器は、収容所の火葬場のガス室に設置するために、同建設管理部のトップであるフォン・ビショフの要請を受けて、私が探したものです。フォン・ビショフが私にそれぞれの要請を持ちかけたとき、彼は、ガス室での被収容者の毒殺のあと、ガス室の換気後もシアン化水素の蒸気が残っているケースがしばしばあり、これらのガス室で働く作業員の中毒につながることを私に説明しました。そこで、フォン・ビショフは、操作員の作業を危険にさらすことのないようにするために、ガス室内のシアン化水素蒸気の濃度を測定できるガス検知器を製造している会社を調べるように私に要請しました。私は、そのようなガス検知器を製造していたであろう会社を特定することができなかったので、フォン・ビショフの要請に応じることができませんでした。

マットーニョは、上のプリュファーの手紙は偽造、証言は偽証としています。マットーニョが手紙を偽造と断定する根拠は、マットーニョの推論に合致しないから、というものであり、手紙そのものを鑑定したわけではありません。証言を偽証とするのも修正主義者のいつものやり方です。しかしながら私も、Holocaust Controversiesの記事執筆者同様、何故ガス処刑の話も一切出てこない、しかも書式が非常にややこしい偽造があまりに面倒に思える文書をわざわざ手間暇をかけてまで偽造するのか、意味がわかりません。

親衛隊建設管理部からの電報、トプフ社のプリュファーの手紙、そしてソ連での尋問内容は、その他の文書史料や証言内容等から推測されるビルケナウのガス室のガス処刑の実態を併せて考えても、すんなり理解出来るものでしかなく、そのどこにも不自然なところや矛盾はないのです。全てが前回述べた通り裏付け合っていると言えるでしょう。

修正主義者たちはしばしば、青酸ガスなる極めて危険な毒ガスをユダヤ人絶滅に使えたわけがないと主張します。それは、作業員や親衛隊員まで殺してしまうからだ、と言うのです。フランス人の修正主義者である風刺画家ローラン・ファーブルの以下の絵がそれを示しています。

ところが、親衛隊が作業員の危険性をまるで考慮していなかったわけではないことを示す「ガス検知器」の話が出てくると、途端にそれを否定しようとする態度を見て、変だとは感じないでしょうか?

以上のように、アウシュヴィッツガス室の証拠は、もちろん他にもまだまだたくさんありますが、それぞれの証拠一つ一つは弱く見えるかもしれませんが、互いに強固に裏付け合っており、私には否定しようがないようにしか思えません。

 

 

ホロコーストの証拠ってあるの?(2)「裏付け」の大事さ。

ホロコーストの証拠ってあるの?」というタイトルで既に記事を書いていますが、そこでは少しリンクを示した程度で、証拠そのものについてはあまり触れませんでした。読者の方の中には、どんな証拠があるのか具体的に説明してほしかった人もいるかもしれません。今回は、前回同様満足いただけないかもしれませんが、少しはその実例を示したいと思います。その前に…

 

ホロコーストの証拠の量は膨大。

前回、証拠とは何か?について述べました。英語Wikipediaから引用したその冒頭には

  • ある命題に対する証拠とは、その命題を支持するもの

と簡単に述べられています。例えば、あなたは会社に遅刻したとします。その理由として、通勤電車が遅延したからだ、とする時、よく知られている様にそうした場合は鉄道会社が駅で発行する遅延証明書を貰うと思います。つまり、命題である「通勤電車が遅延した」を支持するものが「遅延証明書」になり、それ一つで証拠になります。

こうしたたった一つの証拠で証明できるのなら話は簡単なのですが、電車が遅れたのではなく、駅に向かうときに、別の人の自転車にぶつかって、電車に間に合わなかったから、とするとそれを証明するには一つの証拠ではおそらく無理でしょう。あなたはそのときに落として画面が割れたスマホを示すかもしれませんが、それは完全な証拠になりません。そこで、自宅の親にいつもと同じ時間に家を出たことを証言してもらうことになるかもしれません。さらには、自転車にぶつかった時の目撃証言を探すことになるかもしれません。

この様な、証明に必要な証拠の量が一つではなく、大量に必要とされる状況がホロコーストなのです。そもそも、ホロコーストの事実を示す個々の事象の量だけでも膨大です。絶滅収容所だけでも、5〜6箇所もあり、アインザッツグルッペンの殺戮現場は何千箇所にも及び、対象期間もおよそ4年、関係者も膨大で何より殺された人数はおよそ六百万人、規模が大きいことは火を見るより明らかです。

ロベール・フォーリソンは「たった一つの証拠」を要求し続けましたが、それはガス室に限ったものではありましたが、ガス室ですら上で言う遅延証明書の様なたった一つの証拠などありません。証拠がたった一つで済む事象など、むしろかなり例外的な事象に限られると思います。つまりフォーリソンはたった一つでいいと主張しながら、実際にはそれは無茶な要求だったのです。(しかしフォーリソン自身は、たった一つの証拠でガス室を存在しなかったとは証明しませんでした)

では、それら具体的な証拠にはどの様なものがあるのか、若干ですが例を見ていきましょう。

 

Vergasungskeller文書

これは、主にアウシュヴィッツ第二収容所であるビルケナウ収容所にあった、第2火葬場(クレマトリウム2)のガス室についての議論で登場する親衛隊の当時の文書です。まず、知っておかなければならないことは、第2火葬場の設計図面自体はいくつかあるのですが、そこにはガス室であると明確に示す文言は記されておらず、ガス室だとされる箇所に書かれているのは「Leichenkeller(註:「Leichenkeller 1」がガス室であり、Leichenkeller 2」が脱衣室になる)」(死体安置用地下室)であり、否定派は書いてある通りそこは死体安置室だと言って譲りません(しかし、書いてないことも主張する)。では、Vergasungskeller文書とは何か、見ていきましょう。

 

この書簡は、1943年1月29日、アウシュヴィッツの中央建設管理部の責任者であった親衛隊大尉カール・ビショフが、ベルリンの親衛隊経済管理本部(WVHA)の親衛隊上級大佐ハンス・カムラーに宛てた、第2火葬場の建設進捗状況に関する手紙です。第2火葬場が完成するのは同年3月になってからのことです。内容を翻訳すると下記の通りです。

クレマトリウムIIは、多少の工事を除き、言いようのない困難と凍てつくような天候の中、昼夜を問わず全力を尽くして完成させました。火葬炉は、実行会社であるエアフルトのトプフ・アンド・サンズ社の上級エンジニア、プリュファーの立ち会いのもとで火入れされましたが、問題なく稼働しています。死体安置用地下室(Leichenkellerの鉄筋コンクリートの天井の型枠は、霜のためにまだ剥がすことができませんでした。しかし、ガス処理用地下室(Vergasungskeller)を利用することができるため、この点は重要ではありません。

鉄道車両が禁止されていたため、トプフ・アンド・サンズ社は中央建設管理部が要求する時期に吸排気装置を納入することができませんでした。しかし、吸排気装置が到着した後、直ちに設置を開始し、おそらく1943年2月20日には完全に稼働できるようにする予定です。

トプフ・アンド・サンズ社の検査エンジニアの報告書が同封されています。

この文書を理解するには、まず第2火葬場がどの様な構造であったのかを理解しておく必要があります。まず第2火葬場の現在の様子です。

第2火葬場は、親衛隊が撤退時にダイナマイトによって破壊してしまいましたので建物自体は当時の状態では存在していませんが、上から見た形状はわかるかと思います。ガス室になっていた箇所はこの下に伸びている部分であり、脱衣室は左側になります。いずれも半地下構造でした。右側に伸びている箇所が火葬炉のあった箇所であり、こちらは一階(地上階)になります。当時(1942年4月)の図面ではこうなっています。

この図面はこちら以降のページから左右を合わせて作成したものですが、まず見えないと思いますので、元のページを拡大してでもじっくり見ていただきたいのですけれど、ガス室の場所には「Leichenkeller 1」、脱衣室の場所には「Leichenkeller 2」と確かに書いてあります。なお、このバージョンの図面作成時にはまだガス室を火葬場に設置する案は存在せず、本当にLeichenkeller、つまり死体安置室としての使用しか考慮されていなかったと考えられています。後に、図面は書き換えられ、大まかには変更はされてはいませんが、細かい部分で変更されています。詳しくは、プレサックの本の以下の章をじっくり読まないと理解できないかと思います。留意点としては、上の図面に左端にある階段の様なものは、この図面に後で書き込まれたものであり、図面作成時には存在していませんでした。

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Vergasungskellerの意味

ともかく、後に変更された図面上でも、ガス室の場所には「Leichenkeller 1」、脱衣室の場所には「Leichenkeller 2」と書かれたままでした。したがって、図面の記述を信じる限り、ガス室などどこにもありません。

ところが、上の文書には「Vergasungskeller」なる、図面上にはどこにも書かれていない名称が登場しているのです。

私は「Vergasungskeller」を「ガス処理用地下室」と翻訳していますが、これは出来るだけ字義通りに訳したいからで、「Vergasung」は「気化・ガス化」を意味する言葉なのですが、実は当時あったチクロンBガスを用いた害虫駆除にも使われている言葉であり、気化・ガス化だけを意味するわけではないのです。また「keller」はほとんどの場合地下貯蔵室を意味する用語なので、地下室と訳しています。一般的には、「Leichenkeller」は「死体安置室」、「Vergasungskeller」は「ガス室」と単純に訳されることが多いようですが、アウシュヴィッツを議論する場合、さまざまな類義語が登場することから、できる限り元のドイツ語に沿う様に日本語化するよう心掛けています。

なお、現在では独和辞書を引くと「Vergasung」には「毒ガスによる殺害」の意味も掲載されているようですが、これはナチスドイツの事例からそのような意味も含むように扱われるようになったからだと考えられます。おそらく、否定派は反対すると思います。

どうして、第2火葬場にガス室があったとわかるのか?

アウシュヴィッツ収容所の研究者であったジャン・クロード・プレサックは『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』のp.503において、当時の文書史料だけを用いて「Vergasungskeller」が殺人ガス室を意味することを立証しようとしていますが、そんなことは出来ません。当時の建設部文書やトプフ社など関係各社の文書を調べたところで、せいぜい「ガス室」だと判断されるだけであり、「殺人・処刑用」と書かれた文書など存在しないからです。

第2火葬場に殺人・処刑用ガス室があったことを知るためには、証言証拠に頼らなければなりません。火葬場に殺人ガス室があったこと自体は、多くの証言がありますが、その中でもかなり詳しく書いた、火葬場のゾンダーコマンドとして有名なヘンリク・タウバーの証言から引用したいと思います。ポーランドの法廷の宣誓証言から、直接のポーランド語記録から翻訳してみましょう。

„Chronicles of Terror”. Base of testimonies of the Witold Pilecki Institute of Solidarity and Valor - Tauber Henryk

4 marca 1943 r. pod strażą SS-manów zaprowadzeni zostaliśmy na teren krematorium II. Tu objaśnił nam konstrukcję tego krematorium kapo August, sprowadzony w tym samym czasie z Buchenwaldu, gdzie pracował przy tamtejszym krematorium. Krematorium II posiadało pod ziemią rozbieralnię (Auskleideraum) i bunkier, czyli gazownię (Luichenkeller). W przejściu między tymi oboma piwnicami znajdował się korytarz, do którego prowadziły z zewnątrz schody i koryto do zrzucania zwłok przywiezionych do spalenia w krematorium z obozu. Drzwiami z rozbieralni wchodziło się do tego korytarza, a stąd drzwiami na prawo do gazowni. Od strony wjazdu na teren tego krematorium prowadziły do korytarza drugie schody. Na lewo od tych schodów znajdował się w rogu mały pokoik na włosy, okulary itp. rzeczy, a na prawo mały pokoik, w którym przechowywano zapasowe puszki z cyklonem. W prawym kącie korytarza na ścianie przeciwległej od wejścia z rozbieralni znajdowała się winda do wyciągania zwłok.

1943年3月4日、SS隊員の警備のもと、私たちはクレマトリウムⅡのエリアに案内されました。ここで、私たちは、ブーヘンヴァルトから同じ時期に連れてこられたカポ・アウグストから、この火葬場の建設について説明を受けました(彼は、そこで火葬場の建設に携わっていました)。火葬場IIには、脱衣室(Auskleideraum)と地下にバンカー、つまりガス室(Luichenkeller(註:「Leichenkeller」の誤記))がありました。 この二つの地下室の間の通路には、外から階段でアクセスできる廊下があり、収容所から火葬場で焼くために運ばれてきた死体を捨てるための桶がありました。脱衣室からのドアがこの廊下に通じており、ここから、右側のドアがガス室に通じていました。  この火葬場の入り口から廊下に出るには、2つ目の階段がありました。この階段の左側には、隅に髪の毛や眼鏡などを置く小部屋があり、右側には予備のチクロンBの缶を保管する小部屋がありました。廊下の右手、脱衣所からの入り口と反対側の壁には、死体を取り出すためのリフトがありました。

もちろん証言はこの前にも後もまだ長々とありますが、ともかくこうして証言を読めばはっきり第2火葬場には殺人ガス室があったことがわかります。否定派は証言証拠をバッサリ捨ててしまうので、否定派と議論しているとなかなか気づきにくいのですが、実はVergasungskeller文書は、こうした証言を裏付ける証拠になっているのです。

否定派はVergasungskeller文書をどう言っているのか?

この文書に最も早く反応した否定派は、米国の修正主義者であった、ノースウェスタン大学の電子工学科の教授であったアーサー・R・バッツです。彼は1975年に『20世紀のデマ(The hoax of the Twenties Century)』をイギリスで出版し、一躍有名になった否定論者です。バッツは、上で述べたように、「Vergasung」が「気化・ガス化」を意味することを利用し、Vergasungskeller文書にあるVergasungskellerは、コークスの気化装置のある部屋を意味する、としました。火葬炉はコークスのガスを利用して燃焼させているのだとしたのです。しかし、アウシュヴィッツのトプフ炉は全てコークスを直接燃焼させる仕組みであり、ガス化装置はどこにもありませんでした。

フォーリソンは、バッツ説を採用したものの、それに矛盾を感じ取ったのか、死体安置室の死体をチクロンBで殺菌消毒する、と解釈したようですが、死体は火葬されるのですから、殺菌消毒する意味はありません。(細かく言えば、プレサックが揶揄したようにチクロンBは害虫・害獣駆除剤であって、正確な意味での殺菌消毒はできません)

イタリアの修正主義者カルロ・マットーニョは、臨時の害虫駆除室なる特異な説を考案しました。図面にある通り死体安置室であると同時に、ガスを使う害虫駆除室としても使うことを親衛隊は考えていた、としたのです。マットーニョの理論は多くの当時の文書資料を駆使した見事なものでしたが、肝心の裏付けとなる証拠(証言ですらも!)は全くありませんでした。

Vergasungskeller文書はどう読むの?

文書にはこうあります。

死体安置用地下室(Leichenkeller)の鉄筋コンクリートの天井の型枠は、霜のためにまだ剥がすことができませんでした。しかし、ガス処理用地下室(Vergasungskeller)を利用することができるため、この点は重要ではありません。

元々、この二つの地下室は、死体置き場として利用される予定でした。つまり、一旦そこにおかれた多くの死体を、火葬炉のある一階へリフトアップして順次火葬処理していく、といった流れです。この文書の時点ではLeichenkeller 1を処刑用ガス室として使うことを想定していたものの、元々の死体安置室の設計から大きく変更されたわけでもありませんでした。ガス気密ドア、ガス投入用の天井の穴、金網導入装置が新たに付け加わっている程度です。この文書で述べられている死体安置用地下室(Leichenkeller 2)はこの時点ではまだ脱衣室として使うことが想定されていなかったと考えられます。このことは図面の変遷やタウバーの証言を読み解くことでわかります。

とするならば、単にこの文章は、「火葬場自体を稼働させるならば、死体安置室(Leichenkeller 2)の方は天井の型枠がまだ外せないので使えませんが、ガス室の方が死体安置室として使えるので問題ありません」と言っているのです。ガス室の方は吸排気システムが納入されて設置されない限り使えないので、1943年1月29日時点では殺人ガス室の使用は想定されていなかったことになります。これははっきり続く文章でこう書いてあるので明確にわかります。

鉄道車両が禁止されていたため、トプフ・アンド・サンズ社は中央建設管理部が要求する時期に吸排気装置を納入することができませんでした。しかし、吸排気装置が到着した後、直ちに設置を開始し、おそらく1943年2月20日には完全に稼働できるようにする予定です。

以上のように素直に解釈すればいいだけの話であり、ここに不自然な点は何もありません。こうした文書解釈も、文書自身がタウバーの証言を裏付けているのと同時に、タウバーの証言も文書が裏付けていることになるのですから、証言と文書がしっかり相互に強固に裏付け合っていることになります。

実は証拠の扱いで最も大事なのは、証拠同士で矛盾しないこともそうですが、それよりもむしろこのように証拠間の裏付けがあることなのです。だからこそ、証言は信用できないなどと安易に切り捨ててはいけないのです。

このような証拠間の裏付けをよく示している証拠の実例はまだありますので、次回もそれを示したいと考えます。

 

 

アウシュヴィッツのガス室は捏造?

このブログの第一回目の冒頭でも述べた通り、ホロコースト否定派はナチスドイツの殺人ガス室だけは絶対に認めません

ナチスドイツの殺人ガス室はそのほとんどはナチスドイツ自身によって破壊され、現存している殺人ガス室はほとんどありません。それら現存している殺人ガス室についても、そのどれもを「殺人ガス室などではなく捏造されたものである」と否定派は主張しているようです。

中でも、ホロコーストの象徴になっているアウシュヴィッツ収容所の主収容所に現存していて観光用に閲覧可能となっている第一ガス室は、1970年代後半か1980年代くらいから延々とホロコースト否定派の集中攻撃を浴びています。この第一ガス室はどこにあるかというと、以下の航空写真で赤丸で囲んだ箇所にあります。

アウシュヴィッツ第一収容所それ自体は、かなり保存状態も良好で、戦後から現在まで多少の補修工事はあったようですが、基本的には概ね戦時中のままだとされています。第二収容所であるビルケナウの方は、囚人バラックの多くが戦後解体されてポーランドのあちこちで仮設住宅として使われていたらしく、またガス室のあったすべての火葬場などの主要施設は破壊されたり、敷地自体も何割かは既に別の用途に使われています。

これは今回の記事で取り扱う火葬場1の外観ですが、YouTubeには多数、その内部を撮影した動画が上がっており、そのうちの一つが以下です。戦後何十年も経っているので、かなりボロボロになってきているように見えます。

youtu.be

また、アウシュヴィッツの第一ガス室についてはGoogleマップストリートビューで見ることも可能です。但し、2023年5月現在、ポイントごとに上下左右360度ビューになっているだけで移動はできません。

ともかく、この火葬場1にあるガス室を、ホロコースト否定派は戦後に捏造されたものであると主張しているようです。

第一ガス室の捏造って本当?

否定派の主張したい意味では、もちろん捏造ではありません。しかしここで、「否定派の主張したい意味」と前置きしたのは、否定派ではないのに、このガス室を捏造と表現した人もいるということです。

note.com

このガス室の標準的な年代記を簡単にでも知っておきたいところです。参考文献を記したいところではありますが、私自身、あちこちから情報を得ており、最早、このガス室年代記に関する参考文献など忘れてしまったのでそこはご容赦ください。多分、プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』のこちらを読むといいかと思われます。

第一ガス室(第一火葬場)の誕生から戦後の改修工事までの歴史
  1. 1940年5月、ポーランド軍の敷地を利用して、アウシュヴィッツ強制収容所(第一収容所)開設。
  2. 1940年6月、第一火葬場が第一収容所内に作られる。元々はポーランド軍が弾薬庫として使用していた。
  3. 1941年9月初頭、アウシュヴィッツ第一収容所の11番ブロックの地下室で、チクロンBを使った最初のガス殺実験が行われる。ロシア人捕虜と精神障害者が犠牲になった。しかし、この実験で11番ブロックの地下室は非常に換気が悪いことが判明し、ガス処刑開始から死体搬送完了まで数日を要することになってしまった。11番ブロックは死体処理を行う火葬場とは、収容所敷地において真反対の端にあり、その作業効率の悪さと、収容所内の囚人に死体搬送等の作業が丸見えになってしまうことから、次に示すようにガス処刑の場所を変更することになったと考えられる。
  4. 1941年9月末〜10月頃、第一火葬場内の死体置き場をガス室として使えるよう小規模な改修を行い、ロシア人捕虜800名程度を毒ガスで殺害した。
  5. 1942年12月、第一ガス室でのガス処刑を終了。火葬場の使用は1943年7月頃まで続いた。この第一ガス室での犠牲者総数は一万人を下回る程度とされ、ユダヤ人の処刑は行われたとしても僅かだったと考えられている。
  6. 1944年中に、第一火葬場は防空壕に改修される
  7. 1946−7年頃、第一火葬場・ガス室について、アウシュヴィッツ収容所を博物館として公開するため、防空壕だった状態から再び戦時中のガス室の状態時に再現工事が行われた
  8. 〜現在に至る。

現在のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館では、観光時の案内係は、これらの経緯を説明してくれるそうです。ところが、1990年代頃まではこうした経緯を説明していなかったそうで、ガス室・火葬場も戦時中のままだと説明していたらしいです。たとえば否定論議論界隈では有名な、デヴィッド・コールの以下の動画の4:00くらいからご覧いただくと、確かに案内係の人は「元のままです」と説明しています。

しかし、上の6、7で書いた通り、「元のまま」ではあり得ません。戦時中に一旦防空壕に改修されたのちに、戦後に再現工事が行われているのが史実だからです。何故案内係は「元のまま」だと説明していたのかについては、正確な理由は不明です。別に隠すつもりはなかったようであることは、アウシュヴィッツ博物館の歴史担当であったフランシスチェク・ピーパー博士が説明している内容でわかります。

コールは、ナチスガス室のある問題の火葬場を防空壕に適応させたという、博物館のガイドでさえ知らなかったとされる事実を、私が初めて認めたと主張しています。それは、真実ではありません。アウシュヴィッツ・ガイドの基本的な読み物となっている書籍のページのコピーを同封しておきます。ヤン・セーン著『オシフィエンチム―ブルゼジンカ(アウシュヴィッツ―ビルケナウ)強制収容所  ワルシャワ1957』では、152頁に、1944年5月に、主収容所の古い火葬場Iが防空壕として使用されたことが記されています

素直にこれを受け取るならば、案内係がこの書物をちゃんと読んでいなかったことになります。どのように書いてあるのかまでは知らないので、もしかすると、本当に「防空壕として使用された」としか書いていなかったので、案内係はガス室の時の状態のまま防空壕として使用されていたのだと思い込んでしまい、防空壕に改修工事されたこと自体は知らなかった、のかも知れません。

(完全に余談ですが、恐ろしいことにこんな本まで国会図書館にあるのを知って驚きました。関西館の書庫にあるそうです。疑問をお持ちの方は是非お調べください)

しかし、案内係が「元のままです」と説明していたからと言って、その事実から「隠していた」と考えるのもおかしな話だと思います。上のニコニコ動画の7分くらいから、案内係の責任者が「復元です」とあっさり答えているからです。隠すつもりならそんなにあっさり回答するのは不自然です。

ところが、もっと不自然なのは、その動画のデヴィッド・コールは当時すでに、第一ガス室が戦後に再現工事が行われたものであることは知っていたはずだということです。動画は1992年のものですが、彼は1989年に出版されている有名な、ジャン・クロード・プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』を当然知っているからで、そこにははっきり再現工事が行われたことが説明されているのです。

holocaust.hatenadiary.com

一応、これが初めて戦後の復元工事を記した著書だとされているようですが、コールのビデオにはこの著書も紹介されているので、彼はそのことを知りつつ嘘をついているか、あるいはちゃんと読んでいなかったことは明らかなのです。さらに言えば、それ以前にもロベール・フォーリソンがアウシュヴィッツ博物館側が戦後の復元であると説明していたことを明らかにしているので、修正主義者側がやたらと第一ガス室を戦後の捏造と言い立てるのも、なんだか非常に不自然な気がするのです。

で、否定派は何を捏造の証拠だと言っているの?〜(1)煙突がおかしい。

私自身、未だに否定派の認識がなかなか理解できないのです。否定派の多くは煙突がその証拠だ!の様に言うからです。上のプレサック本から、144ページ目にある写真を以下に示します。

この写真(1945年の写真)には、上の方で示した現在の状態を示すカラー写真にはっきり写っている「煙突」が写っていません。したがって、今ある煙突は1945年以降に建てられたものです。それ自体は誰も否定していません。しかしだからと言って、「煙突はそもそも存在しなかった」とは絶対に言えません。何故なら、そこには火葬場・火葬炉があるからです。煙突のない火葬場は現在ならあります。日本の現在の火葬場にはほとんど煙突はないのだそうです。最新の技術によって必要無くなったからです。しかし、1940年代頃の火葬場に煙突がなかったはずがありません。

このことは、当時の図面にも煙突が書いてあることでもわかります。

1942年の図面だそうですが、最初にあった煙突が破損したので、少し離れた位置に煙突を立てることになったことを示す図面です。いずれにしても、煙突は戦時中にあったのです。これは当然の話です。

そしていつ頃かははっきりしませんが、火葬場が稼働を終了し、煙突は不要となっていたため、一旦撤去解体された。で、戦後に復元した――別にこのストーリーになんの不自然さもありません。

また、否定派は「煙突が建物と繋がっておらず、明らかに捏造だ!」などとも主張します。

 

上の図面でわかる通り、火葬場から煙突への煙道は地下にあります。私がネットでやり取りした否定派の中には、「煙は上にしか上がらないのだから地下に煙道なんてあり得ない!」と主張する人もいましたが、そんなの強制通風装置を入れれば済む話です。ともかく、火葬場があったのに煙突がなかったことなど考えられません。ちゃんと当時の図面もあるのです。


追記(2024年3月7日):いちいち書かなくてもわかるかと思って書かなかったのですが、この写真の煙突自体は戦時中のものではありません。戦後の復元時に再建したもので、高さとか色々不正確なんだそうです。ただ、上記図面にある位置からズレた位置にわざわざ再建するとも考え難いので、戦時中と同じ位置に立ってると思います。ともかく、戦後、1947年からアウシュヴィッツ収容所は博物館として公開されているので、見せ物として火葬場(ガス室、煙突、天井の穴、火葬炉など)を再現するために復元工事を行なったのです。


それに何よりも不可解なのは、そうした否定派の主張する煙突に関する疑惑は、一体何の意味があるのかよくわからないことです。否定派が疑うべきは殺人ガス室であったはずです。否定派は少なくとも、ガス室と主張されている場所が「Leichenkeller」すなわち、「死体安置室」と図面に書いてあり、それを否定してはいません。繰り返しますが火葬場・火葬炉があったことも否定していません。なのに何故、否定派の多くが煙突を疑うのか、わけがわかりません

もし、煙突疑惑を否定派が殊更主張する明確な理由が理解できる方がいらっしゃいましたら、是非ご教示ください。私は理解できません。

で、否定派は何を捏造の証拠だと言っているの?〜(2)ガス室のドアが変、その他。

ガス室のドアとはつまり、ガス室内部を撮影した上の動画の14秒目くらいに写っているドアのことです。(もう一つ奥のドアも捏造の証拠だと主張しています)

観光客がガス室(火葬場)の中に入って、小さな二つ目の部屋とガス室とされる場所の間にある扉のことです。要はこのドアが、「ガス気密扉であるはずがない!」と否定派は主張するのです。理由は、ガス気密扉にしてはあまりにも貧弱な薄っぺらいドアであり、すぐに内部から叩き壊せる大きなガラス窓がついている、と。確かにその様なドアがガス気密扉であるはずがありません。

しかし。

誰もそれがガス気密扉だとは言っていないのです。むしろそうではありませんでした。これは、「第一ガス室(第一火葬場)の誕生から戦後の改修工事までの歴史」の7で説明した復元工事が杜撰だったからです。まず、1941年9月の時点、つまりガス室として使用されていたであろう時期の状態と同じ状態の図面を見てください。

続いて、1944年9月の防空壕時の図面をご覧ください。

ガス室だったのは、上の図面の右下の広い部屋です。それが、防空壕時には、ガス室内部に3枚の隔壁が追加されています。この様な壁を追加した目的は、防空壕としての強度を保つためではないかと考えられます。また、防空壕時には、ガス室だった箇所の右側に新たに出入り口が設けられていることも覚えておくといいかも知れません。他にも留意点はありますが、ともかく、戦時中に一旦、図面の様に防空壕として改修されたのです。

ではこの防空壕を戦後に元のガス室だった時の状態に復元した工事のどこが杜撰だったのか?

以下にその比較図面を示します。

つまり、上で述べたガラス付きのドアは、復元工事時に隔壁を一枚多く壊してしまったため、そもそもそこはガス室の端ではなく、洗面所に通じる壁・ドアだっただけなのです。奥のドアは防空壕にするときに新たに出入り口を設けたからそこにあるだけで元々ありませんでした。

他にも、否定派が疑惑とする箇所はあるのですが、再現工事が正確なものではなく、それらは不正確だったから変に見えるだけなのです。ガス室のガス気密ドア自体は復元されておらず、存在しません。

したがってこれらの否定派の疑惑は、捏造の証拠などではないのです。何故否定派はきちんと図面を比較しないのか? それも理解できない点です。

では、他に疑わしい点はないのか?

あります。本来疑うべきは、ガス室の天井に存在しているチクロンB投下穴です。現在の第一ガス室の天井には以下の様な四角い穴が四つほど開いています。

チクロンBは、この様な天井に開けられた穴からガス室内へ投下されたとされています。従って、この天井の穴の存在こそ、ガス室だったかどうかを証明する一つの根拠になる可能性があるのです。

しかし私自身は、この穴をまともに疑った否定派は、カルロ・マットーニョ以外知りません。この穴に関する議論は、ここでは述べませんが以下で詳しく説明されています。

note.com

おそらく他の修正主義者が、第一ガス室の天井の穴についてそれほど強い主張をしなかったのは、天井の穴など戦後に簡単に開けられたからだと判断したからでしょう。事実、戦時中に防空壕にしたときに当然穴は塞がれたと思われます。防空壕にしておきながら穴を塞がないことなど考えられません。そして戦後、復元時に穴も再現したのです。…が、その穴が正確に再現されたものかどうかはわかりません。上のリンクには復元工事を行なった一人であるアダム・ズロブニッキの証言がありますが、それが正しいとしても、どの穴が本当に使われた穴なのかはわかりません。従ってマットーニョの議論に意味があるとは思えません。

ガス室と火葬場の間にあるスイングドアについて:2023年5月30日追記

何の話かと言うと、以下に第1火葬場の別の図面を二つ示します。左は1942年4月の計画図面で右は1940年11月のものです。図面自体はこちらから借用し、赤の円だけ追加しています。

否定派のクレームは左側図面の方で、1942年4月といえば正史派説ではガス室であったはずの時期の図面なので、赤丸で示された火葬場とガス室を隔てる位置にある気密扉がスイングドアであるのはおかしい、という否定派からのクレームです。

しかし、四角枠とされている緑枠と赤枠を見てほしいのですが、ガス室でなかった時期の右側図面では赤枠の方は位置の変更及び内開きから外開きに変更されており、緑枠も扉の接合部の位置が上下が逆に変更されています。このように、明確に変更する場合には図面上で明示する必要があるとは思いますが、図面上では赤丸のスイングドアで示されるドアが、1942年時点の計画ではその左半分、つまり実際には外開きが使用されるだけで、実際にはスイングとしては機能しないだけだったとすればどうでしょうか?

つまり、当時はこのような図面は古い図面をトレースしつつ、それを修正して作成されただろうということです。で、大した変更でもない赤丸のスイングドアに見える箇所は図面上ではそのままにされたが、実際には外開きしかない気密ドアだった、のではないでしょうか?

「そんなわけがない。図面は正確に書かれていなければならない」と主張するのであれば、実は修正主義者ゲルマー・ルドルフですら認める図面の間違いがあるのだそうです。

これはゲルマー・ルドルフによるホロコースト講義で使用されている防空壕へ改修された時の図面ですが、緑の四角枠で囲まれた位置のスイングドアはあり得たはずのないドアです。これはルドルフ自身が認めているのです。この防空壕への改修時にこの位置を塞いだので、戦後の復元工事時に別の箇所が開けられてしまっていることになっているのです(前述)。以上、スイングドアに対する否定派のクレームは通用しないことがわかります。

 

そもそもの話、何故第一火葬場にガス室があるとわかったの?

戦後、ソ連アウシュヴィッツ収容所を占領して、残されていた多くの文書資料をソ連が回収しましたが、残されていたこの第一火葬場の図面には「ガス室」の明示的な記載はありませんでした。そもそも前述した通り、第一火葬場にあったガス室は、防空壕に改修されており、建物自体を見てもガス室だったとはわからなかったはずです。では何故そこがガス室と分かったのでしょう?

否定派側に立って考えてみましょう。否定派にとってはガス室は存在していません。アウシュヴィッツ第一収容所のガス室は、戦後になってソ連が捏造したものです。ソ連人は、戦時中の戦争難民局が作成した報告書(ヴルバ・ヴェッツラー報告書)を知っており、そこには火葬場にガス室があったと書かれていたことも知っていました。しかしそれはビルケナウ収容所のことであり、ビルケナウにあった四つの火葬場は親衛隊によりダイナマイトで破壊されており、ガス室があったことの証明(それも捏造になりますが)は無理だと判断しました。そこで唯一建物自体は破壊されていなかった第一火葬場を利用して、そこにガス室を捏造することを思い立ちます。第一ガス室ならば簡単な改修だけでガス室を捏造するのは簡単だからです――というストーリーです。

しかし、それは不自然です。では何故、防空壕の図面が残されているのでしょう? 戦時中に一旦防空壕だった事実はソ連にとって不要なはずです。防空壕だった事実を示す図面等の証拠文書を処分すれば、「ガス室のオリジナルのまま」の事実を残せたのではないでしょうか? あるいはもっと言えば、何故煙突の写っていない写真までソ連は撮影してそれを残したのでしょう? さらにはチクロン投下穴(小煙突)がないガス室の天井の写真まで残しています。さらには、ガス密閉扉を再現しなかったり、不自然な位置にある出入り口をそのままにしたり……まるで、そこがガス室でないことをはっきりわからせる様な証拠を残している様なものではないですか。そうするとソ連は驚くほど馬鹿だったことになってしまいます。

ところが、正史派側に立ってみると、そんな不自然さはありません。そこがガス室だったことがわかったのは、証言があったからなのです。元ユダヤ人ゾンダーコマンドだったスタニスワフ・ヤンコフスキー終戦前の1945年4月13日にポーランドで既に第一ガス室のことを証言しています。もちろん戦後にはアウシュヴィッツ司令官のルドルフ・ヘスをはじめとして、元親衛隊員や元囚人の多くが証言していたのです。だからこそ、残された図面にガス室と書いてなくとも、第一火葬場の死体安置室と書かれたそこがガス室だとわかったので、元のガス室だった状態を再現しようと復元工事を行なった――と考えれば良いだけの話であり、特に不自然な点はありません。ガス室が否定派の主張する様におかしな点が多いのは、再現工事が単に不完全で杜撰だったからです。当時の図面を参照すればすぐにその不完全さもわかります。「捏造」を疑う必要はないのです。

何故、否定派はこの様にすっきり不自然さのない再現ストーリーとして理解しようとしないのか? 私にはそれが理解できません